慶喜公、その外れた思惑 ①大政奉還

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆不思議の負けなし

「負けに不思議の負けなし」

野村監督の言葉ではない。

◆薩長と朝廷側近の結託

関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府が成立して以来、討幕に執念を燃やしていた薩長。

他方、薩長の他にも権力の中枢近くに反幕勢力がいた。

朝廷に仕える公家たちだ。

攘夷・鎖国派が優勢だったとされる。また、当時、国学が普及し、王政復古の機運が高まっていた。また、江戸時代には幕府が禁中並公家諸法度で朝廷・公家を縛ったこともあり、幕府への批判が強まっていた。

そうしたところへ、勅許なく通商条約を締結し、開国を決めたことで、幕府を強く非難した。

若き明治天皇を支えた三条実美や岩倉具視だ。

ここに薩長と攘夷派の公家が藩幕つながりを強める要因があった。

こうしたこともあり、薩長はこれら公家と組んで倒幕の機会を窺っていた。

この両者の結託の前に、慶喜公は翻弄されることになる。

両者の結託の奥には幕府をも越える最高権力者「天皇」がいたのだ。

◆大政奉還

江戸幕府への幕、それは江戸幕府の最高権力者、自からが引いたものだ。

慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は徳川幕府の京都における拠点二条城で策を練り、大政奉還することを決した。

江戸開城の前年にあたる。

なぜ大政奉還したのか。

◆慶喜の思惑

慶喜は欧米列強が日本に押し寄せる中で、慶喜には外国と並び立つには、権力を集めなければ国として立ち行かないとの見解を持っていたとされる。

けだし慧眼だ。

ではどこに権力を集めるか。

幕府が行ってきた勅許を得ない外国との条約締結には無理がある。

ここは朝廷へ一元的に権力を集め、幕府は朝廷から委任を受けて実務を行う・・・その方が、事はうまく進むのではないか。

<大政奉還をしたとしても、江戸幕府にはしかるべき役割が回ってきて来るのだろう、幕府にはまだしっかりした屋台骨が残っているのだから>・・・と。

足元では、まもなく西郷・岩倉が動いて、近く討幕の密勅が下るとの噂も聞こえていた。

こうした西郷の動きに対しては、大政奉還という先手を打つことで、武力討幕という西郷の思いを封じることができる。

これは慶喜流の賭けだったのだろう。

◆当てが外れた慶喜

しかし、この駆け引きは薩長や薩長派の公家が一枚上手だったといえる。

大政奉還によって、討幕の名目を挫かれた西郷は朝廷の名で王政復古の大号令を発し、自らの「新たな政府」を立ち上げる形にし、同時に慶喜の辞官、納地を決定、一気に慶喜の追い落としにかかった。

ここに慶喜の思惑が大きく外れた。

では慶喜はどうしたか。

慶喜は官を辞することは受けたが、徳川の領地だけ一方的に朝廷に差し出す納地を拒否し、抵抗した。

しかし、薩摩と一戦交えることは、朝廷・新政府と戦うのと同義。

これを嫌った慶喜は、12月12日、朝廷に近い京都二条城から徳川の本格的な軍事拠点であり、会津、桑名藩など旧幕府勢力1万5千(薩長兵は5千)が控える大阪城に勢力を移し、事態の打開を図ろうとした。

だが、続く局面でも再び思惑が大きく外れてしまった。

つづく

(学23期kz)

二条城

(学23期kz)

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