山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年9月 トピックス】
長州には、独自の制度を生み出す土壌があるようだ。
育み組、然り。
越荷方、然り。
江戸後期にはよく飢饉が起きた。灌漑などの農業技術も高くはなく、コメや作物の品種も災害には強くはなかった。
このため農作物は災害に弱く、凶作となるが、これに伴い歳入難と相成る。
またこのほか、江戸時代後半には、支配階層や武士階層の緩みによる冗長な出費が目立ったとされ、これも財政難の一因となり、財政を圧迫し、ここに財政改革の必要性が生じた。
◆7代重就公の発案、特別会計のハシリ
各藩では知恵を凝らして、財政難の難局に臨んだが、長州では毛利家萩藩の中興の祖とされる第7代毛利重就(しげたか、1725~1789年)公が編み出した撫育方(ぶいくかた)がある。
早くに隠居して防府に住み、ここを産業の拠点として「撫育局」を作った。
この特別会計は宝暦13(1763)年に創設され、その財源を大事にし、”撫でて育てる”という意だろう、それが撫育方だ。
撫育方は大切な資金だ。むやみには使えない。
こうした性質の資金にため、その支出の権限は藩主の専権事項であり、勝手な使われ方は禁じられた。
記録には天明2(1782)年、重就が隠居した後の8代藩主治親の時、撫育方資金に関して進言した増田就祥なる家臣が処分されたとある。
天明2年といえば、天明の大飢饉(1782~88年)の時にあたる。
その時、民の救済のために進言したのかもしれないが、その進言が処分の対象となった。
・・・そこまでしなくても・・・
(学23期kz)
