山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年9月 トピックス】
◆幕府では老中・水野忠邦による天保の改革が行われているとき、これに呼応して長州藩でも第13代毛利敬親のもと、村田清風らの主導で改革が行われた。
天保11(1840)年に出された改革の宣言文では、改革の目標として「御借金八万貫余之大敵御退治」とする借金返済、その手段としての「三十七ヵ年賦皆済仕法」という、実質借財踏み倒し策がとられる一方、利益増強策もとられ、その代表的な施策として越荷方の強化が行われた。
◆越荷方とは
越荷方(こしにかた)とは藩から資金の提供を受けて、北前(日本海側)交易で、また九州や四国の産品が下関海峡を経由して上方や日本海側の地方都市に運ばれる米穀、綿、塩干(えんかん)などの荷物を扱う交易で、交易業者を対象に、その荷物を担保として資金を貸し付け、利息を取る金融取引を含む商取引だ。
いわば動産担保金融であり、この機関は(別稿で述べた)撫育方に組み込まれた。
これにより船主は売り捌くことなく、金を借りて次の仕入れに入ることが可能となる。
萩本藩でも下関や室積(光)に倉庫金融の役所を設置している。
この越荷方は長州藩の懐を大いに潤わせ、「修訂防長回転史」(末松謙澄)では年間100万両の利益を産んだと評されている。
◆北前船が通る下関
江戸中期から明治30年ころまで、大坂と蝦夷地を日本海回り=西回りの航路で結び、産物や商品を単に運搬するだけでなく、寄港地で荷物を売り、新たな仕入れも行いながら、春から秋にかけて大坂から蝦夷地まで1往復。航海の利益は価値で千両にもなったとされる。
また、身分制が厳しい世の中では、実力一本で一獲千金を狙える北前船で稼ぐ者が多く出たという。
◆「北前」とは上方や瀬戸内地方では「日本海側」を意味する。
蝦夷地・北陸から大阪との間は、敦賀の港、琵琶湖を使って荷を運ぶこともされたが、荷の積み下ろし、陸路搬送の効率が悪く、船で運ぶ航路が、幕命を受けた河村瑞賢によって整備された。
本州からは下り船。
コメ、塩、砂糖、酒、酢、鉄、綿、薬、反物、衣類などが運ばれた。日本の塩の9割を生産する瀬戸内海の塩、長州藩でも生産過剰に悩んでいた三田尻塩を蝦夷地に運ぶようになった。また、全国生産量の8割を占めた島根、鳥取の鉄のほか、古着屋日用雑貨も運ばれた「動く総合商社」という言い方もされる。
他方、蝦夷地からは昆布や鰊、鰊粕、干鰯、鮭、鱈などの海産物を積み、瀬戸内経由で上方まで運ばれた蝦夷地の鰊粕や干鰯などの魚肥は上方の綿花栽培を支え、麻に代えて肌触りのいい木綿の衣類を普及させたほか、蝦夷地の昆布は日本の和食文化を変えることにつながったとされる。
また蝦夷地から下関に届いた海産物は四国や九州に向かい、また長崎経由で中国に向かうものもあった。
こうした北前航路にあって、下関はすべての北前船が通る北前交易の重要な中継港であり、下関には文政8(1825)年時点で問屋が約400件あったとされる。
(学23期kz)

