上野戦争と大砲

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

政府軍が半日で勝ちを収めた上野戦争。

政府軍は大砲を持ちながら、彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門は、銃の跡は残れども、破壊された形跡がない。

◆四斤山砲

この時には彰義隊は山門上の山王台(西郷像のある付近)に設置されたのは四斤山砲(関口大砲製造所制作・文京区小日向、製造統括責任者は小栗忠順)3門で、正確無比な着弾に新政府軍は手を焼いたという。

前装ライフル式。砲弾重量は4キログラム。

対する新政府軍の大砲もフランスで開発された青銅式四斤山砲。ライフリング付きだ。

薩摩藩はこの四斤山砲を山王台正面の料理屋「雁鍋」の二階に分解して運び、組み立て直して。砲口を上野の山に向けた。

彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門までは約200メートル。

有効射程距離は約1キロ。

しかし、この四斤山砲でも、黒門は破壊されずに残った。

黒門口には砲弾が球体の臼砲も1門配置された。

◆アームストロング砲

佐賀藩の6ポンドアームストロング砲2門が上野戦争で使われたのは有名だ。

英・後装砲アームストロング砲は佐賀藩でも同型の大砲が製造された。

最大射程距離は3600メートル。

佐賀藩が現・東大病院附近に設置した砲台から黒門まで約400メートル、当時寛永寺奥の根本中堂(現・国立博物館)まで充分届く。

(彰義隊の本陣は寒松院、現・上野動物園)。

しかし、この時用いられた砲弾は4キロ弾で、火力も弱く、命中精度も低かったので、実際にさほどの威力はなかったようだ。

また、当時佐賀藩はアームストロング砲を使えば殺傷しすぎるきらいがあるため、使用に否定的だったと伝えられている。

ただ、砲撃の音は驚くほど大きく、音だけでも十分相手を威圧できたようだ。

アームストロング砲は事故が多かったという。このためイギリスは軍事機密解除され、アメリカに渡り南北戦争で使われたほか、武器商人の手を経て佐賀藩に入った。

佐賀藩では完全コピーできたという説と、製造までは至らなかったという説がある。

他方フランスの四斤山砲(87ミリ)は安定度が高かった。

小型で分解可能だったため、持ち運びができ、重宝された。

ライフリングはあったが、前込め砲で、青銅製だった。口径は64ミリ。

決定的な兵器ではなかったと解釈されつつある。

このアームストロング砲でも黒門は破壊されなかった。

円通寺に移築された黒門は銃の跡はあれど、大砲の砲撃を受けた形跡がない。

アームストロング砲の殺傷力はほどほどだとしても、爆音は相当大きかったという。

このため大村益次郎は、特殊部隊侵入の合図のためだけに、アームストロング砲を打ったのかもしれない。

(学23期kz)

四斤山砲 
6ポンド アームストロング砲

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