日本で三番目の歴史をもつ山口大学と鳳陽寮歌

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

学40期 山口勝裕

◆昨年11月日本寮歌祭に参加し、『鳳陽寮歌』を歌った。私の学生の頃は大学の寮として鳳陽寮はなく、『鳳陽寮歌』も知らなかった。

日本寮歌祭は、旧制高等学校の卒業生が中心となった寮歌の祭典であり、私は、参加にあたって、鳳陽寮歌の歌や作られた歴史など調べた。最近はネットで様々な情報が入手できる便利な時代である。

寮歌は、歌が作られた時代背景が歌に映し出されている。『鳳陽寮歌』もまた、山口の地で寮生活をした学生の思いが込められたすばらしい歌である。この正月、あらためて鳳陽寮歌の歴史と山口大学の歴史を整理した。

◆山口大学の歴史は、学生時代に教えられることも知る事も無かった。唯一、経済学部の前身は山口高等商業学校(以下、山口高商)である事、起源は上田鳳陽先生や長州藩校など漠然としたものだった。

おそらく、新制大学の卒業生や現役山大生はほとんど知らないのではないかと思う。

最近、大学の入学式や卒業式など祝辞のなかで以下のくだりが紹介されているが、昔はなかったと記憶している。

『山口大学は長州藩士・上田鳳陽によって創設された私塾・山口講堂が前身であり、東京大学・東北大学に次いで日本で3番目に歴史のある大学』と紹介される。

しかし、何をどう比較しての3番目かははっきりと紹介されない。

◆山口大学には非常に長い歴史があるが、ここでは明治以降の変遷について、わかりにくい点に絞って整理した。

1886年(明治19年)公布の中学校令に基づき、第一高等中学校(東京)、第三高等中学校(京都)に次ぐ全国3番目の高等中学校として、山口高等中学校が設立された。(前身は山口中学校)

その後、1894年(明治27年)公布の「第一次高等学校令」で山口高等中学校は、明治27年に山口高等学校(注1)に改組され、明治38に山口高商に転換され、現在の山口大学経済学部となっている。

(注1)この山口高等学校は旧旧山口高等学校(以下、旧旧山高)と呼ばれた。

「第二次高等学校令」が1918年(大正7年)に公布、大正8年に施行され、同年、再び山口高等学校が設立された。この学校令では、全国に多くの高等学校が出来た。この時出来た山口高等学校は、旧(再興)山口高等学校と呼ばれており、現在の山口大学人文・理学部の前身である。

山口大学の遍歴は、山口高等中学校の設立以降、改組や転換など行われ、他の官立学校と違、旧藩主毛利家など地元山口の教育界の影響を受け、非常に複雑な歴史を辿っている。

◆山口大学に関係がある代表的な寮歌に『花なき山の』(鳳陽寮歌)と『柳桜をこきまぜて』(鴻南に寄する歌(注2))がある。

『花なき山の』は、旧旧山高の学校の教員であった国文学者・俳人である佐々政一氏が、旧旧山高に歌がないことを残念に思い、明治32年に作り、寮生に遺贈した。歌は山都の質素な共同生活を歌ったものであり、学生には非常に愛唱された。旧旧山高が、山口高商に転換された後も、旧旧山高の寮と寮歌は山口高商に引継がれた。そして、大正11年山口高商の寮名が鳳陽寮と名付けられ、それ以降、『花なき山の』は『鳳陽寮歌』と呼ばれた。

『鳳陽寮歌』の起点は旧旧山高の寮歌『花なき山の』である。

なお、経済学部の同窓会組織『鳳陽会』があるが、これは1908年(明治41年)3月に第1回山口高商卒業生によって創設され、同窓会組織『鳳陽会』は、山口高等商業学校を起点としている。

◆山口大学経済学部を卒業してから、経済学部の前身に旧旧山高があったことは、認識することはないが、源流である「山口講堂」と経済学部を結ぶなかで、旧旧山高が存在したことから、山口大学は日本で3番目に歴史のある大学と誇ることができる。

そして旧旧山高の寮歌として作られた『花なき山の』が、山口高商の寮歌として歌い継がれ、山口高商の寮名が鳳陽寮となったことから「鳳陽寮歌」と呼ばれるようになった。

経済学部関係者は、今日も鳳陽寮歌を東京、京都に次ぐ全国3番目の高等中学校の流れを汲む旧旧山高の寮歌として、また全国3番目の高等商業学校(注3)の寮歌でもあることを誇りとして、声高らかに歌うことができることを多くの人に伝えたい。

(注2)主として文理学部の寮となった鴻南寮の寮歌関連の文献を整理して記載した

(注3)官立の高等商業学校として、東京高等商業学校(一橋大学)神戸高等商業学校(神戸大学)の次に設立された

※ 本内容に相違がありましたらご指摘ください。

※本投稿を作成するにあたり、鳳陽会東京支部の葛見事務局長に多大なるご支援をいただきましたこと、大変感謝しています。

学40期 山口勝裕

(参考文献) 

山口大学の来た道5

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