山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年3月 トピックス】
学37期 上野 啓
◆毎年この季節になると思い出すのが1985年(昭和60年)3月の日々。
福岡の県立高校の卒業式は3月1日、国公立大学の2次試験が3月5日だったと記憶している。
卒業式で交わされた会話は、「バイト何すると?」や「予備校どこにすると?」など女神が微笑んだ者とそうでない者の間で天国と地獄の様な差があった。
そして国公立の2次試験をこれから受ける者は、卒業よりも2次試験の事で頭がいっぱいであった。
(余談であるが、当時の福岡の予備校は、親不孝通りの名付け親、九州英数学館、水城学園の双璧に、黒崎の北予備、そして名古屋から 河合塾が九州進出して間もない頃であった。)
私は、東京の私大2校に不合格となり、浪人を免れる最後のチャンスは、国立山口大学のみ。丙午の影響で倍率が低いので、何としても現役合格したかった。それにも増して、どうしても山口大学に行きたかったのは、当時付き合っていた彼女が早々に山口の短大に推薦合格していたためで、学問とは全く関係のない不純な動機であった。
◆試験前日は、湯田温泉の 常盤に泊まり、大学通りを歩いて下見に行った。
湯田から平川までの道のりは長く、どんより曇って北風が強かった(いわゆる鳳翩下ろし)。
その日の夜は,緊張で一睡もできなかったが、朝風呂に入ったおかげで、頭が冴えて2次試験に臨めた。帰り道に合否電報を申し込んで、また大学通りを湯田温泉駅まで歩いた。
一両編成の山口線は乗り切れないほどの受験生で異常に混んでいた事を鮮明に覚えている。
合格発表までの10日間は、地元の同級生とほぼ毎日飲み会。当時タコハイ(酎ハイ)が流行しており、松田聖子「Sweet Memories」 のCMソングがTVで流れていた。
まだ、未成年ではあったが、この時代は地元の居酒屋でも友人宅でも誰からも咎められ事もなく、堂々とお酒が飲めた。
高校を卒業すれば、みなし成年という不文律があったのだろう。
合格してからの2週間は、下宿探し、1人暮らし準備、そして引越しと福岡と山口を数回往復。本当に目まぐるしい2週間であったと思う。
◆あれから40年、「もう一度戻れるとすればいつの時代に戻りたい?」と聞かれたら昭和60年3月と間違えなく答えるであろう。
そこには、受験からの解放感、親から離れ1人暮らしをする高揚感、ひとかけらの不安もなく期待に満ち溢れていた。そして少し生暖かい春の香がする3月の風が吹いていた。
ちなみに私を山口大学に導いてくれた当時の彼女とは入学して間もなく別れてしまった。
大人の階段を登る18歳の春の出来事を今年も思い出しながら、今宵はハイボールを飲んでいます。
学37期 上野 啓
(写真は今も現存する私の下宿、築50年越)
