ゴルフ、何でそうなるの! ⑥空振り 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

◆ゴルフは結構難しい

ラウンドするのに気持ちの良い季節になった。

当たれば気持ちが良い。緑の芝生と碧い空、そこに白球が吸い込まれてゆく。

しかし、初めてゴルフクラブを初めて握った時には、空振りを連発した。

中学、高校とテニスをやっており、球の扱いにはそれなりの自信があったつもりだが、降れども球に当たらない。不思議な感覚だった。

テニスでは動いた球を打てるのに、動かない球を空振りする。

どうしたことか。

◆職場コンペ大はやりの時代

若い頃、職場でコンペをするというので、若手職員も一斉にやり始めた時があった。

平日はドロドロになるまで仕事をしたが、年に2回、春と秋に職場でコンペをした。

今から思えば、時はバブルの頃だった。

部局の「偉いさん」の間でもゴルフ熱が盛んだった。

若手職員たちの間でもゴルフを始めようという機運が高まり、新品のゴルフクラブ一式を買いに走った。

中には、ゴルフショップで買ったクラブを包みも解かずコンペ会場に直送し、コンペ当日、新品のゴルフクラブを包んだビニールを剥がして球を打つツワモノもいた。

上から下までゴルフが流行っていた時代、中間管理職も煽られる。

◆私の上司も初参加

私の上司で、分厚い眼鏡をかけた学究肌の心優しい中間管理職・三条殿(仮名)がおられた。

みるからに体育会系とは真逆、お公家さま風貌をお持ちの御仁だ。

その三条殿、上司からの勧めでコンペに初参加される羽目になった。

その三条殿に打順が回ってきた。

第一打目。

クラブヘッドが空を切る。

仕切り直して、第二打目。

当たらない。

顔がカッと上気する。

緊張したときには、同じミスが何度も起きる。

その後も空振りが2~3回続き、見守る参加者の中で、重苦しい雰囲気が漂う。

しかし、周りから「もう結構ですから」と声を掛けるわけにはいかない。

気まずい空気が充満する。

しかし参加者全員、その成り行きを見守るしかなかった。

どのようにゲームが進行していったのか、今ではよく思い出せない。

ずいぶん後になって三条殿を当時の若者が囲む「三条会」も開催されたが、「その」話題に触れる部下は誰一人いなかった。

・・・一次会では。

(学23期kz)

品川弥二郎のはなし その2

山口大学経済学部同窓会 

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

◆錦の御旗

鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争。品川弥二郎といえばこの時、征討軍の進む沿道に伝わったのが“軍歌第1号”とされるトコトンヤレ節で、詞の作者として有名だ。これと共に、錦の御旗作製に一役買ったことでも知られる。

討幕の時、岩倉具視、大久保利通から図柄を示され、錦の御旗を作れとの命を受ける。大久保が西陣で織らせた大和錦2反、紅白緞子10巻を弥二郎に渡し、これを受けて弥二郎は長州に戻り、萩の有職師・岡吉春に旗の作製を依頼。岡は山口市一の坂川の川べりにあった諸隊会議所で人の出入りを厳重に禁じ、30余日をかけて、日月章の錦旗2旈、菊花章の紅白旗10旈を作り上げたという。

 ◆戦い終えた脱退兵の一言

戊辰戦争後に長州藩で起きた騒動で、一つの逸話が残る。

明治2年11月に長州藩での内戦、脱退兵騒動が起こる。戊辰戦争での戦士は約5千人。このうち圧倒的多数が農民であった。戦いが終わると「戦士」の扱いに困る。

このうち1500名が親兵に選ばれ次の職を得たが、残りの者はあぶれる形になる。これが脱退兵だ。この中には誇り高き奇兵隊に属していた者もいた。遺族や負傷兵への手当が要るが、藩の財政は底をついており、金銭面での対応ができなかったことから、長州藩内で脱退兵の反乱が起きた。

敵も味方も長州人。

お互い夥しい犠牲者が出た悲しい、壮絶な戦いだったという。反乱兵討伐軍は、最初は討伐自体をためらっていたが自陣の被害も出始めたことから態度を変えた。

態度を変えた後は、銃口がただれるまで脱退兵めがけて弾を撃ち込んだという。

この時、弥二郎は脱退兵の説得に向かった。無謀だとして引き止める側近を押さえての説得だ。脱退兵の中には、整武隊参謀であった弥二郎の部下もいたためだ。

弥二郎が説得に行った際、整武隊の部下だった初老の男が、弥二郎に身の危険が及ぶことを案じ、怪我なく弥二郎を逃がすために裏道に導いたが、その際掛けた言葉が弥二郎の脳裏から離れなかったという。

「おれらはここで死ぬるが、これからの若い者を、こねえな目にあわせない世の中を、生き残ったあんたがつくっておくれよ」

 ◆ドイツ留学で見つけた目標

弥二郎は明治新政府で要職に就くことを打診されるが、松陰が果たせなかった海外渡航の夢を継ぐべく海外留学を願い出る。留学の願いが叶えられるのが明治3年(1870年)、弥二郎が28歳の時。

渡航先のドイツで、明倫館で学んだ留学生、後に外交官となる青木周蔵からライファイゼンが唱えた農民相互扶助の金融制度である信用組合(ゲノッセンシャフト・バンク)を紹介される。欧州の工業化の過程で置き去りにされた農村にあって、凶作に見舞われたドイツの地で高利貸しに苦しめられた農民が、自衛策として創った金融制度だ。その理念は「万人は一人のために、一人は万民のために」。

戊辰戦争の後で、困窮する農民の姿が脳裏から離れなかった弥二郎はこの制度を日本に移植し、根付かせるという着想を得、これを生涯の使命と捉えた。松陰からの宿題・・・「生涯の果実を実らせるべし」。

ここに弥二郎は「生涯の果実を実らせることができる」と確信したようで、松陰に学んだ子弟としての途を見つけた。

 ◆病床での朗報

弥二郎が最初に信用組合法案を出したのが明治24年。拡充された協同組合法が衆議院を通ったのが明治33年(1900年)2月15日、貴族院を通り可決・成立したのが1週間後の2月22日、死の4日前であった。

そこで弥二郎は57年の生涯を閉じる。

死ぬ間際、病床にあり危篤状態で法案通過の報を受けた弥二郎は微かに眉を動かしたという。

品川弥二郎の瞑った目に映し出されていたものは、喜ぶ農民の姿であり、頭を垂れて礼を言う老兵であり、そしてようやく生涯をかけて実らせた果実を伝えたい生涯の師、数えで30歳のままの吉田松陰だったのだろう。

また、意識朦朧とした弥二郎の瞼の裏に映った松陰の脇には、入塾当時に弥二郎が淡い恋心を抱いた松陰の妹・文(ふみ)もいたはずだ。

(学23期kz)

目黒区民交響楽団 第99回定期演奏会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】  

◆6月23日(日)の東京は梅雨入りし、朝から雨模様で肌寒い一日でした。
マンション管理人として最初の派遣先のマンション(192世帯)の居住者に山口県下関市出身のプロのマリンバ(打楽器で木琴の一種)奏者のK・Fさん(女性)がおられて、毎年、年賀状の交換をしておりますが、ご案内をいただき、めぐろパーシモンホール大ホール迄行ってきました(今回はK・Fさんの招待)。
15年位前に「敷地内でハクビシンを見た!」と管理人室に駆け込まれたのが縁となりました。

◆前回は今年一月でしたが、最初に参加したのは2014年5月ですから10年前になります。
一時は大病を患ったこともあり、会場に足を運び、生でクラシック音楽を聴けるようになろうとは・・・。
感慨深いものがあります。

◆東急東横線の都立大学で降り、途中に柿木坂通りがありました。
会場のパーシモンホールのパーシモンとは柿の英訳だそうです。

◆1974年創立で年2回開催されている今年50周年を迎える歴史ある人気のコンサートのようで満席でした。
アンコールは聴き慣れたブラームスのハンガリー舞曲第5番で、生の演奏に大感動し、心が洗われる2時間となりました。(14時開演、16時終演)

◆終演後、撤収にお忙しい中、マリンバ奏者のK・Fさんに10年ぶりにお会いし、ご挨拶することが出来ましました。
帰途に就こうと外に出ましたら雨は漸くあがっていました。

ロッシーニ/歌劇「ウィリアム・テル」序曲
ベートーヴェン/交響曲第1番
ブラームス/交響曲第2番
指揮:小森康弘
(学22期 Y・Y)

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品川弥二郎のはなし その1

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

昨年の第2回長州歴史ウォークは靖国神社から出発した。靖国通りの反対側にある九段坂公園内に品川弥二郎の像が立つ。

◆松陰が愛した塾生

幕末から明治初頭にかけて、多くの志士が活躍し、その人となりについて多くの書籍が出ているが、品川弥二郎を主人公とした読み物はさほど多くない。長州藩にあって有名どころの木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文よりも年少であったこともあり、歴史小説では彼らの脇役として描かれることが多く、影が薄い。

しかし、長州藩の偉人の多くが吉田松陰に学び、松陰を慕ったが、その松陰がたいそう可愛がったのが15歳で松下村塾に入ってきた品川弥二郎だ。

松陰から入門理由を尋ねられた弥二郎は「人を助ける人間になりたい」と答えたという。

 ◆松陰の弥二郎評

松陰は入門時の弥二郎の印象を「その容色温直敦朴(じゅんぼく)なり、余一見してこれを異とす」としている。これまでの塾生とは異なり、見目麗しい純真な心を持つ青年ながら、弥二郎に特別な「気」を感じ取っているようだ。

松陰が弥二郎と同じ時を過ごしたのは一年ほどしかなく、「事に臨みて驚かず、年少中稀覯(きこう‐非情に稀の意)の男子なり。弥二(ママ)は人物をもって勝る」と評している。正直で明るい性格だったようで、温厚正直でうわべを飾らず、心が広く奥深いと見ていたようで、松陰はそこをたいそう愛でたようだ。

塾生がやきもちを焼くほど弥二郎は松陰から可愛がられており、実際塾生の間で弥二郎は松陰の「秘蔵っ子」を呼ばれている。

他方、弥二郎の学問の出来はどうだったのか。弥二郎は入塾するまでに別の私塾で学び、四書の素読を終えていたが、松陰は弥二郎の漢籍に対する読解力が一人前に達してはいないと評価していた。

松陰が獄中の間、弥二郎の3歳年上の久坂玄瑞に弥二郎の指導役を頼んでいる。入塾1年後、弥二郎の学問習得は特に進んだわけではなかったが、松陰は「旺盛な気力は他の追随を許さないものがあり、私はそれを愛してやまなかった」と述べており、学問のできよりも気力を褒めた。他の塾生にとっては妬ましいほどの気に入り方ではないか。

 ◆「松陰」になっていく弥二郎

松陰が刑死したのは弥二郎が17歳の時だ。生前獄中の松陰に一番多く会いに行ったのが弥二郎だったという。弥二郎は松陰が門弟のために著した獄中遺書「留魂録」を繰り返し読み、その中に記された、「それぞれが己の人生の春夏秋冬を悟り、それぞれの果実を実らせよ」とする松陰の命題と格闘し、悶え、松陰の遺志に真剣に応えようとする。

松陰の面影を追い、叶わぬものの半ば松陰になり切ろうと藻掻いた弥二郎。弥二郎は風貌を気にすることはなかったというが、これは松陰を真似てのことだったという。

 これは行動面にもあらわれる。志士としての側面だ。安政の大獄時、水戸藩士が大老・井伊直弼に手を下すなら、(京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとっていた)老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を斬るとの激情を抱き、その実行を公言した吉田松陰。純真で一本気、日本を変えるために敢えて犯す「狂挙」を門弟にも教えた吉田松陰。弥二郎も高杉らと尊王攘夷活動を共にしており、英公使館焼き討ち事件などにも参加したが、馬関戦争では高杉が行った外国艦隊との和睦には強い反対を唱え、戊辰戦争での榎本武揚に対しては厳しい処分をとるべきと硬派の主張をした弥二郎。ここには松陰の影が見える。

禁門の変では、敗戦の色が深まる中で、弥二郎は共に参戦した久坂に介錯を願うが一喝され、代わりに久坂の自刃を目の当たりにするという悲惨な体験をした。

その後、木戸孝允の下で薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀・整式隊参謀を務めるまでになる。このように危機的な局面をくぐりつつ、松陰の遺志を受け継ぐことを手探りで模索しながら、弥二郎は成長していく。

遺る弥二郎の写真

写真に遺るカイゼル髭をたくわえた品川弥二郎。入塾時は穏やかな表情の持ち主だったはずだが、松陰になり切ろうとするあまり、松陰の「気」を受け継いだようでもあり、ある種の凄味を窺わせる風貌を備えている。

尊攘堂

新政府ができると弥二郎は要職に就く。農商務省に在籍していた時、視察で訪れた茨城県で水戸藩士が持っていた松陰の手紙を偶然手にする。この手紙は松陰が処刑される7日前に萩の長州藩士・入江杉蔵に宛てたもので、松陰が構想していた学問所創設にかかわるものであったという。この学び舎は「天子・親王・公卿から武家・一般人」まで学ぶことができるもので、松陰はこの施設を京都に建てたいとの思いを持っていたのだ。

弥二郎は時世を考慮して、学び舎ではなく、明治維新を記念する資料館とすべく私財を注ぎ込んで遺品を収集し、京都に尊攘堂を開設、松陰の遺志のひとつを結実させた。

もうひとつ、松陰の命題に対する弥二郎が見つけた答え、その人生を掛けた大仕事だった。

・・・・・続く

(学23期kz)


進まない改革 ②沈黙はカセ(枷)なり

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

前稿では、総論賛成でありながら、なぜ改革が進まないかを考えてみた。

言うまでもないが、そもそも改革の機運生まれた時に、総論反対を唱える者もいる。

すなわち、改革論が出た時に

・それでどうなる

・失敗したらどうする

・誰が、どう責任を取るのか

・・・よく聞くセリフだ。

これらは改革の機運に冷や水を浴びせるもので、改革を封印する殺し文句でともいえる。

こうした議論への対応は別の機会で述べるとして、この稿では総論賛成でありながら、なぜ改革がうまくいかないか、特徴的なケースを挙げて検討する。

ここでいう総論賛成とは、すなわち表面的には総論に反対してはいない場合も含まれ、実はここに問題が潜んでいる場合が多い。

◆改革頓挫

各論で賛成が得られないケースをみてみよう。

  • 改革の過小評価

当初、改革が具体的にどのような形で自分の身に影響が及ぶか読み切れておらず、議論が深まるにつれて自らへのマイナスの影響が可視化される場合

  • 情報共有への消極姿勢

同じ会社内で事業分野が統合され、垣根が取り払われると、各部門の情報が共有されることになる。

この場合、自ら苦労して集めた経験や情報が新たな仲間に「タダ」で供与され、共有されることに不快感を示す場合がある。

  • 改革の方法論へのこだわり

改革のやり方、改革の方法論にも拘りが出る。

改革に賛成でも改革のやり方に執拗な拘りがあれば、改革そのものに反対に回ることが往々にして起きる。

  • 改革に伴う新たな対応への消極姿勢

業績を上げるには、不要な業務、生産性の低い業務、旧態依然とした業務をしている分野から、新たな分野、生産性の高い分野、世界と競合できるような分野へ経営資源を集めることが必要になる。

この時にそうした分野への人材のシフトが必要になるが、リスキリングを含め、自己変革を迫られる働き手の抵抗が始まる。

中間管理職に多いリスキリングへの消極姿勢

日本の企業で指摘されているのが、社員が学び直しをせず、リスキリングの意識が低いという点だ。

しかも、こうした層は中間管理職に多いという。

少し古いデータになるが、我が国の大手人材系シンクタンクがアジア・太平洋地域14か国を対象に2019年に行った「

就業者の就業実態・成長意識調査」では東南アジアやインドでは、社外学習・自己啓発が活発で自己研鑽に意欲的であったが、日本は「とくに何も行っていない(学ぶことをしていない)」と回答したのは、およそ半数にあたる46.3%。各国比較でも日本が突出して高かったという結果が出ている。

◆厄介な「沈黙(サイレント)層」・・・沈黙はカセ(枷)なり

改革を行う場合、より深刻な問題は、ぎりぎりまで意見を言わず、なかなか正体を現さない「沈黙(サイレント)層」が多く存在する点だ。

彼らは改革論議に際し、意見を言わない。

ある程度しっかりした意見を持っている者でも、自分の意見をつまびらかにしない。

実に奥ゆかしい。

しかし、改革論議の際にはこれが困る。

その理由はいろいろあろう例えば・・・

自分が「出しゃばり」のレッテルを貼られるのを嫌う

議論に慣れておらず、意見を述べることが恥ずかしい

直属の上司の顔色を伺う

他部門との衝突や他部門からの批判を恐れる

自分の改革案で成果が上がるか否か不透明で、自信がない

しかし、こうした層は総論が通るまで、みんなの前ではダンマリを決め込んでいるが、実際に改革が実行されそうになり、自分の身に自己変革が要求される改革の波が押し寄せてきそうになると、途端に反対の声を上げる。しかも猛然と。

これが問題だ。

ここでトップがリーダーシップを発揮し、反対派を説得できば問題ない。

しかしリーダーが大所高所の見地から改革をリードしようとしても、役員を始めとする社員の改革意識が低場合、議論が空回りする。

改革論議の漂流だ。

こうした場合、議論をもう一度スタート時点、すなわち総論からやり直すことになる。

こうした例が身の回りにあまりに多いような気がする。

政治の世界や役人の世界しかり、一般企業の場合もそうだ。ひいては身の回りの自治会、マンション理事会などなども同様だ。

これに比べ、戦国時代は異なる。

時代劇、特に戦国時代の議論の風景をみると、賛成、反対に分かれて実に真剣に意見を戦わせる。

何も脚本家が場面を盛り上げるためにいたずらに激論を戦わせる場面を盛り込んだのではないように思う。

戦国時代、主張することはしっかり主張しないと、己の身があっという間に物理的に滅びることになる。すなわち死に直結しているから真剣に意見を言い、議論を戦わせる。

◆沈黙(サイレント)層の意見を引き出す匿名web会議

コロナ時代に流行ったweb会議がある。

名前を伏せて会議に参加できるのだ。

恥ずかしがり屋が多い日本人には、場面によってはこうした匿名web会議が有効に機能することがあるのではないか。

こうしたツールを用いれば総論の賛否を議論するときから、意見を開陳する垣根が低くなり、上司や他部門の顔色を伺うことなく議論できる。本音の主張が増え、議論が活発化することも期待できる。

重鎮が揃う役員や幹部会でも有効かもしれない。

匿名web会議が改革に効率的に辿り着く有効な意見交換の場となるよう、運用の仕方を磨くことも面白い試みではないか。

(学23期kz)

サラリーマン時代のN先輩、旭川出身で小樽商科大出身

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】  


◆広島勤務時代に知り合い、退職後も同じ昭和25年生まれということもあり、お互いになぜか気が合って、広島在住の彼と携帯で頻繁に連絡を取り合っています。

◆一昨年12月の長州歴史ウォークに参加され、その2週間位後に亡くなられた永池克明大先輩と昔、総合企画部で一緒に仕事をされた方でもあり、歴史ウォークの昼の休憩時間にお二人を携帯で繋ぎました。

◆小樽商大はサラリーマン時代に懇意だった同期Fの出身で、43歳の頃に交通事故死し、その6年後に北海道出張の際に高台にある小樽商大を訪れたことがあります。

◆N先輩の小樽商大の卒業同期に、最近まで11年に亘りD工業代表取締役社長兼CEOを務められ、6月27日の株主総会で会長に就任予定のT氏(75歳)がおられるとか。
T氏は北海道中川郡池田町の農家に生まれ、9人兄弟の末っ子で、進学校でもなかった高校を卒業され、一浪一留で小樽商大を卒業されたとか。
在学中は麻雀好きだったようで、プレイボーイの全国大学対抗麻雀大会で小樽商大を都会の早稲田大との決勝戦に導かれたとか。
N氏もT先輩とは麻雀仲間で特に筋が良いと認められ、チームに入らないかと勧誘されたとか。

◆そのT氏、入社されたD工業での配属先が総務・人事で、上司にその後、永年に亘り社長、会長を務められ、売上3千億→4兆円の空調メーカーとして世界トップクラスに成長させた中興の祖のI氏がおられたとか。
そのI氏も無類の麻雀好きで、しかも半端ない腕前だったようです。
そのI氏、営業畑でもなく、取締役の中で後ろから3番目の序列から社長に抜擢されたとか。

◆一芸に秀でられたT氏がチャンスをモノにされ、幹部として、その後経営面で実力を遺憾なく発揮されたのは凄いです。
この度、海外工場のあるベルギー王国からも勲章を授与されたとか。
私はNさんには会長就任を機に大阪のT会長に会いに行かれてはと薦めています。💦

◆その小樽商大も令和4年に帯広畜産大、北見工業大と経営統合し、新たに国立大学法人北海道国立大学機構が設立されたとか。
(学22期 Y・Y)

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映画「ディア・ファミリー」を観にTOHOシネマズ日本橋へ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】


◆公開日の翌日の6月15日(土)15時40分~上映分を観に早速、日本橋室町まで行って来ました。
早めに着きましたので、9年余り過ごした日本橋本町付近の思い出の場所を散策してみました。

◆映画はネタバレになるので、詳しいことは書きませんが、涙は覚悟していたものの(暗闇の中なので構わない)、何度も嗚咽を抑えるのに苦労する程でした。
主役の大泉 洋の演技に迫力があり、鬼気迫るものがありました。
大学教授の石黒英二役の光石 研の演技も光りました。
富岡 進役の若手の松村北斗も注目です。
公開3日間で、全国で18万5千人の観客動員を記録し、第1位になったとか。

◆終演後、スマホを立ち上げましたら、鳳陽会東京支部トピックスに投稿分コピーを翌日のFacebookの自分のタイムラインにも載せていましたが、原作者の清武 英利さんからコメントが入っていて、吃驚仰天でした。
こんな嬉しいことはありません。
「映画の後は本もご一読を。きっと異なるものをつかまれるでしょう。」とのアドバイスにより、文春文庫の『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」23年間の記録』も併せて読むことにしました。
清武さんはジャーナリスト・ノンフィクション作家として、20年以上に亘り家族と向き合い、緻密な取材をされたようで、興味を覚えます。

◆「アトムの心臓」って鉄腕アトムのアトムで人口心臓のことなのですね。
愛知県春日井市が舞台でもあり、家族で中日ドラゴンズの帽子をかぶってテレビで応援し、勝利に歓喜する場面があり、中日ファンの私としては嬉しくなりました。
(学22期 Y・Y)

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現役・経済学部生からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】

(事務局から)

山大経済学部2年・古野翔音君(大分県中津市出身)は、現在小学生向け職業体験イベント「知る職」プロジェクト活動に取り組んでおり、今月8日に広島で行われた鳳陽会全国総会懇親会の席上、古野君からプロジェクトの活動紹介がありました。今回古野君から投稿がありました。

「知る職」プロジェクト活動紹介 経済学部2年・古野翔音

◆大学生活も1年が経ち、毎日が新しい発見と刺激に満ち溢れています。 個性豊かな先生方や、多様な価値観を持つ仲間たちとの出会いは、本当に貴重で、充実した 日々を送っています。

◆学内の様子も、四季折々の自然と共に変わっていきます。 春には桜が咲き、夏には青々とした木々が生い茂り、秋には紅葉が美しく、冬には静かな雪 景色が広がります。 学生たちも季節ごとに変わる雰囲気を楽しんでいます。 昼休みには学食や「FAVO カフェ」が賑わい、夕方には部活動やサークル活動が活発にな り、学内はいつも活気に満ちています。

◆この1年を通じて、特に印象深かったのは、山口県の魅力を再発見したことです。

 私たちは小学生向け職業体験イベント「知る職」の活動をしています。

https://sirusyoku.com/

イベントの準備を通じて多くの方々と関わる中で、地元企業や行政の方々の温かさに 触れ、とても感動しています。

そのプロジェクトの一環で県内各地を回る中で、地域の素晴らしさに気づき、 その魅力にどんどん引き込まれています。

◆ 現在、私たちは2024年8月18日に宇部市で行われる小学生向け職業体験イベント「知る職」プロジェクトの成功に向けて準備を進めています。

 私は生まれつき「完全大血管転位症」という指定難病の心臓病を持っていますが、「心臓病 でもやりたいことができる!」ということを伝えたくてこの活動を始めました。

田舎育ちの私にとって、職業体験は都会に行かなければできないものでしたが、地方でも多 様な職業を知る機会を提供し、子供たちの将来の選択肢を広げたいと考えています。

◆過去の「知る職」は大変好評をいただいており、第一回目から第四回目までの開催で述べ70 社、累計4000人以上のお客様が来場しました。 特に直近の「下松市コラボ知る職」では、2000人以上の来場者を迎えることができました。

◆お願い

皆様にお願いがあります。 次回の8月18日、宇部での「知る職」に向けて、出店企業様を募集しております。

出店料は1万円で、6月末までにお申し込みいただければ、山口県内の小学生10万部に配布するチラシに企業ロゴを掲載いたします。また、当日の協賛企業様も募集しております。 来場者数2000 人を目標としており、会場スクリーンに企業ロゴを表示し、2000 人の親子 の皆さんに対してPRする絶好の機会です。

皆様のご支援とご協力を心よりお待ちしております。

今年1月に開催された「知る職」イベントポスター

進まない改革 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

日本では改革が進まない場合が多い。

政治や行政のみならず、企業や学校、地域の自治会など、組織の運営や制度の在り方を巡って、改革がなかなか進まない。

土壇場になって改革が頓挫する場合も往々にして起こる。

何が改革を阻むのだろう。

◆総論は表向き「賛成」

総論の段階で見解が割れていればそもそも話にならないが、異論を抱えながらも総論はすんなり決まる場合が多い。

そもそもここに改革論議が漂流する種を宿している。

総論は得てして世の中の流れに沿っている場合が多く、話の筋が良い。論理的な帰結である場合が多く、海外での取り組みとも平仄があっている場合が多い。

しかし、総論に反対の立場であっても、表立って反対の立場を表明しない者が多い。総論に反対すれば世論から反発を招く。また、「旧い」、「分からず屋」、「自分の立場が分かっていない」とレッテルを貼られ、場合によっては「抵抗勢力」とみられることになるからだ。

◆問題の「各論反対」・・・縄張り

問題は各論での反対だ。

一般論として言えば、これまでの旧い制度を新たなものに変えようとすると、既得権を持ったグループや業界から反対が出る。

こうしたグループは陰に陽に反対運動を展開する。

時には大掛かりな反対運動を展開することにもなる。

既得権に触れる場合、業界は業界で反対運動をするが、こうした抵抗は官庁でも見られる。

官庁には官庁で既得権益、縄張りがある。これが侵されると、「役所の権限が低下する」として官庁は強力に抵抗する。

官庁は予算と権限は手渡さず、一貫して拡大傾向を辿るとする「パーキンソンの法則」は今でも生きているようだ。洋の東西を問わない。

(学23期kz)

ゴルフ 何でそうなるの! ⑤雨のゴルフ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】

◆遅い入梅

今年の入梅は遅い・・・

関東では、あと1~2週間プレーできるかもしれない。

それならば、この時期にゴルフの予約を取っておけばよかった。

しかし、これは結果論。

ゴルフはかなり前から予定を立て、体調管理に留意しながら、当日に合わせて練習を重ねる。

予約時点でプレー当日の天候はわからない。

雷が鳴るときは別として、よほどのことが無い限りプレーはしたい。

練習場でいい球が出る時には、コースで試してみたくなる。

エイジシュートを狙うにはまだ早い気もするが、差しあたっての目標は自己ベスト更新だ。

酷暑、酷寒は何のその、強風でもプレーする。

しかし雨の時は困る。

多少の雨なら何のことないが、大雨の中でのプレー。これはなかなか厳しいものがある。

◆雨は厄介

・まず手袋が濡れてグリップが滑る。革が濡れると結構滑るのだ。

タオルで水気を拭き取って打つが、それでも滑る。

かといって素手で振るのはクラブが手からすっぽ抜けそうで、力が入らない。

・またボールを打った後、ボールの行方を追えない。

フェアウェいに落ちたはずのボールも往々にして見つからず、ロストボールになる。

フェアウェイでも地面が緩んでおり、そこにもぐりこんだボールを見つけるのは容易ではない。

・バンカーに入ったボールも難しい。

バンカーには水が溜まっているからだ。ボールは動かせない。

・おもしろい発見もあった。

グリーエッジのラフに止まったボールをパターでピンを狙ったところ、濡れた草、水が薄く張られたようなグリーンの上を、球がスルスルスルとかなり遠くへ行ってしまった。

どういうことだろう。

水上スキーのように、低い摩擦で上滑りするからか。

別のホールでもう一度パターを使ったところ、結果は同じだった。

何でそうなるの!

よく分からない。

・極めつけは、グリーンに降った雨がはけず、雨に浸されたグリーン上でのパット。

長さは10ヤード。

強めに打つことは分かるが、どれくらいの強さで打てばよいのか力加減の見当がつかない。

しかし水の抵抗があるので強めに打つに越したことはない。

強めに打ってみた。かなり強めに。

するとボールは最初、観覧車のような大きな円輪の水しぶきをあげながら3ヤードほどピン方向に向かうが、急ブレーキがかかり、カップのはるか手前でぴたっと止まる。

セカンドパットも同じ結果に。

とてもスコアーにはならない。

◆割りが合わない雨のゴルフ

やはり雨のゴルフは止めた方が良さそうだ。

家族孝行できなことを胸の内で詫びつつ、安くないプレーフィーを払い、まる1日時間を費やす。

これで風邪をひきでもしたら・・・

(学23期kz)