教養課程の授業の想い出①

ドイツ語

矢儀先生

結構な年配の先生であった。頭は白髪交じりで、顔には結構深いシワが刻まれていた。どちらで、またどのような経緯でドイツ語を習得されたのか伺えばよかったが、今となってはもう遅い。

高校まで外国語としては英語しか習っていなかった私にとってドイツ語は新鮮であった。

英語と同様、Aで始まりZ で終わる26文字ながら、英語とは似て非なるものだ。辞書なしでは簡単な文章も分からないものが多い。

発音の仕方も子音をあまり利かせず、ダッ・ダッ・ダダダッダと、一語一語克明に発音し、あいまいさを残さない。聴きようによっては九州訛りにも似た男性的な響きがある。

語尾まで克明に発音し、あいまいさを残さず、機関銃のような響きのドイツ語。

この点、フランス語とは異なる。

子音をよく利かせ、リエゾンあり、発音しないサイレントあり、洒落っ気のあるフランス語。

柔らかく、情緒的でささやくようなフランス語。あいまいなところを残すところが奥深く、広がりが出る。

国民性が如実に出ており、隣国でありながら両国民がなかなか理解し合えないことも分かりそうな気がする。要はゲルマンとラテンの違いということか。

◆ドイツとフランス

就職後、両国の名のある新聞や雑誌(経済誌)を読み比べる機会があったが、明らかに違いがあった。

ドイツの方は事実に基づく分析的な記述が中心で、憶測記事、予想記事、評論が少なく、ウイットもない。面白みに欠けるが、非常に冷静に、論理的に書かれており、分析的なものが多い。

他方フランスの方は情緒的に書かれており、修飾語が多く、難解だ。事実がストレートには記述されておらず、憶測記事や論評が勝っており、事実を拾うことに苦労した。

やはり私はドイツ派だ。

◆ドイツ語授業の代返

学生時代に戻るが、私はドイツ語の授業を楽しみにしていた。毎回出席していたが、私の友人の中には、部活が忙しいことを理由に私に「代返」を頼む者がおり、私は気前よく引き受けていた。

第二外国語の授業は選択必修となっており、出席しないと単位に響く。矢儀先生は毎回授業を始める前に出欠をとっていた。一人ひとり名前を読み上げ、学生の返事で出席確認をとるやり方だ。

出席できない場合、代わりに返事をする代返という技がある。私の親友のA君は私に代返を頼んでいた。

代返するにあたっては結構勇気が要る。自分の名前が呼ばれた時には、先生の目を見て胸を張り、存在感を過分に振りまきながら、声高らかに「はい」と返事をする。しかし、代返の時には先生と目を合わせず、下を向き、声色を変えて点呼に応じるが、自ずと声は内にこもる。周囲の同僚への憚りもあり、声も小さくなる。

一度、こういう事が起きた。

代返で「はい」と答えたものの、先生には声が小さくて聞こえなかったからか、再度名前が呼ばれた。

心臓が高鳴り、急に喉が枯れた。返事をする勇気はなかった。

友人には悪いことをした。

もう一度は、先生の出席確認に、私ともう一人の代返者がおり、二人揃って「はい」と返事をした。この時先生が、再度の出席確認の点呼の声がしたが、二人とも沈黙。

親友のA君、私の他にもう一人別の友人に保険を掛けていたらしい。

(学23期kz)

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皆様からのご寄稿をお待ちしています。

アルバイト、サークル活動、同好会、ゼミ、旅行、就職活動などの学生時代の想い出や最近の出来事などについてお寄せください。

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空手部哀歌 NO.2 地獄篇

灰色の高校生活を脱し、「君と~よく~この店に来たものさ~♪~♪」さあ薔薇色の大学生活がはじまるぞーのはずが、空手部に入部。わが身の不幸を呪うひ弱な1回生でした。

1. なんと理不尽な

この世の中、理不尽だらけ。でも、これほどとは・・・。

頭は坊主刈り。冬は詰襟黒服、夏は部の刺繡入りシャツ着用、革靴又は高下駄。

先輩への挨拶、返事は「オス!」「押忍!」のみ。

訳はーハイわかりました。全て従います。何も考えません。

新人が街で見た3回生に「押忍!」の挨拶をしなかった。「指導が悪い」と2回生が体罰を受ける。

(100m離れていても聞こえる大きな声で「押忍!」)

ある幹部の最悪のつぶやき

「彼女は作るな。強くなれん!」えエッ!うそでしょ。

(この幹部がもてないだけで、実は皆さんそれなりに頑張っておられました)

2. 虎の穴

 タイガーマスクにも出てくる欧州に本当にあったプロレスラーの訓練道場。

稽古は柔軟体操、腕立て腹筋背筋、アヒル歩き、うさぎ跳び。永遠と続きます。

腹筋仕上げは仰向けに寝て、上級生が腹に飛び乗る。踏むんでなく三段跳びのジャンプ。

次は亀山外周ランニング、最後はダッシュ。竹刀を持った鬼が後ろに迫る。

肥満の私は毎回、大変でした。

ボカボカ日和の亀山公園、皆さん楽しい公園デートの横で基本稽古。

週に一度は女子短までマラソン。玄関で気合い入れて突き蹴り、ご迷惑かけました。

アッちっちアスファルト、砂利道、ガラス片も何のその、ずっと裸足・・・。

3. 変身

東大出の体育担当若手教授がおりました。

稽古以外はなるべく休憩を心掛け、必修の体育も稽古に備え仮病見学。

なんと、その日に教授が空手部の稽古を見学に。

翌日お呼び出しあり、教授の特別トレーニング実験生に指名を受けた。

稽古だけでも青息吐息なのに、飛んだり、跳ねたり、持ち上げたり。

お陰で20kg減量、入学時2千mだった12分間走は3千mに。

4.こんなこと、あんなこと事件

空手部第一期黄金時代の幹部、勉強が好きで5回生でした。

稽古中、相手の歯が折れて拳に入り骨まで損傷、ギブスして道場門前闊歩。

チンピラ数人に絡まれ、ひと騒動。運悪く、現場に学生証を落としていた。

ある日、下宿の周りに、報復隊が押し寄せているのを発見。その後、各所を転々と・・・。

それでも無事に卒業され、会社の副社長で活躍されました。

新入生は苦しい鍛錬と上級生のサンドバック状態、うっぷん晴らしに酒でも飲んで暴れるしかなし。

ある日のコンパの後、大勢で車道をふらふらしていたら、黒塗りベンツが急停車。

運転手が怒って何か言った。大騒ぎになった。( 私は見てただけです。 )

その後、夜の街を報復隊が我々を探しまわってしたという彼らは広島から応援に来ていた同業の方たちだったらしい。

翌日、主将より「1年生は1週間謹慎、稽古なし!」ラッキー!!

 

(ストーム、お出入り禁止事件)

合法的にうっぷん晴らしするには、寮のしきたり、ストームが好都合。

深夜寮生をたたき起こし仁義切る。上級生下級生に関係なく、ご挨拶受けたほうは布団たたんで正座で返答。礼を失した者は制裁受けてもやむなし(と教えられた)。

ある夜、同級生が吉田寮でちょっとやりすぎ全寮集会でつるし上げ騒ぎとなったが、付き添い主将の一喝で終焉。条件はストームお出入り禁止。

鳳陽寮でも鍵を閉めてマージャンしていたかわいそうな上級生。鉄下駄はいた連れがドアをけ破り、部屋主は震え上がった。(そのあとは酔っぱらっていて記憶にありません)

その前年、1年上も同様事件で鳳陽寮お出入り禁止。

なんとも懲りない面々でした。

そんなこんなで波乱の1年があっという間に過ぎました。

ボオーッとした肥満児が心も体も剥けました。

エッ!学業?そんなもんはとうの昔に捨てました。でも、卒業もしましたよ。

  (山口大学経済学部卒業生 N)

※注 以上はフィクションで、実在の人物、組織とは関係ありません。―ということにしておきます。不適切な表現もありますが、作者の意図を尊重し、ほぼ原文のまま掲載しております。

安い「ニホン」②発表

◆ビッグマック指数

英国・経済誌エコノミスが発表しているビッグマック・ランキングがある。

すなわち各国で販売されているビッグマックを介して、その国の総合的な通貨の購買力を国際比較するもので、57か国を対象に、年2回発表している。

消費税や農業補助金の水準など各国ごとに異なる事情を考慮しない、単純かつ荒っぽい一種の理論値ともいえる購買力平価だが、妙に生活感覚に近い。

2022年1月時点の数値(1ドル=115.23円換算でのランキング)をみてみると、日本は390円(=3.38ドル)で、57か国中、なんと33位になっている。

円換算で示したビッグマック価格の上位国をみると、スイスでは804円、米国669円、ユーロ諸国平均571円、豪520円、タイ443円、中国442円、韓国440円、ポーランド396円などが日本よりも高くなっており、日本のビッグマックはタイや中国、韓国よりも10%以上安い値となっている。

日本よりも安い国ではペルー387円、パキスタン385円があるが、これらはほとんど日本と同じ価格であり、日本円の購買力はペルー、パキスタンの通貨並みと言える。しかし、足元では135円近傍と本年1月時点より円安がさらに進んでおり、日本のビッグマックランキングはさらに低下したことになる。

なお、調査対象国のうち、ビッグマック最安の地域として現在紛争中のウクライナが280円,ロシア201円となっている。

このビッグマック・ランキングは単にビッグマックのランキングみならず、賃金水準も同じようなランキングになることを示している。

◆IT人材難

最近ではDXばやりだが、日本企業ではIT技術を有する人材の調達難が表面化しているようだ。最近、新聞が報じているところでは、求人倍率は営業職が2倍強、企画・管理職が5倍であるのに比べ、IT技術職は10倍程度となっている。

また、日本のIT業界でもこうした職種の賃金が多少上がり、新入社員の初任給40万円という声も聞かれ始めたが、GAFAの新入社員は1500万円のところもあるとされ、大きな格差が生じている。

国内でのIT人材育成の遅れから、人材供給がショートしているが、国内で調達できない場合、外国から人材を調達する必要がある。

外国人が日本で仕事をする場合、「言葉の問題」もあり、またジョブ型になっていない採用制度などがネックになっていることも確かだが、賃金水準が低いことも悩ましい問題であり、諸外国との格差是正は進んでいない。

また、困ったことに、日本人のIT技術職を希望する新卒者に内定を出しても、辞退する者が増えているという。深刻な問題だ。

◆過剰適応

1980年から90年代にかけて、日本が輝いていた昭和時代。まだその時の制度が支配的で、バブル期の成功体験者ほど意識が当時から切り替わっておらず、バブルの時を基準に判断する癖が抜け切っていないようなケースも多いのではないか。

最近の日本を見ていると「過剰適応」という言葉を思い出す。

温暖化に過剰に適応し、我が世の春を謳歌して巨大化した恐竜。

しかし、その当時最強だった恐竜は、寒冷化になると適応できずに絶滅したのだ。

ダーウィンは言う。

「生き残ることができる者は強い者ではない。また、賢い者でもない。唯一生き残ることができる者は変化できる者だけだ」と。

◆国際的なプレゼンス

控えめな国民性ながら、独特な精神文化が根付き、奥が深く、外国人を魅了してきた日本。円が高い時代は外国人からの憧れを多く集めていた。

モノが安くなったニホン、賃金水準が下がったニホン、通貨が安くなったニホン。

これ以上、日本の発言力が低下し、このまま国際的なプレゼンスが薄れていくことのないことを願う。

(学23期kz)

安い「ニホン」①

外国人買い物客

今でこそコロナで海外からの買い物ツアー熱が収まっているようだが、コロナ前には銀座8丁目あたりの高速道路の下にはいつも大型バスが何台か停まっていた。銀座のブランド店を訪れる外国人買い物ツアー客を乗せたツアーバスだ。

彼らは「割り高」ではあるが、精巧に作られた魅力的な日本の電気製品を買うために、また安全性に優れている食品、薬品、化粧品を買うために貯金をし、多少無理をして日本に買い物に来ているのだろうと思っていたが、果たしてそうか。

今から考えれば、コロナ前から日本の製品を始め、不動産などサービスを含めた日本のモノやサービスが安いために、来日していたのかもしれない。

◆100均ショップ

日本の「100均」、すなわち100円均一ショップの大手数社が銀座に集まっており、ニトリも銀座に出店した。

一握りのIT長者は別にして、日本の平均的な消費者の購買力が落ちた傍証かもしれない。

日本の大手百均製品の買い付け先であったはずの中国では、「10元ショップ」がある。ドル・円が135円まで下がったような円の独歩安となった昨今では、「10元ショップ」を円換算すれば200円ショップになる。

アニメの世界では中国が日本に作画を下請けに出しているという話もある。

不動産にも買いが

大きい買物もそうだ。北海道の雪はスキーに適しているとして、外国人がロッジを買う。

日本の温泉もさることながら、日本の水資源、すなわち水源地にも外国資本の手が伸びているようで、日本の防衛基地や、原発の立地近くの不動産が購入されれば、安全保障の面でも大きな問題となるはずだが、日本ではこの手の外資を規制する法制度の整備は間に合っていない。

企業でもそうだ。1ドル80円を切った1990年代初頭の円高時は、日本国内から輸出が難しいとして、主に製造業の生産拠点を消費地にも近い欧米や、東南アジア、中国にシフトさせたが、最近では国内回帰の動きもある。サプライサイドの安全確保の観点から国内回帰が起こったかと思いきや、単にそうではないようだ。日本で生産する方が割安になってきたことも大きな要因になっているようだ。M&Aでも「日本」が買われている。

◆若者の車離れ

韓国の1人当たりGDPは日本を超えた。日本は韓国よりも貧乏になったというのはショッキングな話だ。

若者の車離れが起きて久しいが、若者が車への興味を失ったのではなく、貧乏で車を買えなくなったのかもしれない。

日本人の平均年収は430万円、車は300万円もする。

平均年収はこの30年で1割下がっているが、車は安くなっていない。トレンドとして、むしろ高くなっている。

若者は環境に配意し、無駄なものは保有せず、所有よりもシェアして使う方を選ぶとする見方もあるが、買えないからこその負け惜しみかもしれない。

(学23期kz)

大内から毛利へ その3

毛利元就の勝因

厳島の戦いに勝った勢いで、毛利元就は出雲・尼子氏との戦いにも勝利し、中国地方の覇者となる。

毛利元就の勝因

戦(いくさ)に勝った毛利元就側の勝因を探れば、あらん限りの謀略と攪乱戦、地縁と血縁とを活用した戦略に相当長けていたという言い方もできる。厳島への誘いの囮として築城した宮尾城、村上水軍の自陣への引入れ、陶軍の家臣団のいさかい・ほころびへの謀略の仕掛け・・・

また、身内の結束も勝因に挙げられるかもしれない。

兄弟が一致協力して家を存続・繁栄させるべしとして長男隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の三子に宛てた手紙が有名な「三矢の訓(みつやのおしえ)」。

この話は後世の作り話とされるが、長男は早世したものの、次男・元春は吉川家へ、三男・隆景は小早川家へ養子に出し、果ては両者が両家の長となって「毛利両川体制」を構築し、毛利家を支えた。

こうした親と子の結束、さらには養子縁組による血縁が有効に機能したことも、毛利の「勝ち」を手繰り寄せる大きな要因になった。

大内義隆、陶晴賢、毛利元就。

この三者の中で最も知略・謀略に長け、強運であったのが毛利元就であったのは間違いない。

毛利元就が陶氏を討ったのは、かつて仕えた主君大内義隆を討った陶晴賢の成敗を名目とした。この筋書きの線上にある戦いであったからこそ戦いに義があり、反発や非難を招くことはなかったのだろう。

元就は74歳で病死するが、畳の上で死ぬことができた。

大内義隆や陶晴賢の辞世の句に比べて、毛利元就の句は何とのどかで「嫋やか」であることか。

友を得て、なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は

そこには知略に長じた戦国の猛将のかけらも伺い知ることはできない。

友と観る桜。同じ桜でありながら、昨日愛でた桜と今日の桜の、色と香りがかすかに異なることを感じ取る繊細さ。

長生きをし、戦国武将とは思われない優美な句を残して畳の上で死ぬことのできた者。

当時の中国地方の覇権を握った三者の中で最も恵まれた人生だった毛利元就。

最も謀略に長けており、強運の持ち主でもあったからこその晩年であった。

◆強運の源泉

この強運。

これをもたらしたものは何であったか。

下克上の世にあって、己に対しても敵方から知略や謀略が仕掛けられた筈だ。人も情報も素直に信じていれば足元をすくわれかねない。

昨今と異なり、情報の伝達も遅く、また情報は網羅的でもない。この時代、信頼のおける腹心でさえ敵方に寝返っていたことも、よく聞く話だ。

潰さなければ潰される一寸先が闇の戦国時代。

自分を信じ、血筋を信じることはいい。

しかしこれだけでは、強運の中で戦国時代を生き抜けない。

渦巻く疑念や迷いに押し潰されることなく、それらに耐え、それらを振り払うことのできた腹、「愚鈍」と紙一重の野太い精神的な強さ、逞しさ。これが先ずもって必要だ。

その上で、少しばかりの幸運を大きく膨らませ、周囲のみんなと共に分かち、地雷の如く身の回りに散らばる逆境さえも己の幸運として軽妙に引き入れる柔軟な頭と、そして自分の方に運を引き寄せ、引き込む剛腕があったからこその強運ではなかったか。

(学23期kz)

76歳の起業

           76歳の起業 

山口大学経済学部同窓生の吉川京二さん(16期)が76歳で

「海の森」再生をめざす株式会社「ジャパンブルーカーボンプロジェクト」

(東京都板橋区)を起業した。吉川さんは「未来の子供たちにきれいな海を残したい」と笑顔で語る。

 吉川さんは1945(昭和20)年、広島県で生まれ、育った。山口高商の伝統に憧れ、山口大学経済学部に入学する。鳳陽寮・北寮に入寮し、硬式テニス部で活躍。安部ゼミで学ぶ。

 卒業後、ブリヂストンに入社。営業・マーケティング分野を担当した。日本、中国、タイで流通網の構築に取り組み、ブリヂストンの世界的企業への発展の礎を支えた。そのとき、得た教訓がある。

「仕掛けなければ、道は開かれない」

国内の支店長を最後に55歳で独立。経営コンサルタントとして大手企業の営業・マーケティングを指導してきた。

 吉川さんは3年前、重い病気で入院・治療を受けた。退院後、思い立った。

 「命をもらった。残された命を世のため、人のため、なにか、役立てないか」着目したのが日本の海だ。資源のない島国・日本では大事な海が温暖化の影響を受け、海藻(かいそう)が消失し、魚がとれなくなっているという。

 海藻や海草などは大気中から炭素を吸収する。吸収された炭素が「ブルーカーボン」だ。海藻などが豊かに生息できる「海の森」を再生し、ブルーカーボンの量を増やすことが、脱炭素の近道という。

 吉川さんは北海道の漁業関係先や中央官庁などで築いた人脈をいかし、ブルーカーボン事業に取り組む。

 吉川さんは「北海道から始めて全国、そして将来的には世界での展開も視野にいれています。」と意欲を示す。

事業を支援してくれるパートナー企業を募集している。

 ※問合せはジャパンブルーカーボンプロジェクト

(03-3931-2540)

吉川 京二さん

 

大内から毛利へ その2

陶晴賢から毛利元就へ

大内義隆公の後を受け、領土を治めることとなったのが義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)であった。
晴賢は大内義隆の養子であった豊後の大友晴英(大友義鎮の弟)を大内氏の当主の座に据えるが、あくまでも実質的な実権は陶晴賢が握っていた。

陶晴賢が大内義隆を自刃に追い込んだ大寧寺の変から6年後、その陶晴賢も毛利元就からその座を狙われることになる。

🔶碁盤上の勢力図
大内氏の後を受けた際、陶晴賢が幼少の時からの守役・伊香賀房明から碁盤の上で管内勢力図の教えを受ける。
すなわち陶晴賢が天元に位置し、上辺に津和野・吉見氏と出雲・尼子氏、右辺に安芸・毛利氏、左辺に豊後・大友氏などの豪族、下辺に村上水軍など瀬戸内海の勢力ありと。

🔶戦いの契機
1553年(天文23年)津和野三本松城主・吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻す。
「上辺」の津和野・吉見氏は以前大内氏と領土争いをしていたこと、また大内義隆の姉が城主・吉見正頼の正室であったことから、義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢に恨みを持っていたという。
この吉見が陶との戦いに入った際、毛利元就に対し、吉見軍と陶軍の双方から援軍要請が飛び込む。
ここで、元就はどちらに付くか腹を決めることを迫られる。
以前、元就は出雲・尼子氏から大内氏へ鞍替えした経緯から、陶晴賢とは協力関係にあった。しかし、元就は陶氏が忠義に背き「主君を討った」ことゆえ、陶氏へ援軍を出すことを拒んだ。このことで両者の関係は悪化し、ついには両者の間で戦(いくさ)が始まる。

 🔶厳島の戦い
両者の戦いは天文24年(1555年)に宮島全域が戦場となった「厳島の戦い」として知られる。
この戦いでの両軍の兵の勢力はどうだあったか。
陶軍の勢力は2万とも3万ともいわれていたのに対し、毛利軍は4~5千。圧倒的に陶方が有利であった。
結果は如何に。
はるかに有利な軍勢を有した陶晴賢が、まさかの「自刃」に追い込まれる破目に相成る。

自刃した陶晴賢の辞世の句である。
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

主君を自刃に追い込んだ己が、知略に優れた新たな勢力によって自刃に追い込まれる。
陶氏は、こうした日が近く訪れることに気付いていたのだろう。
主君を自刃に追い込んだことで、己の生への執着も深く蝕まれていたのではないか。

何とも短い間のうつろな天下であった。
この運命、淡々と受け入れる他はなかったと悟ったはずだ。
圧倒的に優位な兵力差にあっての、あっけない敗北。
この敗北の要因は陶晴賢の覇気、勝利への執着心の喪失であった。
潔い自刃。
これは主君・大内義隆への謝罪でもあったはずだ。

つづきは次稿で。

(学23期kz)

「仮囲」の中の世界

66期K

(注:建設会社入社4年目の若手女性会員)

建物は今でもそのほとんどを人の手で作っています。東京タワーも、スカイツリーも、街中に立ち並ぶ高層ビルも、全ての建物がその大半を人の手で作っています。街中にある建設現場は仮囲(かりがこい)がしてあり、中を覗く機会はほとんどないと思います。私もそうでした。この仮囲の中で、一体何が行われているのか。

私はその世界に足を踏み入れました。入社したいと思ったきっかけは、会社説明会で実際に建設現場を見せてもらったことでした。建物の1階1階を、様々な人たちが協力して組み立てる。コンクリートだって、最初から固いわけではなく、その場で枠を組んで流し込んで時間をおいて固める。未だにこんなにアナログな業界があるだろうか…。建設業における省人化が進まないのは業界の問題点として挙げられますが、私はこのアナログな業界にロマンを感じて会社に入社したいと強く思いました。

建物は、どれ1つとして同じものがありません。入社後、配属されたのは横須賀の現場でした。あの仮囲の中に私も実際に足を踏み入れたのです。中では、より良い建物を建てようと熱い思いを持った人たちが集まり、連日遅くまで仕事をしていましたが、不思議とみんな苦ではない表情で仕事をしています。目に見えないものを形にすることの難しさ、大変さ、そしてやりがい。コンクリートが打ちあがってきて、建物の高さが上がってくると、それまでの苦労も吹っ飛ぶ。いざ完成した建物を見ると、当時の大変さや苦労が蘇ってくるし、あの時、頑張ってよかったとも強く思えます。

最初は更地だったところに突如と目を引くものが出現し、時に人々の生活を変えることもできる。ないものを形にすることの面白さ。私は今後も自分が関わった建物に関して、人々が何事もなく使っている姿を見て、色んな思いを思い出します。

建物には、言葉にできないほどの思いが詰められています。あの仮囲の中では色んなドラマがある。時には、この壁はどんなふうに作られたのかな、どういう苦労があったのかな、と想像してみてください。そこには、日々いいものを作ろうと仕事に励む人々の想いが込められています。

そういった想いをもって働ける会社に入社できて、良かったと心から思っています。異動先の新天地では逆境にいますが、また仕事が楽しいと思えるように、私も熱い思いをもって仕事に励もうと思います。 

大内から毛利へ ①

大内義隆から陶晴賢へ

隆盛を誇った大内氏。その大内氏の勢力は陶晴賢(すえはるかた)を経由して、毛利のものとなる。

時は1500年代半ば、すなわち関ケ原の合戦から遡ること半世紀。防長を中心とした中国・九州北部で繰り広げられた戦国時代を象徴するもうひとつの下克上の縮図がそこにあった。

🔶これぞ戦国の世

歴代大内家の当主で最も隆盛を極めたとされる大内義隆。

この時大内は東、すなわち山陰の尼子氏と覇権争いをしており、両者のはざまにあった毛利元就は尼子から大内へ鞍替えしている。機を見るに敏な武将だ。

局地戦で尼子に勝った大内氏はさらに尼子氏を追い詰めるべく月山富田城攻めに出る。しかし月山富田城は難攻不落の要塞で名を馳せていた名城。戦いは長期化し、ついに大内氏が敗走する。ここで義隆の世継ぎである嫡男晴持が戦死したことが大内氏の運命を大きく変えた。

晴持の死を契機に義隆は軍事から遠ざかり、公家文化に浸り、文治派の相良武任(たけとう)を重用するようになった。

しかし時は戦国の世。「武功のない相良」を重用したことが武闘派の家臣から反発を招いた。その家臣の代表とは、若き頃義隆が「重用した」陶晴賢(すえ・はるかた)であった。

文化を振興するのも良い。教養を高め、深めるのも良い。しかし味方がいつ敵に変わるやもしれない戦国・下克上の時代だ。家臣でさえ、いつ君主に反旗を翻すかもしれない恐ろしい戦国の世。主君が鎧を脱ぎ、戦う姿勢を止めて防備を怠ることは、家臣にとってわが身を危うくすることに直結する。

当時大内義隆は七州の太守であったが、各領国の治世を守護代に任せていた。

大内氏の主な領国は周防、長門、豊前、筑前であり、守護代は周防守護代陶晴賢(すえはるかた)、長門守護代内藤興盛(おきもり)、豊前守護代杉重矩(しげのり)、そして筑前守護代杉興運(おきかず)。

これら守護代は地元の武士や農民と結びついていたのであり、山口に居る大内義隆は領民から遊離していたという。

1552年(天文20年)8月には陶晴賢を筆頭に、長門守護代の内藤、豊前守護代の杉の三者が結託して大内義隆に謀反を企てることに相成る。このため大内義隆は大寧寺で自刃に追い込まれた。

家臣の中で義隆を支持したのは筑前守護代杉興運(おきかず)だけという。

時を移さず義隆の末の子も追われ、討たれる。ここに大内氏が滅亡した。

大内義隆の辞世の句が残る。

討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電光応作如是観

如露亦・・・(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)とは禅語。討とうとする者も討たれる我も、共に露や雷の如く一生は短く儚いとの意。

その達観ぶりたるや、お見事。決して武人のものではない。

また文人のものでもない。

それをはるかに通り越した高僧の域に達しているのではないか。

愛息を亡くしたことで厭世の心情を深めた大内義隆。生まれた時代が戦国の世であったのが不運だった。西の京の心優しく、教養深き殿様であった。

(学23期kz)

ベトナムでの新生活

67期(平成31年卒) ペンネーム:Y

私は、今年の5月からベトナム(ハノイ)で働いています。

新卒で入社した会社を3年で退職し、ベトナムの企業に転職をしました。

学生時代は、国際経済を専攻しており、留学やベトナムでの長期インターンシップの経験を通して、海外(特に東南アジア)で働くことに強い憧れを持っていました。

就職活動は、海外勤務ができることに加え、社会をより良くしたいという想いから、企業経営、個人の人生の双方に影響を与えることができる人材サービス業を志望していました。

幸いにも第一志望の企業に入社することができ、素敵で尊敬のできる方々と充実した日々を過ごすことができました。しかしながら、配属された部署が希望していた営業職ではなく人事部だったことや、コロナにより海外赴任の機会が無くなったりと、順調なことばかりではありませんでした。そして、4年目になるタイミングで、様々なご縁があり、現職の会社に転職をしました。

現職も人材サービス業の会社でおり、希望であった営業職を担当しています。

夢が叶った一方で、余韻に浸る暇は全くなく、営業になったことにより常に数字に追われるようになり、ベトナム人がほとんどの職場環境で意思疎通が思うようにいかないこと、外資系ならではの成果主義の社風に戸惑い、不安を感じることも多くあります。

ただ、これまでの自分自身の選択を正解にするためにも、失敗を恐れず、挑戦と思考を繰り返し、今置かれている状況を楽しみます。

鳳陽会の皆様にも、日本、もしくはベトナムでお会いできることを楽しみにしています。その際は、今より数段、逞しく成長した姿をお見せできればと思います。