東郷平八郎 ②薩摩の風土

◆アームストロング砲の威力

薩摩藩士だった東郷平八郎。

薩英戦争のはなし。

発砲が始まったのは文久3(1863)年旧暦7月2日(新暦8月15日から17日)正午だった。

アームストロング砲の威力はすさまじく、城下は瞬き間に火の海に化した。

薩摩の先込めの砲弾が敵艦に命中したものの、負け戦だ。

薩摩武士は文明の利器の破壊力の凄まじさを肌身で感じ、「攘夷」がいかに空虚な合言葉であったか思い知らされた瞬間だ。

◆切替え

そこからの薩摩の「攘夷」からの切り替え素早かった。

長州と同様、「攘夷」を主張するトップを走っていた薩摩が国禁を犯してまで薩摩城下を火の海にした敵国の「英国」へ学びに向かったのだ。

切り替えのアクションは思い切ったものだった。

これは長州も同様だった。

しかし、特に薩摩は長州と異なり、特有の風土が剛毅さを生む。

湿気の多く猛暑の夏、台風の秋、霜の降りる冬、桜島の噴火、地味の痩せたシラスの土壌、雨が降れば流れる土壌。

こうした荒れた風土での合言葉は、「負けるな」、「恐れるな」、「団結せよ」だったという。

特に薩摩では「恐れるな」という言葉を好んだ。

「貧しさを恐れず」、「敵を恐れず」、「死をも恐れず」。

◆青少年育成の掟

兵児(へこ・青少年)を逞しく育てるために造られた修養掟がある。

これは肥後との境にある「出水(いずみ)市」の出水兵児修養掟。

県立泉高等学校の校門に掲げられているという。

現代の大人にも通ずる、よくできた教えだ。

その教えは、以下のとおり。

士とは節義を嗜み申すべく候

節義の嗜(たしな)みと申すものは

口に偽りを言わず

身に私を構えず

心直(すなお)にして作法乱れず

礼儀正しくして 上(かみ)に諂(へつら)わず

下(しも)を侮らず

人も患難を見捨てず

己が約諾を違えず

甲斐甲斐しく 頼母しく

かりそめにも下様の賤しき物語り・悪口など話の端にも出さず

たとえ恥を知りて首刎(は)ねらるるとも、己がなすまじきことをせず

死すべき場を一足も引かず

その心 鉄石の如く また温和慈愛にしてものの哀れを知り 人に情けあるを以て 節義の嗜みと申すもの也

東郷平八郎はこうした薩摩の地で育った。

(学23期kz)

薩英戦争の図
桜島

おめでとう、マキロイ! ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆出遅れたシェフラー

スコッティー・シェフラー(29歳、米)。

世界ランク1位だ。

マキロイ(36歳)は世界ランク2位。

両者と優勝争いをしたC.ヤング(米)は28歳。

3人の中では名前のとおり、ヤングが一番若い。

シェフラーのスコアは初日2アンダーとまずまず。

2日目は13番、15番と池に入れてしまい、トータル2オーバーと崩れ、2日目を終えてイーブンパー。

12アンダーンのマキロイとは12打差がついてしまった。

シェフラーはマキロイと比べてスウィングは綺麗とは言えない。

フィニッシュで右足を引く癖があり、打ち終えてよろける場面もある。

揺ぎ無く、フィニッシュでキチっと決めるマキロイとは比べようもない。

◆猛チャージ

しかし、3日目には追い上げる。

2番でイーグル、7・8・9番で連続バーディー。

特に9番パー4では第2打がカップを舐めてピン横に。

イーグル外しのバーディーとなった。

11番、16番でバーディーを重ねた。

18番ではティーショットが大木の根元に留まったが、2打目をフェアウェイに出し、3打目ピン右横10センチにつけパーセーブ。

結局3日目はノーボギーの65で回り、7アンダーとする。

硬くて高速のグリーンをよく制した。

◆最終日のシェフラー

最終日もノーボギーデ廻る。

15番パー5では、3打目を2本の樹の間から高い球で、ピンまで8.5メートルに寄せ、パットを決めて、10アンダー。

16番パー3では左に下る傾斜を織り込んだショットで手前3メートルにつけ、バーディー。

2オンした17番。

ラインが出ており、解説者もパットが入ったと思ったと。

しかしボールはカップの数ミリ左に留まり、カップを覗いている。

残念ながらパーで終わる。

結局最終日も36ホールをノーボギーのバーディー4つ、68で回り11アンダーとしたシェフラー。

これで、マキロイとは1打差になり、ホールアウト。

最終組回るマキロイのプレーを待つことになった。

3日目、4日目と両日ともノーボギーは初めての記録らしい。

恐るべし! シェフラー。

最終18番で、カップインしていればマキロイと並び、プレーオフになっていた。

そうなると優勝の行方は分からなくなる。

プレーオフになれば、シェフラーが3度目のグリーンジャケットを着た可能性がある。

マキロイからジャケットを着せてもらった。

しかし、女神はマキロイに軍配を上げた。

2年続けて。

(学23期kz)

スコッティー・シェフラー

おめでとう、マキロイ! ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆4月、マスターズの季節

陽気が良くなる4月、楽しみが増える。

今年もやってきた。

マスターズの季節がやってきた。

ジョージア州、「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」。

今年は世界ランク2位のマキロイの連覇がかかっている。

これまで、数々の優勝経験があるマキロイだが、マスターズだけは逃してきた。

しかし、昨年は念願が叶い、マスターズを初制覇し。グランドスラムを達成した。

昨年の18番ホールでは、パターを放り投げ、グリーンに座り込み、グリーンにひれ伏して、肩を揺らして泣き崩れていたマキロイ。

今年のマスターズでは自分で自分にグリーンジャケットを着せると決意していた。

マスターズの最終日、優勝が決まるのは月曜の出勤時間帯だ。

かつては、朝飯を食べながら、身支度をしながら、電車の時間を気にしながら、最後まで見届けることなく、止む無く家を出ていた。

今では、寝ころびながら最後の最後までプレーを見届け、優勝インタビューまで観ることができる。

この上なくありがたい。

◆日本からの出場者

日本からは歴代優勝者の権利もあり、13年連続・15回目の出場の松山英樹と昨年日本オープンを制した片山尚之の二人。

片山は初日から大きく崩れ、決勝ラウンド進出のカットラインに遠く届かず。

12オーバーだったか、13オーバーだったか。

やはり、日本オープンに勝っても、オーガスタは格段に難しい個―であることが分かる。

松山は決勝ラウンドに進出したが、伸びるかと思いきやミスが伴い、伸び悩む。

最終日こそ細かい出入りはあったが、バーディーを7つ取った。

しかし、時すでに遅し。

17、18と落とし、最終日は69で回り、5アンダーの12位タイで終わった。

◆マキロイのプレー

マキロイのスウィングは、見ていてとても気持ちがよく、ほれぼれするスウィングをしている。

打った後も体がブレない。

実に美しい。

花粉症で詰まった鼻も、通じがよくなるほど清々しく、惚れ惚れするような美しいスウィングだ。フィニッシュも決まっている。

手本としたい。

◆石川遼

綺麗なスウィングといえば、石川遼も捨てがたい。

なかなかのものだ。

あんなスウィングができればさぞやゴルフが楽しかろうで。

さもありなん。

石川は2010年の中日クラウンズ(パー70)で優勝。

当時18歳。

最終日、首位と6打差でスタートした石川は前半、7アンダーの28。

後半もバーディー5つを取り、トータル58。

あがってみると、2位に5打差をつけての堂々たる逆転圧勝劇を演じた。

【その時の石川遼のスコア―カードを文末に添付。アテストは同伴競技者のP.マークセン(タイ)】

この時のスコア58は最小ストロークとして当時のギネス記録になった。

あの頃、将来を背負う有望な若者プレーヤーとして名が挙がっていた「3人のR」

Ryo・イシカワ、Rolly・マキロイ、もう一人がRickie・ファウラー(米)。

このうち、生き残ったのはマキロイだけなのか・・・

若かったマキロイも現在36は歳。円熟味が増す年齢に差し掛かっている。

(石川遼は34歳)

◆2026マスターズ 最終日

最終日、パトロン(ギャラリー)もマキロイに連覇がかかっていることを知っている。

1番ホールを打ち終えた直後から、ギャラリーから声が湧く。

「Let’s go Rolly!」

「Come on Rolly!」

しかし、スウィンが綺麗で、非の打ちどころが無いように見えても、ボールは曲るのがゴルフ。

マキロイの最終日もそうだった。

バンカーに入れ、樹に当たっては弾かれ、グリーン奥の観客席に入ったボールもあった。

しかし、マキロイは落ち着ていた。

パトロンは騒ぐが落ち着ていた。

初日、2日目とスコアが伸び、2日目が終わった時点で12アンダー。

しかし、3日目からスコアがピタリと止まり、伸びなくなった。

最終日もスコアが伸びない。

しかし12アンダーと依然首位をキープしていた。

そのうち、名だたる名手がスコアを詰めてくる。

3~4打差あったスコアが一打差までなった。

マキロイも一時13アンダーへとひとつスコアを伸ばしたが、その直後12アンダーへ、また11へと後退し、一時は一緒に回り、マキロイを追うC.ヤング(米、28歳)にトップを譲った。

◆女神の微笑み

それでもマキロイは落ち着いていた。

11番から13番ホールまでの難所「アーメンコーナー」ではパー、バーディー、パーと1アンダーで切り抜けた。

見事だったのは12番の下りのパットを沈めてのバーディー。

13番のパー3では、風の影響もあってか、ティーショットをグリーンのかなり奥に外した時のこと。

そこから何とパターを取り出した。

草がある。

また、グリーンエッジにはコブになったマウンドがある。

そこを越えたとしても、大きくスライスする下りの傾斜があり、グリーンはとんでもなく速い。

打った瞬間、みんなが固唾をのんでボールの行方を見守る。

草に食われはしないか。

マウンドを越えなかったら、ボールは戻ってくるぞ。

マウンドを越えても大きくスライスする下りのラインだ。

かなりの高速グリーンだ。

カップをかなりオーバーすることも覚悟しないと!

しかし、マキロイは落ち着いていた。

入った! と思った観客も多かった。

ボールがするするするとカップに寄っていく。

座って見守っていたギャラリーも立ち上がり、拳を突き上げる者、両手を上げる者、拍手する者をテレビが映し出していた。

ただマキロイは独ひとり静止画像のように表情を変えることなく、最後の最後までボールの行方を最後まで見ていた。

マキロイの内心はいざ知らず、落ち着き払っていたように見受けられた。

16番のパー3でも同様、グリーン奥からパターで攻め、よく寄せ切って、パーをセーブした。

後続組もマキロイを追うが、なかなかマキロイを捉え切れない。

細かいとこでスコアを落とす。

後半の何番ホールだっただろうか。

マキロイのパットがカップを舐めて入った。

片や、追うヤングはさほど難しくないパーパットを仕損じた。

入ったと思いきや、カップに蹴られたのだ。

女神はマキロイに微笑んだ。

◆終わってみればマキロイが最終ホールをボギーとしたものの、12アンダーで連覇を達成した。

2位はどうなったか。

驚くなかれ、シェフラーだ。

世界ランク1位のスコッティー・シェフラー(米)。

去年、マキロイがマスターズを制した時に、グリーンジャケットを着せたのがシェフラーだった。

つづく

(学23期kz)

中段が石川寮のスコア・58  アテストはタイのP.マークセン

君には自分の机の鍵を預けれる部下はいるか?

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆自分がまだ30代の頃、ある会社で係長に成りたての頃だったと記憶する。

子会社にいた営業部長から酒の席で声を掛けられた。

その方は、その後本社に戻り、常務取締役営業本部長となられた人。

記憶に残る、それなりに重い言葉であった。

◆社歴、年齢を重ねる中で、その言葉の持っていた重さに気付くこととなる。

その趣旨は、全幅の信頼を置ける部下を持たないと次の大きなステージで自由に活躍する

ことは難しい。そして、自分の全てをさらけ出すことも肝要である。

人にはオールマイティーな方はいるかもしれない。しかし、大概多くの人は得手・不得手を

持ち合わせているものだ。得手はさらに高め、深め、不得手は時には人の力を得て、借りて

でも乗り越えないといけないと言う場面があるという教えに通じるようだ。

そして、部下に素直に弱みも見せることの出来る、そんな人格も持った人間でないと・・・

◆「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」と漢語にある。

お互いに心の底を打ち明け、真心を隠さず親しく交わることを意味する。肝臓と胆嚢、体

の深部にある臓器、お互いの誠実さを見せ合う信頼の深い関係のことを言うようだ。

塩塚さんを中心とする交流の中で、この「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」の関係

を見た。

松永支部長、塩塚事務局長体制、それを引き継いだ塩塚支部長、葛見事務局長体制の

関係かも知れないとも思う。

◆「君には自分の机の鍵を預けれる部下はいるか?」 

「はい、います!」既に鍵は預けることは出来る部下がいたとしても、コンプライアンスも言われる昨今のご時世でいくと・・・

「そうは言いながら、正しく互いに牽制しあう緊張感も持ち合わせている関係でいます」と申し添えておかないといけないかもしれない。

20代半ば頃、経理の仕事を担当していた時の事だ。10年選手になっていた先輩から朱肉を使わず、何度も連続で押印できる先輩名の印鑑を預かったことがある。

先輩が言うには「自分は営業所の会計伝票の検票と言う仕事を持っている。あんたの勉強の

ために、自分のところに送られてくる営業所の会計伝票はあんたの仕事として見てみぃ。

そして、検印欄には僕の印鑑を押すんだよ。少しでも疑問に思ったり、分からないことがあった時は、自

分の席に来て、問い合わせが済んだ後、押印するんだよ」

◆今は昔の話だが、コンプライアンスが絶対必須の時代でなく、新人育成にも大らかな時代。

机の鍵は預からなかったが、何度も連続で押印できる先輩名の印鑑は預かった。

営業所の経理の仕事を覚えるには良い機会を得た。

博多と言う地で、よく遊び、よく遊び、少しづつ仕事を覚えさせてもらった。

(岡山B)

東郷平八郎 ①日本海海戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆日露戦争勃発

明治37(1904)年2月10日、日本軍はロシアに宣戦布告し、日露戦争が勃発した。

ロシアでは戦いを有利にするためバルト海にいたバルチック艦隊をアジアに回し、バルチック艦隊は同年10月15日、リバウ港(現ラトビア西部)を出港した。

日本海海戦は1905年5月27日から28日にかけての日露海戦の話だ。

◆東郷平八郎は旗艦三笠に乗船

日本としては司令長官のロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊がウラジオストック港に入る前に叩く必要があった。艦隊がウラジオストック港に入ってしまえば、そこを根城に日本海や黄海に現れ、満州で戦うための武器、弾薬、食糧の海上補給路が脅かされることになるからだ。

ロシアと日本 予算の規模(ロシア20億円)も常備兵力(200万人)も日本は10分の1。

ロシアは文明国、片や日本は半文明国。

日-露の戦闘がどうなったのか。

蓋を開けてみれば、ロシアと戦うたびに日本軍が勝利した。

陸でも、海でも勝った。

陸では、後退するロシアを満州の北まで追い上げた。

しかしロシアは兵力補充の余力があったのに対し、日本軍にはなかった。

ここでロシアは一気に劣勢を挽回しようとして38隻のバルチック艦隊を極東に回した。

結果はご承知のとおり。

日本はバルチック艦隊を破り、ロシアがひるんだところで米国に仲裁を頼んで講話を結びたいと思っており、そのためにはバルチック艦隊を撃破することが絶対の条件だった。

逆にロシアに負けると、東京にロシアの総督官邸が建つことになるのだ。

◆東郷の推理

1905(明治38)年5月の下旬。 

バルチック艦隊が南方海域からウラジオストックに入港するにはどのような経路を通り、どこでバルチック艦隊を叩くのか。

日本海の対馬海峡を通るのか、あるいは太平洋から津島海峡を通るのか、それとも宗谷海峡を通るのか。

しかし、東郷は対馬海峡を通ると読んだ。

なぜか・・・

・5月は津軽海峡や宗谷海峡付近には霧が出る。

霧が出れば互いの船の衝突が起きる。

・北欧からの長旅でロシアの艦には貝が付着しており、船足が鈍っている。

スピードの速い日本艦隊に見つかれば撃沈されることになる。

・太平洋回りでは長期戦になり、そうなれば燃料切れの懸念がある。

ゆえに日本海を通ると。

◆「三笠」の艦上には連合艦隊東郷司令長官、伊地知艦長、加藤参謀長(明治38(1905)年1月12日以降、前任は島村速雄大佐)、秋山参謀、安保砲術長。

東郷の読みは的中した。

5月27日から28日にかけてロシア艦隊は対馬海峡を通ったのだ。

日本連合艦隊が勝利を収め、バルチック艦隊のうちウラジオストック港へ入ったのは3隻のみだったという。

ロジェストヴェンスキー司令長官は捕虜となり、佐世保の海軍病院へ運ばれた。

この時、東郷は病院を訪れ敵国の司令長官を見舞う。

ロジェストヴェンスキーは、敵ながら東郷の礼節を尽くした態度に感銘を受け、生涯にわたり東郷を尊敬し続けたという話が残っている。

◆対露戦勝

ロシアでは「マカーキ」(猿)と呼ばれていた日本人。

アジアの小国日本が、列強大国のロシアに勝利したとの報が世界を駆け巡る。

このことは日本国内のみならず、アジアや西欧諸国にまで大きなインパクトを与えた。

ロシアの威圧的な動きに手を焼いていたフィンランドやトルコをはじめとするロシアの近隣諸国にとって、東郷は英雄となった。

それらの国では息子に「TOGO」という名付け、街の通りに、またタバコやビールのラベルにTOGO

の名前が貼られた。

(学23期kz)

日本海海戦
日本海海戦の直前 旗艦「三笠」艦橋の東郷平八郎 (東城鉦太郎画伯)
ロジェストヴェンスキー・露バルチック艦隊司令長官

ヤクルトスワローズ山野太一投手が今季早くも3勝

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月トピックス】

山口県吉敷郡小郡町(現、山口市)出身で高川学園-東北福祉大を経て、2020年ドラフト2位でヤクルト入団の山野投手(27歳)が4月11日(土)のナイターで巨人相手に7回を投げて、山瀬選手にプロ初本塁打、坂本選手に今季初本塁打を撃たれたものの2点に押さえ、3-2で勝利投手となった。
昨季は14試合に登板し、自己最多の5勝。
私は中日ドラゴンズファンですが、山野投手が先発する中日戦は山野投手を応援しています。
今季はローテーションに入っているので何勝するか楽しみです。

この日は米イランの協議がパキスタンで始まるというのに、待てど暮らせどなかなか始まらないので、苛々していました。

追記)
写真2枚目はヤクルトスワローズが日本一に輝いた時の池山隆寛選手(今季からヤクルト監督)、五十嵐亮太投手とのスリーショットです。
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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塩塚保 東京支部長が逝く・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆塩塚支部長が3月21日に山口で急逝、その報を「鳳陽会東京支部」のホームページで知った。個人的には3月19日にお互いの近況を取り合っていた。

そもそも塩塚さん(敬称略)は大学23期卒、筆者との間では10年位の年齢差のある大先輩。通常で言えば知る由もない。また、知り合える関係性もない。

唯一知るとしても都会で大活躍されている大人であるということだ。

知り合うきっかけは、鳳陽会岡山支部の運営についてご助言を戴いたことが契機だ。

様々な社会活動に大きく制約、制限をかけたのはコロナ禍。2019年末中国での感染騒動が発生し、日本では2020年4月7日(第1回緊急事態宣言)・・・2023年5月8日(5類感染症へ移行、WHOが緊急事態終了)をもって、一応の終結。

◆鳳陽会各支部においても、「3つの密」!の壁

2020年(令和2年)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大初期、首相官邸・厚生労働省が掲げた標語。「3つの密」:密閉・密集・密接を指し、集団感染防止の為、これらを避けるように呼びかけられた。

岡山支部もその流れの中で2020年、21年は総会開催を諦めないといけなかった。

開催のタイミングはいつか?模索をしていたと言う状況であった。再開に向けて、鳳陽会本部に相談したところ、鳳陽会東京支部と大阪支部をご紹介頂いた。

当時鳳陽会東京支部事務局長であった塩塚さんから早々に東京支部での再開の取組みについての方向性を開示戴いた。そして、東京支部総会開催後、翌々日には留意事項についての9の項目に整理され、教授頂いた。

(その席で奇しくも塩塚さんは鳳陽会東京支部の支部長に推挙され、ご就任された。)

2022年11月に開催されている山大岡山支部連合同窓会の開催に当たって、コロナ対策の大きな指針となった。(連合同窓会は3年に一度の間隔で開催)

幹事事務局となっていた霜仁会(医学部)からも高い評価を頂いた。医学部の知見と塩塚さんから整理頂いた留意事項が功を奏し成功裏に挙行することが出来た。

困難の中での成功が昨年開催の第9回の連合同窓会の盛会にも繋がり、将に学部を超えた(工学部、医学部、農学部、経済学部)交流が出来るようになっている。

◆広島の総会での初見。(2024年)

支部長会議が終了して、会議室から出てこられたら、真っ先に歩んでこられ、「君が岡 のBくんかい? 遠くから見ても一見して分かったんだよ」と満面の笑みと大きな掌で包んで下さった。

鳳陽会総会開催支部として当たられた東京での総会(2025年)。

既にメールで、ラインで「旧知の仲」とまでお言葉かけを頂いていた。こちらからご挨拶に出向くと「よく来てくれた!しっかり楽しみましょう!」とあの少し甲高い、元気な声でお声掛け頂いた。

ほぼお開きに近い段階で塩塚さんと二人で杯を重ねた。

短い間、そして今にして思えば大変貴重な瞬間であった。

猪口であったが二杯三杯と、互いの杯を返杯しながら・・・

◆“塩塚編集委員”

広島での初見依頼、個人的にメールやラインで互いの近況を連絡取り合うようになった。

そのやりとりの中の一部、”塩塚編集委員”により再編集戴いたものを鳳陽会東京支部のホームページ「トピックス」に掲載してみないか?というお誘いを受けた。

鳳陽会東京支部のホームページは本来、東京支部会員さんのものでは?

「いや、そんな事はない!鳳陽会会員のみんなに開かれたもので良いんだ。」と。

一地方の鳳陽会会員と東京支部長との文字を通しての交流が深まった。

アクセス数も100台から始まったものが300台、500台、記録を更新するごと連絡を戴いた。そして、瞬間風速5000件を超えた時には嬉々として連絡を戴いた。

七十二候を大切にされていた塩塚さん。時にはご自宅の食卓にご準備された祝宴の席に招かれたようなアングルでの写真も添付されていた。そして、酒豪であった塩塚さんに相応しい蛇の目猪口が写り込んでいる。

塩塚さんは先に書いた大きな大人(たいじん)であった。

「人の上に立って、周りにいい影響を与える人を意味し、徳の高い立派な人、度量のある成徳の人を指す。」と書にはある。

”塩塚保支部長追悼「その日」”の記にもある、将にその人であった。

そして、周りを巻き込んで、大きな渦、波を引き起こす。風がやんだ後もその功は残り、周期の長くゆったりとした波をももたらす、鳳陽会にとって「うねりの人」であった。

(塩塚事務局長の前任者髙木先輩(19期)、後継者現事務局長葛見先輩(23期)といった方々とも知己を得る機会を頂いた)

緑丘会、瓊林会、富丘会に、日本寮歌祭に・・・各々にとっても「うねりの人」

個人的にも、鳳陽会岡山支部の活動の支援においても、大きな存在を失うこととなった。

(岡山B)

山口七夕会 秋草史幸会長の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月トピックス】


・4年近く大変お世話になった秋草会長(元三菱UFJモルガン・スタンレー証券社長)が3月2日に直腸癌で亡くなられていたことを暫くして報道各紙が報じていて知りました。(享年76歳)

・2022年に入会して7月の最初の総会では秋草会長を始め、メンバーから身に余る大歓迎を受け吃驚しました。
秋草会長は在学中に経済史を受講した秋草実教授のご子息でお父様からは「良」を頂きました。
その話をすると、父は非常に厳しい人でしたが、極く稀に優しくなる時期があり、Yさんはその時期で良かったですねと。

・その後、2024年3月に山口七夕会で「金融にまつわるこぼれ話」と題する講演会に出席した時は証券会社の社長を経験された秋草会長に新興市場のグロース市場の売買で日頃感じている批判的な質問をしましたが、さらりと交わされてしまいました。
投資するならプライム市場の銘柄ですよと。
(秋草会長には2019年7月に吉岡理事長、松永支部長時代に同様なテーマで講演されて視聴しました。)

・その日の午後からの春の花見ウォーキングでは谷中七福神巡りと題して7ヶ所を散策し、談笑しました。
その後も総会には欠かさず出席しましたが、病気のことは伏せておられたようです。

・翌年12月のレノファ山口の小山会長を迎えての講演会で秋草会長にツーショットをお願いした時に嬉しそうな笑顔で応じて頂いたのが忘れられません。
大先輩と思っていましたが、私より1歳年上でした。
ご冥福を心よりお祈りしております。
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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緊急役員会を開催しました

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月トピックス】

昨日(4/5・日曜)、14時から塩塚支部長急逝に伴う緊急役員会を開催しました。

◆今回の会議は6月6日の支部総会までの間、当面の運営方針を取り決める性格のもので、事務局からホームページの発信強化、歴史散策、寮歌祭など、従来の取り組みを継続・拡充することを説明し、了承されました。

 人事体制については、規約に基づき支部総会までの間、事務局長が支部長職を代行すること、その後、支部総会で決定される支部長・事務局長の選出の段取りと人選について確認しました。

 また今回、ウェブを通じて参加して頂いた役員の皆様一人ひとりからご意見やご要望をお聞きする貴重な機会を得ることができました。

◆①(参考)

 今回の会議では、先般(3/22日)行われた本部理事会の模様も事務局から併せて報告しました。

討議テーマとなった

①収支赤字への対応としての支出節減策

②亀山にある本部の平川移転構想

③採決を容易にする代議員制度の導入

などについて説明するとともに、

④支部支援金制度(ここ数年廃止されていた、本部へ支払われた会費の3割支部還流)の復活

も紹介しました。

 また出席された松永顧問(本部・理事長)から、資産運用の在り方の問題、本部移転問題、代議員制度導入の時期などについて掘り下げた説明を頂くとともに、山口大学オールの同窓会実現へ向けた構想とその障害克服に関する留意点についてアドバイスも頂きました。

(事務局記)

ノーベル賞考 ⑤勉強や研究環境

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆受験のヒートアップが始まって、勉強の仕方、学問に対する意識が変わったようだ。

しかも低学年から「お受験」が始まって久しい。

少子化だからお受験での競争倍率が低下したかというと、そんなことはない。

こうした事情は、洋の東西を問わないようだ。

◆心が震えるような授業

私も子息の関係で、勉強ができる子息の友人の技を間近で見たことがあるが、受験スキルには凄いものがある。大人も顔負けだ。

限られた時間で精度の高い回答を要求される受験戦争。

ここでは、短時間で素早く「正解」にたどり着くスキルを磨くことが最優先される。

ノーベル賞受賞者がインタビューで語るような「小・中学で心が震えるような感動的な授業を受けた」、あるいはまた世の中の事象に「疑問を持ち、その疑問をとことん追求し、疑問が氷解するまで何日かかっても粘り強く解明した」と答えている。

しかし、こうした勉強は受験戦争では推奨されず、こうした「優雅でゆとりのある」学習をやってきた者は極めて限られているのではないか。

◆受験のピーク

受験のピークが大学入試だ。

第一志望校ではないが、頭を切り替えて大学に入学した後は、筋肉が一気に緩み、別の意味で世の中が大きく開けたように感じ、受験で棚上げにしていた遊びに花が咲く。

私がそうだった。

ゼミの担当教授から授業中に「大学はレジャーランドじゃないぞ!」と叱られたものの、その癖は直らなかった。

大学に入ることは学問をする通過点であるはずだが、大学に入ることが目的となり、大学入学に入った途端、目的達成の褒美を貪ることになる。

受験とはそんなものだという意識が、学生の間に充満していた。

◆大学に入るのが目的・・・これはおのずと高校の授業を変えてしまう。

また、名門高校に入るため、中学の授業も変えていく。

要領が良い学生ほど、受験にとっては非効率で差し障りのある「感動、情緒、深い疑問」を避けることになる。

今年の日本人ノーベル賞受賞者も、受験戦争を潜り抜けてきた方であろうが、彼らは30~40代から、十分な研究費を使いながら、友人(先輩・後輩)、周囲の人間関係にも恵まれた中で、じっくりと考え、実験を重ね、また実験結果の解析にも昼夜を問わず汗をかくことのできた環境で、節目・節目で栄誉ある賞を受賞しながら研究をつづけた研究者だ。

そう考えると、かなり恵まれた御仁だったといえる。

◆この先、こうした環境に身を置くことができたとしても、そうした日本人研究者は減っているという。

ノーベル賞受賞者の卵となる大学院生の伸びが、諸外国を下回っていると報じられている。

手っ取り早く稼ぐことができないからか。

そうならば、この先、日本人のノーベル賞受賞者の発表を待つ楽しみが減ることになるが、寂しいことだ。

◆日本でも、大学は金欠病で悠長に研究する環境にはない。

しからば、米国に渡るか。

大統領が変わって以降、今では米国の大学では研究をやりにくくなっているようだ。

ならば、こうした先端的な研究を強力に推し進めている中国に渡るか。

それも厳しい選択肢かもしれない。

ノーベル賞を目指す我が国の研究者にとっては悩ましい時代がやってきた。

(学23期kz)

福島の学習塾(福島経済新聞)