東郷平八郎 ⑤抜擢

◆無名の東郷

海軍大臣・山本権兵衛は、同期の日高壮之丞(海兵2期・大将)を差し置いて、年上の東郷平八郎を第3代連合艦隊司令長官に任命した。

明治36(1903)年のことで、大抜擢といえる。

着任以前の東郷の任務は「舞鶴鎮守府長官」であり、新任務の連合艦隊司令長官を迎える者たちにとって、東郷の名は知られていなかった。

明治天皇から、なぜ東郷平八郎かと問われた海軍大臣・山本権兵衛は「東郷は運のいい男ですから」と陛下に奏したという逸話は有名だ。

◆司令長官の任に着く東郷を迎え入れる艦隊勤務中堅兵士たちの受け止めは、「ヨボヨボ下を向い歩く小さな男。戦争が起きるというのに、(海軍閥の)薩摩人だから任命されたのだろうが、こういう長官が来ちゃあ、こりゃあ叶わん」というような受け止めで、白けたものだったという。

東郷が着任するにあたり、車の停車場まで迎えに行った者は幹部の一部だけだったという。

しかし、しばらくするうちに「東郷という人は偉い人だ」という噂が艦隊勤務兵の一部に広がった。

ひと月半もすると、誰も彼も東郷に頭を下げる。水兵までも甲板を歩く東郷さんに頭を下げるようになったという。

寡黙な人ながら、実戦経験は豊富で、実績があるということが分かってきたのだろう。

◆連合艦隊司令長官の直前は舞鶴鎮守府司令長官、その前の任務は佐世保鎮守府司令長官だ。

海軍鎮守府とは各地域の海軍基地での、船の建造・補修、海軍病院など海軍施設の運営・監督だ。

日本海の鎮守府はロシア・ウラジオストク港に対峙する形で設置されたもので閑職ではなかったとされるが、勇ましい役回りというわけではない。

むしろ地味な役回りにあたる。

このため当初は東郷平八郎の名前を知る人は少なかったのだろう。

しかし、やはり東郷はついている。

こうした日本海の舞鶴、佐世保といった海軍基地で勤務し、地形を知り、流れを知り風を知ったことが、

後に日本海海戦を戦う上で、かけがえのない経験となった。

つづく

(学23期kz)

佐世保鎮守府

上田鳳陽先生の風貌(AI画像)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆かつてこのホームページで「上田鳳陽先生の風貌」(2023年2月)というトピックスが紹介された。

「上田鳳陽先生の風貌」(2023年2月9日、鳳陽会東京支部ホームページにアップ)

https://houyoukai-tokyo.exp.jp/3546/

「上田鳳陽先生」(2022年3月16日、同上)

https://houyoukai-tokyo.exp.jp/2277/

◆このトピックスに反応して、AIで作成した上田鳳陽先生の画像(文末)が事務局に届いたので紹介します。

上田鳳陽先生はかくありなんと思わせる画像!

作成者は経済学部観光政策学科の武本Timothy教授(エジンバラ大卒)。

山大経済学部には2003年から勤務されており、県内を自転車で巡りながら山口の魅力をYou Tubeで発信しておられるほか、空手にも興味をお持ちのようです。

これまで、上田鳳陽先生の画像は生成画像を含めて存在しなかったが、この画像が一つのシンボル画像となるかもしれない。

(事務局記)

武本Timothy教授から届いた上田鳳陽先生のAI作成画像

ピックルボールの報道が

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

・日経新聞の4月23日(木)のハッシュドタグと4月26日(日)の文化時評に「ピックルボール街中に」と「ピックルボールでつながる」と題し、各々報道されていた。
私は高校一年の昼休みに食事を早々と切り上げ、校内のコートで興じた戦後広島発祥のエスキーテニスのことかと釘付けになった。
その後、55年の時を経て高校の東京支部同窓会でS先輩と再会し、エスキーテニスを一緒にしたあの時のSさんではないかと話しかけたらSさんで、中学、大学(Sさんは工学部)も一緒で縁を感じ驚いた。

・私は大学に入学してエスキーテニス部があれば入部したいと念じていたがなくて、軽い気持ちでバドミントン部に入部した。
(広島大学には今もエスキーテニス部としてあるようです。)
平川の体育館やザビエル聖堂を見上げる教育学部の体育館で厳しい練習にサークルの感覚の軽い気持ちで入部した私は不器用な自分はとても上達は無理だと他の新入部員と確か1ヶ月程度で退部した。
後に「流離の岸」という1956年の映画で、あの教育学部の体育館の内部が出て来た時は鳥肌が立ちました。

・それから時を経て東京支部総会でバドミントン部だった入学同期のY氏と再会し、今では総会の都度挨拶をする。
数年前にはY氏からお名前とお顔だけはしっかりと覚えていたM先輩を紹介された。
Y前理事長もバドミントン部の部長経験者というのは練習のランニングで遥か後方を追走した思い出があり存じ上げていました。
事務局長経験者のT先輩からは長州歴史ウォークの昼休みに食事でご一緒した際にY部長の前任者がスマートでそんなに大きくない人だったと伝えるとその方は教育学部の先輩だったと。
こうして、後期高齢者になり、何とも不思議な繋がりに縁を感じ、Chat GPT
を利用し思い出に耽る年齢になりました。

・話をピックルボールに戻して、ピックルボールはコートにおいて、プラスチック製で中空のポールに多数の穴があいたものを木製の固いラケットで打ち合う競技で、卓球・テニス・バトミントンを元に1960年代に米国で始まったラケットスポーツで、日本でも競技人口は急増中で2026年3月時点の推計では約33万人と前年比7倍超と急伸中とか。
紙面では人気の秘密が紹介されています。
今後のピックルボールの動向を見守りたいです。
追記)
写真は日経新聞より
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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東郷平八郎 ④寡黙な薩摩士官の英国留学

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆寡黙の人

東郷平八郎は「寡黙の提督」と呼ばれる。

東郷の生まれは薩摩。

薩摩では「寡黙」が貴ばれる。

青年時代に大久保利通のところに行き「鉄道を勉強したいから外遊させてくれ」と頼んだ。

いつもの大久保の癖で、その時も大久保は即答しなかった。

後日、東郷のもとに自分の噂話が入ってきた。

大久保が東郷を指して「あれは少し喋り過ぎる」と。

寡黙な東郷だったが、これでますます東郷の寡黙に拍車がかかった。

こうしたことでは外遊を果たせないと察した東郷は西郷のもとに行き、外遊させてくれと頼みこんだ。

これが奏功、望み通り外遊を果たす。

ただし、その時、西郷から「鉄道ではなく、海軍を勉強しろ」という注文が付いた。

外遊に望みを叶えてくれた西郷からの注文だ。

東郷は海軍について勉強し、ひたすら海軍の道を歩むことになる。

◆海軍の留学生

明治4年、海軍兵学寮生徒11名、見習士官の東郷ら5名に英米留学の命が下る。

渡航先は英国が12名、米国4名。

東郷は2年の準備期間を経て、明治6年に英国の商船士官の養成学校であるウースター商船学校に入り、運用航海術を学んでいる。

ウースター(Worcester)ソース発祥の地でもある。

英国西部ウースターの主婦が調味料とともに食料を保存したところ、ソースができていたのが始まりだという。

明治時代に海軍大将になった14名のうち、後続の有栖川宮威仁親王を除く13名が薩摩出身だった。

「陸軍は長州、海軍は薩摩」というはずだ。

東郷も薩摩藩の軍艦「春日」では三等砲術士官であり、明治に入った海軍では見習士官の経験があった。

ウースター商船学校の入学試験での東郷の評価はいかに・・・

「Very good for a foreigner」(外国人としては非常に優秀)と。

また、当時の校長は後年、新聞社の取材に「東郷は優秀な人物であった。俊敏ではなかったが、きわめて勤勉であった。学び取ることは遅かったが、一度学び取れば確実であった。」としている。

◆留学先で

留学先では比較的饒舌だったようだが、名前がTOGOだ。

このためクラスメイトからは”TO GO CHINA ”といじられる。

日本が世界にデビューする以前、日本をアジア人は「CHINA」と呼ばれており、日本国の官費留学生たる自負を持っていた東郷に「母国に帰れ!」と。

冗談半分だろうが・・・

しかし、東郷はこれに敏感に反応し、再び寡黙の東郷になったという。

◆外洋航行

明治8年2月には世界一周の航海に出る。英国学校の航海訓練だ。

英国から帆船「ハンプシャー号」に乗ってメルボルンへ。そこで2か月滞在の後、南太平等を横断し、南米チリの南端ホーン岬を回って北上し、テムズ河口に無事帰着している。

こうした世界周航のあと帰国準備をしていると、さらに2年間の英国滞在の辞令が下りた。

今回は明治海軍初の外国発注艦3隻の造船監督官の役割だ。

その任務を終え、明治11年3月に英国を出て、2か月後、横浜に帰ってきた。

こうした外洋での航行訓練も東郷の海軍生活での血肉となった。

◆学んだ国際法

また、留学中に国際法を学んだ。これも、海軍軍人幹部として生きていくうえで、血となり、肉となった。

後の日清戦争時、東郷が護衛巡洋艦「浪速」の艦長当時、英国の商船で清国が借り受け、武器と清国兵を輸送していた「高陞号(こうしょうごう)」に停船命令を出したにも関わらず、これを無視したため同号を撃沈した(高陞号撃沈事件)ことがあった。

船の撃沈も国際法上は問題なしとの知識、胆力があっての勇断だった。

このように、外地・英国で国際法を学び、国際法に習熟していたことも東郷が連合艦隊司令長官に抜擢される要因になったのではないか。

やはり、世界随一に先進国で、七つの海を支配した英国での留学経験がものをいうことになった。

単に「運がいい東郷」ではなかった。

(学23期kz)

若き日の東郷平八郎

東郷平八郎 ③育った環境

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆薩摩では地域、地域の青少年育成制度である郷中(ごじゅう)というものがある。

そこでは大人が指導するのではなく、兄貴分の先輩たちが後輩の面倒をみる。

・稚児組(6歳から)

・長稚児(おせちご。11歳から14、5歳)

・二才組(にせぐみ。元服から24、5歳まで。トップが二才頭)

・長老(おせ。二才組の先輩たち)

東郷が加治屋郷中(ごじゅう)に稚児入りして四書五経と習字の手ほどきを受けたのが、西郷隆盛の弟、吉二郎だったという。

吉二郎は東郷に士の嗜(たしな)みも教えた。

東郷は朝6時に起床すると、先ず西郷の家に行き学習した。

その後、帰宅・朝食

8時 稚児頭の指揮で、相撲、走り競べ、馬追いなどの身体鍛錬

11時 長稚児のもとで朝学んだことの学習

12時 帰宅・昼食

16時から18時まで  二才の指導を受け示現流の鍛錬

◆示現流の剣

「薩摩人は示現流とチェスト関ヶ原」のみ。

このため「薩摩人は単純だ」と評される時がある。

しかし単純に徹することが深遠な道を究める正しい道だと信じているのが薩摩人かもしれない。

示現流・・・薩摩独特のものだ。

必殺の殺人剣。

その神髄は「一の太刀」がすべて。

一切の技巧を挟まない。技巧を嫌う。

その代わり、滅多なことでは剣を抜かない。

ひとたび剣を抜いたら三千地獄の底まで打ち下ろすのが流儀だという。

一の太刀を仕損じたら自分の躰を相手にぶつけて死ねと教えられる。

◆示現流の稽古は立木打ちだという。

「朝(あした)に8千、夕(ゆうべ)に3千」

「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野利秋は家の周りの立木を5年ですべて打ち枯らしたという。

幹が太い大木を。

東郷平八郎も示現流のかなりの使い手であったが、大山巌や西郷従道が上手だったという。

◆しかし、薩摩は「鎖国」の日本にあって、幕府の隠密も入れない「二重鎖国」の国ながら、海に対しては開き、密貿易で蓄財するしたたかさも持ち合わせていた。

薩英戦争(文久3年8月15日~17日)は、薩摩にとっては関ヶ原以来の国難だった。

(馬関戦争は薩英戦争の前、文久3(1863)年5月10日、元治元(1864)年8月5日~7日に勃発)

当時東郷は17歳(12月生まれのため満でいえば15歳)。

また、日本海軍育ての親といわれる山本権兵衛は12歳の時であった。

平八郎は、父と二人の兄とともに火縄銃をもって出陣した。

母の益子は戦いの途中「薩摩汁」を届けたという。

つづく

(学23期kz)

示現流兵法所資料館(鹿児島市)

鈴木孝政さんの思い出 (2)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】



2026年2月投稿の前号からの続き

・落合中日が誕生したとき、鈴木孝政さんは当初3年契約でしたが、シーズン終了時には退任となりました。
辞任なのか解任なのかは明らかにされていませんが…。
落合監督は特に内部のミーティング情報や先発投手情報が事前に漏れることに極めてナーバスで、それ迄は投手チーフコーチが新聞社等のマスコミから取材を受け、所謂ぶら下がり記事ですが、それなりに対応していたようですが、勝つことが最優先でノーコメントを強いるような人だったようです。

・すなわち、勝つことがファンに対する最大のサービスと考える監督だったようです。
それゆえ、在任期間中の戦績は8シーズンで優勝4回、2位3回、3位1回と抜群の成績で、しかも2007年には2位から日本一を成し遂げ、素晴らしかったのは事実ですが、マスコミの評判は芳しくなく、地元のナゴヤドームにお客さんも入らず、球団経営も大変だったようです。

・又、政権発足の前年に横浜ベイスターズで最下位だった投手コーチで解任された森繁和氏を腹心の投手コーチとして招聘したのですが、球団が推したOBの鈴木孝政氏が投手チーフコーチをしていたのではやりにくかったのではと推測しています。
そして落合監督は非情とも思える鈴木外しに着手したものと私は思います。
それから数年、次第にコーチ陣を始め、トレーニングコーチ等のスタッフのOB外しを進めました。

・ただ、私はその後、週刊文春に連載された日刊スポーツの担当記者だったノンフィクション作家の鈴木忠平氏の「嫌われた監督落合博満は中日をどう変えたのか」を毎週楽しみに読みましたが、これが実に面白い。
(文藝春秋から書籍も出版されています。)
野球ファンはもちろん、組織のリーダーシップやプロフェショナルのあり方に関心のある方にはお薦めです。
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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同窓生の飲食店がオープン(新橋)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆「かおりひめ」

JR新橋駅烏森口から徒歩1分の所にある香川・愛媛の共同アンテナショップ「瀬戸内旬菜館」。

2階にある飲食店「かおりひめ(香・媛)」が4月24日(金)リニューアルオープンした。

◆広銀OB

ここの経営者は学32期の同窓生・宮●氏。

宮●氏は広島銀行のOBだ。

一昨年の鳳陽会広島大会の会場で面識を得た方で、もともとは岩国出身。

広島銀行リタイヤー後、再就職先が、しまなみ海道開通のあと航路廃止・縮小を余儀なくされた旅船会社が共同で立ち上げたバス会社・瀬戸内しまなみリーディング(今治市)。

この会社はバス運営・関連会社経営の他、飲食業も展開している。

この会社の経営を軌道に乗せるまで、相当な苦労があったことだろう。

丸の内や大手町にある「四国味遍路88屋」も同氏が経営しており、私も同期会で何度か使ったことがある。

◆「かおりひめ」の店内、以前は右手のスポットが座敷になって使いづらかったが、椅子席に変わりカーテンで仕切ることで半個室になる。

このカーテンもスライドできるため、20名以内の団体なら、カーテンを動かして半個室状態で使うことができので便利だ。

また、銀座を向いた角のコーナーは長い暖簾がかかり、個室として使える使用になっている。

◆瀬戸内ものが売りのメニュー

鮮魚、揚げ物、焼き物・・・

宇和島の鯛めし、香川のうどんも本場の味を楽しめる。

また、今治のソウルフード「せんざんき」(鳥のから揚げ)、や「焼き豚玉子丼」もメニューにある。

このほか、「かおりひめ」の向かい側には世界的なブランドに育った「今治タオル」が買えるコーナーもあり、今治テーストが強く出ているのが特徴のようだ。

◆昨日はオープンに合わせて宮●社長が上京、各テーブルを挨拶して回っておられた。

この日は同郷で文理学部卒業後、ナショナルフラッグキャリアへ入社された奥様も上京。

挨拶周りの途中、しばし休憩の間、我々の席に。

「休憩の時間帯」に我々鳳陽会の席に来て頂いたのがありがたい。

こころを解き放つことができるスポットだからか。

奥様ともども、山大でのこと、山口のことを肴に乾杯・懇談。

◆余談・・・その日の新橋

「かおりひめ」からの帰りがけ。

この日は新入社員たちが初月給をもらった「いい日」に当たる。

昭和に流行った「花金」だ。

ゴールデンウィークを控えた新橋。

夜の8時、9時。

どの店も満席だ。

2次会、3次会で入店待ちをしているリクルート姿の新サラリーマンたちの群れがそこかしこに・・・

新入社員として会社勤めを経験したそれぞれのひと月があった。

愚痴を言いたいこと、分かち合いたい不安、語り合いたいことが山ほどあるのだろう。

飲みながら、夜更けまで。

(学23期kz)

2026/4/23 愛媛新聞

最近の若者は・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆最近の若者

「最近の若者は・・・なっとらんな!」

最近こうした発言はあまり聞かなくなった。

それもそのはず、各方面で若者の活躍が見られる。

・スポーツ界

今、イタリア・コルティナでオリンピックが開催されたが、日本の若者はよくメダルを取っている。これまで最高の24個だ。

しかも金メダルも5つ取った。

・文化・芸能界

囲碁、将棋界

羽生よりもスゴい棋士、藤井壮太が現れた。

20歳10か月で7冠を達成している。

ハタチの時だ。

羽生7冠時が25歳4か月。

それより、4~5歳若い。

そう思ったら、その藤井壮太からタイトルを奪った同世代の若手棋士も出てきた。

◆評価が高かった初等教育

日本の育には定評がある。

OECDが世界の15歳を対象に読解力・数学リテラシー・科学リテラシーを3年ごとに測定しているPISA

学力調査では、日本は2022年PISAで、読解力3位、数学2位、科学居2位とトップレベルの成績を残している。

今般、すでに教育にAIが浸透しており、この先さらにAI依存が高まりそうな勢いである。

そうした時代の教育者像、特に初等・中等教育の現場について、ほとんど議論されていないのが気がかりだ。

特に、AI時代に若者に寄り添い、若者を引っ張り上げていく教育的指導者はどれほどいるのか。

大丈夫なのか。

◆教育的指導者

インドを始め世界をリードしようとする国では、AI時代の本格到来に向けて幼少時からリーダーを育てる国家戦略を立てている国がある。

インドがそうだ。

シンガポールもそうだ。

インドでは3歳児から早期教育を始め出し、インド全土に広がりを見せているという。

では、こうした幼い子供をAIに馴染ませ、引知識の蓄積や基礎力の向上は日本の強みで、また協調性にも富んでいるが、個性や創造性を発揮する機会が少ないとされる。

個性や独創性を発揮し若者を評価し、引っ張り上げていく教育的指導者はいるのだろうか。

インドやシンガポールでは教師という職業を重視しているという。

日本では、AI時代に教師が子供を引っ張り上げていくことができるのか。

優秀な教師は十分に供給されているのか。

それとも、「AI素人教師」なのか。

日本の教師に質はともかく、労働時間は長い。

しかし、この労働時間は教育に充てられるわけではないという。

部活、PTA対応、行事の準備、教育委員会への対応で、授業に充てられるのは労働時間の3割程度といわれている。

この先、教師、教育的指導者の育成を早急に何とかしないと、ただでさえ低下している国際競争力で、各国に置いていかれる懸念が高い。

初等・中等教育もそうだが、もちろん高等教育もそうであることは論を待たない。

(学23期kz)

入社時新子安独身寮の同期会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

・入社して8月に配属が決まるまでの4ヶ月間は新子安の独身寮に入っての導入教育でした。
工場見学、工場実習(川口工場)、販売店実習(自宅のある故郷広島のT社ストアーで1ヶ月半)、コンピュータ教育等でした。
私は故郷広島の中国支社勤務となり、声が掛かっての同期会への参加は40代後半からでした。
私が入社した1974年はオイルショック後でしたが、影響はまだ出ていなくて売り手市場で恵まれていました。
大量採用で多くの同期が入寮していましたが、限られたインフォーマルな仲間でした。

・最近は栃木県大田原市在住で熊本出身のH氏がお母様を亡くされ、これ迄は帰省に合わせて東京・大田区武蔵新田駅近くでの開催でしたが、ここ数年はやらなくなっています。
髪の黒さと多さだけは唯一私が勝っていましたが、その後は私も白い物が増え、偶にはメンバーの進行度合いをチェックしたいです。

・あの日から8年とは…。

今日は東急多摩川線武蔵新田駅近くの居酒屋「いかり屋」で17:00~年2回の同期会をやっています。
今回は6名が集結しています。(欠席2名)
私以外は理工系の出身です。
現役として残っている人が2人います。

追記)
わいわい、がやがや3時間、今回は昔話は殆どなく、これからの人生の諸問題についてがテーマとなりました。
今回、新たにプロボクシング等の格闘技、皇室、後見人、格安SIM、デスノートの話に及びました。

(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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随筆 横目で眺めた経済学 25・攻める季節の到来

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆経路依存性

日本の競争力低下の要因として「経路依存性」が挙げられることもある。

以前はうまく機能した制度。

しかし、うまく機能すればするほど、時代の変化、環境の変化で一部を修正・改善しようとしても全体に影響が及ぶため、結果として改革ができない状態のことを指す。

しかし、日本の競争力の低下が起きた最大の要因はそこではないのではないか。

◆受け身の国際基準

品質基準の順守に後手になった日本。

かつて、日本の競争力が高かった時代、欧米企業が日本への競争力を高めるために導入したISO9000。

バブル崩壊以降は、何と日本が後追いするのが一般的になっていた。

攻めの時代の日本の産業競争力を規格化した国際標準化機構のISOシリーズの後追いでは、力が入らないし、面白くない。インセンティブが湧かない。

しかし、これは単なる現象面の結果だ。

問題の核心はそこでもない。

◆尾を引くバブル崩壊のトラウマ

バブル崩壊直前の1989年には、企業の時価総額で世界のトップ10位に日本の企業がNTTを筆頭に7社もあった時代があったのはご承知のとおり。

トップ50社では33社が入っていた。

30年後にはどうなったのか?

2018年時点での世界のトップ50社で、日本企業は35位のトヨタ1社のみとなった。

そして2025年11月末には、トヨタも消えた。

何があったのか。

◆守り

この間は日本経済がデフレの状態にあり、昨年末には為替も円安に振れた。

こうしたテクニカルな要因があったことは間違いないが、やはり本質はバブル崩壊の影響が強く残ったからではないか。

バブル崩壊それ自体ではなく、バブル崩壊によって経営が守りに入り、チャレンジしない姿勢が続いてきたことこそが問題なのではなかったか。

守りの姿勢とは何か。

負債を嫌い、投資を嫌い、攻めを軽視し、チャレンジしない臆病な経営姿勢だ。

キャッシュ重視、内部留保重視。

攻めたは良いが、それで転べばもちろん社内で、業界で、株主の間でペナルティーを食らうことになる。

攻めの姿勢を失うということは、従来の体制からも脱皮できないし、イノベーションにもやらない、DXもやらず、AI対応にも慎重になる。

もちろん、人事面でもチャレンジ精神旺盛な者にチャンスを与えず、守りに強い人材を重用したのだ。

バブル崩壊期を乗り越えて出世した経営者や会社幹部は攻めの人材が薄く爆発的な業績が生じることない。

生産性が上がらなかった大きな要因はここに在るのではないか。

◆個々人では優秀な日本人。

慎重な日本人。

日本人がビジネスで一度過ちを犯すと、攻めに溢れる姿勢がない限り、守りに落ちる。

日本人は、もともと攻めるDNAが希薄で、失敗を嫌う人種だということが生物学的に明らかになっているようだ。

これは直観的にもうなずける。

個々人が優秀でも、経営者・社内幹部や社内風土が保守化すれば、個々人の優秀さを開花させることなく、日本全体のパフォーマンスが落ちることになる。

◆潮目の変化

世はデフレからインフレの時代へ。金利のある世界へと変わった。

株価や地価も上昇。後追いではあれ、賃金もようやく上昇し始めた。

AI関係もマクロ経済だけでなく、ミクロの経営で大いに活用できそうで、攻めの経営に転換するにはいい環境が整ってきた感がある。

外資も含めたM&Aが盛んになり、経営者には外国人も増えてきたようで、日本人経営者のビヘイビアーの殻を打ち破ってくれることを期待したい。

銀行も金利高で体力が向上し、融資姿勢も積極化している。

この機会に、横並びの守りの経営から脱皮するチャンスが訪れたようだ。

長い潜伏期間を経て、ようやくその時が来た気配がある。

(学23期kz)