随筆 横目で眺めた経済学 22 シンクタンク Z

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年3月 トピックス】

◆経済対策に関係する業務に携わっていると、色々な疑問や問題が湧いてくる。

巷間言われていることであっても、本当にそうか、なぜそうなのか。

違うとすれば、どこがどう違うのか。

こうしたことを究明しなければ、経済対策を打つ際、適切な対応ができないのは当然だ。

また、それよりも予算を査定する側としては、理屈と数字で予算要求してくる官庁に応対する必要がある。

◆まず、当方で問題となっている情況や事実を突き止め、分析しておかないと当方も納得できるしっかりした議論がでず、決着がつかない。

予算要求する各省庁では最新の情報を持ち、理論武装してくる。

それなら予算査定する側も、独自の調査研究機関を有し、自らの理屈に加え、最新情報とデータを持っていなければ、議論する相手方に立ち向かうことができない。

こうしたことから、査定官庁もシンクタンクを作ろうじゃないかということになった。

◆経済研究所Z

官庁の経済研究所Z。

現実のマクロ経済問題を分析・解明し、政策提言につなげる研究機関であり、経済・財政・税制・金融など、各分野から学者・研究者を集め、調査・研究がスタートした。

こうした研究機関のトップには財政・金融相当力量のある大御所が要る。

初代所長に舘隆一郎先生(東京大名誉教授)を迎えた。

舘先生の就任時、ある格言を披露された。

「歩みの遅い者が、一番遠くまで行く」

いつになっても舘先生のことが話題になれば、この格言を思い出す。

(学)23期kz

追記

後々、誰の格言か調べてみると、欧州でよく使われている格言のようだ。フランスで、イタリアで、ロシアで・・・

館龍一郎先生

清正公、そして乃木将軍 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

◆清正公を崇敬する乃木将軍

前稿(その①、2/23日掲載)で述べたように、西南の役を契機に乃木は熊本城を築城した加藤清正を生涯崇拝することとなり、清正公の慰霊顕彰の祭典を乃木自身が祭主となって執り行うこともしている。

1回目は明治11年、西南の役に従軍した将校を連れての祭典を挙行した。

熊本・加藤神社でのことだ。

この時奏上した祭文には清正公の偉業として「戦術眼、築城技術、治民、経済、水利」の功労を讃えている。

また、2回目は明治43年、東京で。

学習院院長当時、当時築地の旧海軍士官の厚生施設・水交社で開催された清正公300年祭(300回忌)の発起人となった。

以下、清正公と乃木将軍の行い、身の処し方についてみてみよう。

◆忠義

加藤清正は秀吉に仕え、秀吉亡き後は天下を治める力量のある武将を家康と見定めて家康に仕えたが、江戸に向かう折は必ず秀吉の旧恩を忘れることなく、秀頼のもとを訪ねている。

秀吉への忠誠だ。

この点、石田三成とは違う。

乃木希典も明治天皇に忠誠を尽くしていた。

◆施し

名もない薄幸の子への施し

清正公が参勤交代で美濃・大井に差し掛かったところ、盲目の女乞食に出会う。

身の上話を聞いた清正公、生活に不便が無いよう相当な資金を渡している。

乃木将軍にもそうしたエピソードがある。

歴史ウォークで廻った港区赤坂の旧乃木邸には、少年に施しを与える乃木少将(当時)の銅像が立っている。

金沢で出会った少年だ。

辻占売りで一家を支える8歳の少年。

彼から身の上話を聞き、少年に施しを与えた。

後にその少年・今越清三郎君は長じて金箔師として大成し、人間国宝にまでなった。

◆部下思い

加藤清正の「虎退治」も、部下が虎の犠牲になったことから虎を退治し、被害を食い止めたというのが真相だったという。

また、朝鮮では石工の高い技術に感服し、石工を手厚く接している。

清正の日本への帰国に際しては、日本への移住を勧めると、200名以上の石工が応じ、中には清正の死に際し、殉死した石工も出たという。

乃木将軍の部下思いの話も残っている。

日清戦争当時、防寒コートの本国からの送達が遅れていたことがあった。

将校用のコートが届いたため部下が乃木将軍にコートを持参すると、兵士用のコートが未だ届いていないことを知った乃木将軍はコートに腕を通さなかったという。

◆創意工夫

加藤清正は築城、治水、武具の改良を行っていることはよく知られている。創意工夫による改良だ。

また乃木将軍の乃木式義足は有名だ。

武具だけではない。一時、那須に居たときには農具の改良も手掛けている。

◆清正公と乃木将軍

乃木神社の髙山亨宮司は加藤清正と乃木大将の類似点について触れておられる(注)。

高山宮司は、両者は相似ていると説かれる。

乃木大将は青少年の頃、乃木神社横の正松神社に祀られている玉木文之進、吉田松陰の影響を受けた。

しかし、長じて乃木希典が軍人生活に入った後、ひたすら尊敬し、軍人としての気概、作法を学んだのは加藤清正公であったようだ。

身の処し方が似るのは乃木将軍が清正公を手本としたことによる結果であり、両者の身の処し方、行動が似通うのは必然なのだろう。

(学23期kz)

乃木大将と辻占売り少年像

(注)

「乃木将軍が經験した出會ひ」 明示聖徳記念学会紀要(復刻第44号)平成19年11月

「清正と乃木将軍」(『加藤清正のすべて』安藤英男編 1993年人物往来社 に収録)

加藤清正公の虎退治

大相撲初場所を終えて

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】


◆本場所を終えると大抵は感想を交えて東京支部トピックスに投稿させて頂いていましたが、ここ数場所は途絶えていました。
ある方から楽しみにしているとお話を頂き、遅ればせながら雑感を纏めてみました。
大阪場所は3月8日(日)~で、新番付けが発表され、もうすぐです。

◆横綱大の里の久しぶりの日本人横綱誕生で盛り上がっていますが、私は大の里ファンの方には良いですが、大の里が年6場所の内、5場所を制覇する時代になると相撲人気は下火となると予想していました。
ひょっとすると白鵬の優勝回数45回を更新するのではないかと。
大の里の一強時代到来を危惧していました。

◆今場所の大の里は先場所後半に痛めていた左肩が心配されましたが、強行出場し、10勝5敗の成績に終わりました。
怪我は至極残念。
今場所は何といっても、新大関の安青錦の連続優勝でした。
ウクライナ出身で初土俵から所要14場所での大関は驚異的です。
まだ21歳で身長182㎝、体重140㎏と巨漢力士が多い中では平均以下の体重、です。
レスリングをしていた関係で前傾姿勢で前に落ちないで攻めます。
土俵態度も謙虚で真剣で実に好感が持てます。
横綱豊昇龍に5戦5勝には驚くばかりです。
来場所は早くも横綱にリーチがかかります。
ただ、大の里にはまだ1度も勝っていません。
Abema TVでの元若乃花の花田虎上さんの解説では下がった時にすり足がまだ出来ていないようなので、私は克服する為、慌てて横綱になる必要はないと思います。
じっくりで良いのです。
怖いのは怪我だけです。
横綱豊昇龍も膝を痛めての出場でしたが、最後まで優勝争いに絡みました。
下半身の粘りは超人的です。
横綱初優勝を期待です。
大関琴櫻は横綱一番乗りかと思いましたが、不本意な場所が続いており、来場所以降の巻き返しを期待です。

◆上位では2日連続金星の義の富士(草野から改名)、伯乃富士(伯桜鵬から改名)の技能派相撲ぶり、熱海富士は今場所、安青錦との優勝決定戦の末、最後は捨て身の首投げに敗れたものの一皮剥けたようで、楽しみです。
幕内西7枚目の小兵力士の藤ノ川が三賞は取れなかったものの攻める正攻法の相撲で異色の存在です。

◆私がイチオシで応援している阿炎は5連勝スタートで、千秋楽、霧島との対戦で勝った方が敢闘賞でしたが、力を出せず敗れました。
今場所は負けても格好が良い相撲ではなく、勝つ相撲に徹したとのことですが、私も賛成です。
負ければ悔しさを全面に出して、土俵の俵を蹴って引き揚げるようでないと。
紳士的に負けを認めて淡々とでは困ります。
来場所も何でもやって暴れ回ってほしい。
霧島は大関復帰も近そう。
平戸海は9勝6敗の好成績。
真っ向勝負で全力を出し切る相撲が良い。
学生時代の入学同期のM君が長崎県庁に入庁しましたが、最近まで平戸市の副市長をやっていて応援しています。
長州歴史ウォークでお会いするO大先輩はM君と同じ長崎猶興館高校のご出身で応援されています。

◆九州場所で前相撲を取り、今場所、序ノ口スタートのオチルサイハン(23歳)はいきなり第63代横綱の旭富士の力士名を継承し、全勝優勝。
力は既に部屋の幕内の力士との稽古で互角以上とか。
外国人枠の関係で部屋の研修生として4年半、待機していたとか。
(学22 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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清正公、そして乃木将軍 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

昨年秋の第6回長州歴史ウォークでは明治神宮、東郷神社を経て乃木神社を巡った。

◆明治神宮御苑内の清正井

明治神宮では東門から右手に憲昭皇太后の御休憩所だった隔雲閣を観、左手には南池(なんち)を観ながら菖蒲田を通り過ぎたところに清正井(きよまさのいど)がある。

ここは加藤家下屋敷の庭園があったところで、井戸は清正公自身が掘ったものとされる。

東京の名湧き水の一つとされ、夏冬通して15度の清らかな湧き水が湧き出ている。

結構な量の湧き水が出、穢れを落とすことから、パワースポットとしても有名になっている。

◆加藤清正公の「ボシタ祭り」

豪傑武将のイメージがある加藤清正公。

熊本には「ボシタ祭り」がある。

「ボシタ、ボシタ」の掛け声とともに飾り馬で通りを練り歩く。

秀吉の命で清正公が関わった文禄・慶長の役で敵を「滅ぼした」ことに由来する掛け声だ。

しかし加藤清正公は単なる豪傑武将ではない。

◆乃木将軍が身をもって知った清正公

他方、西南の役では陸軍少佐だった長州の乃木希典。

明治8年熊本鎮台歩兵大14連隊長心得として小倉に赴任。明治10年に西南の役に政府軍として参戦。

熊本へ向かう途中、2月下旬の夕刻、熊本北部の植木で薩摩軍と戦闘状態に入る。

乃木軍の兵力は200、薩軍は400。

ここで乃木軍の連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、薩軍の岩切平九郎に連隊旗を奪われる。

厳しい戦いだ。

乃木将軍は、この闘いで、清正公が築いた熊本城への攻略が極めて難しいことを悟り、清正公の偉大さを身に染みて味わったという。

また、4月18日に乃木軍は堅牢な熊本城に入城。

この熊本城を拠点に薩摩軍に勝利した。

西郷隆盛が言う熊本城。

「加藤清正と戦して、勝てんようなもんじゃ・・・」

乃木はここでも、熊本城を築城した清正公の偉大さを痛感した。

つづく

(学23期kz)

熊本城

カフカとゲーテ

◆ゲーテの陽、カフカの陰

金子みすゞを「絶望の側に立つ詩人」とする頭木弘樹氏の本に、「希望名人のゲーテ、絶望名人のカフカとの対話」なる本がある。

ここで、ゲーテとカフカの生い立ちや作品、友人との往復書簡などから、両者の性格を対比させており、明確にゲーテは「陽」、カフカは「陰」として、両社の対照を際立たせている。

例えば・・・ゲーテとカフカは・・・

前向き-後ろ向き

強さ-弱さ

自分を肯定-自分を否定

行動する-ひきこもる

生きる喜び-生きづらさ

仕事にやりがい-仕事は苦痛

恋を楽しむ-恋に苦しむ

結婚と子供-生涯独身

    ★

しかし、それでもカフカは自殺をしていない。

    ★

以下も両者の言葉だ。

絶望も必要-希望もある

ものごとの捉え方も多分に影響しているのかもしれない。

例えば、グラスの中に半分入っているワイン。

まだ半分も飲めるとみるゲーテ、あと半分しか飲めないと悲観するカフカ。

両者の没年齢を調べてみた。

ゲーテが82歳、カフカ41歳。

うなずける。

◆両者の絵

両者は共に絵が好きだったようだ。

絵を見ても陰と陽がよくわかる。

◆カフカ作品への自己投影

「不条理」が代名詞のカフカの作品。

その一方で、社会・経済の変化に伴い、生きづらさを感じる病理的な悩みを抱える者が増える中、カフカの作品に感情移入することで共感を得る者がおり、このためカフカが一定の人気を保っているようだ。

日本だけではなく、世界中で。

(学23期kz)

カフカのスケッチブック
ゲーテは素描を多く残している

鈴木孝政さんの思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】


春の甲子園選抜高校野球、プロ野球ペナントレース開幕と球春が待たれるこの頃です。

◆中日ドラゴンズコーチだった鈴木孝政さんは広島勤務時代に行きつけのスナックでマスターから紹介されたことがあります。(1995年)

◆落合中日が誕生した際(2004年)には投手チーフコーチでした。
偶々、遠征中のトレーニングコーチから声がかかり、サラリーマン時代の同僚で後輩だった女性のN嬢を田町の居酒屋に連れて行くと鈴木孝政さんがメンバーにおられました。
彼女は鈴木さんがどんな選手だったかは全く知らない状態でした。

◆少人数の飲み会は盛り上がり、鈴木さんは薦め上手で彼女はぐでんぐでんに酔ってしまいました。
会はお開きになりましたが、終電にはまだ間に合いそうで挑戦しようとしましたが、JR田町駅近くで足に来ていてへたり込んでいて立ち上がれませんでした。
ホテルで介抱という訳にはいかず、田町から藤沢の自宅までタクシーで送り、そのタクシーで日吉の私の住まい迄引き返したら、深夜料金ということもあり、タクシー料金は確か4万円台で自己負担でした。

◆それから、その後、知り合いのスコアラーの方のお声掛けがあり、遠征中の鈴木孝政さんと3人で赤坂の高級寿司店で飲む機会がありました。
その時はあのドラゴンズの大投手だった方が落合監督との関係で随分と悩んでおられました。
千葉成東高校から高卒のドラフト一位の新人であの王、長嶋と後楽園球場で対戦した時の感動を熱く語られました。
そして、スコアラーの方と私が慰め役に。
サラリーマンを辞めて3年、自遊人とはいえ、プータローの私が大投手だった方にご馳走することになろうとは…。
それから暫くして、5月の連休後だったか鈴木さんは投手チーフコーチから二軍投手コーチが発表され、実質的には故障者対応のコーチだったようです。
落合中日誕生前は球団からはヘッドコーチ就任を打診されていたようです。
そして、シーズン終了後には退任が発表され、落合政権から外れました。
私は落合監督がT社府中で社会人野球をされていたこともあり、縁のある人ともいえましたが、アンチ落合に変わりました。

鈴木孝政さんのデータ)
通算17年、124勝94敗96セーブ
タイトル
最優秀防御率1回
最多セーブ投手1回
最優秀救援投手2回

次回に続く
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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「ジュグラー波」と家電の寿命 ⑤家宝から「家放」へ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆電気製品家電さまが”宝”であった時代についても蛇足として検討しておこう。

それを一番象徴するのがテレビであろう。

先ず高価であったこと。そして、それぞれの家庭事情にもよると思うが、床の間、またはその近くにおかれ、宴席で言うと先ず床柱に近いところを背負い、上座に鎮座しているお宅も多かったはずだ。

その上、木彫の家具のような中に潜むブラウン管の画像(ほぼ仏壇のなかの仏像)、そうでなくてもビロードの淵付きの高級な布に覆われ、使用するときはその布を開けたからでないと視聴できない。そんな流儀が各家庭にあったのではないか?

一般的に多くの家電において、今のような乱暴な立ち位置にはなかった、そのことに頷いて戴けるだろう。

◆いきなりであるが、ものづくりには垂直統合型の生産と水平統合型の生産様式がある。

嘗てのモノづくりには垂直統合型の生産が主流であった。顕著な例が自動車業界であろうが今は違う。

ブランドマネージャーと言われる責任者がいて、ある車種について、商品計画から商品開発、販売促進、その車種に関する一切の責任を持つ人の存在。

重要部品についてはメーカー側が図面を用意し、部品メーカーの指示をし、メーカー側の意図に合うよう品質調整、納入までやらせていたのだ。極端な話、同じ機能を持つ部品でもその車種毎に専用部品の多くが存在し、多段階において、型管理、部品供給量、点数、その供給・提供に多大な工数を要していたのである。

一方水平統合型の生産様式をあまりに簡易化したとの批判は敢えて受けるとして、次のように掻(か)いつまむことが出来る。

良い性能で価格的にも競争力のあるものなら、メーカーの系列を問わない。一般的に汎用している部品で、良いものであれば、何でも構成部品として組み込むのだ。

「ダボはぜ」

従来の価値観でいくと節操もなく、貪欲で愚かなことと言う意味だったかもしれない。 どんな状況でもどんな餌でも食いついていく!

「ダボはぜ」

◆現在はこれがモジュールとして部品を構成し始めたものづくりでは肝要となってきているのではないか?

そして、部品が電子部品化していく中で、修理していくのも人間の技量は勿論あるが、ユニットとしての交換、モジュール化した部品単位での部品交換で修理対応となる。個々の部品の修理に手間暇をかけて直すことは是とされない。

この段に及んでは家電さまが「家宝」であった時代は過ぎ、ある年限を経った家電さまは「家“放”」となってしまったのかもしれない。

「民族文化の会」主催の2講座を受講

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

2月15日(日)の東京は晴れ渡り、ここのところ寒い日が続きましたが、珍しく暖かい一日でした。
こうした中、京浜東北線、山手線、地下鉄銀座線を乗り継いで赤坂見附駅に。
確か4年ぶりの赤坂でした。
思い出のいっぱい詰まった街です。



・日時:2月15日(日)14時~17時
・会場:黛ビル4Fホール(東京都港区赤坂3ー10ー3)
①演題 「台湾原住民創生神話の日本人」/講師:諏訪春雄
②演題「台湾有事の虚実-漢民族の歴史から見る中国と台湾/講師:簡憲幸(台湾系華僑二世)
・参加費:千円(資料代)

◆かなり中身の濃い講義に圧倒され、質疑応答も多数で、3時間半に及びぐったりでした。
参加者も問題意識を持たれたハイレベルな方が多く、これは整理してかなり勉強しないと生半可な知識ではと焦って帰途に就きました。
私は今回の衆議院選の動向にかなり時間を割きました。そのため特に簡憲幸先生の台湾有事、日本有事に関する講義は時宜を得たものでした。
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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金子みすゞの作品 ②おもちゃのない子、ほか

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

前稿で紹介した山口高校出身で、金子みすゞに共鳴する作家・頭木(かしらぎ)氏。

頭木氏本人は大学在学中に難病にかかり、10年以上の闘病生活を強いられたことから、弱者の視点で作品を作った著名な作家・文学者に寄り添った解説を得意とする。

◆絶望の側に立つ作家

頭木氏は絶望をうたうカフカを好んでおり、彼によると金子みすゞもカフカと同様、「絶望の側」に立った作家だとする。

頭木氏は、前稿で紹介した「積もった雪」に加え、金子みすゞの次の2つの作品も朗読によって紹介していた。

◆「玩具(おもちゃ)のない子」

玩具のない子が
さみしけりや、
玩具をやつたらなほるでせう。

母さんのない子が
かなしけりや、
母さんをあげたら嬉しいでせう。

母さんはやさしく
髪を撫で、
玩具は箱から
こぼれてて、

それで私の
さみしいは、
何を貰うたらなほるでせう。

「私がさびしいときに」

私がさびしいときに  よその人は知らないの
私がさびしいときに  お友だちは笑うの
私がさびしいときに  お母さんはやさしいの
私がさびしいときに  仏さまはさびしいの 

つづく

(学23期kz)

フランツ・カフカ

1970年代 青春の下宿⑥

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年2月 トピックス】

 1970年代、私は山口大学経済学部に入学した。蛮カラの気風が色濃く残る鳳陽寮・北寮で2年間、暮らした後、3年生になって山口県庁近くの下宿に引っ越した。

◇惣野旅館再訪

 私は学生事業家だった。

東京からフォーク歌手らを山口に呼び、コンサートを開催した。

彼らを泊めた定宿は一の坂川沿いの惣野旅館である。

 私は令和7年10月、山口を訪れた。

秋晴れだった。

空は青い。白い雲が流れる。

一の坂川沿いをひとり、歩く。

子どもたちが河原で遊んでいる。

のどかな情景だ。

確か、このあたりに惣野旅館があったはずだが・・・。

よくわからない。

ちょうど、男性が向こうから橋を渡ってきた。

 ―おたずねします。惣野旅館はどちらでしょうか。

「惣野旅館? ああ、すぐその先ですよ。もう、営業はしてないけど・・・」

男性は親切に案内してくれた。

◇ご当主健在なり

 あった。ここか。

惣野旅館だ。玄関は閉まっている。

 カメラを構えたところ、玄関ががらりと開いた。

 そうとうな年配と思われる男性が現れた。

 「なにか、用かね」

 ―こんにちは。学生時代、惣野旅館でよくコンパをやってまして。

  懐かしくて来たんです。

 「学生? 学生ゆうたら 高商かね」

  高商とは、山口大学経済学部の前身、山口高商のこと。

―はい、経済(学部)です。

  「それかね。経済、出とるんね。どことなく、教養がにじみでとる」

「昔は学生がコンパやって、にぎやかじゃった」

  「戦前は学生がマント着て、金色夜叉(の間寛一)みたいやった」

  「山口は学都といわれとった。教育の街やった」

 

ご当主の名前は惣野博さん。大正生まれ。

なんと101歳という。

私たちが学生のころ、50歳前後だったのか。

いまも頭脳明晰。記憶もしっかりしている。

惣野さんが通った旧制の商業学校の教師が高橋先生。

山口高商の卒業生だったそうだ。

縁を感じる。

◇学生コンパ

 惣野旅館は明治39(1906)年創業。

学生時代は気にも留めなかったが、老舗旅館だったのか。

半世紀前の学生コンパ。

元気のいい、明るい女将さんが薬缶(やかん)でお燗した熱々の日本酒を

大座敷に運んで来たものだ。

あの、にこにこした笑顔。

今でもはっきりと思い出す。

◇惣野旅館に泊まる

 実は私、10数年前、惣野旅館に泊まったことがある。

その頃はすでに女将さんはいなかった。

ご主人が旅館を切り盛りしていた。

大きな浴場で汗を流す。

江戸時代の旅籠(はたご)のような2階の角部屋。

きれいに敷かれた布団にもぐりこむ。

静かだ。

安らかな眠りについた。

朝食は大座敷でいただく。

料理はお手伝いの女性が作り、大座敷にお盆で運んできた。

惣野さんには息子さんがいる。彼は大手企業に就職したそうだ。

息子さんは「旅館の経営を継がない」というので、7年ほど前に休業した、と話す。

 

惣野さんは今から用事があって出かけるという。

なんと、自転車にまたがった。

高齢だが、自転車を乗りこなしているのだ。

 

別れ際、惣野さんはこう、いった。

「気い、わこう(若く)、もちんさい」

 

101歳に励まされた。

【続く】

(鳳陽会東京支部 S)