林芳正氏、内閣官房長官就任のお祝い

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】 

2023年12月14日、林芳正氏が第二次岸田内閣の内閣官房長官に就任した。

林氏へ長官就任のお祝いを述べるに際し、林氏と山口大学・山口大学経済学部と関わりについてご紹介したい。

林氏は、山口県立下関西高校、東京大学法学部卒の、山口県の有力政治家である。

山口大学が平成27年5月に創基200周年を迎えた折、林氏は創基200年記念式典会場の山口市に来賓として来られ、祝辞を述べられている。

また平成27年6月に開催した鳳陽会東京支部及び全国総会では、農林水産大臣として講演して頂いた。

当時の会場には下関西高校の同窓生もおられたようで懐かしく歓談されていたようだ。

山口県は、明治以降8名の総理大臣を輩出しており、林氏も将来の総理と期待されている。

ご本人も総理を目指しておられ、この先鳳陽会総会に総理大臣になられた林氏をお招きさせて頂きたいものだ。

林氏の更なるご活躍を祈念したい。

(40期 K・Y)

後輩の絵本作家

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

山口市の関係者が集まる秋の会合で、鳳陽会同窓生のO女史と面識を得た。

霞が関近くの大手企業に勤務しており、名刺には名刺には総務系セクションのチームリーダーとある。

会が終わり地下鉄駅に向かう時に再び話す機会があった折、彼女から講談師・神田京子のイベント参加の案内を受けた。

手渡されたのがイベント案内のチラシだ。

「神田京子大独演会」

2024年1月25日(木)、19時開演

会場 有楽町よみうりホール

とあった。

どうやらO女史は講談師・神田京子の熱烈な応援団のようだ。

神田京子氏・・・。

聞き覚えがない。

その場はチラシを受け取るだけで終わる。

神田京子。

公開されているプロフィールを調べてみると、岐阜県出身。日大芸術学部在学中に講談師の世界に入り、修業を重ね2014年に講談師・落語協会で真打に昇進。夫は詩人で一児の母。

2020年2月に山口へ移住しており、朗読も含めテレビ、ラジオへの出演も多く、山口ではレギュラー出演している番組がある。

現在は東京と山口の拠点を軸に全国で活躍されているようだ。

神田京子氏の興行イベントをみてみると、その中に光市民ホールで行われた「金子みすゞ 生誕120年記念・神田京子独演会」というのがあった。

金子みすゞは才能あふれながら薄幸のなか夭折した女流詩人で、小学生の本にも取り上げられている。

「私と小鳥と鈴と・・・みんなちがって、みんないい」

有名な一節だ。

神田京子氏の夫が詩人であったことから、詩人の世界にも興味を抱いたのかもしれない。

また谷川俊太郎の絵本の朗読も行っている。

ひょっとして・・・。

気になって調べてみると鳳陽会同窓生のO女史も児童向け絵本作家のようだ。

「おかねをかせぐ」、「おかねをつかう」など、子供向けのお金に関する教育の絵本(翻訳)を書いている。

また、小学生向けの児童書「お金にふりまわされずに生きようぜ」(岩崎書店)では、ウサミの名前で子供たちにお金との向き合い方を伝えている。この本のサブタイトルが「レストランたてなおし大作戦」。

思わず手に取ってみたくなるタイトルだ。

後輩・O女史の本はもちろんAmazonで紹介されている。

孫と一緒の時間を過ごす時に良いかもしれない。

(学23期kz)

ペリー来航、その時幕府は その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年 12月トピックス】  

ペリーが来航した時の老中首座は阿部正弘。

阿部正弘の肖像画は学校の教科書でも見たことがある。よく知られており、ふくよかな体型で穏やかな風貌だ。

阿部公が度重なる外国船の来航やアヘン戦争などで対外的な脅威が深刻化する時代に幕政を取り仕切ることになる。

もともと酒好きで毎晩二升酒をしていたというのには恐れ入る。

四合瓶二本ではなく、一升瓶二本だ。

国難が近づいた時にはさらに酒の量がふえたという。

外国勢力は開国を迫り、外国事情に明るい開明派は開国に理解を示す。しかし、日本の権威の大深部である朝廷は開国に難色を示しており、幕府の舵取りは困難を極める。

国内が開国派と攘夷派に分かれる中、どちらに軍配を上げても紛糾し、お互いの身が危険に晒されるような状況下で、うまく泳いだようにみえる阿部正弘。

相当なストレスもあったであろう。このため阿部は老中在任のまま39歳で急逝する。

しかしその間、色々なところに後々に花開く種を蒔いている。制度の創設然り、人材の登用然り。いわゆる安政の改革だ。

登用された人材は明治になって外政・内政でリーダーシップを発揮することになる。

◆早い出世

阿部公は譜代・備後福山藩の7代藩主である。

江戸城で生まれ、国元に帰ったのは藩主になった翌年、数えの19の時、一度限りで、国元での滞在は数か月限り。とんぼ返りで再び江戸へ帰っていった。

とにかく早い出世であった

(カッコ内は前任の水野忠邦と後任の堀田正睦の場合)

19歳(21歳、19歳) 奏者番として出世コースに乗る。

21歳(23歳、24歳) 寺社奉行

25歳(40歳、31歳) 老中

27歳(45歳、45歳) 老中首座

かなり若くして老中になった。

◆断つべきは断つ

阿部はその穏やかな風貌とふくよかな体型には似つかず、思い切った裁断もした。

寺社奉行の時には大奥・僧侶の関係乱れ極まれる折に、名のある僧侶を処分している。

外国問題が紛糾した際、問題の扱いに慣れた水野忠邦が老中首座に復帰した折、水野の子飼いながら水野を陥れた蛮社の獄の主、悪名高き鳥居耀蔵を処分している。

またその翌年、阿部は老中首座の水野を天保の改革での不正を理由に老中首座から追い落とし、阿部自ら老中首座に就いている。

年若い時に。

なかなかできることではない。

剛腕の持ち主でもあった。

つづく

(学23期kz)

令和5年度山口七夕会「秋の交流会」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

12月16日(土)の東京は雲が多いものの、一部ですが青空もありました。
こうした中、新宿区のJR飯田橋駅から徒歩3分のインテリジェントロビー・ロコで11:00~開催の講演会&交流会に参加しました。
講演会の講師は株式会社レノファ山口 代表取締役会長の小山文彦氏(50歳)で、演題は『レノファ山口FCの過去・現在・未来』でした。
悪天候による航空便の欠航により、最初の30分は事業部の上利直輝氏の説明でした。

小山文彦氏は徳山高校のご出身で山口大学人文学部を卒業後は東京での会社員生活を経て、2006年にシステム開発やITコンサルティングの会社を起業し、成長させ、上場会社の電算システムに売却。
その後は2016年に周南市に経営コンサルやスポーツ支援を行う365yを設立され(社長現任)、2022年1月にレノファ山口の社長に就任され、現在は取締役会長。

資料に基づき、1時間余りの講演の後、休憩を挟んで、交流会に移りました。
歓談の後、14:00~恒例のじゃんけん大会による景品提供があり、吉田美香さんにより「ホワイトクリスマス」、「サイレントナイト」の独唱、全員で「きよしこの夜」を合唱し、14:30秋草会長の中締めでお開きとなりました。

追記)
私は大相撲やプロ野球(高校野球を含む)には関心があり、かなり足を運んでいますが、サッカーは関心外で、ワールドサッカーの話題にも耳を閉ざす程でしたが、今回の小山会長の講演を縁に来季から少し、首都圏でのレノファ山口の応援に足を運んで、勉強してみたいと思います。

そういえば、1979年にアルゼンチンの「神の手」、マラドーナ選手(19歳)が初来日した時に、広島県営グランドに一人で試合を観に行ったことを最近思い出しました。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

「畑ゼミ」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

山口大学経済学部に畑ゼミがあった。

 30年以上の前になるが、経済学部経済学科に在籍していた私はゼミに加入するためサークルの先輩から情報収集に注力した。当時はバブル絶頂期の時代であり、勉強よりいかにうまく世の中を生きていくかが重要だと勘違いをしていた。経済学部には素晴らしい先生が多くおられたが、情報が全くない畑隆先生のゼミに加入する事に決めた。それもその筈、ゼミ一期生である。

畑先生は、静岡県のご出身で、県立静岡高校から東京大学 法学部 第3類(政治第三コース) 、東京大学大学院経済学研究科応用経済学専攻を経て、山口大学経済学部に来られた。先生の若々しさに魅力を感じ加入した。

ゼミではマルクス経済学の理論である資本論、系列の宇野学派の恐慌論、人的資源管理などその他多くを学んだ。私は畑ゼミの第一期生としてゼミ幹事をした、先生もゼミ運営は初めてであり、運営にはいろいろと相談させていた。

卒業後も、先生とはお付き合いをさせていただいており、私の結婚式にも出席していただき、数年前にも静岡でお会いさせていただいたがお元気であった。先生は山口には15年ほどおられ、実家のご事情もあり静岡の大学に移られた。

山口大学での畑ゼミの歴史が終わった。しかし、学生時代のご縁が今も続いている。そして、山口でのゼミの授業が思い出として残っている。

畑ゼミの後輩のみなさま、ご連絡をいただければ幸いです。

学40期 山口 guccikatsu@gmail.com

(ご参考)

畑先生

https://researchmap.jp/t-hata/

私とアルバイト歴

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

学生時代に体験したアルバイトを思い出し、整理してみようと思い列挙してみます。
備忘のためですので他意はありません。
もう人生も最終章に差し掛かっていますので。(笑)

自分は学業には全く向かないことを知り、社会勉強のつもりで随分とバイトをしたものです。
休学した為、留年を余儀なくされましたが、平均的な学生と比べて随分と収入を得たことを自負しております。
ただ、働き過ぎたり、働いて手にしたお金で遊び過ぎた為に、社会人になってから、随分と横着な人間になったことは残念です。
社会人になってから学生時代に学業に励んでおけば良かったと思うことが多かったです。

順不同)
1)中学校での模擬試験の試験官(徳山市の岐陽中学)…教壇に立つとよく教室の全体が見えることがわかりました。
私も学生の身だったので、カンニングは非常に難しいことがわかりました。(笑)
最近ではスマホの持ち込みによる不正が問題になっていますが。
人手が足りない時は同じ山口大学進学指導会の添削のバイトもしました。
先日の長州歴史ウォークで、進学指導会に所属された大先輩とお話する機会がありました。

2)市場調査の仕事…スーツ姿で山口県下のほぼ全域を回りました。
学生時代の一番メインの仕事でした。
世論調査や視聴率調査、車に関するアンケート等いろいろとやりました。
標準語で喋るので訓練となり広島弁を卒業することが出来ました。
世論調査等は日本リサーチセンター、視聴率調査はビデオリサーチでした。
当時、熊毛郡であった八代地区(現在は周南市)でナベヅルの渡来に遭遇した時は感動ものでした。

3)新聞配達…毎日新聞と朝日新聞&中国新聞の店舗で時期を違えてやりました。
配達している時にご苦労さんと声をかけられるのが一番嬉しかったです。
新聞配達当時、三島由紀夫の割腹自殺が翌日の朝刊で報道されたのが一番の思い出です。

4)ホテルでの調理場の仕事…湯田温泉の豪華ホテルでの皿洗いがメインでした。(かめ福)
調理師さんを見ていて、調理の世界に憧れたものです。
数年前に女将さんとFacebookで友達になりました。

5)豪華旅館での布団敷きの仕事…同じく湯田温泉で今でいえばベッドメイキングの仕事です。(水野旅館)
ここの旅館のお嬢様は時津風前理事長(元大関豊山)に嫁がれています。
(人が集まらなかった時の代打要員)

6)測量の仕事…下関郊外の長府というところに行きました。
単発の仕事でした。

7)家庭教師…リッチな家庭でしたが、やんちゃな双子の小学生相手にしました。
勉強を教えるというより、一緒にキャッチボールや戯れていただけです。
私は人を教育など全く出来ません。

8)酒屋でビール配達の仕事…重いビールケースを倉庫で車に載せていましたので、腰を痛める切っ掛けとなりました。

9)証券会社での黒板書き&値紙書き…
今はコンピュータ化されていますが、当時は短波放送を聴きながら、店頭用と営業用を分担(3人で)してチョークで書いていました。
営業用には値紙といって紙に値動きも書いていました。
株に興味を持つきっかけとなりました。
四条烏丸の準大手証券の京都支店で京都時代でした。

10)キャバレーでのウエイターの仕事…これも京都時代のことでした。
寺町京極の近くでした。
「木屋町入る」の記憶です。
ナンバーワンは美貌と若さではないことを知りました。
この人がというようなおばさんでした。
アシストする女性を如何に多く付けるかが決め手でした。
重いビール瓶をお盆に載せて何本も運んだものです。
復学して、友人に頼まれて、泉都町の「クラブ奈加」で1日だけ一緒にウエイターの仕事をしました。

11)印刷工場での徹夜作業…同じく京都時代のことです。
太秦のD印刷でした。
こんなに辛い仕事が世の中にあるとは知りませんでした。
立って寝ていました。(笑)
一日か二日で辞めました。

12)シュークリーム工場での製造員…同じく京都時代のことです。
京都・向日町競輪場近くの山の中腹だったと記憶しています。
シューにクリームを詰める仕事でした。
三条大宮から会社のマイクロバスで送迎して貰っていました。

13)日産追浜工場での季節工…夏休みの臨時工でした。(車体艤装課)
金沢文庫での蛸部屋から通いました。
製造工場での窓ガラスにゴムを付ける仕事でした。
10万円でパイオニアのセパレーツステレオを購入しました。

14)ボウリング場での受付の仕事…当時はボウリング熱が凄くて新設のボウル山口と系列の山口ボウリングセンターの2箇所でやりました。
ピンチヒッターとして数日でした。
(最近になってかめ福の経営だったのを知りました。)

15)上記ボウル山口のレストランでウエイターの仕事をしました。(1週間程度)

写真は日本橋の「おいでませ山口館」
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

サビエル聖堂と惣野旅館の女将さん 

岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

僕たちの青春の街、山口市は今、「クリスマス市」といわれています。やはり、旧ザビエル聖堂は趣(おもむき)があって良かったです。

 中央に登り階段。登り切ったところに建つ三角屋根の2棟の塔。鳴り響く鐘の音・・・。

 学生時代、地元の放送局でニュース取材のアシスタントとしてアルバイトをやっていました。天地茂がサビエル聖堂を訪れたとき、取材しました。

 別の機会には県知事室に取材で入ったこともあります。運動靴にGパン姿で赤いふわふわの絨毯を踏みました。

◇惣野旅館の絶景写真

 一の坂川沿いの惣野旅館の宴会場に掲げられていた亀山の麓にあった山大経済学部とサビエル聖堂を望む白黒写真は絶景でした。きっと、惣野旅館をコンパで使用していた経済学部関係者が寄贈したものかもしれません。

 1980年代の惣野旅館といえば、名物女将の房子さんです。

 「はぁ~ あんたらぁ、しっかりせんとおえんでぇ」といつもいわれていたような気がします。(笑)

 少し世代が上の方には惣野旅館のお嬢様だった?

◇卒業後も交流

 卒業後も何度か、惣野旅館を同期会で利用しています。遠方から幹事をしたときは電話やはがきで連絡をとりました。

 学生時代、僕は女将さんにはなんとなく、がさつな印象があったのですが、連絡や賀詞交換のはがきの文字は達筆でした。能筆といったほうがいいのかもしれません。

 そして、学生時代のままの料理とやかん酒(やかんで直の燗付け)を所望すると、「ほんとにそれでええんかね」と笑っていました。

 コンパで利用しなくても山口を再訪した際、菓子折りを持参すると大変喜んでくれました。

 最後に利用したときは、あの名物女将の房子さんが施設に入所していました。現在は廃業・・・。

 もう、あの元気いっぱいだった「惣野のおばちゃん」に会うことは叶いません。

 我々の先達として既にお浄土に「もうちょっと、頑張ってから、ゆっくりと来んかね」と笑顔いっぱいで待っておられるような気がするこの師走です。

(岡山支部 B)

山大の地域貢献

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

「日系グローカル」471号(令和5年11月6日発行)に載った大学の地域貢献度調査で、山口大学が前回の全国29位から10位に急上昇し、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。この項目は、地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置、地域貢献をテーマにした教育プログラム、地域貢献を目的とした専用施設、学生ボランティア活動の必修化や単位制度、地域貢献を巡る他大学との連携を問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大だった。

山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)

ペリー来航、その時ペリーは

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

今年はペリー来航170周年ということで、東京湾では記念クルーズも行われている。

170年前に戻ろう。

東インド艦隊司令官ペリーが黒船に乗ってやってきた。

蒸気船サスケハナ。

カタカナで書くと日本語であるかのような響きがある。

Susquehanna

ネイティブ・アメリカンの言葉で、米国北東部を流れる「広く深い川」の意だという。

それが転じてその川(hanna)の流域に住みついた部族をサスケ(susque)族と言うようになり、サスケハナはその地域一帯の地名となったようだ。

ペリーが浦賀沖に現れたのが59歳の時。

米国が太平洋岸まで達する領土を得ることとなったメキシコとの戦争。ペリーは来航直前、このメキシコ戦で活躍している。

メキシコとの戦いが勝利のうちに終わり、ペリーの艦隊勤務の残り日はわずかとなった。

ペリーは名門海軍一族の生まれであり、その誇らしい海軍軍人キャリアの最後を飾るポストとして花形の地中海艦隊司令官を希望していたという。

しかし、豈図らんや日本行きの任務が回ってきた。

異国に門を閉ざしてきた手強い日本。その門を叩き、こじ開けるのだ。

厳しい任務になるのだろうが、「日本を開国に導いた歴史の偉業」として刻まれることをペリーは意識し始めた。

日本研究のためにシーボルトの著作を読み、日本と交流のあったオランダの駐米高官から日本の情報を入手していたという。

また、蒸気船の早期導入を主張し「米国海軍蒸気船の父」と言われたペリーだ。メキシコ戦で発注した大型蒸気船ができた時には終戦を迎えており、この船の活躍の場を求めていた。このため日本に向かう艦は大型蒸気船と決めていた。

また、ペリーにはもうひとつ密かな野望があった。

彼は植物のコレクターでもあった。鎖国日本には植物の雑種が少なく、「自然選択」による進化により、島国日本で新品種の植物が発見できるかもしれないと考えていたようだ。

米国人ぺりーからすると、長く鎖国をし、交渉も一筋縄ではいかない、かたくなな日本を開国させたことは「偉業」であったかもしれないが、他の列強国からすると、やんちゃものに「してやられた」感覚だったのかもしれない。

第一次のペリー来航時の翌月、露プチャーチンが開国を求めてやってきた時、プチャーチンは幕府の指示に従い、紳士的に長崎で交渉を持った。

これに対しペリーは、来航が禁ぜられた浦賀に踏み込み、いきなり高官との面談を要求し、江戸湾内の測量まで行っている。

ずいぶん無茶をやったものだ。

こうしたことから、当時のペリーは西欧各国から評判がよろしくなかったという。

ペリーの二度目の来航時、日米和親条約が締結され、ペリーは日本の開港を手繰り寄せた。

その時、ペリーが用いた対日交渉の切り札が「友好よりも恐怖」だったという。

アジア研究、日本研究の結果辿り着いた着想だったのだろう。

大型の黒艦、世界最新技術を集めた巨艦の蒸気船を背景とした圧力外交。

ペリーの体躯もこれまた巨漢だ。身長1メートル95。日本側の記録にも「六尺四五寸」とある。

当時の米艦乗組員の中でもペリーがひと際大きく、米海軍の日本行きの人選で、日本に威圧感を与えるために、敢えて巨漢のペリーを選んだという話もある。

友好よりも恐怖による威圧外交の源流がここにあった。

ペリーは晩年、日本遠征記の執筆に力を注だ。日本に来た時には身体の相当な無理もあったのだろう。巨漢のペリー。晩年には身体もかなり悪くなっており、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたとされる。

ぺりーは日本を去った4年後の1858年に63歳で召された。

(学23期kz)

山口大学の地域貢献度、全国でトップテン入り

日本経済新聞社の経済誌「日経グローカル」471号(令和5年11月6日発行)は大学の地域貢献度調査結果を発表している。この中で山口大学は全国での順位が前回の29位から10位に急上昇、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。

この項目は、

地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置

地域貢献をテーマにした教育プログラム

地域貢献を目的とした専用施設

学生ボランティア活動の必修化や単位制度

地域貢献を巡る他大学との連携

などを問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大であり、山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)