令和5年度山口七夕会「秋の交流会」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

12月16日(土)の東京は雲が多いものの、一部ですが青空もありました。
こうした中、新宿区のJR飯田橋駅から徒歩3分のインテリジェントロビー・ロコで11:00~開催の講演会&交流会に参加しました。
講演会の講師は株式会社レノファ山口 代表取締役会長の小山文彦氏(50歳)で、演題は『レノファ山口FCの過去・現在・未来』でした。
悪天候による航空便の欠航により、最初の30分は事業部の上利直輝氏の説明でした。

小山文彦氏は徳山高校のご出身で山口大学人文学部を卒業後は東京での会社員生活を経て、2006年にシステム開発やITコンサルティングの会社を起業し、成長させ、上場会社の電算システムに売却。
その後は2016年に周南市に経営コンサルやスポーツ支援を行う365yを設立され(社長現任)、2022年1月にレノファ山口の社長に就任され、現在は取締役会長。

資料に基づき、1時間余りの講演の後、休憩を挟んで、交流会に移りました。
歓談の後、14:00~恒例のじゃんけん大会による景品提供があり、吉田美香さんにより「ホワイトクリスマス」、「サイレントナイト」の独唱、全員で「きよしこの夜」を合唱し、14:30秋草会長の中締めでお開きとなりました。

追記)
私は大相撲やプロ野球(高校野球を含む)には関心があり、かなり足を運んでいますが、サッカーは関心外で、ワールドサッカーの話題にも耳を閉ざす程でしたが、今回の小山会長の講演を縁に来季から少し、首都圏でのレノファ山口の応援に足を運んで、勉強してみたいと思います。

そういえば、1979年にアルゼンチンの「神の手」、マラドーナ選手(19歳)が初来日した時に、広島県営グランドに一人で試合を観に行ったことを最近思い出しました。
(学22期 Y・Y)

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「畑ゼミ」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

山口大学経済学部に畑ゼミがあった。

 30年以上の前になるが、経済学部経済学科に在籍していた私はゼミに加入するためサークルの先輩から情報収集に注力した。当時はバブル絶頂期の時代であり、勉強よりいかにうまく世の中を生きていくかが重要だと勘違いをしていた。経済学部には素晴らしい先生が多くおられたが、情報が全くない畑隆先生のゼミに加入する事に決めた。それもその筈、ゼミ一期生である。

畑先生は、静岡県のご出身で、県立静岡高校から東京大学 法学部 第3類(政治第三コース) 、東京大学大学院経済学研究科応用経済学専攻を経て、山口大学経済学部に来られた。先生の若々しさに魅力を感じ加入した。

ゼミではマルクス経済学の理論である資本論、系列の宇野学派の恐慌論、人的資源管理などその他多くを学んだ。私は畑ゼミの第一期生としてゼミ幹事をした、先生もゼミ運営は初めてであり、運営にはいろいろと相談させていた。

卒業後も、先生とはお付き合いをさせていただいており、私の結婚式にも出席していただき、数年前にも静岡でお会いさせていただいたがお元気であった。先生は山口には15年ほどおられ、実家のご事情もあり静岡の大学に移られた。

山口大学での畑ゼミの歴史が終わった。しかし、学生時代のご縁が今も続いている。そして、山口でのゼミの授業が思い出として残っている。

畑ゼミの後輩のみなさま、ご連絡をいただければ幸いです。

学40期 山口 guccikatsu@gmail.com

(ご参考)

畑先生

https://researchmap.jp/t-hata/

私とアルバイト歴

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

学生時代に体験したアルバイトを思い出し、整理してみようと思い列挙してみます。
備忘のためですので他意はありません。
もう人生も最終章に差し掛かっていますので。(笑)

自分は学業には全く向かないことを知り、社会勉強のつもりで随分とバイトをしたものです。
休学した為、留年を余儀なくされましたが、平均的な学生と比べて随分と収入を得たことを自負しております。
ただ、働き過ぎたり、働いて手にしたお金で遊び過ぎた為に、社会人になってから、随分と横着な人間になったことは残念です。
社会人になってから学生時代に学業に励んでおけば良かったと思うことが多かったです。

順不同)
1)中学校での模擬試験の試験官(徳山市の岐陽中学)…教壇に立つとよく教室の全体が見えることがわかりました。
私も学生の身だったので、カンニングは非常に難しいことがわかりました。(笑)
最近ではスマホの持ち込みによる不正が問題になっていますが。
人手が足りない時は同じ山口大学進学指導会の添削のバイトもしました。
先日の長州歴史ウォークで、進学指導会に所属された大先輩とお話する機会がありました。

2)市場調査の仕事…スーツ姿で山口県下のほぼ全域を回りました。
学生時代の一番メインの仕事でした。
世論調査や視聴率調査、車に関するアンケート等いろいろとやりました。
標準語で喋るので訓練となり広島弁を卒業することが出来ました。
世論調査等は日本リサーチセンター、視聴率調査はビデオリサーチでした。
当時、熊毛郡であった八代地区(現在は周南市)でナベヅルの渡来に遭遇した時は感動ものでした。

3)新聞配達…毎日新聞と朝日新聞&中国新聞の店舗で時期を違えてやりました。
配達している時にご苦労さんと声をかけられるのが一番嬉しかったです。
新聞配達当時、三島由紀夫の割腹自殺が翌日の朝刊で報道されたのが一番の思い出です。

4)ホテルでの調理場の仕事…湯田温泉の豪華ホテルでの皿洗いがメインでした。(かめ福)
調理師さんを見ていて、調理の世界に憧れたものです。
数年前に女将さんとFacebookで友達になりました。

5)豪華旅館での布団敷きの仕事…同じく湯田温泉で今でいえばベッドメイキングの仕事です。(水野旅館)
ここの旅館のお嬢様は時津風前理事長(元大関豊山)に嫁がれています。
(人が集まらなかった時の代打要員)

6)測量の仕事…下関郊外の長府というところに行きました。
単発の仕事でした。

7)家庭教師…リッチな家庭でしたが、やんちゃな双子の小学生相手にしました。
勉強を教えるというより、一緒にキャッチボールや戯れていただけです。
私は人を教育など全く出来ません。

8)酒屋でビール配達の仕事…重いビールケースを倉庫で車に載せていましたので、腰を痛める切っ掛けとなりました。

9)証券会社での黒板書き&値紙書き…
今はコンピュータ化されていますが、当時は短波放送を聴きながら、店頭用と営業用を分担(3人で)してチョークで書いていました。
営業用には値紙といって紙に値動きも書いていました。
株に興味を持つきっかけとなりました。
四条烏丸の準大手証券の京都支店で京都時代でした。

10)キャバレーでのウエイターの仕事…これも京都時代のことでした。
寺町京極の近くでした。
「木屋町入る」の記憶です。
ナンバーワンは美貌と若さではないことを知りました。
この人がというようなおばさんでした。
アシストする女性を如何に多く付けるかが決め手でした。
重いビール瓶をお盆に載せて何本も運んだものです。
復学して、友人に頼まれて、泉都町の「クラブ奈加」で1日だけ一緒にウエイターの仕事をしました。

11)印刷工場での徹夜作業…同じく京都時代のことです。
太秦のD印刷でした。
こんなに辛い仕事が世の中にあるとは知りませんでした。
立って寝ていました。(笑)
一日か二日で辞めました。

12)シュークリーム工場での製造員…同じく京都時代のことです。
京都・向日町競輪場近くの山の中腹だったと記憶しています。
シューにクリームを詰める仕事でした。
三条大宮から会社のマイクロバスで送迎して貰っていました。

13)日産追浜工場での季節工…夏休みの臨時工でした。(車体艤装課)
金沢文庫での蛸部屋から通いました。
製造工場での窓ガラスにゴムを付ける仕事でした。
10万円でパイオニアのセパレーツステレオを購入しました。

14)ボウリング場での受付の仕事…当時はボウリング熱が凄くて新設のボウル山口と系列の山口ボウリングセンターの2箇所でやりました。
ピンチヒッターとして数日でした。
(最近になってかめ福の経営だったのを知りました。)

15)上記ボウル山口のレストランでウエイターの仕事をしました。(1週間程度)

写真は日本橋の「おいでませ山口館」
(学22期 Y・Y)

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サビエル聖堂と惣野旅館の女将さん 

岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

僕たちの青春の街、山口市は今、「クリスマス市」といわれています。やはり、旧ザビエル聖堂は趣(おもむき)があって良かったです。

 中央に登り階段。登り切ったところに建つ三角屋根の2棟の塔。鳴り響く鐘の音・・・。

 学生時代、地元の放送局でニュース取材のアシスタントとしてアルバイトをやっていました。天地茂がサビエル聖堂を訪れたとき、取材しました。

 別の機会には県知事室に取材で入ったこともあります。運動靴にGパン姿で赤いふわふわの絨毯を踏みました。

◇惣野旅館の絶景写真

 一の坂川沿いの惣野旅館の宴会場に掲げられていた亀山の麓にあった山大経済学部とサビエル聖堂を望む白黒写真は絶景でした。きっと、惣野旅館をコンパで使用していた経済学部関係者が寄贈したものかもしれません。

 1980年代の惣野旅館といえば、名物女将の房子さんです。

 「はぁ~ あんたらぁ、しっかりせんとおえんでぇ」といつもいわれていたような気がします。(笑)

 少し世代が上の方には惣野旅館のお嬢様だった?

◇卒業後も交流

 卒業後も何度か、惣野旅館を同期会で利用しています。遠方から幹事をしたときは電話やはがきで連絡をとりました。

 学生時代、僕は女将さんにはなんとなく、がさつな印象があったのですが、連絡や賀詞交換のはがきの文字は達筆でした。能筆といったほうがいいのかもしれません。

 そして、学生時代のままの料理とやかん酒(やかんで直の燗付け)を所望すると、「ほんとにそれでええんかね」と笑っていました。

 コンパで利用しなくても山口を再訪した際、菓子折りを持参すると大変喜んでくれました。

 最後に利用したときは、あの名物女将の房子さんが施設に入所していました。現在は廃業・・・。

 もう、あの元気いっぱいだった「惣野のおばちゃん」に会うことは叶いません。

 我々の先達として既にお浄土に「もうちょっと、頑張ってから、ゆっくりと来んかね」と笑顔いっぱいで待っておられるような気がするこの師走です。

(岡山支部 B)

山大の地域貢献

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

「日系グローカル」471号(令和5年11月6日発行)に載った大学の地域貢献度調査で、山口大学が前回の全国29位から10位に急上昇し、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。この項目は、地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置、地域貢献をテーマにした教育プログラム、地域貢献を目的とした専用施設、学生ボランティア活動の必修化や単位制度、地域貢献を巡る他大学との連携を問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大だった。

山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)

ペリー来航、その時ペリーは

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

今年はペリー来航170周年ということで、東京湾では記念クルーズも行われている。

170年前に戻ろう。

東インド艦隊司令官ペリーが黒船に乗ってやってきた。

蒸気船サスケハナ。

カタカナで書くと日本語であるかのような響きがある。

Susquehanna

ネイティブ・アメリカンの言葉で、米国北東部を流れる「広く深い川」の意だという。

それが転じてその川(hanna)の流域に住みついた部族をサスケ(susque)族と言うようになり、サスケハナはその地域一帯の地名となったようだ。

ペリーが浦賀沖に現れたのが59歳の時。

米国が太平洋岸まで達する領土を得ることとなったメキシコとの戦争。ペリーは来航直前、このメキシコ戦で活躍している。

メキシコとの戦いが勝利のうちに終わり、ペリーの艦隊勤務の残り日はわずかとなった。

ペリーは名門海軍一族の生まれであり、その誇らしい海軍軍人キャリアの最後を飾るポストとして花形の地中海艦隊司令官を希望していたという。

しかし、豈図らんや日本行きの任務が回ってきた。

異国に門を閉ざしてきた手強い日本。その門を叩き、こじ開けるのだ。

厳しい任務になるのだろうが、「日本を開国に導いた歴史の偉業」として刻まれることをペリーは意識し始めた。

日本研究のためにシーボルトの著作を読み、日本と交流のあったオランダの駐米高官から日本の情報を入手していたという。

また、蒸気船の早期導入を主張し「米国海軍蒸気船の父」と言われたペリーだ。メキシコ戦で発注した大型蒸気船ができた時には終戦を迎えており、この船の活躍の場を求めていた。このため日本に向かう艦は大型蒸気船と決めていた。

また、ペリーにはもうひとつ密かな野望があった。

彼は植物のコレクターでもあった。鎖国日本には植物の雑種が少なく、「自然選択」による進化により、島国日本で新品種の植物が発見できるかもしれないと考えていたようだ。

米国人ぺりーからすると、長く鎖国をし、交渉も一筋縄ではいかない、かたくなな日本を開国させたことは「偉業」であったかもしれないが、他の列強国からすると、やんちゃものに「してやられた」感覚だったのかもしれない。

第一次のペリー来航時の翌月、露プチャーチンが開国を求めてやってきた時、プチャーチンは幕府の指示に従い、紳士的に長崎で交渉を持った。

これに対しペリーは、来航が禁ぜられた浦賀に踏み込み、いきなり高官との面談を要求し、江戸湾内の測量まで行っている。

ずいぶん無茶をやったものだ。

こうしたことから、当時のペリーは西欧各国から評判がよろしくなかったという。

ペリーの二度目の来航時、日米和親条約が締結され、ペリーは日本の開港を手繰り寄せた。

その時、ペリーが用いた対日交渉の切り札が「友好よりも恐怖」だったという。

アジア研究、日本研究の結果辿り着いた着想だったのだろう。

大型の黒艦、世界最新技術を集めた巨艦の蒸気船を背景とした圧力外交。

ペリーの体躯もこれまた巨漢だ。身長1メートル95。日本側の記録にも「六尺四五寸」とある。

当時の米艦乗組員の中でもペリーがひと際大きく、米海軍の日本行きの人選で、日本に威圧感を与えるために、敢えて巨漢のペリーを選んだという話もある。

友好よりも恐怖による威圧外交の源流がここにあった。

ペリーは晩年、日本遠征記の執筆に力を注だ。日本に来た時には身体の相当な無理もあったのだろう。巨漢のペリー。晩年には身体もかなり悪くなっており、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたとされる。

ぺりーは日本を去った4年後の1858年に63歳で召された。

(学23期kz)

山口大学の地域貢献度、全国でトップテン入り

日本経済新聞社の経済誌「日経グローカル」471号(令和5年11月6日発行)は大学の地域貢献度調査結果を発表している。この中で山口大学は全国での順位が前回の29位から10位に急上昇、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。

この項目は、

地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置

地域貢献をテーマにした教育プログラム

地域貢献を目的とした専用施設

学生ボランティア活動の必修化や単位制度

地域貢献を巡る他大学との連携

などを問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大であり、山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)

「山口七夕会 秋の紅葉ウォーキング」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

師走を迎え、12月2日(土)の東京は気温は13℃と低いものの快晴でした。
JR東京駅丸の内南口近くのはとバス乗り場に10:40に11名(内3名が女性で、全員山口中央高校出身)が集合し、11:00にはとバス出発となりました。
(藤井謙志本部長、岡本達也副本部長参加(世話人))
はとバスルート:
丸の内⇒日比谷公園~霞ヶ関~国会議事堂~虎ノ門ヒルズ~東京タワ~レインボーブリッジ~お台場~豊洲~築地~歌舞伎座~銀座~丸の内(1時間)

その後は丸の内の中華居酒屋「三九厨房有楽町店」にてランチ懇親会。
レノファ山口ファンの2名の新会員の方から全員で自己紹介を順次行い、それに関連した話題で話は尽きることなく、大変な盛り上がりとなりました。
ビールに日本酒、紹興酒等を飲み、懐かしいネイティブ山口弁が乱舞し、山口に思いを馳せ、あっという間の3時間40分で、再会を楽しみにお開きとなりました。

私は初めての東京本社勤務となった時に広島から上京し、一人ではとバスに乗り観光し、団体で皇居の二重橋前で集合写真を撮りました。
あれから40年、大都会東京は大変貌を遂げていて、圧倒されました。
(学22期 Y・Y)

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「名畑ゼミの思い出」を読んだ“効用”

鳳陽会岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

僕は山口大学経済学部を卒業し、今、岡山県に住んでいます。

以前から、鳳陽会東京支部のHPの熱烈な愛読者です。

◇タイの伝統工芸

最近、朝のテレビ番組でタイの伝統工芸に関するニュースが紹介されました。

伝統工芸の織物を商品化するコンテストが開催されたのです。福井工業大学の学生がコンテストに参加。伝統工芸の織物を活用して「甚平」を作り、販売する計画に乗り出します。ある部族に「甚平」を制作するよう頼むのですが、計画、試作段階できびしい評価を受け、失敗します。

しかし、福井工業大学の学生はあきらめません。更に奥地の部族を訪ね、改良を重ねて新しいデザインの「甚平」の試作に成功。さらに余り布で帽子やナップサックも作ります。今度は高い評価を受け、販売計画が進んでいるそうです。

◇東南アジア経済研究の名畑教授

 山口大学経済学部の名畑教授は東南アジア経済研究に人生をかけておられました。名畑先生がタイの伝統工芸に関するこのニュースを耳にすれば、きっと感涙を流されたことでしょう。

僕が東南アジア経済に関するニュースに関心を持つきっかけになったのが、鳳陽会東京支部のHPに連続して掲載されたトピックス「名畑ゼミの思い出」です。記事を読む機会を得たことによる“効用”です。

 「名畑ゼミの思い出」を投稿された筆者に感謝を申し上げます。

(鳳陽会岡山支部 B)

Beatlesのチカラ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

東京在住の山口県関係者が集う防長倶楽部の年次総会が開かれ、総会後の講演会のゲストスピーカーとして林前外相(下関出身)が招かれた。

講演後。

懇親会の会場には電子ピアノが置かれていた。

ビートルズが心底お好きだという林議員。

「アレ」が始まるかもしれない。

◆リバプール外相会合

2021年のG7外相のリバプール会合でのアノ話。

夕食会場はリバプール・ビートルズ博物館。

林議員の話によると・・・

「そこにはジョンゆかりのアノ白いピアノが置いてあり、博物館の方からこれはレプリカだとの説明があった後、お誘いがあった。

『どなたか座りませんか。弾くこともできます』

私が座ってImagineの弾き語りをやりました。最後は何と一同大合唱となりました」

・・・ということであった。

◆ミニ演奏会

懇親会も時半ばとなったころ、林大臣のミニ演奏会が始まった。

この日はLet it beから。

ポールっぽい空気が会場を包む。

2番まで。さらりと演奏が終わった。

「ブラーボ!」と一声。

会場からはアンコールの掛け声と手拍子が湧き起こる。

次には「アレ」が。

Imagineの弾き語りだ。

ここでも手拍子での合唱と相成った。

◆Beatlesのチカラ

Beatlesは強い。誰でも知っている。だからこそ誰が歌っても「合唱」にすることができる。

Beatlesが与えた影響はミュージシャンに対してだけではない。

例えば村上春樹。

彼の作品は世界の多くの国に翻訳されており、彼が「外国人に最も知られている日本人作家」になって久しい。

これは、彼の作品の中にBeatlesのテーストを織り込んでいることも人気の秘密のひとつだと思う。Beatlesの力を借りたといえるかもしれない。

Beatlesの影響はアーティストに対してだけではない。

ファッションもそうだが、本当のインパクトは別のところにある。

母国英国で旧い社会階級・恵まれない階層に光を与え、上流階級、女王陛下までも巻き込みファンにさせたこと。

固定化した階級・階層を溶かしたのだ。

また1964年の米国ツアーでは、観客席が白人と黒人に分けられた会場では「演奏しない」と表明し、人種差別に反対したこと。

暗にそうしたのではない。明示的に人種差別に反対したのだ。

しかも、ツアーの前年には公民権を推し進めたケネディーが暗殺されたという危ない頃に。

銃社会の米国おけるステージで、無防備に演奏をしている。

勇気の要る、身体を張った演奏。ずいぶん危ないことをしたものだ。

しかし彼らはどの政治家も、どの宗教家も、どの偉人も出来なかったことを、「結果として」、演奏活動を通じてサラリとやってのけた。

銃に対して無防備に身体を晒す演奏活動中に。暗殺されることもなく。

いや、むしろ熱狂的に愛されながら。

ホワイトアルバムの「Black bird」

You are only waiting for this moment to arise.

Black bird fly・・・

学生時代によく口ずさんでいたが、birdはイギリス英語の俗語で女性の意。ポールは「黒人女性に捧げる歌」としているのを後々知った。

ジョンのImagineも夢想的、牧歌的な歌ではないはずだ。

各種の社会的な摩擦、軋轢と闘ってきたBeatlesの一員であり、恵まれない少年時代を過ごしたジョンだからこそ、却って夢想的なImagineの歌詞が深みを持つ。

(学23期kz)

写真:防長倶楽部 相山氏撮影