終戦の間際に 

戦後生まれの雑感

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【トピックス】

8月もいよいよ終わる。

この季節には時期には終戦にまつわる行事や語り部へのインタビュー報道がなされ、新聞・雑誌では特集記事が組まれる。俳句や短歌にも終戦にまつわる作品が毎年数多く寄せられる。

戦争の終わり際には数多くのドラマがあった。

一次大戦で負けたドイツと違い、日本軍は負けを知らなかった。このため、日本の内部で降伏か抗戦かで意見が分かれたことで終戦が遅れ、さらなる不幸を招いてしまった。

◆終戦間際に、山口の岩国・光で空襲

8月9日、広島へ原爆が投下された翌10日には日本がポツダム宣言の受諾を固める。

しかし、軍は徹底抗戦を主張する。ポツダム宣言を飲むにあたっての「条件」を巡り数日を費やした。

この間、連合国では2度の原爆投下や累次の空襲を経ても、軍部がいまだ抵抗姿勢をみせており、いかなる反撃するかもしれないとの懸念があったことから、徹底的に日本の戦意をくじく作戦に出る。

空襲だ。

14日から15日にかけて日本各地11都市、2000人以上の犠牲者が出た。

この時、山口でも被害がでた。14日にB29、150機が飛来し、海軍工廠がある光市で約700名が犠牲者となり、岩国駅付近では約500名が帰らぬ人となった。

◆空白の期間

15日の玉音放送の後、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印、連合国(実質は米国軍)の占領、軍(GHQ)の管理下に置かれるのが9月2日であるが、この間の約20日が空白の期間になってしまった。

この間に北ではソ連が動いた。

米英首脳の了解のもと8月8日対日参戦に転じたソ連は、15日12時の玉音放送の3時間後に北千島侵攻を発令し、18日から千島の攻撃を開始する。ソ連の侵攻はヤルタでの密約とされる千島列島南端ウルップ島にとどまらなかった。77年前のちょうどこの時期、ソ連は千島・ウルップ島を越え、また降伏調印日の9月2日を過ぎても北方四島への侵攻を止めず、歯舞群島、色丹まで力で占領し終えたのが何と9月5日だ。

◆空白の理由(わけ)

なぜこうした空白期間が生じたのか。

連合国軍の先遣隊が厚木基地に到着し、GHQを設置するのが8月28日、マッカーサーが厚木に着くのが8月30日であった。

ドイツと異なり、日本では本土や首都が陥落しておらず、また日本の軍部が抗戦の構えを見せており、日本にどれだけの軍事力が残っているか、日本本土上陸時に激しい反撃を受けることはないのか、その見極めにかなりの時間を要したとされる。

◆ウクライナ

ロシアのウクライナ侵攻から半年。いまだロシアの侵攻が止んでいない。それどころか、この先長期にわたり戦いが続くとの見方もなされている。

日本とロシアの領土問題は大戦が終結して80年近く経つが、当事者間で未だ決着していない。

いま直ちにロシアとの侵攻が止んだとしても、領土問題の決着は、とてつもなく長い年月を要するのだろうが、まだその入り口にも来ていない。

かつてはイタリアが倒れ、次にドイツも倒れ、残された日本は孤立無援で連合国軍と戦うことになった。

ウクライナの場合は逆で、攻め込まれているウクライナには世界が味方している。

そう、味方しているはずなのだが、戦いは止んでいない。

(学23期kz)

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私と演劇鑑賞(2)

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【9月 トピックス】

余り記憶も定かでない45年位前のことですが、演劇鑑賞を始めて、最初に強烈な印象を持ったのは文学座の杉村春子、北村和夫主演の「欲望という名の電車」でした。
当時、杉村春子さんは60代後半であったのになまめかしさと声量に驚いた印象が残っています。
又、北村和夫さんの軽妙なやりとりも印象に残っています。

あとは劇団民藝の作品でしたが、アーサー・ミラー原作の確か滝沢修主演であったと記憶しますが、「セールスマンの死」は考えさせるものがありました。

それから、一番私の印象に残っているのは、太地喜和子の「五番町夕霧楼」でした。
私は太地喜和子さんのファンで、好きな女優はと云われると、真っ先に太地喜和子さんをあげていた程でした。
私より7才も年上でしたが、大の酒好きで、恋多き女といわれた人で、姉御肌で太っ腹でスケールの大きいイメージに憧れたのでした。
大女優さんに対して失礼ですが、実に色っぽい女性でした。
いつだったか、昼休みに会社を抜け出して、当時の広島市公会堂で公演の荷物の荷降ろしを手伝ったことがあるが、たまたま、太地喜和子さんの荷物を運ぶことになり、大感動したものである。大女優のものであったから。
その太地喜和子さんも1992年10月13日に下田で48歳の若さで不慮の事故で亡くなられた。
翌日、私はスポーツ紙で大きく報じられた訃報にショックを隠しきれなかった。
文学座を背負って立つ人であったので、その若き死は残念でならなかった。
今回は文学座の思い出を中心に綴ることになりました。

(追記)
今週の29日(月)のNHKのファミリーヒストリーは俳優の北村有起哉さんでしたが、お父様の北村和夫さんの「欲望と名の電車」の舞台映像が流れて、ご覧になられた方もおられたのではと思います。

(学22期 Y・Y)

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布団敷アルバイト

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【8月 トピックス】

私は、2年生まで山口市内にあった鳳陽寮で過ごし34年生は寮から近い栗本小路に下宿をしていました。

色々な面白いアルバイトをやってきました。ビアガーデン、国鉄バスの車掌、測量支援、家屋解体等がありましたが、その中でも鳳陽寮の頃に何度か行った湯田温泉にあった緑屋旅館のアルバイトは何とも奇妙でワクワクするものでした。

当時、私は鳳陽寮の南寮(寮には南寮、中寮、北寮、西寮、西北寮の5寮が残っていた。)

の2階に居室があり、寮の玄関/事務室に近かった。

事務室からアルバイト募集の掛け声がスピーカーから流れるとバタバタと脱兎のごとく志望者が集まりました。幸いに私は事務室に近いせいでアルバイトにありつけていたように思います。このころには鳳陽寮も食堂が火事になったりして過疎地帯になっていたように思います。

アルバイト募集の時間は、朝ではなく夕方でした。温泉旅館ですからアルバイトには食事と温泉入浴がついて正味2~3時間で5百円程度のアルバイトでした。

まず、緑屋旅館に4~5人が自転車で到着すると、ご飯を頂きます。腹が減っている学生ですから、この時とばかりに茶碗で3、4杯を掻き込みます。確かボート部の学生だったと記憶していますが6杯食べた猛者がいました。先にご飯を食べたのか仕事してから食べたのか。かれこれ50年前のことで記憶が霞んでいるのはご容赦ください。

さあ! ご飯もいっぱい食べたので旅館の印半纏を着てアルバイトの開始です。

アルバイトは、宿泊客の布団敷です。小部屋から大部屋までの部屋の布団を宿泊客が部屋に戻るまでに敷いておくのが仕事です。確か初めに仲居さんなどから布団の敷き方を教えてもらってから開始をしたように覚えています。

新婚さんの布団の敷き方が独特で何とも艶めかしい感じだったのを覚えています。

布団を2組単純に敷くのではなく、2組の布団がさも一組の布団に見えるように敷いていくのです。敷布団は普通に2組をぴっちりとくっつけて敷いていきます。

次に掛布団ですが、2組の掛布団を真ん中で重ね合わせて敷いて両端を真ん中に折り返してあたかも2組の布団が1組の布団に見えるように敷いていくのです。

部屋に誰もいないと思っても、“失礼します”とお声がけをして布団敷を始めるのですがお部屋を開けたら、なんと“新婚さんが仲睦まじくされていた!!”というようなこともあったと同僚から聞きました。

私は残念ながらそのような僥倖には恵まれず、団体客の布団をひたすら敷いていたように記憶しています。

汗だくになって布団敷が終わると温泉にゆったりと浸かってから、また自転車で湯田温泉から鳳陽寮に戻ったのを覚えています。何とも面白いアルバイトでした。

数年前に山口を40数年ぶりに訪ねることがあり、昔の思い出を探してみましたが、

緑屋旅館はとうの昔に廃業されたと近くの八百屋さんで伺いました。

大学時代の自分の記憶も段々と薄れていく中でなぜか布団敷きのアルバイトを懐かしく思い出します。

(経済学部経営学科 学23期  S.K)

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の鎌倉に

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【8月 トピックス】

4月16日に朝7時過ぎに品川区の自宅を出て鎌倉に行ってきました。
鎌倉は確か15年以上ぶり2度目の訪問となります。
前回は紫陽花で有名な瑞泉寺を訪問しました。

「山口市ファンクラブ」にメンバーのTakahiro Fujii様が最近、NHK大河ドラマの大江広元や四男・毛利季光について投稿されていて歴史に興味を覚え、毛利家初代の毛利季之や父である大江広元の墓を訪ねて見たい衝動に駆られました。
初代毛利季光から時を経て長州を始め中国地方全域を領地とする戦国大名の第12代当主の毛利元就が誕生していようとは…。
8時半頃、鎌倉に到着し、小雨模様でしたが、次第に晴れ間も見え、道に迷ったこともありますが、なんと2時間半も歩きました。
ウグイスが鳴いていました。
私は高校時代は日本史は得意科目でしたが、その後は歴史ものはさっぱりでした。💦
随分と遅れて来た爺ですが、歴史に少しでも興味を覚えるきっかけとなれば良いのですが…。
(学22期 Y・Y)

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第46代横綱 朝潮太郎

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部 トピックス

奄美市出身で実際にお会いし、Facebookで友達となった横浜在住のTさんから朝潮太郎の写真を見たと言って数年前にFacebookのメッセンジャーで送っていただきました。
栃若時代と言われた子供の頃、朝潮太郎の大ファンだったので貴重な写真で嬉しい。
小学校2年生の頃はお金持ちの自宅以外は殆どテレビがない時代で近所のテレビのあるお宅に大相撲中継を観に行っていました。
徳之島出身の朝潮太郎が負けた日には、周囲の大人からからかわれて泣いていました。

横浜勤務の35歳の頃にJR関内駅を降りられて、横浜文化体育館の横浜場所に向かわれる親方を見かけましたが、躊躇って声をかけませんでしたが、その3年後に58歳で急逝されました。
今でも声を掛けなかったことを後悔しています。
朝潮太郎さんがいなかったら、私はこれ程大相撲ファンにはならなかったでしょう。

大相撲好きな会員の方がおられましたら相撲談義をしたいです。
(学22期 Y・Y)

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ゴルフ 何でそうなるの! ③

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【8月トピックス】

◆ホールインワンか?

150ヤードのパー3。気持ちよく打てた。

しかし太陽が目に入り、ボールの行方を見失った。

どこか遠くで人の騒ぐ声が聞こえたような気がしたが、気には留めなかった。

前の組が騒いでいるようだとパートナーが知らせてくれたが、意味今ひとつ分からず、グリーンに向かう。

遠目にゴールが見えた時点で、前のパーティーが騒いでいた訳がわかった。私のショットがホールインワンになりかけたのだ。

ホールインワンをすれば、金がかかるぞ。

かつて先輩が教えてくれた。

幸運のお裾分けということで、同じラウンド仲間には感謝の品、キャディーさんへのお礼、ゴルフ仲間や知人への記念品。ゴルフ場には記念の植樹代が要る。ホールインワンを記念した飲み会も大小、何度かやるのだろう。金が出そうだ。

おっと、危ない、危ない。

ホールインワンしたら、結構な金が飛んでいく。

というわけで早速プレーの翌日、「誉れ高きX(エックス)デー」のために、ゴルファー保険に入った。

昭和の当時、入ったゴルフ保険は年間6000円。この料率のうち、ほとんどがホールインワン用に充てられているという。

つまり、ゴルフによる本人のケガ、他人へのケガの補償、またゴルフクラブの損傷より、ホールインワンの確率が断然高いということだ。

年間6000円は安い。いつカップインしても、どんと来い!だ。

しかしその後、パー3でのハラハラ・ドキドキするようなショットがパッタリ出なくなった。翌年にはゴルフ保険を掛けるのを即、止めた。

その後40年ほどゴルフ保険を掛けたためしがなく、もちろん実害もない。

◆結構身近なホールインワン

ホールインワンの確率はプロで3千分の1、アマチュアで1万分の1程度といわれている。

月イチのサラリーマンゴルファーでホールインワンに巡り合う確率は240年やって一度。

週イチに頻度をあげても50年に一度だ。

しかし、これはあくまでも計算の上での話。

身近にはホールインワンを経験した人が結構いる。

私の知人はかつてメーカーの海外支店在住時、3年間で2度ホールインワンを経験したと言っていた。

私が転任時にクラブセットを無償で譲った後輩からは、もらい受けた直後にホールインワンが出たと後日連絡があった。

また、私と一緒にプレーしたパートナーがホールインワンを出したのを間近で目撃したことが2度ある。

エージシュートは相当な実力がないと達成できないが、ホールインワンは誰にでもチャンスがある。

9月の中旬には鳳陽会のコンペがあり、初出場する。

得てして、スコアーがまとまらないゴルファーがホールインワンをとるようだ。

ということは私にもチャンスがあるのか。

ハーフでのエージシュート。これには結構自信がある。

(学23期kz) 

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宴会の酒は5合

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部 トピックス

たわいない話である。

学生時代、山口市の県庁近くに下宿していた。

りっぱな門があった。塀に囲まれている。武家屋敷の趣があった。

今年(2022年)6月、山口市を訪れたさい、下宿先に行ってみた。

門と塀は健在だった。

          ◇

下宿には風呂がなかった。シャワーもない。銭湯に通った。

 いつも出掛けるのは、一の坂川に近い銭湯だ。

ときたま、時間のあるときは自転車をこいで、湯田の銭湯まで遠出した。

湯田の温泉街のはずれ、住宅地のなかに銭湯があった。ここの銭湯は天然温泉だった(と思う)

 ある日、ひとりで湯田の銭湯に行き、湯舟に浸かっていた。

 2人連れの男性が入ってきた。歳のころは40代だろうか。

 そこらへんのおっさんといった感じの2人組である。

 ふたりはいい気持ちで世間話をしている。

「宴会の酒だけど・・」

 ―宴会の酒がどうした。

「3合じゃ、ものたりんな」

 ―うむ。3合じゃ、ものたりんわな。

 「と、いっても、1升は多すぎる」

 ―1升は飲めん。

「宴会の酒は5合がちょうどいい」

―そうやな。5合がちょうどいいな。

       ◇

 わたしはふたりのやりとりをじっと聞いていた。

そうか。宴会では5合がちょうどいいのか。

それ以来、私は宴会の席では日本酒5合程度、飲むことにしている。

ほどよく酔って、翌日に残りません。

 たわいない話でした。

(鳳陽会東京支部日本酒党 S)

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青春のアルバイト ②

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部 トピックス

 (青春のアルバイト①はアーカイブで。2021年10月に掲載)

◇肉体労働のアルバイト

アルバイトでは決まって肉体労働だった。

細かい事前知識は要らず、体力に任せて働くことができ、時給が比較的高かった。

2年生の夏みのこと。大学の掲示板に県の農業試験場敷地の周囲にサルビアを植えるアルバイト求人の張り紙を見つけた。アルバイト代は1日1000円。このため時給に換算すると150円程度だったか。他のアルバイトの時給より2割ほど割がよく、当時は魅力的に映り、高校時代からの仲間3人で応募した。

炎天下の作業

サルビアの花を植えると言えば聞こえが良い。しかし作業は肉体労働だ。

機材を運び、植える場所を掘り起し、苗を植え、整地し、水を撒く。

しかし農業試験場は広かった。作業は過酷なものだった。

山口は内陸性の盆地気候で、夏はかなり暑くなる。木陰はなく炎天下での作業が続く。たまらずシャツを脱ぎ、上半身裸で作業をこなした。

顔が火照り、喉が渇く。10時半の休憩時、火照る身体に一気に流し込む清涼飲料水。何ともうまかった。当時コカ・コーラが30円。ファンタもそれくらいだっただろう。

休憩の後は現場に戻り目のくらむような暑さの中、作業を再開するが、すぐに大粒の汗が吹き出す。眼に沁み込んで視界が霞む中での作業が続く。

現場の「親方」の指示で、12時きっかりに作業をストップし、昼食。

しかし、見渡す限り近くに食堂はなかった。国道を挟んだ雑貨屋で腹の足しになるものを探すが、パンしかない。仕方なしに、パン二つとまたしても清涼飲料水で150円程度。パンはコメと違い喉が渇く。追加でもう一つコーヒ―牛乳を買う羽目に。

今から考えれば劣悪な環境にあるアルバイト先であった。しかし、二十歳前の若い当時、身体をいじめ、辛さに耐えることが一種の快感でさえあった。

午後からはある程度仕事の要領を覚え、比較的スムースに作業を終えたのだろう。午後のことはよく覚えていない。

◇シゴトを終えて

日給1,000円。作業の終わりに現場監督から手当の封筒をもらう。街に戻り、汗を流しに湯田の銭湯「清水湯」に。

ザッと湯をかけてザブンと湯船に浸かった!・・・といきたいが、そうはいかない。

腕と背中の皮膚が“やけど”を起こしかけており、湯に浸かるにも相当難儀した。

入浴料は覚えていないが、意外と高かった記憶がある。200円まではいかないが180円くらいだったろうか。当時セブンスターが100円だった。

そこから晩飯へ。

まともな飯にありつけること。これが一日の最大の喜びであり、褒美である。この喜びを味わうために、朝から夕方まで頑張ってきたのだ。

300円ほどの定食を食べて一息。

しかし残った稼ぎは300円を切っている。何とも侘しい。

◇賭けに出る

残り銭をいかに使うか。ここでおよそ経済学部生らしくない行動に出る。つらい労働の後は理性が薄れる。向かうは繁華街。チューリップが断続的に開いた過去の「成功体験」にすがり、パチンコ台に向かう。100円で玉を買うも、手のひらに銀玉がほんの少し。瞬く間に銀玉がアウト穴に吸い込まれていく。「百万ドル」がだめならハス向かいの「山口ホール」だ。しかし、思い描いた楽園への壁は厚く、高い。

つらい労働の後は強い刺激を得て眠りにつきたい。しかし酒を買おうにもポケットはすっからかんだ。仕方なく貯金を取り崩す羽目に。何のためのアルバイトだったのか。学費の足しにもならんじゃないか。

情けない。

空しく、薄っぺらな一日。生きていく大変さを思い知らされた貴重な経験だ。

◇アルバイト代の価値

入学した年度の授業料が年間12000円であった。月にして1000円。一日のアルバイト代でひと月の授業料が賄えたことになる。若い諸君には申し訳ないが、ありがたい時代だった。

(学23期kz)

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山口代表の下関国際が大金星

夏の甲子園準々決勝で下関国際が春夏連覇を目指す優勝候補筆頭の大阪桐蔭相手に5-4と接戦を制し、逆転勝ち。
仕事で試合はテレビ観戦出来ませんでしたが、途中、ネットで7回にトリプルプレーをやったと知り、得点経過は不明でしたが、善戦しているとは思いましたが…。

仕事が終わって、動画を観ましたが、凄い試合でした。
天晴れ、下関国際。
山口県民や山口県に縁のある人の誇りとなるのでは。
下関国際が先制点を取り、大阪桐蔭の焦りを誘えば面白いとは思いましたが、先制点の2点を初回に取られて、9回表の土壇場での逆転でした。

山口大会では山口市の西京高校を応援していましたが、春季大会優勝の宇部工業を破っての下関国際の甲子園出場でした。
下関と言えば昔は下関商業や早鞆高校でしたが、最近は下関国際のようです。
下関国際は下関市伊倉にあることを最近知り、山口県庁に就職した学生時代の友人K君がいて一度、泊まりに行ったことや下関市内での結婚披露宴に出席したことを思い出しました。

山口県は阿武町の誤振込み騒動、安倍元総理の銃撃事件、猿被害事件と続きましたが、久しぶりに全国区の明るい話題です。

写真は現在のJR下関駅と昔の下関駅
(学22期 Y・Y)

テント劇団が山大にやってきた

Y・Yさんが投稿した「私と演劇鑑賞(1)」を楽しく読みました。

広島で公演されたテント劇場は臨場感があり、虜になったーと書いていました。

あの記事を読んで、青春時代の記憶が蘇りました。

   ◇

 1970年代、演劇界は野心的なテント劇団がものすごい勢いで活動していました。通称「紅(あか)テント」や「黒テント」などがトラックにテントを積み、全国を旅して公演していました。

 実は山口大学にもテント劇団がやってきたのです。わたしは実行委員会の一員として公演の裏方を担当しました。

 劇団の大型トラックが吉田キャンパスに到着しました。巨大なテントを荷台から下ろします。高い支柱を立て、テントを張る。劇団員だけでは手が足りない。学生たちもテント設営作業を手伝いました。情宣活動も行いました。

さあ、公演が始まります。テントの中の客席(地べたに座る)は満席。若い熱気が高まっていきます。テントの支柱を駆使した躍動感あふれる舞台は圧巻です。大きな歓声と拍手がわき、公演は大成功でした。        

    ◇

 さて、今夜の宿はどうするか。

数多い劇団員をホテルや旅館に泊める余裕はありません。

思いついたのが経済学部(亀山キャンパス)の一角に建つ通称「迎賓館」です。賓客が経済学部を訪れたさいの宿泊施設(だったと思う)でした。

 劇団員はその夜、「迎賓館」に宿泊したのです。

 翌朝、わたしは様子を見に行きました。劇団員は起床し、洗顔をすませたころでした。わたしは女優さんたちとにこやかに会話していたのです。

 そこへ、K教授が現われました。ふだんは冷静な先生ですが、なにやら険しい表情です。

迎賓館に怪しげな連中が泊まっているーとの通報があったようです。

おぼろげな記憶を元に会話を再現してみます。

 「困るよ。許可なく、外部の人を勝手に泊めちゃ」

 ―えっ、許可がいるんですか。

  (経済学部当局の許可は得ていなかった)

 「これからは、ちゃんと、事前に届け出るように」

 ―はい、すいません。

 K教授は学生の過激な活動や、やんちゃな言動にも理解を示す先生でした。

おかげでその場は丸く、納まりました。

劇団員は心地よく、次の公演地に向け、旅立っていったのです。

 思えば、おおらかな時代でした。

 (元山口大学経済学部生 S)