
山口の情景①


私は1978年4月に山口大学経済学部に入学した。
3年前に60歳定年を迎え、現在シニアとして同じ会社で気楽に働いている。約1年後の誕生日をもって65歳退職を迎える今、自分の就職活動について振り返ってみた。
◆就職活動を始めた時期
我々の時代の就職協定は、10月1日が会社訪問開始、11月1日が採用内定開始というルールであった。そのため、現在のように3年生のうちから就活についてそわそわすることもなく、のほほんと部活やバイトに精を出していたものである。また、パソコンやスマホがあるわけでもなく、一方的に送られてくる分厚い就職情報雑誌が唯一のとっかかりであった。
◆希望職種
特に誇れるような特技、資格もなく、漠然とメーカー企業かなと思っていた。幸い、部活の一つ上の先輩2名が関西の大手電機メーカーM社に就職されていたので、8月頃から大学訪問と称して2週間置きに来山され、有望候補という評価で人事の方へ上げていただいていた。そのような中、夏休みで帰郷した際、中学、高校と一番仲の良かった友人(鹿大在学)と会った。彼の希望は保険会社。理由は勤務時間が短く、給料が良いからと。山口に戻り就職情報誌で調べてみると、確かにいい感じ。不純な動機ではあるがそこからM社と保険会社の二本立ての活動となった。
◆会社訪問解禁前日(9月30日)
M社の方は先輩のおかげで、明日の朝一番でM社の会社説明会へ行き、採用担当役付者から内定を頂く運びとなっていた。一方、保険会社。9月に入り3社ほど会社訪問、先輩訪問をしたものの明確な手応えなし。30日の午後にN社に3年前に入社していたゼミの先輩からようやく下宿に電話があり、明日1日に湯田温泉のホテルで9時から会社説明会を行うから良かったら参加してみたら、とのこと。朝一番はM社へ行く旨を伝えると午後からでもいいよと軽い返答であった。
◆運命の10月1日
朝一番、M社の会場へバイクで駆け付け、採用担当役付者と短時間の面談を受け、内定の方向の旨を頂く。しかし、自分としてはもう一つの第一志望であるN社の説明会も聞いてみたい旨を正直に伝え、会場を後にし、午後からのN社の会場であるホテルへ。
ゼミの先輩に初めてお目にかかり、26番目の来場者として採用責任者との面接を受けた。夕方までには結果を連絡するとのことで(ない場合は不合格)会場を後にし下宿へ帰った。それから2時間後、幸運にも電話があり、自分ともう一人の学生(すでに内定を数社獲得している強者)の2人に絞った、もう一度面接して決定したいとのこと。複雑な気持ちでホテルへ行き再度の面接。約10分後に内定の連絡を受け万歳!
でもここで礼を失してはならない。そのままバイクでM社の会場へ向かい、採用担当の方に丁重にお詫びをした。帰り際、駐輪場を出ようとしたところ、会場のビルの5階から“N社で頑張れよ~”と手を振りながら激励をいただいた。このシーンは今でも鮮明に覚えており死ぬまで忘れないだろう。
その日の夜は内定食事会を開いていただき、その場で新幹線チケットを渡され、翌日にはN社本店の役員室で内定の握手をしたのであった。
◆振り返ってみて
現在の就活状況と比べると、申し訳ないぐらい楽なものであった。特に、山大を卒業して40年間も勤めている会社が、結局たった1日程度で決まっていたというマンガみたいな話である。
ちなみに中学、高校の友人も同業のS社に入社したのであった。
(学30期 yW)
1372年(応安5年)冬、大内家第24代当主で中国の文化、歴史にも造詣が深かった大内弘世公が招いた明・洪武帝の遣日正使・趙秩(ちょうちつ)。一年半あまり山口・古熊にあった守護所大雄山永興寺に滞在し、つれづれなるまま近辺の名勝地を訪れ、山口十境詩を作っている。
大内文化の最高傑作といわれる国宝の瑠璃光寺・五重塔の建立は70年後の1442年であり、この時には姿かたちはない。
◇十境
十境、すなわち趙秩が書き残した十か所の景勝地とは以下のとおりである。大内から宮野にかけた風景が描写されている。
1氷上(ひかみ)の滌暑(じょうしょ)(大内氷上)
2南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)
3象峰(ぞうほう)の積雪(大内川向)
4鰐石(わにし)の生雲(せいうん)(鰐石)
5清水(せいすい)の晩鐘(宮野下恋路清水寺)
6初瀬(はつせ)の清嵐(せいらん)(宮野江良)
7虹橋(こうきょう)の跨水(こすい)(天花)
8猿林(えんりん)の暁月(古熊)
9梅峯(ばいほう)の飛瀑(法泉寺)
10温泉の春色(湯田)
◇乗福寺
十境詩は漢詩で作られている。このうち乗福寺を舞台にした漢詩を紹介する。なお、漢詩の注釈については山口高校の教諭をされた荒巻大拙氏の著作「明使趙秩と山口十境詩」に詳しい。
この乗福寺は22代の大内重弘が建立し、大内氏の菩提寺のひとつとなっている。境内には大内氏の祖と伝えられる百済国の琳聖太子の供養塔のほか、上田鳳陽先生の墓もある。
上記2の「南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)
(南明とは南明山乗福寺のこと。秋興とは秋にもの思うこと。)
金玉樓臺擁翠微
南山秋色兩交輝
西風落葉雲門静
暮雨欲來僧未完帰
金玉の桜台、翠微を擁し
南山の秋風、両(ふた)つながら輝を交ふ
西風に葉を落とし、雲門静かなり
暮雨来らんと欲して、僧未だ帰らず
この詩を読んだとき、乗福寺の住職は明国に渡っており、不在であったという。
◇倫子の方
大内氏の中で最も隆盛を誇り最後の当主となった大内義隆だが、一時は厚い信頼を寄せた家臣、周防守護代・陶晴賢(すえはるかた)の謀反から自刃に追い込まれた。この義隆の側室が倫子の方だ。義隆の重臣であった長門の内藤興盛の娘である。
義隆の没後、倫子の方が哀しみを紛らわせるために出かけたところが上記8の猿林(えんりん)で、現在の上山口駅の南方、鰐石川の東にある古熊神社一帯の山林だ。
ここには父・内藤興盛の墓もあり、義隆との間に生まれた鶴亀丸を連れて訪ねたようだ。
猿林(えんりん)の暁月(古熊)
曙色初分天雨霜
凄凄残月伴琳琅
山人一去無消息
驚起哀猿空断腸
曙色初めて分(あきら)かなり 天の霜をして雨(ふ)らしむると
凄々たる残月、琳琅を伴ふ
山人ひとたび去って消息なし
驚起すれば哀猿(あいえん)空しく、腸(はらわた)を断つ
当時はまだ野猿がいたのだろう。静寂の山林に響く野猿の鋭く甲高いなき声。断腸の哀しみを抱く胸に呼応する。
断腸の哀しみとは何を指すのか。
作者趙秩は大内弘世に招かれた時、日本が南北朝時代の混乱のため博多に抑留されていた。遣日正使としての役目を果たすことができないまま無念の日々を送っていた時のことを思い返していたのかもしれない。
倫子の方も断腸の哀しみの中で、我が子を連れ古熊・猿林を訪れていたようだ。
昨年(2021年)11月、山口・竪小路で行われ、我々の同窓澁谷氏、香原氏が活躍した「まちなみアート」。
イメージキャラクターに選ばれたのが女優・タレントの青山倫子女史であった。
倫子さんには山口との縁が続いてほしい。
(学23期kz)
いつの間にか50年の月日が経った。頻繁に日本橋の山口館で、御堀堂の外郎やフグ竹輪や地酒を買う今、懐かしい味覚が当時を思い出させてくれる。
1971年~75年の在学時、松風寮に1年、緑町の山の麓にある下宿に3年いた。近くに朝からオープンの清水温泉があって窓から太陽の光が差し込んでいた。愛おしい時間と豊かな空間がそこにあった。なんと贅沢な暮らしだったのかと思う。20歳の誕生日、夜中にサビエル教会前の広場に出かけた。星空を眺めて未知のこれからの自分を想った。
中高にかけて運動部だった私は “大学では別のことを”、そんな思いを抱いていた。或る日、美味しいお好み焼きを作ってくれる独身の先生がいるから一緒に行かないかと寮の友人に誘われた。教育学部の星原忠雄先生だ。声楽をイタリヤで学ばれた関西人で40代だった。発声練習にも加わった。サビエル教会で響き渡る自分の声は格段に違った。声に魅せられた瞬間である。運動部で鍛えた腹式呼吸が役立った。そして、ワグネルコールへ入部、混声合唱団へ統合し卒業まで指導を受けた。先生のおかげで楽器店、函館のトラピスト教会、上智大学の神父様等とご縁を得た。
一方で、SRC(シニア・レッド・クロス)の創立メンバーにと誘われた。東京海上へ就職した経済学部同期のK君である。大学紛争もあり休講が増えていた時期、2刀流となった。老人ホームや孤児施設への訪問、スポーツ競技会開催等が活動である。社会人や、看護学校との交流もあった。介護施設運営の会社や、看護ステーションの創設支援に今も関わっているのは、当時の経験や残した思いからかも知れない。
別の意味でも山口での生活は人生に光をくれた。歴史や大自然との関わりだ。寮は鴻ノ峰の麓で事務長から松陰の言葉が記された色紙を入寮時に頂いた。自分で考える時間をしっかり持てとのメッセージだ。だから寮はすべて一人部屋だったが、入寮当日の「ストーム」で一旦カギは壊され、いつでも誰にもオープンで行き来自由の個室となった。春は鶯のささ鳴き「ケキョ、ケキョ」で目覚め、昼は平川の広い畑で空高く群れて鳴くヒバリを楽しむ中原中也の世界だ。一の坂川の源氏ボタル、畑路の彼岸花、別世界の秋の長門峡、雪の日に静かに語りかける瑠璃光寺五重塔、鳳翩山、雪舟庭、人と自然との語り合いのあった街だと今でも実感している。七色の煙が五市合併の象徴の北九州市出身の私にとって山口は“桃源郷“だったのかも知れない。
(学23期 H.Ⅿ)
私は、町には物語があると思います。
大学に入学して、山口は小さな田舎町に見えました。しかし歴史を紐解くと、中世、14世紀半ば大内氏が京都を模して建設し、堅小路周辺には大内氏の遺構が残っています。関ヶ原に負けた中国の雄・毛利藩は防長二州に縮小され、藩都は山陰の萩に移されました。
山口には萩藩主参勤交代の定宿や毛利家の菩提寺があります。年縞を重ねても途絶えることはなく、寂れていない。幕末に藩庁が萩から山口に移されました。政治の動乱の中、周防と長門の地理的中心の立地が重視されたのです。明治になっても廃藩置県で県庁が置かれました。典型的な政治都市で、徳山・防府や下関の経済都市と分離するという少数派の施策で生き残りました。
比較する江戸東京は、巨大都市であり、政治経済国際都市でした。都市の基盤は河川と鉄道のインフラにあると思います。鉄道の話をすると長くなるので、河川についての想い出を語ります。
私は、大学を卒業後、総合電機メーカーに就職しました。配属先が、神田川河岸の神田須田町にある本社分室の電子半導体営業部門でした。初めて営業を担当した顧客先は三多摩地区の複数の通信工業メーカーで、当時は定期的に通うのが営業スタイルでした。
このうち二社は玉川上水沿線にありました。神田川(玉川上水)を開削したのは徳川家康の指示であること、都市づくり・江戸の町づくりの歴史的意義と行政の重要さを知りました。エジプトはナイルの賜物と言いますが江戸東京は多摩川、荒川、江戸川の賜物です。
私は雲取山登山の下山時、多摩川源流に行きました。利根川は江戸川と分岐していますが江戸時代に開削して銚子迄河口を作ったこと知りました。東関東支社在勤時、茨城県取手から犬吠埼迄ドライブしたことがありました。
また余談ですが、当方が伴侶を迎えたのがその玉川上水中流の小平市のアパートでした。家康の治水がなければ今の東京はないと思います。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」で家康公は再評価されたと思います。
(山口大学経済学部29期 K・Y)
その2 経営側の要因 ②
◆経営者の資質
日本では赤字を出した経営者の責任が、欧米に比べて軽いという指摘がある。
少し古いデータになるが、総務省が出した2012年時点の欠損法人割合の国際比較をみると、我が国は72%となっており、米(46%)、英(48%)、独(56%)、韓国(46%)と比べて高い値になっている。
日本の経営者には「サラリーマン経営者」が多く、このため何が何でも自分の代でコストを見直し、赤字を解消し、利益を上げ、黒字体質を作り上げるという気迫ある社長が少ないのかもしれない。
大企業であっても、一代で築き上げた大物社長の場合、後継者に経営トップとしての地位を譲っても、業績が悪化すれば、経営トップとして再登板することがあり、つい最近もそのことが新聞に報じられた。
◆取締役会
社長の側近で構成される取締役会。この取締役会が、社長が経営者のトップとして降りかかる難題に取り組み、意見の隔たりを調整しながら新たな方向に事業を向かわせ、企業のパフォーマンスを上げていくよう助言し、また監視していく役回りとして十分に機能すれば問題はない。
しかし「お飾り」であってはいけない。
生え抜きの取締役にあっては、自分が社長になった時のことを考えて現社長への諫言を遠慮してはいけない。
また、企業の外部から呼ばれた取締役にあっては、「名ばかり取締役」になってはいけない。他企業で名を上げた経営者、学識経験者、経営に明るい女性などを揃えたは良いが、リーダーとしての社長に取締役が苦言を呈すべきときに沈黙しては意味をなさない。
しかし、我が国では、これがなかなか難しい。
リーダーへ苦言を呈することはなかなか勇気が要る。近世では主君に諫言を呈した気骨ある側近が自害させられた例もあるほどだ。
そもそも、こうした苦言を呈する者は内部であれ、外部であれ、取締役に選任される確率は低いのではないか。
日本には「和をもって貴しとなす」という社会風土がある。相手を傷つけ、自分も傷つく「争いごと」を嫌うのだ。
◆人材と人財
次稿では、生産性の上昇を阻む要因として労働側の要因を考えるが、その前に、経営サイドが労働側、すなわち人材をどのように認識しているのか考えてみる。
経営の分野では「人材」ではなく、「人財」という用語を用いることがある。
しかし企業会計をみると、「人財」という用語が使われる割には、ヒトは資産ではなく費用として処理される。
従業員を大事に扱い、従業員の満足度が高い企業の生産性が高いとことは多くの調査結果が示している。大事に扱われた従業員はその企業への忠誠心を高め、仕事へのパフォーマンスが上がり、また自分の周辺の仕事にも目配せするようになり、会社への定着率も良いという好結果がもたらされるのだろう。
利益を出すのに、賃金を削るという「引き算」ではなく、従業員を大事にすることで企業の生産性が上がり、利益が上がるという「足し算」によって、結果的に賃金も上がるとの報告例が増えているのだ。
働く者を大事に扱うとはどういうことか。
イタリアのある村に、昼休みを十分に与え、企業内に劇場や図書館も設けることなどを通じ労働者に働く尊厳を与える企業があり、ここでの賃金水準は同業他社の2割増しという例が新聞に紹介されていた。アマゾン創業者のジェフ・ベゾス氏も視察に来たという。
これまでは企業の財務諸表や年次報告書ではモノ、カネに関する記述は豊富でも、ヒトに関する情報の掲示は手薄だった。しかし米国は2020年8月に人的資本に関する報告が上場企業に義務付け、人材育成の取り組みも投資家の判断材料としてのウェイトが増している。
かつては従業員の福利厚生に厚いのが日本企業の特徴であるというのが経済学・経営学の国際的な「通説」であったが、バブル崩壊を契機とする日本経済の長期停滞と共に従業員の福利厚生は目に見える形で削られていった。
労働力人口が減少している日本。現在、世界では外国人労働者の取り合いになっている。労働者を大事にする企業でなければ利益は上がらず、海外からも人は来てくれない。
(学23期kz)
その2 経営側の要因 ①
OECD(経済協力開発機構)の統計でみると、2020年の日本の平均値賃金は35か国中22位。隣の韓国と比べると、日本は2015年に既に韓国に抜かれ、その後両者の差は開き、2020年時点の日本の賃金水準は、韓国の77%というショッキングな状態になっている。
これではいけない。
前回は賃金上昇を阻むマクロ面の要因を取り上げたが、ここからはミクロ面、あるいは制度的な面に焦点を当て、本稿では経営側の要因について検討する。
◆上昇しない日本の生産性
賃金を上げるには生産性を上げることが鉄則になる。生産性を上げないまま賃金を上げた場合は、利益が押され、企業経営は立ちいかなくなるからだ。
生産性とは何か。雇用者が一人・時間当たり、どれくらい稼ぎ出すかという指標だ。
長年、生産性向上の必要性が多くの有識者によって指摘されてきたが、日本の生産性はほとんど上昇していない。
これはなぜか。
これまでの経営や労働のスタイルを変えることができず、止めることができないのだ。これまでのやりかた、在り方からの変更を嫌う保守的な姿勢がなかなか変わらない。
以下では、生産性の上昇を阻む要因として考えられるものをとりあげる。
◆適正な価格設定ができているか
利益が出ない、すなわちカネをとれないところに事務量を過分に注ぎ込み、特にカネのとれる「サービス」に対してカネをとっていないのではないだろうか。
日本の経営慣行が国際ビジネス慣行とズレていることはこれまでも指摘されてきたところだ。
日本の製品やサービスに対する価格設定(プライシング)が国際基準と合っていないことはこれまでも指摘されている。すなわち日本では「サービスです」といった場合、対価の支払いを求めない。サービスはタダ、すなわち料金を取らない慣行があり、「サービス」と「タダ」は往々にして同義だ。
そのサービス料金が品物の価格に上乗せされない分、価格が安価になっており、生産性の上昇を阻む要因となる。
◆過剰品質のおそれ
本質的な品質に関わらない箇所に事務量を注入していることはないか。すなわち過剰品質の問題だ。
かつてよく言われたのが茶碗の裏側。見えないところ、使用されないところにまで気を使って仕上げられている。
さらに、良すぎる商品の品揃え、またその結果としての売れ残りによる商品廃棄率の高さもSDGsの観点から問題になってきている。
電気製品の多すぎる機能もそうである。日本の優秀な技術者は、技術の粋を集めて高品質の製品を作り上げる。これは高度に鍛えられた技術者が陥りがちな罠で、技術者から見れば、製品が売れないのは「この価値が分かっていない」と不満を述べるが、消費者はそこまでの品質を求めていない。こういう過剰品質の場合が往々にしてある。
◆脱却できない過去のビジネスモデル
高品質の製品を薄利多売するビジネスモデルから脱却できていない例が多いようだ。
確かに、過去においては一世を風靡したビジネスモデルであったが、時代が変われば、競争相手が変わり、消費者の世帯構成や好みも変わる。これに合わせてビジネスの在り方を変えていくのが常道だ。
日本と同様、製造業を大事にする国ドイツでは、顧客へのイノベーション提供を大事にする。顧客の利便性を高め、顧客の利益に貢献する技術革新を大事にするのだ。またモノ作りでも顧客のニーズに合わせた各種サービスを提供し、顧客の問題解決に資する製品・サービスの提供を行うことで利益率を高めているという。日本の大企業の中には「ソリューション」という名を付したセクションも見られる。こうした顧客への問題解決型サービスは高い付加価値を生み、利益向上、すなわち生産性の向上につながるが、ここに至るハードルは高い。
なぜか。
ここには優秀な従業員が必要だからだ。顧客は日本国内ばかりではない。外国企業へも寄り添い、問題を分析し、顧客企業の利益向上に貢献できるような製品とサービスを提供する必要があり、それに対応した語学に堪能で、顧客の問題解決に寄り添う優秀な人材が必要だからだ。
「名ばかりソリューション」のセクションにならないようにしたい。
◆儲からない事業の温存
儲からない仕事はやらずに、儲かる仕事に経営資源を注入するという当たり前のことが行われていないのではないか。これがなかなか難しい。経営トップの判断ひとつで舵を切れるはずだが、これができない。
これまでの仕入れ先、販売先との長年の付き合いがあるからで、こうした硬直的な契約が利益を抑え込んでいる場合がある。
長年の付き合いで、儲からない仕事や高い仕入れ価格に悩んだ企業が、経営者が(特に外国人社長に)変わった途端に業績が回復した日本の有名企業は少なくない。
◆配置転換の逡巡と難しい解雇
使えなくなったスキルの低い労働者をどのように扱うのか。非正規労働者の場合はさておき、解雇はしない。大企業ほど解雇は事実上できないのだ。こうした人員を会社にとどめておけば、利益を圧迫する。
では、新たな仕事に必要な人材はどうするか。新たに雇用するのだという。
企業にはこうした解雇できない「余剰労働者」が400万人おり、有力な人財系シンクタンクの見通しでは2025年に500万人に増えるという。
望ましいのは、こうした雇用者が新たな技術を身に付け需要の高い分野で新たな職を得ることだ。
これには「学び直し」=リスキリングが必要であり、この必要性が叫ばれているが、日本では他の先進諸国に比べて学び直しに消極的だ。学び直しについては別稿で述べる。
(学23期kz)
湯田温泉駅で見たその先輩は、まだ春だというのに赤銅色に日焼けしていた。バッグからラケットのグリップが覗いている。まぶしく見えた。
山口に行くことを決めたもののまだ鬱屈した気持ちをぬぐえなかった私は、大学ではスポーツをやりたいと強く思った。
中学・高校と何もしてこなかった者が運動部に入ることは容易ではない。消去法でワンダーフォーゲル部に入部した。週4日およそ1時間のトレーニングであることも魅力的だった。(その後、土日は山に連れて行かれ、月曜日は体が痛くて動けないことを知った。)
新人歓迎登山で鳳翩山の麓にテントを張り夜更けまで楽しく語らった後、さあ寝ようとなった時、女性の先輩が当たり前のように自分の隣に寝たのには驚愕した。寝袋で隔てられているが横に女性がいる。緊張で眠れなかった。(その後、すぐに慣れたが・・)
因みに、テントに定員オーバーで寝る時は、リーダーは「目刺し」と指示をする。その時は頭と足を交互に並んで寝る。この時気を付けておかないと寝相の悪い隣人の足で頭をけられることがある。女性だっていびきもかくし、寝相の悪い人もいる。人生をちょっぴり知った。
1年生最大の試練は5月下旬にやってくる「錬成」だ。1泊2日の行程で山に連れて行かれるのだが、1回目は25㎏、2回目は30㎏以上の重さを担いで山を歩き通さねばならない。部室に風呂屋の体重計がある意味がやっと分かった。与えられたリュックサック(キスリング)を見てその大きさに驚いた。金大中を拉致したリュックサックとはこれに違いないと思った。
担いだ当初は何とかなりそうに感じた重さだが、1時間2時間と経つうちに肩に食い込んでくる。3時間4時間もすれば発狂しそうな苦しみになってくる。何度大声を上げそうになったことだろう。(その後、社会人になって「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし=家康」を知るのはまだ先のことである。)
段々腕がしびれてくる。休憩で荷物を降ろせば回復するが、徐々にその回復も鈍ってくる。いわゆる「ザック病」だ。私は結局このために夏合宿に行けなかった。
夏休みが終わって復帰するかどうか迷ったが、同期が皆誘ってくれた。優しい仲間だった。それからは、怪我をしない体づくり、山でバテない体づくりを目指して日々のトレーニングに打ち込んだ。年が明けて屋久島での春合宿、そして初めて参加する南アルプス縦走夏合宿を余裕をもってこなすことが出来た。やっと同期の仲間に追いつけた気がした。
(元ワンゲル部 A)
以上

50年ぶりの巡り会い
◇ラジカセで切り取ったシャンソン
学生時代のアルバイトで手に入れた「ラジカセ」・・・最近では、もはや死語になっているかも知れない。
ラジオと一体となったカセットテープレコーダーだ。買った当初はニュースや知識を録音し、繰り返し聴いた「魔法の器械」であり、世界の半分を手に入れたような気がした。
刻々と変化する世界を伝えるニュース、語学をはじめとする各種教養講座、極東米軍対象とした英語のFEN放送のほか、当時ヒットした曲もカセットテープに録音し、繰り返し聞いた。
カセットテープが擦り切れたり、摩耗したり、巻き付いたりしたが、その度に「セロテープ」で繋ぎ合わせて繰り返し聞いた。
◇切り取ったシャンソン
ある音楽番組で、哀愁を帯びたフランス語のメロディーが流れてきた。私の琴線に触れる好みの曲の調べ。この曲の録音は”MUST”だと脳髄から指令が飛ぶ。録音可能スペースのあるカセットを慌てて探し、録音操作を終えた時は曲の前半3割ほどが流れ去っていた。
中途半端に録音されたその曲を繰り返し聞き、意味が解らぬまま、それらしく諳んじて口ずさむ度に、その曲が醸し出す世界に吸い込まれ、埋没していった。
私の第二外国語はサイレントの入る仏語を避けて独語を選んだ。歌に出てくる仏語で理解できたのは“maison” (家)、もう一つは大サビで出てくる“toi e moi”(あなたと私)くらい。
録音操作が遅れたことが、その後50年、曲を探してさまようことになるとは、この時思ってもみなかった。
メロディーが浮かぶ度に、どうしてもこの曲名が知りたくなってレコード屋に足を運び、店員に私の鼻歌メロディーを聞かせたが、50年も前に流行ったシャンソンを分かってくれる優れ者の店員は一人もいなかった。
◇街角で流れてきたあの曲
今から10年前くらいになるだろうか。街角で哀愁を帯びた“あの曲”が聞こえてきた。眠っていたものに再び火が付きインターネット検索するもヒットしない。
それから間もなくとうとう見つけた。
ミッシェル・デルペッシュの「哀しみの終わりに」。you tubeの中で。
原題は<La maison est en ruine>
洪水で家を流されたカップルが、仲間に元気づけられ、元気を出して立ち直ろうとする姿を描いた曲だ。
東日本大震災の時にデルペッシュ自身がいち早く東北の被災地にメッセージを寄せ、日本人によるカバー曲が復興の応援歌となったそうだ。
50年の時を超え巡り会えたシャンソン。時を超え、国を超えて震災で打ちひしがれた人々に寄り添い、励ます応援歌となった。
街角であのメロディーが聞こえてきた時とは、いまから考えると東日本大震災の直後だったのかもしれない。
◇パリの大洪水
こうした曲を生んだデルペッシュの故郷フランス。頻繁に洪水に見舞われるのだろうか。
しかし、自然災害はほとんどないという。大洪水が起こったのは1910年、今から約100年前だという。
それに比べて日本は地震、台風、土砂崩れ、洪水、津波、噴火と各種自然災害が多く、フランスほど建物も頑丈にはできていない。それでも日本人は、何度も何度も立ちあがってきた。何事もなかったような顔をして。
日本人は逞しいのだ、本来は。しかも相当に。
(学23kz)