山鹿流兵法

山鹿流兵法

多くの者に影響を与えた江戸時代の儒学者、山鹿素行(以下「素行」と略す)。朱子学の徒であったが、朱子などの注釈によらず、孔子、孟子の原典に戻り、本来の教えを取り込みながら実践的な儒学と兵学を融合させようと試みる。

◇乃木と松陰

若き頃、乃木希典(まれすけ)が学問の道を夢みて、親戚筋でもあり、吉田松陰の叔父にも当たる兵学者・玉木文之進が始めた松下村塾の門を叩くが、玉木が教えていたのも山鹿流兵法だ。

乃木にとって松陰は塾の同門で、兄弟子にあたる。しかし、吉田松陰が伝馬町で獄死した時、乃木は10歳。両者は塾で重なってはいないが、塾には松陰の存在が色濃く残っていたはずだ。

◇氷川神社

今回の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)では毛利藩下屋敷があった檜(ひのき)町公園を振り出しに、氷川神社に向かう。

氷川神社は備後国三次(みよし)藩浅野家の江戸下屋敷があったところで、忠臣蔵の赤穂藩浅野内匠頭長矩(ながのり)の正室阿久里(あぐり)はここを「実家」とする。松の廊下での出来事ののち、赤穂藩浅野家は改易となったため、阿久里は実家に引き取られ落飾して瑤泉院と称し、夫の菩提を弔う傍ら、四十七士の遺児の赦免に尽力し41で没する。

◇素行と浅野家

では忠臣蔵の当事者である浅野内匠頭長矩及び筆頭家老大石内蔵助義雄(よしたか)と素行との関係は如何。その実、関係は深い。

素行29の時、縁あって赤穂藩江戸屋敷に出向くが、このとき江戸の赤穂藩浅野家藩主の長直は素行の門下生となる誓書を出している。この素行、44にして独自の儒学体系を記した「聖教要録」を著すものの、徳川の官学たる朱子学を否定したとして45の時、流刑を申し渡される。この流刑先が赤穂藩浅野家であった。

そのとき赤穂藩の大石は9歳と幼い。また、大石の仕える浅野内匠頭長矩が江戸の藩邸で生まれたのがその翌年にあたる。

赤穂での素行の住居は大石邸内と定められた。というのも大石家は赤穂藩の名家。大石内蔵助が19で家老見習い、21で筆頭家老となるほど赤穂家筆頭家臣の家柄だ。素行は大石が18になるまで赤穂藩に留まり、謹慎中のゆえ藩士に教授することを控え、その代わり幼少の子息相手に教えていたという。大石との関わりがないはずはない。

さらに、素行が刑を解かれ約10年ぶりに江戸に帰ると、待っていたのは3代目藩主になったばかりの浅野内匠頭長矩。従って、素行は赤穂で10年間大石を教え、江戸に帰ってからは長矩を支えることに相成る。

               ◇義挙も山鹿流

改易となった浅野家。後を任された大石はその後山鹿流兵法を活用して事にあたる。浅野家再興と吉良上野介の咎めという二方面戦略。これが「一向二裏(いっこうにうら)」。討ち入りでも、正面、背後の二方向から敵を突いたのもその手法。また、討ち入りの覚悟を再確認するいわゆる「神文返し」も山鹿流。義挙をなした後、泉岳寺まで追手をかわす逃走の経路取りも然りとされる。

忠臣蔵でも実践的に活用された素行の兵法。素行は当時、流行った中国になびく中華思想に異を唱え、万系一世の天皇を頂く日本こそが中朝(中華)であるとした「中朝事実」を著す。この著書を愛読書の一つとして裕仁皇太子(後の昭和天皇)に捧呈したのが、学習院院長で皇太子の教育係、殉死する直前の乃木希典であった。 (元山口大学経済学部生 K)

乃木大将その2

乃木大将 その2

乃木希典(まれすけ)は周りの人物を虜にする不思議な魅力を持っている。軍人の中でも「乃木のためなら死ねる」という兵士が多くいたという。

◇無私

我欲を卑しみ、私欲を嫌う。日清戦争時、厳冬の旅順で、司令官に与えられる特別誂えの防寒外套の支給を拒み、また食事も一般兵と同じものを食したという。

日露戦争で多くの犠牲者を出した際には「愚将」との批判が渦巻いた。しかし、乃木が戦場で長男と次男の二人を相次いで亡くしたことが世間に知れると、「一人息子と泣いてはならぬ。二人亡くした人もある」との俗謡まで流行り、乃木への批判がぴたりと止んだという。

◇やさしさ

戦後、乃木は折を見ては手土産を持ち、負傷兵を慰問したという。ある兵士には天皇から下賜された金時計と同じ作りで、音が鳴るように細工を施したものを渡している。両腕を失った兵には自らが考案に関わった「能動」義手を手配した。負傷兵がその義手で乃木宛に礼状を書いてよこした際に、乃木は「大いに喜んだ」とされる。しかし、乃木将軍のことだ。人前を避け、おそらく慟哭(どうこく)したに違いない。

また、心根の優しい乃木は目に触れた弱者を放ってはいない。今回の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)で回る乃木邸には、金沢で偶然出会った辻占(占いの入った菓子)売り少年と乃木の像が立っている。幼き時に父を亡くし、8歳にして一家を支えるこの少年へ当時の大金2円を持たせ、立派な人間になれと励ます。この少年の名は今越清三郎。長じて金箔職人として名を馳せた。

◇外国人もとりこに

乃木は、近くで接した外国人も魅了する。敗北した敵将、ステッセルとの会見で帯刀を許した乃木。また、乃木は彼の死刑回避に尽力し、彼が流刑となると、取り残された家族に生活費を支援し続けたという。

また、乃木と行動を共にした若き米国人従軍記者のウォッシュバーンは、乃木を“Father Nogi”と呼び、乃木を人情が美しく、武士道を体現した立派な軍人として描いた本を出版する。タイトルは「皇国日本」でもなく、「日本陸軍」でもなく、「Nogi」。海外の軍人の間で有名になり、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサーもその著作に胸を打たれたという。また、父アーサーは旅順要塞戦で観戦武官として乃木に間近に接したこともあり、息子に「武士道の具現者たる乃木のごとき軍人たれ」と常々言い聞かせている。

その息子、ダグラスは第二次大戦後、日本に着任し、向かったのが乃木神社だったという。彼が着任した翌年、乃木邸に植樹したアメリカ・ハナミズキ。今では邸内で大きく枝を伸ばしている。

(元山口大学経済学部生k)

乃木大将その1

乃木大将 その1

乃木希典(まれすけ)の父、稀次(まれつぐ)は長州藩の支藩である長府藩の江戸詰め藩士であった。このため乃木は長府藩上屋敷があった麻布で生を受け、赤坂(乃木邸)で没する。乃木が最初に長州・山口に向かったのは、父が帰藩を命じられた9歳の時。山口に身を置くのは元服を挟み19歳までの10年間だ。

◇学者への夢

希典(まれすけ)の幼名は無人(なきと)。弱虫であったため、名に掛けて「泣き人」と揶揄(やゆ)されたようだ。両親が無人を厳しく育てる様子が、昭和初期の国定教科書に載ったという。私も母から幾度となく聞いた。両親は軍人として勇ましく育ってほしかったのだろう。

だが、無人は学者の道を夢見る。自然が好きで、情緒豊かな乃木。己の向き、不向きを悟っていたからであろう。乃木が萩で塾を開いている親戚筋の兵法学者・玉木文之進の門を叩くのが15の時。

◇軍人乃木

しかし、世は幕末。第二次長州征伐が始まった頃にあたる。長州報国隊として幕府軍を迎え撃つ立場で戦の奔流に組み込まれていく。乃木が本格的に軍人としての経歴を積み始めるのが、22歳の時からだ。その後、西南戦争、日清・日露の両戦争を経て「軍神」となる。

乃木の性格は清廉実直、無私無欲。器用な男ではない。軍人としての資質について時には「愚将」「戦(いくさ)下手」との評価も下されたが、そうした声には言い訳はしない。行政官としてはどうか。台湾総督時は政策運営の失敗、部下との軋轢から短期のうちに職を辞している。同じ長州の桂太郎のように政治に近づくことを嫌い、さらなる出世につながる軍中枢への誘いも断った。

乃木の夢は学者であり、教育者である。漢詩や和歌をよく嗜んだという。また、ユーモアも備えており、戦場での束の間の憩いのひと時、即興の都々逸(どどいつ)で場を沸かせたことが多々あったようだ。

◇軍服を愛した乃木

39歳で1年半ドイツに留学するが、ドイツから帰った後の乃木は謹厳・質素を徹底、奢侈(しゃし)を嫌い、軍服姿を常としたという。

軍服姿をこよなく愛した乃木。軍服姿の乃木は軍人であること、また勇ましくあることを願った両親への孝行だったのではないか。さらに内面弱き乃木にとって、己の身を包み隠す格好の出で立ちではなかったか。

武士道を体現したとされる殉死。乃木は軍服のボタンを外して腹を切った後、ボタンを掛け直し、隙のない軍人姿として果てたという。

(元山口大学経済学部生k)

人生のバドミントン

           人生のバドミントン

わたしは1960年代、山口大学経済学部に入学した。

高校時代、友人とバドミントンを楽しんだ経験があり、

バドミントン部に入部した。

 練習はけっこうきつかった。

新入部員はシャトルを打つ練習はできない。亀山公園の坂道ダッシュ。

そしてランニングとラケットの素振り。単調できつい練習の繰り返し。

退部する新入部員もいた。

だが、わたしはずっとバドミントンをやると決意して

入部したので、やめなかった。

          ◇強豪校を撃破

 3年で主将になった。チームは中国・四国・九州大会に出場した。

国立、公立、私立の大学が参加する大きな大会だった。

チームは1回戦で福岡県の大学チームと対戦。勝利した。

2回戦では熊本県の強豪大学チーム(優勝候補)と対戦した。

苦戦したが、なんとか撃破した。忘れられない試合だ。今でも鮮明に覚えている。

この大会で山大バドミントン部は4位に入賞した。国立大学の快挙に他の国立大学の部員からも「おめでとう」と祝福された。

 ◇70歳代でも現役選手

 会社に就職後も、バドミントンを断続的に続けていた。だが、転勤などもあって、しばらく中断した。55歳で地元・千葉県松戸市の市民クラブに入った。

男は定年退職後、地元で行き場所を探すのが難しいというが、わたしにはバドミントンがあった。退職後も週3~4回、地元で練習している。練習で汗を流すのは気持ちいい。すっきりする。

同年齢の仲間が4人いる。お互いに励まし合いながら、練習で汗を流し、大会にも現役選手として出場している。

 人生の仲間ができた。山口大学でバドミントンに出合ってよかったと思う。

            (山口大学経済学部19期生)