ボランティアガイドの効用

        ボランティアガイドの効用

            ◇歴史散策

数年前に会社を定年退職して、膨大な余暇を前に何をやろうかと考えた。

何を始めるにしても条件はお金がかからないこと、地元の仲間ができること、自分の興味に適したこととした。その結果、たどり着いたのが地元の歴史散策ガイドである。

            ◇横浜市都筑区        

現在、住んでいる横浜市都筑区は横浜市の北部に位置し、東京にも近い。都筑区と言っても馴染みのない人が多いだろうが、都筑郡という地名は律令時代から昭和初期まで1200年以上使われたもので、その名前が平成6年の横浜市北部再編に伴う新区名として復活したものである。

都筑区の特徴は計画的に開発したニュータウン地域と農業専用地区が分かれているが、開発から免れた地域や古い街道(大山街道、中原街道など)周辺には神社仏閣、旧家など古俗もかなり残っている。都市計画により、15㎞に渡って車と交差しない緑道が街中を巡っており、安全な散策にも事欠かくことがない。

歴史的にも鎌倉から江戸時代にかけての文書、伝聞が多く残っている。

             ◇コース選定

以上の街の特徴を元に緑道や農専地区、古街道を織り交ぜて3時間程度で歩けるコースを数か所選定して参加者を募る。ガイドするためにはその予習も必要である。おかげで街の歴史には詳しくなった。知らないことや、疑問が湧いてきて夢中になって調べる楽しみもできた。その結果を仲間と議論したり、参加者に披露する場もある。

定年後は地域に戻ることでもあるので、地元に多くの仲間ができたことは喜ばしい。元気な間は少しでも長くボランティアガイドを楽しみたいと思っている。

(山口大学経済学部22期生)

古き、よき酒場「大万」②

        古き、よき酒場「大万」②

        ◇日本一安い(?)フグ鍋

1970年代、山口市道場門前に古き、よき酒場「大万」があった。

連日、学生や市民で、にぎわった。

店の壁には安くて、おいしいメニューがずらりと貼ってある。

おでんの一品、卵、厚揚げ、ちくわ、大根、じゃがいも、こんにゃく、ごぼてん・・・。

一品料理の餃子、玉子焼き、肉野菜炒め、湯豆腐、冷奴、肉じゃが・・・。

 寒い季節に登場するのが、ふく(フグ)鍋だ。

小さな鍋に骨付フグ、豆腐、そして白菜とネギ。

私の記憶が正しければ、580円だったと思う。日本一安いフグ鍋と評判だった。

骨にフグの白身がへばりついており、舌の先ですくいとるようにして食べる。

それでも十分、おいしかった。

 しんしんと冷える夜、友とフグ鍋を囲み、熱い酒を飲む。

 ああ、あの日に戻りたい。

 ◇メニュー順にどんどん注文

ある夜、私は後輩たちを連れて大万ののれんをくぐった。

アルバイトの収入がたっぷりあった。

 「よし、今夜はおれのおごりだ。メニューの端から順番に全部、

注文しよう」

 後輩たちは本当に順番にどんどん注文し、次々にたいらげていく。

だが、若い胃袋にも、限界というものがある。メニューの最後までたどり着くことはできなかった。あの夜の贅沢な宴・・・。今も思い出す。

        ◇消えた酒場

山口大学経済学部を卒業。永い歳月が流れ、山口を再訪した。

―今夜は大万で飲む。と、決めていた。日が暮れて道場門前を訪れた。

だが、古き、よき酒場「大万」は消えていた。隣の映画館「金龍館」(あの、仁義なき戦いを見た)も閉館していた。青春の酒場がない。喪失感・・・。悲しかった。

 いつ、大万は閉店したのだろうか。ご存知の方、教えて下さい。

               (元山口大学経済学部生 S )

古き、よき酒場「大万」①

        古き、よき酒場「大万」① 

          ◇初めて大万で飲む

1970年の春。夕暮れどきだった。

山口大学・鳳陽寮(当時、山口市亀山のふもとに健在だった)の廊下で

外出しようとした先輩(経済学部生)に声を掛けられた。

 「ちょうどいい。いっしょに飲みに行くか」

 「はい」(喜んで)

 先輩に初めて連れていかれたのが、山口市道場門前の

酒場「大万」だった。テーブル席とL字型のカウンター席。

おでんの湯気がもうもうとたちこめる。

わたしたちはカウンター席に座った。まずは瓶ビールを注文し、

飲み始めた。私が丸々太った女将さんに

初対面のあいさつをしたところ、いきなり、こういわれた。

 「あなたは 経済学部やろ」

 「はい、そうです」

 「やっぱ、経済の学生さんは、ちょっと違うね」

 そんなもんだろうかと思いながらも悪い気はしない。

     ◇経済学部生の試験心得

しばらく飲んでいると、隣に学生が座った。

彼もまた、経済学部の先輩だった。その先輩が

経済学部生の試験心得について語り始めた。

 「あのな、試験で、優なんか、とるもんじゃないぞ」

 「はあ」(なぜ、優をとってはいけないのか。私には理由がわからない)

 「といっても、不可は論外だ」

 「そりゃ、そうですね」

 「いいか、可が一番だ」

 「はあ」

 「経済の学生は可、可、可、可で全部、単位をとる。これだ」

私は先輩のいいつけをよく守った。 優は卒業論文だけ。他は、ほとんど可だった。

鳳陽寮の青春

◇入寮

1970年代、鳳陽寮は山口市亀山のふもとに健在だった。学生たちは伝統を誇る寮で暮らし、青春を謳歌した。

私が入寮したのは昭和45(1970)年春。旧制高校を思わせる蛮カラの気風が荒々しく、なにやら恐ろしく感じたものだ。

鳳陽寮は5寮で構成されていた。南寮、中寮、西寮、北寮、そして西北寮である。私は北寮2階の部屋を割り当てられた。北側廊下の窓ガラスはことごとく割れ、吹きさらしの状態だった。隣室の先輩の部屋には戸がない。真冬には雪が枕元に吹き込んだ。

それぞれの寮には独自の気風、伝統があった。寮長がいて、寮歌がある。ストームの流儀も異なった。   

4月、それぞれの寮で新入寮生歓迎会が開催される。最初に覚えるのが寮歌だ。

【鳳陽寮歌】

「花なき山の 山かげの

月も宿さぬ 川の辺の」

【山都逍遥歌】

「春を弔う落英か

朧(おぼろ)に流る 椹野川」

ときは春。一の坂川河畔の桜は満開だ。惣野旅館でしこたま酒を飲み、声高らかに寮歌を歌いながら、帰寮する。心地よい。ああ、快なるかな、快、快・・・。

◇ストーム

 コンパの後は、ストームだ。北寮寮長が寮務室でマイクを握り、館内放送する。

「ただいまより、北寮がストームを行う」

南寮の全寮生が勢ぞろいして待ち受ける。南北寮生がそれぞれの寮歌を歌う。そして最後に肩を組み、山都逍遥歌を高唱する。北寮生は南寮生の見送りを受け、意気揚々と次の中寮、そして西寮、最後に西北寮へと向かうのだ。西北寮の寮歌は“焼酎讃歌”だった。私は好んでよく歌った。

西寮のストームは独特だった。通称“パンツストーム”。西寮の寮長が館内放送でストーム開始を告げる。  

鳳陽寮は騒然となる。全寮生がそれぞれの洗面場に飛び出し、バケツに水をためて待機する。そこへ西寮生が走って来る。真冬でもパンツ一丁だ。盛大に水をかけ、大騒ぎとなる。

寮ごとの公式ストームとは別に個人ストームもあった。寮生は酔って帰寮し、高揚した状態で「ストーム」と叫びながらひと部屋、ひと部屋すべて回る。寮生は就寝中でも「ストーム」の声が聞こえると、布団をたたみ、正座して迎えるのが不文律だった。このとき、出身高校と学部、姓名を大声で名乗るのが流儀である。

「福岡県立〇〇高校出身、花の経済学部1回生、〇〇 〇〇」

経済学部生は「花の経済」と美称を付けて名乗る。経済学部生は誇り高かった。

  ◇寮生の日常

鳳陽寮は、自治寮だった。

学生が自らの力量で寮を運営していた。重要な事案は寮生大会で議論し、決した。

外部からの電話を取り次ぐのも学生(当番制)だ。館内放送で呼び出す。

「〇寮の○○君、電話です」

女子学生からの電話が入ると・・・。

「〇寮の○○君、お電話です」

違いがわかるだろうか。「お電話」が入ると、寮生は寮務室にバタバタと駆けて行ったものだ。

大食堂で食事をした。若い女性スタッフが献立を考えていた。スコッチエッグなど、しゃれた料理を初めて食べたのも鳳陽寮の食堂だった。

新入生向けに社交ダンス講習会も開かれた。ダンス上手の先輩が指導する。踊る相手は寮生(男子)・・・。1~2週間後、ようやく椹野寮生(女子)と合同練習を行うことができた。

酒を飲みに行くこともあった。道場門前の「大万」。日本一安いというふぐ鍋が名物だった。確か、580円だったと記憶している。

深夜、空腹になってくると、寮生たちは町に出かけた。行先は「蛇の目寿司」。寮生が寿司を注文することはまずない。カツ丼だ。うまかった。満腹になった。

  ◇寮祭

鳳陽寮が最高潮に盛り上がるのが寮祭だ。寮祭の準備は樽みこしを作ることから始まる。5寮がそれぞれ工夫して作る。

北寮生は一の坂川近くの造り酒屋(蔵元)に押し掛け、空いた酒樽を担いで帰る。続いて長い縄を寮の廊下に伸ばし、しめ縄を作る。寮生が総出で縄を持ち、先輩の掛け声に合わせ、より合わせていく。大相撲の横綱作りと同じ要領だ。作業を繰り返すと、太いしめ縄が出来上がる。

2本の竹の上に酒樽を組み上げ、しめ縄で括り付ける。笹の葉を飾って樽みこしの完成だ。

寮祭当日、寮生たちはみこしを担いで道場門前を練り歩く。市民があたたかく、迎えてくれた。そうだ。あの頃の山口は「学生さん」を大切にしてくれたように思う。

ところが、伝統を誇る鳳陽寮は老朽化が進んでいた。山口大学経済学部の平川移転も重なった。鳳陽寮は廃寮となることが決まった。

1970年代。寮祭が敢行された。寮祭最終日の夜、ファイアーストームが行われた。寮生たちは焚き火を囲む。全員、肩を組み、山都逍遥歌を高唱した。

通常は逍遥歌4番の「消えゆく鐘に目覚むれば 弦月白し鴻の峰」を2回繰り返して終わる。

だが、この夜は違った。何度も、何度も、いつ果てることなく繰り返した。鳳陽寮の終焉を惜しむかのように。若い歌声が鴻の峰に消えていった。

              (元鳳陽寮北寮寮長)

令和3年仕事始め

令和3年の正月を迎えました。

鳳陽会東京支部事務局は本日(1月4日)、仕事始めです。

同窓生の方から「今年をもっとよい年に」と記した

年賀状が届いていました。

東京の冬の空は青く、澄んでいます。

コロナ禍ですが、山大経済の絆を大切にして

明るく、元気に同窓会活動を展開できることを願っています。

            鳳陽会東京支部事務局