ザビエルのふるさと、バスク出張記

司馬遼太郎の「街道をゆく」で「南蛮へのみち」が取り上げられており、鳳陽会の皆様にもお読みになった方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

バスクはフランスとスペインの国境にそびえるピレネー山脈の東西に位置しており「南蛮へのみち」の題材となった舞台でもあります。

 バスクはフランスとスペインの強国に挟まれており諸々の事情で独立もままならず、今はスペインの自治州として独特の文化を有して存在感を示しています。

地政学的にはウクライナや朝鮮半島にも通じるところがありますが、幸い自由主義、民主主義が浸透している西欧に位置していることもあり戦火は免れています。

 ドイツに駐在していた頃、このバスク地方に度々出張する機会がありました。

 日本では美食の港街サンセバスチャンや牛追いで有名なパンパロナが良く知られており日本人観光客が多く訪れていますが、一方ではスペインでも有数の工業地域であることは知られておらず、意外に思われる方も多いと思います。

 デッユセルドルフから空路で1時間半の鉄鋼業の盛んなバスクの主要都市ビルバオに飛び、そこからレンタカーで2時間弱南下しモンドラゴンという都市を一泊2日の行程で訪れていました。モンドラゴンは労働者協働組合(coop)が発展した地域として知られており、工業製品から生活全般に亘る協働組合の成功例として世界中に紹介されています。

 モンドラゴンには欧州でも最大手の自動車向けを得意とする協働組合の鋳物会社があり、欧州一帯をマーケットに手広く活躍していました。この会社と業務提携の話を進めるのが出張の目的でした。

 日帰りの行程では無理でしたので一泊せざるを得ませんでした。宿泊は美食の港街サンセバスチャンを第一志望に望んでも、何時も観光客で混んでおり、泣く泣くビルバオに泊まるのが常でした。

 それでもビルバオはバスク第一の都市であり、賑やかな旧市街に雰囲気の良いバールや手軽に入れるレストランが沢山あって、夜の飲食を楽しむ事が出来ました。

 ご承知の方もいらっしゃると思いますがバスクは山口と縁が深いフランシスコ ザビエルの出身地でもあります。ザビエルはバスクの裕福な城主の子孫でバスク人です。青年時代はパリのカルチェ ラタンで哲学を勉強しており、その後バスクに戻りイエズス会を設立するに至りました。

 大西洋のビスケー湾に位置するバスクは好奇心旺盛な海洋民族でもあり、ザビエルもまたその血を受け継いでいた様です。

ザビエルのイエズス会は積極的に海外に布教活動を行ない、自身も宣教師としてインドのゴア経由で1549年に日本に初めてキリスト教を伝え、歴史にその名を残しています。

亀山公園に聳え立つ山口サビエル記念聖堂はサビエル来山口400周年を記念して1949年に建てられましたが、1991年に火事で消滅してしまいました。1998年に現代風なサビエル記念聖堂が再建されましたが、当初はモダン過ぎたようで以前の聖堂を懐かしく思われる方々も多かったと聞いています。そうは言っても時が経つにつれてモダンなデザインのサビエル記念聖堂も亀山の風土に馴染んできている様です。

 鳳陽会本部はこの亀山公園の一角にあり、すぐそばには県立博物館や美術館があります。

コロナ騒動もそろそろ収束しそうな状況で、海外からの観光客も日本への渡航制限が解除されてきています。

 青春時代を過ごした山口で旧友と同窓会を開催したり、あるいは奥方や家族を帯同して山口を案内するのは如何でしょう。

  <鳳陽会理事長 松永昭博(学21)>

 

米国での活躍を夢みて

<学生時代、就職、そして・・・>

山口大学経済学部2019年卒(67期)R.N.   

「将来はグローバルに、かつアメリカで活躍したい!」

そんな漠然とした夢を持ち、入学したのが山口大学でした。そんな漠然とした思いを現実にするために、試行錯誤した大学5年間(留学でプラス1年)だったと思います。

■大学生活のテーマは「アメリカ」

せっかく入った国立大学。4年間を無駄にしたくない。やるからには「スポーツ」「勉強」「留学」など、学生時代に出来ることは全てやってやるという強い思いがありました。

<スポーツ=アメリカンフットボール部>

「将来アメリカに行くなら、国技くらいは知っとかないとな」と思い、アメリカンフットボール部に入部しました。2年生の時QBをクビになったり、体重が軽く、よく先輩に罰としてボウズにされたり。。。振り返ると辛いことの方が多かったかもしれませんが、日々成長を感じられるアメフトは自分にとって非常に楽しく、悔いのない充実した4年間でした。悔しくて泣いたり、泥まみれになることが今後の人生であるのか。。。

<勉強=西洋経済史ゼミ>

「将来アメリカに行くなら、その国の歴史を知っておかないと」と思い、西洋経済史のゼミを選択。非常に指導熱心な教授の下、アメリカの建国から大国になるまでの経済史を学びました。普通のゼミとは異なり、3年間、毎週夕方18:00から24:00までみっちり活動をする特殊なゼミでした。教授とは現在でも交流があり(年賀状など)、私の”漠然とした夢”に行動指針を示してくださった尊敬する恩師です。

<留学=米国カリフォルニア>

アメフトを経験し、西洋経済史を学んだ上で、アメリカに1年間留学をしました。語学面の向上はもちろんのこと、「アメリカ建国を体験する」という目標を掲げ、西海岸のカリフォルニアから東のニューヨークまで約4000kmを2ヶ月かけ自転車で大陸横断を行いました。

結果、ロッキー山脈が越えられず、一部電車・バスを使いましたが。。。なんとか走破することができました。

■就職

米カリフォルニアに留学した理由として、「米国の最先端を見たい」という思いがありました。留学した当時、既にTESLAが走っていたり、Uberのサービスを受けられたり、”モビリティ”関連のサービスがアメリカでは一般的となっており、衝撃を受けました。

この経験から「モビリティ事業を通じて、グローバルに活躍したい!」と思い、モビリティ事業に力を入れており、かつグローバルに幅広い事業を展開するパナソニック(株)に入社することを決めました。

■その後

なんと入社2週間で彼女ができました(笑)。なんと彼女は、生まれも育ちも大学も東京、父親が元アメフト部、そしてアメリカからの帰国子女(しかもカリフォルニア)。1か月前の自分には想像もつかなかった出会いがありました。正直、研修中の松下幸之助の信条そっちのけでした。。。

奇跡的に2人とも東京勤務となり、22年1月に3年の交際を経て、結婚しました!

上がらない日本の賃金③ 

労働側の要因 その1

厚生労働省の統計によると、日本の平均賃金は1997年以降、上がっていない。むしろその時から10%も下がっているのだ。

新型コロナによる物流停滞やロシアのウクライナ侵攻を契機とする資源高に加え、円の対ドルレートが20年ぶりに一時130円を超え、生計費の上昇が見込まれる中、賃金が上がって行かなければ教科書的にはスタグフレーションが待ち構えている。

これではいけない。

本稿では日本の賃金の上昇を阻む、働き手側の要因について考える。

 ◆給料は会社任せ

1980年代の経済的成功により、あらゆる方面で日本が賛美された時期がある。労働制度、雇用慣行もその例に漏れず、終身雇用、年功序列、組合別労組のいわゆる「三種の神器」が日本的雇用制度として国際的にも評価された時代があった。バブル崩壊後もこうした雇用慣行が続いたことで、結果的に雇用の流動性が阻害されることとなった。

働く側の意識も「会社に任せておけば大丈夫。年功序列で給料は毎年上がって行く」という意識があとを引いた。

多少古いデータになるが、人材系シンクタンクが「仕事をする上で大切なこと」を問うた国際比較可能なアンケート調査結果(2012年)をみると、欧米諸国や途上国では「高い賃金・充実した福利厚生」と答えたサラリーマンが70~80%を占めたが、日本人の会社員は39%と突出して低かった。むしろ、賃金よりも「会社での人間関係」、「自分の希望する仕事内容」と答えた者が50%程度と、賃金は最重要の関心事ではないとの結果が示された。

 こうした回答結果は、日本では他の企業での賃金水準が必ずしも明らかではなく、自分の置かれている客観的な賃金水準についての認識がない、ということが密接に関係しているのかもしれない。

 雇用の流動性の低い日本では、同業種・他企業の賃金・福利厚生水準が一般的に比較困難であることが、会社に対して賃金引上げ要求を難しくしている面もあるのではないか。

 ◆学び直しに消極的

企業経営にあたっては、環境の変化に従って、利益の多いところでビジネスをするのが鉄則だ。

その際には雇用者をより付加価値の高いところ、より競争力の高いところといったところに配置転換することが避けられず、それに伴い、雇用者も新たな事業に即応したスキルを身に付ける必要がある。

こうした学び直しに積極的なのが北欧諸国だ。休職に追い込まれた北欧のサラリーマンがITを学び直し、米国の巨大IT企業で高給をとり、働き始めた例が先日新聞紙上で紹介されていた。

他方、日本では職業訓練というと暗いイメージがある。「失業ゆえの職業訓練」というイメージだ。

なぜか。

終身雇用の日本では一般的に就職と就社は同義語で「失業」とは無縁の社会であり、多少荒っぽい言い方をすれば、波はあったものの、高度成長期以降バブル崩壊まで学び直すこともなく、安泰ともいえる完全雇用時代が続いたる。このため、失業や転職に必要な職業訓練は、事実上例外的なものと位置づけられてきたのではないか。

しかし、事業環境が激しく変化し、他の先進国とも、また追い上げる途上国とも激しい競争を強いられる時代にあっては、学び直しをしなければ良い職を得られず、経営サイドも生産性上昇、それに伴う利益も期待できず、世界の潮流にも追いつけない。

各種アンケート調査結果でも、日本人は新たな分野の知識を習得する「学び直し」に対して消極的だという結果が出ている。

なぜだろうか。

これまでは職場の先輩がOJTで仕事を教え、新入社員は先輩に付いて仕事の仕方を覚えた。こうしたビジネスモデルが変わらないことを前提としたOJTは年功序列制度と相性が良かったのだ。

しかし事業環境が急速に変わったことに伴い必要な習得技術が変わり、先輩方はこれまでのように後輩にOJTで教えることが難しくなってきている。

最近ではこれまで先輩からOJTで育ってきた現在の管理職の層が、積極的に学び直しをする意識が希薄だとする

見方を目にする機会が増えたように思う。

(学23期kz)

私の就職活動

私は1978年4月に山口大学経済学部に入学した。
3年前に60歳定年を迎え、現在シニアとして同じ会社で気楽に働いている。約1年後の誕生日をもって65歳退職を迎える今、自分の就職活動について振り返ってみた。

就職活動を始めた時期
我々の時代の就職協定は、10月1日が会社訪問開始、11月1日が採用内定開始というルールであった。そのため、現在のように3年生のうちから就活についてそわそわすることもなく、のほほんと部活やバイトに精を出していたものである。また、パソコンやスマホがあるわけでもなく、一方的に送られてくる分厚い就職情報雑誌が唯一のとっかかりであった。

希望職種
 特に誇れるような特技、資格もなく、漠然とメーカー企業かなと思っていた。幸い、部活の一つ上の先輩2名が関西の大手電機メーカーM社に就職されていたので、8月頃から大学訪問と称して2週間置きに来山され、有望候補という評価で人事の方へ上げていただいていた。そのような中、夏休みで帰郷した際、中学、高校と一番仲の良かった友人(鹿大在学)と会った。彼の希望は保険会社。理由は勤務時間が短く、給料が良いからと。山口に戻り就職情報誌で調べてみると、確かにいい感じ。不純な動機ではあるがそこからM社と保険会社の二本立ての活動となった。

会社訪問解禁前日(9月30日)
 M社の方は先輩のおかげで、明日の朝一番でM社の会社説明会へ行き、採用担当役付者から内定を頂く運びとなっていた。一方、保険会社。9月に入り3社ほど会社訪問、先輩訪問をしたものの明確な手応えなし。30日の午後にN社に3年前に入社していたゼミの先輩からようやく下宿に電話があり、明日1日に湯田温泉のホテルで9時から会社説明会を行うから良かったら参加してみたら、とのこと。朝一番はM社へ行く旨を伝えると午後からでもいいよと軽い返答であった。

運命の10月1日
 朝一番、M社の会場へバイクで駆け付け、採用担当役付者と短時間の面談を受け、内定の方向の旨を頂く。しかし、自分としてはもう一つの第一志望であるN社の説明会も聞いてみたい旨を正直に伝え、会場を後にし、午後からのN社の会場であるホテルへ。
ゼミの先輩に初めてお目にかかり、26番目の来場者として採用責任者との面接を受けた。夕方までには結果を連絡するとのことで(ない場合は不合格)会場を後にし下宿へ帰った。それから2時間後、幸運にも電話があり、自分ともう一人の学生(すでに内定を数社獲得している強者)の2人に絞った、もう一度面接して決定したいとのこと。複雑な気持ちでホテルへ行き再度の面接。約10分後に内定の連絡を受け万歳!
でもここで礼を失してはならない。そのままバイクでM社の会場へ向かい、採用担当の方に丁重にお詫びをした。帰り際、駐輪場を出ようとしたところ、会場のビルの5階から“N社で頑張れよ~”と手を振りながら激励をいただいた。このシーンは今でも鮮明に覚えており死ぬまで忘れないだろう。
 その日の夜は内定食事会を開いていただき、その場で新幹線チケットを渡され、翌日にはN社本店の役員室で内定の握手をしたのであった。

振り返ってみて
 現在の就活状況と比べると、申し訳ないぐらい楽なものであった。特に、山大を卒業して40年間も勤めている会社が、結局たった1日程度で決まっていたというマンガみたいな話である。
ちなみに中学、高校の友人も同業のS社に入社したのであった。  
(学30期 yW)

山口十境詩

1372年(応安5年)冬、大内家第24代当主で中国の文化、歴史にも造詣が深かった大内弘世公が招いた明・洪武帝の遣日正使・趙秩(ちょうちつ)。一年半あまり山口・古熊にあった守護所大雄山永興寺に滞在し、つれづれなるまま近辺の名勝地を訪れ、山口十境詩を作っている。

大内文化の最高傑作といわれる国宝の瑠璃光寺・五重塔の建立は70年後の1442年であり、この時には姿かたちはない。

 ◇十境

十境、すなわち趙秩が書き残した十か所の景勝地とは以下のとおりである。大内から宮野にかけた風景が描写されている。

1氷上(ひかみ)の滌暑(じょうしょ)(大内氷上)

2南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

3象峰(ぞうほう)の積雪(大内川向)

4鰐石(わにし)の生雲(せいうん)(鰐石)

5清水(せいすい)の晩鐘(宮野下恋路清水寺)

6初瀬(はつせ)の清嵐(せいらん)(宮野江良)

7虹橋(こうきょう)の跨水(こすい)(天花)

8猿林(えんりん)の暁月(古熊)

9梅峯(ばいほう)の飛瀑(法泉寺)

10温泉の春色(湯田)

  ◇乗福寺

十境詩は漢詩で作られている。このうち乗福寺を舞台にした漢詩を紹介する。なお、漢詩の注釈については山口高校の教諭をされた荒巻大拙氏の著作「明使趙秩と山口十境詩」に詳しい。

この乗福寺は22代の大内重弘が建立し、大内氏の菩提寺のひとつとなっている。境内には大内氏の祖と伝えられる百済国の琳聖太子の供養塔のほか、上田鳳陽先生の墓もある。

上記2の「南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

(南明とは南明山乗福寺のこと。秋興とは秋にもの思うこと。)

金玉樓臺擁翠微

南山秋色兩交輝    

西風落葉雲門静

暮雨欲來僧未完帰

金玉の桜台、翠微を擁し

南山の秋風、両(ふた)つながら輝を交ふ

西風に葉を落とし、雲門静かなり

暮雨来らんと欲して、僧未だ帰らず

この詩を読んだとき、乗福寺の住職は明国に渡っており、不在であったという。

◇倫子の方

大内氏の中で最も隆盛を誇り最後の当主となった大内義隆だが、一時は厚い信頼を寄せた家臣、周防守護代・陶晴賢(すえはるかた)の謀反から自刃に追い込まれた。この義隆の側室が倫子の方だ。義隆の重臣であった長門の内藤興盛の娘である。

義隆の没後、倫子の方が哀しみを紛らわせるために出かけたところが上記8の猿林(えんりん)で、現在の上山口駅の南方、鰐石川の東にある古熊神社一帯の山林だ。

ここには父・内藤興盛の墓もあり、義隆との間に生まれた鶴亀丸を連れて訪ねたようだ。

猿林(えんりん)の暁月(古熊)

曙色初分天雨霜

凄凄残月伴琳琅

山人一去無消息

驚起哀猿空断腸

曙色初めて分(あきら)かなり 天の霜をして雨(ふ)らしむると

凄々たる残月、琳琅を伴ふ

山人ひとたび去って消息なし

驚起すれば哀猿(あいえん)空しく、腸(はらわた)を断つ

当時はまだ野猿がいたのだろう。静寂の山林に響く野猿の鋭く甲高いなき声。断腸の哀しみを抱く胸に呼応する。

断腸の哀しみとは何を指すのか。

作者趙秩は大内弘世に招かれた時、日本が南北朝時代の混乱のため博多に抑留されていた。遣日正使としての役目を果たすことができないまま無念の日々を送っていた時のことを思い返していたのかもしれない。

倫子の方も断腸の哀しみの中で、我が子を連れ古熊・猿林を訪れていたようだ。

 

 昨年(2021年)11月、山口・竪小路で行われ、我々の同窓澁谷氏、香原氏が活躍した「まちなみアート」。

イメージキャラクターに選ばれたのが女優・タレントの青山倫子女史であった。

倫子さんには山口との縁が続いてほしい。

(学23期kz)

第2の故郷誕生記

いつの間にか50年の月日が経った。頻繁に日本橋の山口館で、御堀堂の外郎やフグ竹輪や地酒を買う今、懐かしい味覚が当時を思い出させてくれる。

1971年~75年の在学時、松風寮に1年、緑町の山の麓にある下宿に3年いた。近くに朝からオープンの清水温泉があって窓から太陽の光が差し込んでいた。愛おしい時間と豊かな空間がそこにあった。なんと贅沢な暮らしだったのかと思う。20歳の誕生日、夜中にサビエル教会前の広場に出かけた。星空を眺めて未知のこれからの自分を想った。

中高にかけて運動部だった私は 大学では別のことを、そんな思いを抱いていた。或る日、美味しいお好み焼きを作ってくれる独身の先生がいるから一緒に行かないかと寮の友人に誘われた。教育学部の星原忠雄先生だ。声楽をイタリヤで学ばれた関西人で40代だった。発声練習にも加わった。サビエル教会で響き渡る自分の声は格段に違った。声に魅せられた瞬間である。運動部で鍛えた腹式呼吸が役立った。そして、ワグネルコールへ入部、混声合唱団へ統合し卒業まで指導を受けた。先生のおかげで楽器店、函館のトラピスト教会、上智大学の神父様等とご縁を得た。

一方で、SRC(シニア・レッド・クロス)の創立メンバーにと誘われた。東京海上へ就職した経済学部同期のK君である。大学紛争もあり休講が増えていた時期、2刀流となった。老人ホームや孤児施設への訪問、スポーツ競技会開催等が活動である。社会人や、看護学校との交流もあった。介護施設運営の会社や、看護ステーションの創設支援に今も関わっているのは、当時の経験や残した思いからかも知れない。

別の意味でも山口での生活は人生に光をくれた。歴史や大自然との関わりだ。寮は鴻ノ峰の麓で事務長から松陰の言葉が記された色紙を入寮時に頂いた。自分で考える時間をしっかり持てとのメッセージだ。だから寮はすべて一人部屋だったが、入寮当日の「ストームで一旦カギは壊され、いつでも誰にもオープンで行き来自由の個室となった。春は鶯のささ鳴き「ケキョ、ケキョ」で目覚め、昼は平川の広い畑で空高く群れて鳴くヒバリを楽しむ中原中也の世界だ。一の坂川の源氏ボタル、畑路の彼岸花、別世界の秋の長門峡、雪の日に静かに語りかける瑠璃光寺五重塔、鳳翩山、雪舟庭、人と自然との語り合いのあった街だと今でも実感している。七色の煙が五市合併の象徴の北九州市出身の私にとって山口は桃源郷だったのかも知れない。

(学23期 H.Ⅿ)

県都と江戸東京

私は、町には物語があると思います。

大学に入学して、山口は小さな田舎町に見えました。しかし歴史を紐解くと、中世、14世紀半ば大内氏が京都を模して建設し、堅小路周辺には大内氏の遺構が残っています。関ヶ原に負けた中国の雄・毛利藩は防長二州に縮小され、藩都は山陰の萩に移されました。

山口には萩藩主参勤交代の定宿や毛利家の菩提寺があります。年縞を重ねても途絶えることはなく、寂れていない。幕末に藩庁が萩から山口に移されました。政治の動乱の中、周防と長門の地理的中心の立地が重視されたのです。明治になっても廃藩置県で県庁が置かれました。典型的な政治都市で、徳山・防府や下関の経済都市と分離するという少数派の施策で生き残りました。
 比較する江戸東京は、巨大都市であり、政治経済国際都市でした。都市の基盤は河川と鉄道のインフラにあると思います。鉄道の話をすると長くなるので、河川についての想い出を語ります。

私は、大学を卒業後、総合電機メーカーに就職しました。配属先が、神田川河岸の神田須田町にある本社分室の電子半導体営業部門でした。初めて営業を担当した顧客先は三多摩地区の複数の通信工業メーカーで、当時は定期的に通うのが営業スタイルでした。

このうち二社は玉川上水沿線にありました。神田川(玉川上水)を開削したのは徳川家康の指示であること、都市づくり・江戸の町づくりの歴史的意義と行政の重要さを知りました。エジプトはナイルの賜物と言いますが江戸東京は多摩川、荒川、江戸川の賜物です。

私は雲取山登山の下山時、多摩川源流に行きました。利根川は江戸川と分岐していますが江戸時代に開削して銚子迄河口を作ったこと知りました。東関東支社在勤時、茨城県取手から犬吠埼迄ドライブしたことがありました。

また余談ですが、当方が伴侶を迎えたのがその玉川上水中流の小平市のアパートでした。家康の治水がなければ今の東京はないと思います。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」で家康公は再評価されたと思います。
山口大学経済学部29期 K・Y