初めての山口七夕会

令和4年 山口七夕会年次総会が7月30日(土)10時~新宿区揚場町のインテリジェントロビー・ルコであり、5月末入会後、初めて参加しました。
総会は議長役の秋草史幸会長の挨拶で始まり、令和3年度事業報告、令和4年度事業計画等の議事進行。
伊藤和貴山口市長のご挨拶及び市政紹介等があり、元 陸上総隊司令官 陸将 住田和明氏による『激動する安全保障環境とわが国の防衛』と題する講演会がありました。
その後、昼食懇親会があり、14時25分閉会となりました。

約60名の方が出席され、多くの方から名刺を頂き、交流し、首都圏から第二の故郷山口市を応援するきっかけとなりそうです。
特に椙山 俊哉前本部長から紹介された秋草会長とはお父様の経済史を受講した秋草 実教授の思い出話で盛り上がりました。
厳しいお父様だったそうですが、私は幸い優しくなられた時期だったようで良を頂きました。ほっ。

盛り沢山の年次総会でしたが、山口市政や国の防衛問題にも関心を持って勉強をせねばと痛感し、帰途に就きました。

(学22期 Y・Y)

おいでませ山口館へ

(東京都中央区日本橋2-3-4日本橋プラザビル1階)

7月16日(土)に「山口市の選りすぐり!名産品フェア」の最終日ということで行って来ました。
先ずは山口七夕会の役員で山口市観光大使でもあり、応援されていた関 周さんにご挨拶し、ご紹介頂いた西村弘文本部長代行、山口市役所職員で山口七夕会窓口の岡村さんとの4ショットが実現しました。

山口市名産品の中では、定番の御堀堂の外郎、山陰堂の舌鼓に加え、きれん製菓の栗外郎、あずき外郎、やまのわのラスク、出雲ファームの子ぎつねバウムコーヒー、椹野川漁協の小鮎の苦うるか焼き、山城屋酒造の純米大吟醸Princessを初めて購入しました。

先日、柳井市あさひ製菓の森永ミルクキャラメルとのコラボ商品のスイーツを東京では入手が難しく、宅配便にて直送して貰いましたが、今回、月でひろった卵の各種を初めて購入することが出来ました。
山口県内では店舗も多く、有名な商品のようですが、これまで全く知りませんでした。

(学22期Y・Y)

木戸孝允 ②

江戸での剣術修行

ペリー来航の1年前にあたる嘉永5年(1852年)、神道無念流で幕末江戸の三大道場の一つ「練兵館」から創設者斎藤弥九郎の息子・新太郎が、萩へ立ち寄る。その時、新太郎が藩に対して若者を江戸へ人を出し、諸藩士と広く交流させることを提案した。当時は長州藩でも藩外遊学を奨励していた時期にあたる。木戸は選考から漏れるが、自費で3年間の江戸遊学を申し出て、願が叶う。

実父に、元が武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せよと言い含められ、剣術に励む傍ら、書物もよく読んだという。

木戸は俊敏性に優れていたようで剣の腕を上げ、仲間をまとめる力にも優れていたためか1年で練兵館の塾頭に駆けのぼり、藩命で長州に戻るまでの5年間、塾頭を務めている。

身長は175センチほど。当時としては高い方で、木戸の上段の構えは周囲を圧倒する気迫があったとも伝えられており、「剣豪」とも呼ばれたようだ。

剣術だけにあらず、柔道にも通じていた。木戸は酒で暴れる横の黒田清隆を腰で投げ飛ばしたことがあったという。黒田清隆と言えば180センチを超える薩摩の大男だったのだが。

◆交流

実父は剣に励むよう願うとともに、資金の支援を惜しまなかった。このため木戸の下には実父の和田家だけではなく、養父・桂家の両方からも結構な仕送りが届いており、カネに困ることはなかったという。

剣に励み、書を読み、豊かな懐事情もあり、同僚や後輩、また他の門人たちと大いに飲み、交流を深めていった。

当時江戸の三大道場には諸藩から有為の若者が参集しており、藩を超えた交流で人脈を作り、木戸自身の人間の幅を大きく広げたようだ。

この時の交流が偉業を成す際の人脈異形成に大きな寄与をしたように思える。

交流の広さは当時の長州藩の人物で他の追随を許さないとされる。

水戸藩士との成破の盟約、薩長同盟など藩を超えた連携で事を成す手法は木戸の「得意技」となった。

酒も好きで、強かったという。大酒で有名な「鯨海酔侯」・土佐藩主の山内容堂公と飲み比べても引けを取らなかったという。

◆風貌

木戸が二十歳ころ、とある茶屋での老婆から「非凡の風采なり。刻苦勉励すれば他日必ず栄達せん」との言を、とても気に入っていたという。

こうした木戸の風貌を、木戸に接した者は書き残している。

政治家やジャーナリストとして多彩な活躍をした福地源一郎(東京日日新聞社長)は、「自ずと首(こうべ)が垂れたのは慶喜公の御前に出た時、もう一度は木戸参議の前に出た時だ」としている。

また、オーストリアの外交官ヒューブナー伯爵は、「強烈に精神の力を感じさせる風貌であり、彼がものを言うとき、その表情は独特な生気を漲らせる」と記している。

さらに、公家の岩倉具視公は大久保利通公に向っては「大久保」と呼び流したが、木戸に対しては「木戸さん」と「さん」付けであったという。

(学23期kz)

「my made 竪小路2022」について

「まちなみアート その先へ 実行委員会」 

                       会 長 香原 詩彦(1971年 山大・経 入学)

                       副会長 渋谷 龍 (1972年 山大・経 入学)

<企画主旨>

 昨年、一昨年と実施した『まちなみアート〜my made竪小路』は市民にとっては「アートふる山口」の再現として浸透し、開催を期待する声が聞こえて来ます。

今年の開催は危ぶまれているのが現状ですが、何とか(小規模でも)実施出来るよう希望を捨てきれません。『生け花アート』『着物でお散歩』『加藤照〜竪小路ブルー』に加えて『竪小路音楽祭〜八坂の森のうた広場』を実施する事に加えて『竪小路香』『竪小路のれん』そして(可能であれば)「クレマチスのプランター」を展示できれば「ほのぼのとした街並み」が創れるのではと希望します。

 学生時代に過ごした竪小路の街並みは40年経った今、寂れてゆく雰囲気も感じられ忸怩たる想いもありますが、同時に今でも当時の面影を残す建物もあり、また新しい息吹を感じさせる人達・パワーも少しながら増加しています。

歴史的にも意義のあるこの地を、心豊かに散策出来るよう少しながらお手伝い出来ればと希望します。

<企画内容>

  • 生け花アート・・・山口市生け花協会の皆様による生け花の展示。

  竪小路の街角の各所に展示をお願いし過去2年大好評を得ています。

  協会会員7団体の協力によって各所(14地点?)にて展開したい。

  • 竪小路音楽祭・・・「合唱」による『うた広場』とアコースティック中 心の音楽祭。(旧)「ふぁみりーず」の面々や山口合唱連盟の協力によって

ほのぼのとした音楽会を目指します。会場としては現在整備中の「築山跡公園」(?)を想定します。

  • 加藤照展示・・世界的にも有名な「照ブルー」の作品を商店街〜竪小路の各所に展示する。道場門前〜米屋町〜中市町(各一店舗)そして竪小路界隈にて2〜5店舗を選定したいと考えます。
  • 11/2〜/6「アートでおもてなし」(菜香亭主催)

10/29~11/6「着物でおさんぽ」(大路ロビー主催)未定

とリンクして竪小路界隈を楽しいエリアに組み立てていきたい。

  • 「クレマチス」の苗は4月中旬までの販売のようで来年に期待したい。

<実施日時>

  2022年11月5日〜6日(4日実施もあり・準備もあり)

<予算>

  • 生け花謝礼・・・20,000円×7団体 =140,000-
  • 音楽祭音響費  80000円×2日間 =160,000-
  • 音楽祭ステージ 50,000円×2日間  =150,000-
  • ポスター・チラシ製作費      =200,000-
  • 運営諸経費            =350000-

                     合計\.1,000,000-

 ☆山大鳳陽ファンディング(またはクラウドファンディング)にて

  募金を募る。(目標100万円)

  *郵便局の口座「01500-9-25730」  加入者名:「ラグタイム」までに

お振込をお願いする。(一口:5,000円)

  • 返礼品(予定)=『竪小路お香』(千円相当の限定販売品)

  (二口以上募金の方を対象とする)

  • 期間中に山口大学鳳陽会会員を中心とした「竪小路歴史ウォーク」や

「菜香亭」での会席等の企画も考えられる。 

  

<追記>今年6月初旬、東京からの先輩S氏、福岡からの後輩M氏らと久し振りに旧交を深め、翌日は平川の大学構内をゆっくりと散策しました。経済学部に新しく建設された資料館や鳳陽寮の寮歌を記した記念碑、M氏は文理学部から独立した人文学部散策、そして新しくおしゃれなレストランでコーヒーを頂きました。(学生達に交じって70才前後のオヤジ達が・・)教養部も随分変わっていましたがゆっくりとした山口の風は昔のままでした。

山口市ファンクラブと山口七夕会

昨年12月中旬にFacebookで「山口市ファンクラブ」というコミュニティがあるのを偶々知り、メンバーとなりました。

メンバーは山口市や山口県在住の方や山口市内の学校を卒業された方、山口市に縁があって転勤等で働かれた方、旅行等で山口市に行かれた方等様々です。(会員数800名余)

当初は様子もわからず、山口市に関する情報の閲覧のみでしたが、今年の1月末から、学生時代を山口市で過ごしたアルバイト体験や思い出話を中心に投稿を始めました。

投稿は山口市関連の情報に限られますので、投稿に四苦八苦することもありますが、予想外のいいね!やコメントを頂くと嬉しくて次の投稿の励みとしています。

投稿にはFacebookでメンバー登録が必要ですが、ネットで「山口市ファンクラブ」と検索すればどなたでも閲覧も出来ます。

又、上記の会の管理者の方から勧められて先日、山口七夕会(秋草史幸会長)に入会しました。(個人会員365人、法人会員20法人)

遠く離れた首都圏から、学生時代を過ごした第二の故郷の山口市を応援することになりました。

7月30日(土)に都内新宿区で年1回の総会と講演会、交流会もあるようで、楽しみにしています。(年会費千円で3年分の一括納入)

年3回の会報発行でイベント、懇親会、親睦ゴルフもあるようです。

注)秋草史幸氏は2019年に東京支部総会で「金融こぼれ話」と題して講演されていて、経済学部秋草教授のご子息の方です。

(学22期 Y.Y)

ゴルフ 何でそうなるの! ②

イップス

◆遠かった1メートルのパット

リゾート地でのゴルフ場。趣向を凝らしたレイアウトが評判だった美しいコース。グリーンが速いとは聞いていた。

その時、私のゴルフ歴は15年ほど。

フェアウェイには質の良い芝生が敷いてあり、グリーンはトーナメントができそうなほど短く刈り込まれていた。

とあるホールでのこと。グリーンの端にオンした。

ホールアウトまでの組み立てとしては、ファーストパットでピン周りに運び、セカンドパットを外しても、3パットで楽々ホールアウトできるはずだった。

さて、実際は。

ファーストパットが弱く、セカンドパットを終えて、1メートル強が残った。

パットの3打目。上(のぼ)り1メートル。

ここから「なんじゃこりゃ!」を味わった。

カップインまで5打を要し、パット数は7と相成った。

何が起きたのか。

上りのパットだったので、ほんの少し強めに打ち出した。

ほどよく打てたように思えた球は、まるで下り坂のような転がりで、スルスルと、いや違う、スルースルスルスルと緩やかな上り傾斜を3メートル半も駆け上がって行った。

これまで何千回、いや何万回とパットをしてきた体験に照らし、どう考えても物理の法則に反した玉の転がりだった。

上りだが、芝目が順目だったのかもしれない。

あるいは上り傾斜と下り傾斜の見間違いか。そんなはずはない。

おまけに、最終パットのはずの6打目の10センチほどの短いパットもカップの縁(ふち)を舐めてしまった。

パットを舐めちゃいけない。

ああ、遊びのゴルフで良かった。プロでこうした経験をすれば、選手生命にかかわるところだった。

◆イップス

イップス(yips)という症状がある。プロの世界でも往々にして起こるもので。異常な緊張のあまり、何でもない動作が出来なくなってしまうことだ。ゴルフではドラコンを狙うようなドライバーショットではなく、何でもないはずのパッティングで起こる。

特に、優勝のかかったプロゴルフではそうだろう。短いパットを外せば、優勝という名誉を獲り損ない、何千万円という優勝賞金も逃げていく。かつて連戦連勝中のジャンボ尾崎が優勝のかかった短いパットを前に、手が痺れて打てなくなり、仕切り直した場面を思い出す。

実際、イップスでプロの世界を引退してしまった選手も多い。宮里藍然り、丸山茂樹然り、帝王ジャック・ニクラウスに代わり「新帝王」と称されたメジャー8勝のトム・ワトソンもそうだ。

この症状は真面目で完璧主義者に多く出るという。

◆本番前の過度な練習 

サラリーマンのアベレージゴルファーは、コンペでみっともない球を打たないように、何週間も前から入念な練習を繰り返す者も多い。私もその一人だ。

しかし、事前の練習を入念に行えば行うほど、本番では筋肉が硬くなるようだ。

スタートのホールの第一打目。

「あれだけ練習したのだからうまくいかないはずはない!

うまくいく筈だ。」

こう思った時点で、もういけない。

すでに身体は相当硬くなっているのだ。

案の定ミスショットが出たら、「これまで積み上げてきた練習は、一体何だったのか。」

と悔やみ、落胆の度合いは大きい。

◆ビジネスイップス

このイップスは仕事でも出ることがあるという。「ビジネスイップス」だ。

この症状は責任感が強く、他人の評価を過度に気にし、自分をよく見せようと自分を追い込むタイプがかかりやすいそうだ。

ひと昔前の典型的な日本人にありがちな症状のような気もする。

しかし、最近は日本人も若者も相当変わってきている。

オリンピックのような大一番でも「楽しんでくる」と言い、負けても「楽しかった」という。

自己暗示でもいい、負け惜しみでもいい。

それくらいでないと、イップスに負けるかもしれない。

(学23期kz)

歴史ノート 木戸孝允①

◆幕末の三傑 

幕末から維新にかけて活躍した長州人には有名人が多い。吉田松陰と言えば松下村塾、東京にも松陰神社がある。高杉晋作と言えば奇兵隊、伊藤博文と言えば初代内閣総理大臣、大村益次郎と言えば医師で兵学者、靖国神社。乃木将軍と言えば203高地、ステッセル、殉死、乃木神社。

では木戸孝允といえば・・・すぐに出てこない。考えてもなかなか出てこない。

それでも、あえて言えば・・・幕末時は「桂小五郎」、「逃げの小五郎」、連れ添いで器量よしの「幾松」。

活躍した場面を切り取りにくい人物だ。

木戸の足取りを見ると、若い時には長州藩内で尊王攘夷派の指導者格となり、藩政の要職に就く。

維新後は五か条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県など、封建社会からの脱却・近代社会への制度構築のほとんどすべてに関わり、主導的役割果たす。憲法制定、三権分立の確立を主張した啓蒙派であり、資本主義の定着とその弊害是正にも動いている。

ただ、こうした活躍は調整役として、また抑え役として動いた場面が多い。

多方面での調整役の重鎮として活躍したことは間違いないが、他方その分、個性が表面に出にくく、影が薄くなるのは否めない。

口を付いて出てくるような木戸の残した言葉や歴史上の有名な場面は出てこないのだ。

しかし、木戸孝允は長州人として、西郷隆盛、大久保利通と並び、長州からはただ一人、幕末の三傑に選ばれている。

◆名家生まれ

実父は萩の医者・和田昌景。和田家の先祖は毛利元就の七男天野元政であり、名家である。

後妻との間に生まれた長男であったが、既に嫡子がいたために次男扱いとなり、桂家の養子となる。

この桂家も名家であった。鎌倉時代の初代政所別当(行政長官)大江広元(おおえのひろもと)の子孫である。大江広元とは、平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の落胤である大江音人(おおえのおとんど)の子孫で鎌倉幕府の開府に尽力した人物で、テレビドラマ「鎌倉殿の13人」にも出てくる頼朝の側近として仕えた重要人物だ。この大江広元の広大な所領のうち、広元の四男毛利季光(すえみつ)が神奈川県厚木市の毛利庄(もうりのしょう)の地頭となって毛利季光と名乗ったのが「毛利家」の始まりだ。

このため、桂家は殿様の毛利家と先祖を同じくすることになる。木戸孝允が畏まった文書には「大江孝允」と書いたとされるのはそのためだ。遡れば皇族につながる家系だ。

こうしたこともあってか、また木戸は幕末に、藩主・毛利敬親から「木戸」の姓を賜ることとなる。

◆幼少の頃

病弱であったが学問を好んだという。10歳で萩の私塾・岡本権九郎の下で漢学を学んだ後、明倫館で文武の修行に励む。

弘化3年(1846年)、14歳の時に藩主・毛利敬親の試験に応じ、即興で詩を賦し、恩賞に浴したという。また、孟子の解説でも殿から褒賞を受けている。

筆も巧く、幼い時に筆の師が木戸の字を大層褒めたという話も残っており、早熟の器用で利発な少年だったようだ。

(学23期kz)

安倍元総理のご冥福を祈る

 昨日、安倍元総理大臣が亡くなられた。

山口大学にとっても、大変悲しく、残念なことである。
 安倍元総理から、2015年の山口大学創基200周年記念式典に、お祝いのお言葉をいただいた。
 式には、山口県や山口大学出身の 林芳正参議院議員、岸信夫衆議院議員、河村建夫衆議院議員、山際大志郎衆議院議員、下村博文文部科学大臣(代読:吉田大輔文部科学省高等教育局長)、村岡嗣政山口県知事がご列席され、祝辞をいただいた。
 山口大学の源流は、現在の経済学部であり、山口大学経済学部は地域や社会に貢献していくために、発展していく責任があるとあらためて思った。
 安倍元総理大臣のご冥福をお祈りいたします。
(大40期 K.Y.)

安倍元首相から山口大へのエール

昨夜、安倍元首相が逝去された。

平成27年5月30日(土)に山口大学創基200周年の記念式典が山口市で行われたが、式典の中で当時の安倍晋三内閣総理大臣からビデオを通じ、メッセージが届けられている。

ここで改めてご紹介したい。

この中で安倍総理は、明治維新を成した長州の気風を受け継ぎ、日本そして世界の発展に貢献する人材が、地域の「知の拠点」である山口大学を通じて育成されることに期待を寄せられた。

15060409_200th_abesori_shukuji.pdf (yamaguchi-u.ac.jp)

なお、式典の模様については山口大学ホームページ、2015年の欄に収められている。

(鳳陽会東京支部事務局)

大学正門前 今は昔 ②

◆正門を背に右手に行けば・・・

吉田寮に向かう路だ。

撮影時は20135月となっており、「サビエルセンター・寮」の看板が見える。

むかしは「サビエル教会」と出ていた記憶がある。

当時に比べて、敷地も広くなっているような気もする。

◆神父さん

この施設はカソリック・イエズス会の施設のようで、2008331日で閉館となった。。

「平川サビエル学生支援センター」は19704月に建設、私の入学が昭和46714月入学なので、私の入学からちょうど1年前に建ったことになっている。

何もかもが新しかった。その中に茶室「一心庵」があり、入学したての男女数名がお茶をいただいた。お茶を入れて頂いたのは、ここの主人(あるじ)。

横に控えた奥様も笑顔の絶えない柔和で穏やかな方だった。

この主人の名は神父・プロットさん。

プロットさんはチェコ出身のドイツ育ちで1963年に来日し、上智大学で神学や英米文学を学んだ後、19717月に山口大でドイツ語と英文学を教える講師として山口氏に移住してきたという。

そういえば、しばらく後に、シラバスにはドイツ語講師欄に「プロット」と出ていたような気がする。

しかしその時、私は既にドイツ語の単位を取り終えていたため関心を寄せることはなかったが、いまから考えれば、このプロットさんだったようだ。

画像をよく見ると「サビエルセンター・寮」の掲示板には、ガラス越しに「37年間ありがとう」の文字が見える。

◆山大正門前  今は昔

前稿でも触れたが、山大正門前界隈は山大通りの右手も左手も当時から変わり、何だかよそよそしく、ふらりと店に立ち寄りにくい気がする。

なぜだろうか。

車での来客用に駐車場が店の前にあるため、店の入り口が通りから奥まったからかもしれない。

ひとつ残念なことに、大学のある街につきものの古書店がない。

かつて一番の繁華街であった道場門前や米屋町あたりには古本屋があった。教育学部や経済学部の平川移転に伴い、古本屋の一つや二つ、正門前に移転してきてもよさそうなものだが。

我々が入学したての時、大学が平川に統合移転という形で集まり始めて5年しか経っておらず、「大学」という古ぼけ、苔むしたイメージからほど遠く、校舎の隅々まで光っていて、施設や備品も新しかった。

50年前の当時、授業が終わって平川の正門を出た時の風景を思い浮かべるたびに、3人のおばちゃんを思い出す。

◆文榮堂のおばちゃん

正門の正面にあったのは本屋。店にはかなり大きな看板が出ており、確か赤の地に白で「文榮堂」と出ていた。

店を切り盛りしていたのは色白で頬がぽっちゃりのおばさまで、彼女が店主であったのか、店長さんだったのか。穏やかで物腰の柔らかい方で、注文にもソツなく対応してくれた。

山大に生協ができたのが199612月。それまでは大いにはやったはずだ。

現在の文榮堂には昔に比べて文房具のほかコミック類が増えたと聞く。

現在も山大正門前にも店舗はあるが、本店は道場門前になっている。このほかに郊外の総合ショッピングセンター・ゆめタウン(本店は広島)にも出店しており、それなりに繁盛しているようだ。

◆徳光のおばちゃん

いまでいうコンビニのような雑貨屋・徳光商店であった。いつも男女を問わず、若い学生で混み合うっていた。この店の名物が「徳光のおばちゃん」。愛想のいい世話好きなおばちゃん。年の頃は「おばぁちゃん」だったような気がするが、「徳光のおばちゃん」と呼ばれており、客あしらいがうまく、人気の絶えない店であった。

徳光のおばちゃんのご主人の話がある。

最近友人から聞いた話だが、その彼が魚屋でアルバイトしていた時に山口刑務所に何度か出前した時、届け先の刑務官が徳光のおばちゃんのご主人だったという。

刑務所の位置を調べてみると、山口刑務所は湯田温泉駅の近くにある。当時は刑務所の存在すら知らず、友人の間でも話題にならなかった。

◆上高地のおばちゃん

KEY COFFEEだかUCCだか、大きな看板のあった喫茶店「上高地」。

この店の女主人もそうであったが、このおばちゃんは、徳光のおばちゃん同様おばぁちゃまに近かったが、徳光のおばちゃんと違い、あまり笑わなかった。

ここの名物、上高地のカレーについては稿を改める。

(学23期kz)

文榮堂本店(道場門前)