76歳の起業

           76歳の起業 

山口大学経済学部同窓生の吉川京二さん(16期)が76歳で

「海の森」再生をめざす株式会社「ジャパンブルーカーボンプロジェクト」

(東京都板橋区)を起業した。吉川さんは「未来の子供たちにきれいな海を残したい」と笑顔で語る。

 吉川さんは1945(昭和20)年、広島県で生まれ、育った。山口高商の伝統に憧れ、山口大学経済学部に入学する。鳳陽寮・北寮に入寮し、硬式テニス部で活躍。安部ゼミで学ぶ。

 卒業後、ブリヂストンに入社。営業・マーケティング分野を担当した。日本、中国、タイで流通網の構築に取り組み、ブリヂストンの世界的企業への発展の礎を支えた。そのとき、得た教訓がある。

「仕掛けなければ、道は開かれない」

国内の支店長を最後に55歳で独立。経営コンサルタントとして大手企業の営業・マーケティングを指導してきた。

 吉川さんは3年前、重い病気で入院・治療を受けた。退院後、思い立った。

 「命をもらった。残された命を世のため、人のため、なにか、役立てないか」着目したのが日本の海だ。資源のない島国・日本では大事な海が温暖化の影響を受け、海藻(かいそう)が消失し、魚がとれなくなっているという。

 海藻や海草などは大気中から炭素を吸収する。吸収された炭素が「ブルーカーボン」だ。海藻などが豊かに生息できる「海の森」を再生し、ブルーカーボンの量を増やすことが、脱炭素の近道という。

 吉川さんは北海道の漁業関係先や中央官庁などで築いた人脈をいかし、ブルーカーボン事業に取り組む。

 吉川さんは「北海道から始めて全国、そして将来的には世界での展開も視野にいれています。」と意欲を示す。

事業を支援してくれるパートナー企業を募集している。

 ※問合せはジャパンブルーカーボンプロジェクト

(03-3931-2540)

吉川 京二さん

 

大内から毛利へ その2

陶晴賢から毛利元就へ

大内義隆公の後を受け、領土を治めることとなったのが義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)であった。
晴賢は大内義隆の養子であった豊後の大友晴英(大友義鎮の弟)を大内氏の当主の座に据えるが、あくまでも実質的な実権は陶晴賢が握っていた。

陶晴賢が大内義隆を自刃に追い込んだ大寧寺の変から6年後、その陶晴賢も毛利元就からその座を狙われることになる。

🔶碁盤上の勢力図
大内氏の後を受けた際、陶晴賢が幼少の時からの守役・伊香賀房明から碁盤の上で管内勢力図の教えを受ける。
すなわち陶晴賢が天元に位置し、上辺に津和野・吉見氏と出雲・尼子氏、右辺に安芸・毛利氏、左辺に豊後・大友氏などの豪族、下辺に村上水軍など瀬戸内海の勢力ありと。

🔶戦いの契機
1553年(天文23年)津和野三本松城主・吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻す。
「上辺」の津和野・吉見氏は以前大内氏と領土争いをしていたこと、また大内義隆の姉が城主・吉見正頼の正室であったことから、義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢に恨みを持っていたという。
この吉見が陶との戦いに入った際、毛利元就に対し、吉見軍と陶軍の双方から援軍要請が飛び込む。
ここで、元就はどちらに付くか腹を決めることを迫られる。
以前、元就は出雲・尼子氏から大内氏へ鞍替えした経緯から、陶晴賢とは協力関係にあった。しかし、元就は陶氏が忠義に背き「主君を討った」ことゆえ、陶氏へ援軍を出すことを拒んだ。このことで両者の関係は悪化し、ついには両者の間で戦(いくさ)が始まる。

 🔶厳島の戦い
両者の戦いは天文24年(1555年)に宮島全域が戦場となった「厳島の戦い」として知られる。
この戦いでの両軍の兵の勢力はどうだあったか。
陶軍の勢力は2万とも3万ともいわれていたのに対し、毛利軍は4~5千。圧倒的に陶方が有利であった。
結果は如何に。
はるかに有利な軍勢を有した陶晴賢が、まさかの「自刃」に追い込まれる破目に相成る。

自刃した陶晴賢の辞世の句である。
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

主君を自刃に追い込んだ己が、知略に優れた新たな勢力によって自刃に追い込まれる。
陶氏は、こうした日が近く訪れることに気付いていたのだろう。
主君を自刃に追い込んだことで、己の生への執着も深く蝕まれていたのではないか。

何とも短い間のうつろな天下であった。
この運命、淡々と受け入れる他はなかったと悟ったはずだ。
圧倒的に優位な兵力差にあっての、あっけない敗北。
この敗北の要因は陶晴賢の覇気、勝利への執着心の喪失であった。
潔い自刃。
これは主君・大内義隆への謝罪でもあったはずだ。

つづきは次稿で。

(学23期kz)

「仮囲」の中の世界

66期K

(注:建設会社入社4年目の若手女性会員)

建物は今でもそのほとんどを人の手で作っています。東京タワーも、スカイツリーも、街中に立ち並ぶ高層ビルも、全ての建物がその大半を人の手で作っています。街中にある建設現場は仮囲(かりがこい)がしてあり、中を覗く機会はほとんどないと思います。私もそうでした。この仮囲の中で、一体何が行われているのか。

私はその世界に足を踏み入れました。入社したいと思ったきっかけは、会社説明会で実際に建設現場を見せてもらったことでした。建物の1階1階を、様々な人たちが協力して組み立てる。コンクリートだって、最初から固いわけではなく、その場で枠を組んで流し込んで時間をおいて固める。未だにこんなにアナログな業界があるだろうか…。建設業における省人化が進まないのは業界の問題点として挙げられますが、私はこのアナログな業界にロマンを感じて会社に入社したいと強く思いました。

建物は、どれ1つとして同じものがありません。入社後、配属されたのは横須賀の現場でした。あの仮囲の中に私も実際に足を踏み入れたのです。中では、より良い建物を建てようと熱い思いを持った人たちが集まり、連日遅くまで仕事をしていましたが、不思議とみんな苦ではない表情で仕事をしています。目に見えないものを形にすることの難しさ、大変さ、そしてやりがい。コンクリートが打ちあがってきて、建物の高さが上がってくると、それまでの苦労も吹っ飛ぶ。いざ完成した建物を見ると、当時の大変さや苦労が蘇ってくるし、あの時、頑張ってよかったとも強く思えます。

最初は更地だったところに突如と目を引くものが出現し、時に人々の生活を変えることもできる。ないものを形にすることの面白さ。私は今後も自分が関わった建物に関して、人々が何事もなく使っている姿を見て、色んな思いを思い出します。

建物には、言葉にできないほどの思いが詰められています。あの仮囲の中では色んなドラマがある。時には、この壁はどんなふうに作られたのかな、どういう苦労があったのかな、と想像してみてください。そこには、日々いいものを作ろうと仕事に励む人々の想いが込められています。

そういった想いをもって働ける会社に入社できて、良かったと心から思っています。異動先の新天地では逆境にいますが、また仕事が楽しいと思えるように、私も熱い思いをもって仕事に励もうと思います。 

大内から毛利へ ①

大内義隆から陶晴賢へ

隆盛を誇った大内氏。その大内氏の勢力は陶晴賢(すえはるかた)を経由して、毛利のものとなる。

時は1500年代半ば、すなわち関ケ原の合戦から遡ること半世紀。防長を中心とした中国・九州北部で繰り広げられた戦国時代を象徴するもうひとつの下克上の縮図がそこにあった。

🔶これぞ戦国の世

歴代大内家の当主で最も隆盛を極めたとされる大内義隆。

この時大内は東、すなわち山陰の尼子氏と覇権争いをしており、両者のはざまにあった毛利元就は尼子から大内へ鞍替えしている。機を見るに敏な武将だ。

局地戦で尼子に勝った大内氏はさらに尼子氏を追い詰めるべく月山富田城攻めに出る。しかし月山富田城は難攻不落の要塞で名を馳せていた名城。戦いは長期化し、ついに大内氏が敗走する。ここで義隆の世継ぎである嫡男晴持が戦死したことが大内氏の運命を大きく変えた。

晴持の死を契機に義隆は軍事から遠ざかり、公家文化に浸り、文治派の相良武任(たけとう)を重用するようになった。

しかし時は戦国の世。「武功のない相良」を重用したことが武闘派の家臣から反発を招いた。その家臣の代表とは、若き頃義隆が「重用した」陶晴賢(すえ・はるかた)であった。

文化を振興するのも良い。教養を高め、深めるのも良い。しかし味方がいつ敵に変わるやもしれない戦国・下克上の時代だ。家臣でさえ、いつ君主に反旗を翻すかもしれない恐ろしい戦国の世。主君が鎧を脱ぎ、戦う姿勢を止めて防備を怠ることは、家臣にとってわが身を危うくすることに直結する。

当時大内義隆は七州の太守であったが、各領国の治世を守護代に任せていた。

大内氏の主な領国は周防、長門、豊前、筑前であり、守護代は周防守護代陶晴賢(すえはるかた)、長門守護代内藤興盛(おきもり)、豊前守護代杉重矩(しげのり)、そして筑前守護代杉興運(おきかず)。

これら守護代は地元の武士や農民と結びついていたのであり、山口に居る大内義隆は領民から遊離していたという。

1552年(天文20年)8月には陶晴賢を筆頭に、長門守護代の内藤、豊前守護代の杉の三者が結託して大内義隆に謀反を企てることに相成る。このため大内義隆は大寧寺で自刃に追い込まれた。

家臣の中で義隆を支持したのは筑前守護代杉興運(おきかず)だけという。

時を移さず義隆の末の子も追われ、討たれる。ここに大内氏が滅亡した。

大内義隆の辞世の句が残る。

討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電光応作如是観

如露亦・・・(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)とは禅語。討とうとする者も討たれる我も、共に露や雷の如く一生は短く儚いとの意。

その達観ぶりたるや、お見事。決して武人のものではない。

また文人のものでもない。

それをはるかに通り越した高僧の域に達しているのではないか。

愛息を亡くしたことで厭世の心情を深めた大内義隆。生まれた時代が戦国の世であったのが不運だった。西の京の心優しく、教養深き殿様であった。

(学23期kz)

ベトナムでの新生活

67期(平成31年卒) ペンネーム:Y

私は、今年の5月からベトナム(ハノイ)で働いています。

新卒で入社した会社を3年で退職し、ベトナムの企業に転職をしました。

学生時代は、国際経済を専攻しており、留学やベトナムでの長期インターンシップの経験を通して、海外(特に東南アジア)で働くことに強い憧れを持っていました。

就職活動は、海外勤務ができることに加え、社会をより良くしたいという想いから、企業経営、個人の人生の双方に影響を与えることができる人材サービス業を志望していました。

幸いにも第一志望の企業に入社することができ、素敵で尊敬のできる方々と充実した日々を過ごすことができました。しかしながら、配属された部署が希望していた営業職ではなく人事部だったことや、コロナにより海外赴任の機会が無くなったりと、順調なことばかりではありませんでした。そして、4年目になるタイミングで、様々なご縁があり、現職の会社に転職をしました。

現職も人材サービス業の会社でおり、希望であった営業職を担当しています。

夢が叶った一方で、余韻に浸る暇は全くなく、営業になったことにより常に数字に追われるようになり、ベトナム人がほとんどの職場環境で意思疎通が思うようにいかないこと、外資系ならではの成果主義の社風に戸惑い、不安を感じることも多くあります。

ただ、これまでの自分自身の選択を正解にするためにも、失敗を恐れず、挑戦と思考を繰り返し、今置かれている状況を楽しみます。

鳳陽会の皆様にも、日本、もしくはベトナムでお会いできることを楽しみにしています。その際は、今より数段、逞しく成長した姿をお見せできればと思います。

おいでませ山口館記念セ-ル

令和4年6月4日開催の東京支部総会・食事会で、山口県東京事務所に出向中の横山拓郎さん(学66)から、「おいでませ山口館」記念セ-ルの案内(下記HPより引用)がありました。期日は間近ですが、興味のある方は是非足を運んで見てください。
 詳細は下記「3.おいでませ山口館」をクリック、次にURLをクリックしご確認ください。
                              東京支部 事務局

イベント情報

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  4. おいでませ山口館で「20周年感謝祭SALE」を開催いたします

おいでませ山口館で「20周年感謝祭SALE」を開催いたします

梅雨が近づいてまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

おいでませ山口館では、6/3(金)~6/12(日)まで、「20周年感謝祭SALE」を開催いたします。
皆さまのお陰で、おいでませ山口館は本年開業20周年を迎えることができました。
日頃の感謝の気持ちをこめて、人気商品を特別価格で販売いたします。
また、6/6(月)~6/12(日)の期間毎日、3,000円以上お買上げの方先着30名様に、福を呼ぶ「幸ふく土鈴」をプレゼントいたします。

皆さまのお越しを、心よりお待ちしております。

おいでませ山口館記念セ-ルをPR 横山拓郎さん(学66)

69歳で起業 (その1)

2020年の5月、まさにコロナが猛威を奮わんとする時に異業種4名で起業した。

日本では従来、大麻は絶対禁止の薬物として認識されてきたが、世界の動きをみると医療用や健康増進用として近年合法化する動きが加速している。こうした中、日本でも動きがみられ、国会議員の間でも勉強会が始まっている。

2013年夏、米国CNNの医療ドキュメンタリー番組で、週に300回のてんかんの発作を起こす少女が、麻の成分CBD(カンナビジオール)を用いることで発作が週1回に劇的に改善したと報じられた。米国では2017年にFDA(アメリカ食品医療品局)が大麻成分の新薬を承認し、WHO(世界保健機構)がCBDの有効性、安全性を公式に認めた。それ以降、全米で医療・健康増進の大麻関連ビジネスが盛んになり、そこに雇用や投資が集まる「グリーンラッシュ」が始まった。多くの企業がCBD含有の機能性食品を販売しており、CBD入りの飲み物、キャンデイ、グミが店頭、スーパーに並んでいる。

また、2018年にはトランプ大統領が農業法案にサインし、これより大麻は米国で農作物として扱われるようになり、また世界アンチ・ドーピング機構が薬物検査対象から除外したことで、スポーツ界では試合前の緊張感緩和や不眠対策用にCBD飲料が広まっている。

日本では、大麻草の葉や花に含まれる成分THC(テトラ・ヒドロ・カンナビノール)は覚醒作用があるため絶対禁止となっており、茎と種子からとれたCBDのみ合法となっているが、欧米では医療用、産業用(ヘンプ)を嗜好用と区別し、研究も試験も栽培も活発化している。

薬理学上、常習性という観点からすると、大麻はカフェインと同レベルであり、コーヒー並みになっている。むしろ問題なのは、ヘロインと同レベルのアルコールの方だ。両者の中間がコカインとニコチンとなっている。

最近、日本でも動きがみられるようになっており、国会議員の間でも勉強会が始まった。本年5月10日に国会議員主導でCBDについての勉強会が議員会館で開催された。そこでは、タイで日本向けの品種改良タイプを国と大学、企業が一体となって研究開発中だとする報告があり、そのあと厚労省の担当者から国内の現況が発表された。

大麻草は、石油から造られる素材、例えば住宅用断熱材、自動車内装材、強化プラスチックなどと代替可能で、バイオ燃料にもなる。

また大麻草は中国の代表的な植物由来の薬品学研究書「本草綱目」にも掲載されており、薬草でもあった。放射性物質も吸収でき、生育も早く、3か月で10メートルにもなる品種もある。しかも肥料なしで生育できる。このように、調べれば調べるほど日本の産業復活に資する植物といえる。これが起業の目的の一つでもあった。

現在、我々は粉末原料(アイソレート)を食の基準で世界一厳しいヨーロッパの英国やルーマニアから輸入したものを、日本で加工、製造販売している。この4月には高濃度水溶性CBDを大学研究機関と共同開発した。さらに、ビール製造会社とCBDノンアルコールビールの仕込みも始めた。

販売は自社サイトと大手通販サイトで行っているが、実店舗も福岡、秋には名古屋で、また東京でもオープンする予定だ。

ビジネスを展開するにあたり、山大経済同期のM君に顧問をお願いして、アドバイス、協力を頂いている。

(学23期 元ワンゲル T.H.)

ゴルフ 何でそうなるの! ①

どこの同窓会の会報をみても、ゴルフの集合写真が載っている。鳳陽会の会報もしかり。

独りでもできるし、年をとってもできる。一面に広がる芝生と、遠くに見える木立の中で、白球が晴天の青に吸い込まれてゆく。一番飛ばないクラブの番手を使っても野球のホームラン級のタマが出る設計になっている。打っては、歩き、また打っては歩く。電動カートを使っても15000歩、シングルプレーヤーでも10000歩程度歩く。厚生労働省が健康保持・増進のために推奨しているのが1日9200歩(男子)であり、日頃運動が足りない働き盛りの者にとって、もってこいの健康的なスポーツだ。

そして、何よりも仲間同士でゴルフを楽しくできる機会が巡ってくること自体がありがたい。幸せの「リトマス試験紙」だ。

すなわち

  • 家族に迷惑が掛からないような日程が取れて
  • フトコロに多少余裕があり
  • 体調は万全で、
  • 会いたい仲間との愉快な時間の共有

どの一つが欠けても、ゴルフはできないし、できても楽しくない。

さまざまなリスク要因を乗り越えてこそ、気分の良いゴルフができ、ラウンド中にも、またホールアウト後にも、話が弾む。

しかし、これまでの40年余りのゴルフを振り返れば、色々なハプニングがあった。

◆グリーン・エッジからの暴発

ゴルフを覚えたての頃、職場コンペでのこと。

何とかグリーン脇まで来たところで、各人がアプローチショットに入る。

私の組にはうるさ型のエライさんがいた。エチケット・リーダーのご本人は、ご自分の球を早々とグリーンに乗せ、みんながグリーンに乗せるところを眺めておられた。仁王立ちに、腕組みをして。

私の番が来た。ピンまで10メートルほどの短い距離だ。

何のことはないだろう。勢いを殺した柔らかいアプローチショットをすれば、難なく寄せられるはずだ。

豈図らんや

ショットを放った瞬間、アッ!

「トップ」してしまった。

球が飛び出し、こともあろうかエライさんの股の間を、低いうなり声をあげて突き抜けた。

ボールがあと数センチ右か左に行っていれば膝の皿にヒビが入ったかもしれない。

ボールがあと20センチほど上に行っていれば・・・

私のサラリーマン人生も少し変わったかもしれない。このエライさんは人事も与る最終責任者だったのだから。

アプローチを舐めちゃいけない。

(学23期kz)

上がらない日本の賃金③ 

労働側の要因 その2

◆増える非正規労働
バブル崩壊による第1次就職氷河期、リーマンショックや東北大震災による第二次就職氷河期もあり、正社員になることを諦め、週4日あるいは週3日と自分のスタイルに合わせた働き方を志向する若者も増えている。最近では非正規労働が労働力の4割にもなっており、これも平均賃金が伸びない一因になっている。
 非正規労働と正社員では賃金や福利厚生がかなり異なる。最近では同一労働同一賃金、すなわち同じ職務を担う非正規労働者の待遇を正社員の待遇に近づけるよう動きもみられるが、いまだ両者の隔たりは大きい。
しかし、いち早く非正規のパートタイム労働と正社員との待遇格差を撤廃した国があった。オランダだ。

オランダでは、かつて経済危機に陥った際、パートタイム労働者の賃金・福利厚生を正社員並みに高めた。また半日勤務でも取りやすくし、しかも生産性を落さないよう「ワークシャエリング」できる環境を整えた。
こうしたこともあり、1週間を仕事に、趣味に、そして社会活動にと使い勝手の良い働き方ができて、しかも正社員並みの時間給が払われる。しかも、民間と行政のはざまでこれまで手の届かなかった社会活動分野に積極的に参加する者が増え、今やオランダはNPO大国になっており、行政の側も多いに助かっているようだ。
日本でも検討に値しよう。

◆賃金の低迷と学生生活
これまで見てきたように、1997年以降、20年以上にわたって賃金の低迷が続いた。
このため、コロナの前にあたる平成30年時点の統計で、約5割の学生が奨学金に頼っており、今後の奨学金の返済を苦に親元を離れての独り暮らしを諦め、実家から通える就職口を探す学生も出てきているという。
 こうしたところにコロナが襲った。
コロナ禍では学生のアルバイトの口が少なくなり、学資を稼ぐ手立ても限られることになった。それよりも、学資の出し手である親の賃金も下がり、場合によっては解雇されるに至り、学生生活を続けることができなくなった事例も報道された。
授業料は決して安くはない。こうした中での賃金低迷が続けば、大学教育の危機にもつながりかねない。
世界に伍し、あすの社会・経済を背負うのは日本の若者だ。

これではいけない。
(学23期kz)

ザビエルのふるさと、バスク出張記

司馬遼太郎の「街道をゆく」で「南蛮へのみち」が取り上げられており、鳳陽会の皆様にもお読みになった方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

バスクはフランスとスペインの国境にそびえるピレネー山脈の東西に位置しており「南蛮へのみち」の題材となった舞台でもあります。

 バスクはフランスとスペインの強国に挟まれており諸々の事情で独立もままならず、今はスペインの自治州として独特の文化を有して存在感を示しています。

地政学的にはウクライナや朝鮮半島にも通じるところがありますが、幸い自由主義、民主主義が浸透している西欧に位置していることもあり戦火は免れています。

 ドイツに駐在していた頃、このバスク地方に度々出張する機会がありました。

 日本では美食の港街サンセバスチャンや牛追いで有名なパンパロナが良く知られており日本人観光客が多く訪れていますが、一方ではスペインでも有数の工業地域であることは知られておらず、意外に思われる方も多いと思います。

 デッユセルドルフから空路で1時間半の鉄鋼業の盛んなバスクの主要都市ビルバオに飛び、そこからレンタカーで2時間弱南下しモンドラゴンという都市を一泊2日の行程で訪れていました。モンドラゴンは労働者協働組合(coop)が発展した地域として知られており、工業製品から生活全般に亘る協働組合の成功例として世界中に紹介されています。

 モンドラゴンには欧州でも最大手の自動車向けを得意とする協働組合の鋳物会社があり、欧州一帯をマーケットに手広く活躍していました。この会社と業務提携の話を進めるのが出張の目的でした。

 日帰りの行程では無理でしたので一泊せざるを得ませんでした。宿泊は美食の港街サンセバスチャンを第一志望に望んでも、何時も観光客で混んでおり、泣く泣くビルバオに泊まるのが常でした。

 それでもビルバオはバスク第一の都市であり、賑やかな旧市街に雰囲気の良いバールや手軽に入れるレストランが沢山あって、夜の飲食を楽しむ事が出来ました。

 ご承知の方もいらっしゃると思いますがバスクは山口と縁が深いフランシスコ ザビエルの出身地でもあります。ザビエルはバスクの裕福な城主の子孫でバスク人です。青年時代はパリのカルチェ ラタンで哲学を勉強しており、その後バスクに戻りイエズス会を設立するに至りました。

 大西洋のビスケー湾に位置するバスクは好奇心旺盛な海洋民族でもあり、ザビエルもまたその血を受け継いでいた様です。

ザビエルのイエズス会は積極的に海外に布教活動を行ない、自身も宣教師としてインドのゴア経由で1549年に日本に初めてキリスト教を伝え、歴史にその名を残しています。

亀山公園に聳え立つ山口サビエル記念聖堂はサビエル来山口400周年を記念して1949年に建てられましたが、1991年に火事で消滅してしまいました。1998年に現代風なサビエル記念聖堂が再建されましたが、当初はモダン過ぎたようで以前の聖堂を懐かしく思われる方々も多かったと聞いています。そうは言っても時が経つにつれてモダンなデザインのサビエル記念聖堂も亀山の風土に馴染んできている様です。

 鳳陽会本部はこの亀山公園の一角にあり、すぐそばには県立博物館や美術館があります。

コロナ騒動もそろそろ収束しそうな状況で、海外からの観光客も日本への渡航制限が解除されてきています。

 青春時代を過ごした山口で旧友と同窓会を開催したり、あるいは奥方や家族を帯同して山口を案内するのは如何でしょう。

  <鳳陽会理事長 松永昭博(学21)>