
桜の一の坂川

50年ぶりの巡り会い
◇ラジカセで切り取ったシャンソン
学生時代のアルバイトで手に入れた「ラジカセ」・・・最近では、もはや死語になっているかも知れない。
ラジオと一体となったカセットテープレコーダーだ。買った当初はニュースや知識を録音し、繰り返し聴いた「魔法の器械」であり、世界の半分を手に入れたような気がした。
刻々と変化する世界を伝えるニュース、語学をはじめとする各種教養講座、極東米軍対象とした英語のFEN放送のほか、当時ヒットした曲もカセットテープに録音し、繰り返し聞いた。
カセットテープが擦り切れたり、摩耗したり、巻き付いたりしたが、その度に「セロテープ」で繋ぎ合わせて繰り返し聞いた。
◇切り取ったシャンソン
ある音楽番組で、哀愁を帯びたフランス語のメロディーが流れてきた。私の琴線に触れる好みの曲の調べ。この曲の録音は”MUST”だと脳髄から指令が飛ぶ。録音可能スペースのあるカセットを慌てて探し、録音操作を終えた時は曲の前半3割ほどが流れ去っていた。
中途半端に録音されたその曲を繰り返し聞き、意味が解らぬまま、それらしく諳んじて口ずさむ度に、その曲が醸し出す世界に吸い込まれ、埋没していった。
私の第二外国語はサイレントの入る仏語を避けて独語を選んだ。歌に出てくる仏語で理解できたのは“maison” (家)、もう一つは大サビで出てくる“toi e moi”(あなたと私)くらい。
録音操作が遅れたことが、その後50年、曲を探してさまようことになるとは、この時思ってもみなかった。
メロディーが浮かぶ度に、どうしてもこの曲名が知りたくなってレコード屋に足を運び、店員に私の鼻歌メロディーを聞かせたが、50年も前に流行ったシャンソンを分かってくれる優れ者の店員は一人もいなかった。
◇街角で流れてきたあの曲
今から10年前くらいになるだろうか。街角で哀愁を帯びた“あの曲”が聞こえてきた。眠っていたものに再び火が付きインターネット検索するもヒットしない。
それから間もなくとうとう見つけた。
ミッシェル・デルペッシュの「哀しみの終わりに」。you tubeの中で。
原題は<La maison est en ruine>
洪水で家を流されたカップルが、仲間に元気づけられ、元気を出して立ち直ろうとする姿を描いた曲だ。
東日本大震災の時にデルペッシュ自身がいち早く東北の被災地にメッセージを寄せ、日本人によるカバー曲が復興の応援歌となったそうだ。
50年の時を超え巡り会えたシャンソン。時を超え、国を超えて震災で打ちひしがれた人々に寄り添い、励ます応援歌となった。
街角であのメロディーが聞こえてきた時とは、いまから考えると東日本大震災の直後だったのかもしれない。
◇パリの大洪水
こうした曲を生んだデルペッシュの故郷フランス。頻繁に洪水に見舞われるのだろうか。
しかし、自然災害はほとんどないという。大洪水が起こったのは1910年、今から約100年前だという。
それに比べて日本は地震、台風、土砂崩れ、洪水、津波、噴火と各種自然災害が多く、フランスほど建物も頑丈にはできていない。それでも日本人は、何度も何度も立ちあがってきた。何事もなかったような顔をして。
日本人は逞しいのだ、本来は。しかも相当に。
(学23kz)
「明けない夜はない」だが、夜は長かった。
「トンネルをぬけると雪国」しかし、トンネルも長かった。
約半世紀前、不合格に太鼓判押す教師の期待を裏切り、山口大学経済学部に合格。めでたく古都入りした。
当初仕送り1万3千円!寮のカレーライス80円、金はなくとも心は錦!の1回生―のはずだった。
創立90年のボロボロ鳳陽寮入寮。壁は穴だらけ、床はブカブカ、隙間風、窓から放尿なんのその、憧れの一人暮らしが始まった。
何も知らぬ18の春なのに、歓迎入寮コンパのどんぶり酒で死ぬ寸前。
小中高と「整列!前に習え!」でいつも一番前、いじめられっ子の幼少期。
巨漢外人レスラーの反則に我慢して、最後は空手チョップで勝利する力道山に憧れ、
無謀にも空手をやろうと考えた。
だが、寮の先輩がこういった。
「空手部なんか入ったら、卒業できんぞ。壁の穴はみな、奴らの拳の跡。やるなら
合気道。上品、女子もいる!」
女子もいる!!という重要ポイントに痺れ、一旦進む道を決定した。
その矢先、小柄でニコニコ優しい顔した空手部2回生が寮に勧誘に来た。
当時、他大学の空手部やワンゲル部のしごきで死亡事故相次ぎニュースになっていた。
私ー「入部しても、いやならすぐ辞められるの?」
先輩ー「君!仮にも国立大学だよ、紳士的・民主的、何の問題もない。一度稽古を見にいらっしゃい」
疑うことを知らない田舎のボンボンは、「なんや、寮の先輩の話と違うやんか!」とアリ地獄に真っ逆さま、経済学部の正面にあった空手部道場へ。
道場の端に正座見学、すごいのなんの、寸止めなんかとんでもない。
バッチン!ボコッボコ!殴るは、蹴るは!!道着は血だらけ、選手の一人は顔に大傷
(実はこの4回生は直前バイク事故で顔を怪我。中四国大会直前で特に過激な稽古中)
ムリ!無理!無理!!、来るんじゃなかった、すぐ帰らねば!!と
逃げるタイミングを計っていたら、バタンとドアを閉める音。あーヤバイ!!
長い稽古が終了。「ハイ、新入生紹介!」
泣く泣く居並ぶ部員の前に立たされ自己紹介。拍手!!
鬼の形相、副主将が「明日から来いよ。来なかったら迎えに行くけんね。」
こうしてめでたく入部、オス、オス、何でも押忍!!恐怖の理不尽生活が始まった。
主将は嘉穂高校名門柔道部出身。頬にチェーンで抉り取られた傷あり、眼が弱く普段は薄いサングラス、893さんも避けて通る。
下宿にお邪魔したが、壁には大きな国旗。北一輝の本が並ぶ。右翼結社??
超豪華ステレオでクラシック。初めてゴールドネスカフェをいただきました。
副将は経済、坊主頭で鬼軍曹、仏の2回生は彼に倍返しを誓いとても強くなりました。
母は「学生運動と山岳部は危険だからやめて。それ以外なら」と。
父は「運動部はいい、頑張れよ。」
人の気も知らんと、二人は賛成。
楽しい学生生活はどこへやら、わが身の不幸を嘆く肥満の一回生でありましたー続く。
次回は修羅奮闘編 お楽しみに。
(経済学部22期生 N)
注) 以上はフィクションで実在の人物、組織とは関係ありません。ーということにしておきます。
不適切な表現もありますが、作者の意図を尊重し、ほぼ原文のまま掲載しております。
この4月から高校で金融教育(資産形成)が必修になるという。これまでは金融教育はおろそかであった。おろそかというより、正面から取り組まれてこなかった。
4月には民法改正で成人年齢が18歳に引き下げられることもあり、若者が犯罪に合わないためにも、時宜を得た取組みといえる。
◆「カネ」の観念
我が国では古くから、カネ勘定のことを考えるのは「端(はした)ない」とされてきた。
幼少の時から倹約・節約、貯蓄の必要性について親から教えられたが、小学校から高校、大学まで学校において金融教育を受けた記憶がない。
否、社会人になっても先輩から教わったことはないし、同僚ともそうした話はしなかった。
仕事を覚え、日々の仕事をこなすことが先決であったのだ。
若い時は年金についてさえ、よく理解できていなかった。年金に対する関心が芽生えたのは退職を意識し始めた時であった。
人生100年時代、夫婦二人が95歳まで生きた場合に、年金では埋められない所得と支出の差を金融庁の審議会がモデル計算した2000万円問題は大きな反響を生んだ。
しかし、若い時から金銭に関心がなかったかといえば、そんなことはない。
就職活動の際は、給料が良い就職先を選んだ者は多かったはずだし、就職後も給料天引きで貯蓄する財形貯蓄を組んだ方も多いだろう。
◆カネを貯める
むかしから、金を貯めるといえば郵便貯金か銀行の定期預金であった。
若いうちはフローで稼ぐことはできても、ストックとしての金融資産はどうしても乏しい。このため株、投信という言葉すら馴染みがなかった。
株の運用利益といえば、「ラクして稼ぐ」、あるいは働かずして稼ぐ「不労所得」ということになり、日本人の勤勉な性格に沿わないイメージが付きまとった。
また、株売買の損から家を失ったというような話も小さいころから聞いたことがあり、マイナスのイメージが先行していたように思う。
米国に比べて日本では「元本保証のない」株式の保有率が圧倒的に低いが、これは「日本人がリスクに敏感で、賢いからだ」とする見方もあった。
昭和の時代には、ビッグ(貸付信託)やワイド(利付金融債)など、ほとんどノー・リスクで5~7%の利回りが得られる金融商品が流行ったが、特にリーマンショック後はゼロ金利の環境に変わり、こうした商品自体消えていった。
日銀も15年ほど前から金融教育の重要性を説き始めたが、一向に成果はなかった。
◆資産形成への目覚め
しかし、最近になって2000万円問題、将来不安、低金利から、郵便局や銀行の預貯金より、NISA(少額投資非課税制度)やiDeCo(個人型確定拠出年金)などをベースに、節税しながら資産形成ができる金融商品へ関心が移り、個人の資産形成へ向けた動きが盛り上がりを見せている。
また、売買手数料が安いインターネットを通じた株の売買、スマホでの手軽な株の購入、買い物で貯まったポイントを株に変えるということも可能になってきており、若者も資産形成を意識し、動き始めている。
最近ではコロナでの巣ごもりで、旅行や飲み会が減り、手元の余裕資金が増えたこと、また自宅でパソコンに向かう機会が増えたことも、資産形成へ動き始めた一因と解説する向きもある。
このように、資産形成は従来のような熟年層だけではなく、若者世代や各層にも資産形成への取り組みが広がっている。
iDeCo を例にとると、2017年1月から公務員も加入できるようになり、またこの5月から、加入年齢が5年延び、65歳まで加入か可能となった。主婦(第3号被保険者)もiDeCoで毎月の掛金の上限23000円を掛けている者が増えているのが驚きだ。
◆なぜに金銭に疎かったのか
欧米では国民の金融知識向上が福祉として、社会のセーフティネット的な効果を持つとの思想があるが、日本では取組みが遅れていた。
なぜだろう。これには徳川家康が用いた統治手法が関わっているのではないか。
徳川家康は腹心・明智光秀の反逆で自害に追い込まれた信長の例を見て、間違いが起こらぬよう、身分秩序を重視する儒教の朱子学を統治手段に用いた。
朱子学では金(かね)より米穀を重んじる「貴穀賤金」思想を教える。各地の藩校でもこの朱子学が教学の柱の一つとなっており、萩の明倫館でもそうであったのだ。
しかし当時いち早く、金儲けの重要さを知り、貴穀賤金思想を変え、商業を重視したのが田沼意次であったが、後を継いだ農業重視の松平定信によって田沼意次のやり方が否定されてしまった。
◆儒教のふるさとでの最近の金融教育事情
では、儒教のふるさと中国での金融教育はどうか。
中国には華僑がいる。
最近ではOECDの金融リテラシー(理解・活用する能力)調査では中国(上海)がベルギー、オーストラリア、ニュージーランドを押さえて1位になっている。
儒教の伝統が長い韓国でも、最近では「3歳での金銭教育は80年の生涯を変える」として、金融教育に力を入れている。
金融教育とは、何も金を貯めること、すなわち金融資産形成の話だけではない。
失職したとき、離婚したときはどの程度の金が必要になるのか、詐欺の犯罪からどのように身を守るべきか、運用して豊かな老後を迎えるにはどの点に留意すべきか、といった金との賢い付き合い方を多角的に学んでもらうのも金融教育だ。
韓国では、金融教育に取り組まないのは国家の怠慢、国の職務放棄との意見も強まっているという。
(学23期kz)
昨年(2021年)2月、私は人間ドックを受け、腹部大動脈瘤が見つかった。破裂すると、命の危険がある恐ろしい病気だ。私は大学病院に入院した。
◇大手術の日
7月13日、大動脈瘤手術の日。体調は良好だ。精神面も落ち着いている。大丈夫。なんの不安もない。手術着に着替える。
午前8時30分、手術室に入った。まず、全身麻酔だ。意識が遠のいていく。こうして手術が始まったようだが、まったく記憶がない。
《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》
医師の声が聞こえる。だが、体は動かない。目も開けられない。
「聞こえますか」
「はい、聞こえます。寒い」
「手術 終わりましたよ」
「はい。眠たい」
手術は5時間に及んだという。
◇集中治療室
夕方、集中治療室に入った。集中治療室は完全看護だ。看護師が献身的に世話をしてくれる。ありがたい。水は飲むことはできないが、氷を口に含むことはできるという。これがおいしかった。
翌朝、集中治療室に外科医らが来てくれた。年配の外科医が微笑みながら話す。
「手術は無事、終わりました。(大動脈瘤は)相当、大きかったですよ」
術後も順調で、午後には一般病棟に移るという。
◇リハビリの日々
午後2時、車椅子で一般病棟に移る。窓から森が見える。室内に洗面所がある。快適な部屋だ。
だが、点滴と酸素マスクを付けている。体を自由に動かすことができない。
下剤と利尿剤を服用しているせいか、夜中も1~2時間ごとにトイレへ。そのたびに看護師を呼ぶ。つらかった。
翌日、外科医らが病室へ。年配の外科医がにこやかに話す。
「リハビリしましょう。歩くのが一番です」
リハビリの一環として病棟内を歩くことにした。1日に何度も。
また、肺の機能を高める訓練も行う。息を吸って容器に収められた3個の軽いボールを浮かせる。次に息を吐いてボールを浮かせる。1セット30回。これを朝、午後、夕方と1日3セットやる。けっこう、きつい。
この日は看護師が温かいタオルで体をふいてくれた。気持ちいい。
看護師たちは若く、気立てがいい。患者に寄り添ってくれる。ありがたい。
手術後、食事はなし。点滴で栄養をとる。空腹感はない。
コロナ禍で家族の面会は禁止されているが、妻が洗濯物を届けてくれた。
感謝・・・。
7月16日。かなり回復してきた。これまでは自分の体のことで精いっぱいだったが、社会的関心が蘇った。病床で新聞を読む。
家族や友人にメールを送る。続々と返信メールが届く。確かにつながっていると実感する。
7月17日。青年医師が私の体内に挿入していた管を抜く。点滴も解除された。
一気に体が自由になる。シャワーも解禁となった。ひとりでシャワー室に入る。転倒しないよう、注意する。てのひらで腹部の切開部をそっと洗う。胃袋のあたりからへその下まで相当、切っている。
食事は三分粥(かゆ)とバナナ。
7月21日、外科医らが病床を訪れた。検査の結果、24日にも退院できそうな運びとなった。ようやくゴールが見えてきた。
7月23日、青年医師が診察。
「傷口はきれいです。予定通り24日に退院できるでしょう」
この夜は東京五輪開幕式だった。午後9時、消灯だが、午後11時すぎまでテレビ中継を見る。
◇幸せな結末
7月24日、退院の日。三女が車で迎えに来た。退院受付で会計をすませ、車に乗り込む。マンションに到着した。妻が笑顔で迎えてくれた。
休憩後、三女が「お父さん、墓参りに行こうか」という。
車で地元の墓地公園に行く。亡き父に退院を報告する。
「見守ってくれたおかげで、無事、退院できました」
妻が食事を用意してくれた。私の好物のそうめん。夏はこれだ。
地元在住の長女と孫娘2人が退院祝いに駆け付けた。長女は私が所望していたカツサンド(入院中に夢を見た)を買ってきてくれた。
家族そろっての食事が和やかな祝宴となった。
こうして半年に及んだ闘病物語は幸せな結末を迎えた。
(鳳陽会東京支部 S)
◆日本のマックス・ウェーバー
石門心学の祖である石田梅岩。江戸時代、京都の農家の次男に生まれた。商家への丁稚奉公の中で独自に勉学を重ね、45歳で講席を開いた遅咲きだ。
勤勉、貯蓄を唱え、正面から商人道の是を説いた石田梅岩。後に「石門心学」として多くの者の心を捉えた。
石門心学は防・長二州の私塾でも大いに流行ったとされ、長州藩は天保6年(1835年)から藩校の教目に石門心学を取り入れている。
天保の世は一揆が多発していた。長州藩でも天保2年に「長州天保大一揆」が起きており、民衆の教化に心学を用いたのだ。
後世に与えた影響の度合いという点で、石門心学は広瀬淡窓の大分・咸宜園(かんぎえん)や緒方洪庵の大阪・適塾を凌ぐとの評価もある。
石田梅岩が生まれたのは1685年。梅岩と同様に、勤勉と倹約・貯蓄に近代資本主義の成り立ちを見たのがM・ウェーバー。ウェーバーは1864年生まれであり、梅岩は彼より200年も前に生まれている。
◆勤勉と貯蓄
梅岩が講席を開いた時は、元禄バブル後、世の中が乱れ、飢饉や百姓一揆が起きていた時であった。徳川吉宗の下、柳沢吉保による享保の改革で倹約令が出される中、勤労と節約が身を救い、世の中を救うとする道徳哲学は民衆の心にも浸透しやすかったのだろう。
「人、三刻働きて三石の米を得る。われ四刻働きて三石と一升の米を得る」、また「諸行即修行」として勤勉を説いた。
また健康悪化で雑炊「二食」となったことを契機に二食を続け、「残った一食が乞食一人を養う、これ実(まこと)の倹約」とし、木一本、菜一葉でも粗末にせざれば民の辛労を助く、と倹約を心掛けた。
◆「賤商論」の否定
もう一つの柱が商行為の是を説いたことだ。当時は儒学が一般的な教学であり、中でも家康以降朱子学が基本の教えとなる。この中では「士農工商」いう固い身分的な階層制度が社会に介在していた。
しかし梅岩の思想は、「人の性(さが)は天から受けし「小天地」であり、身分の違いなく四民平等」であること、また商人の利益は「天理であり武士の俸禄と同等」であるとし、商行為を劣等視する「賤商論」を否定した。
当時からすると驚くべき革新的な主張であったろうし、商人・町人は拍手喝采したに違いない。
こうした思想は幕府側の治世の通念と異なるが、幕府はこうした思想を抑圧しなかったのか。
抑圧するどころか、なんと幕臣も石門心学の門下に入り、心学を学んでいるのだ。
梅岩の話は肩が凝らない。講席への参加には銭を求めず、儒教をベースとしながらも、仏教や神道のほか市井の俗書も「心の磨ぎ種(とぎぐさ)」として活用している。取り上げる題材も、家の後継ぎ問題、嫁姑の問題など身近なもので、書物はあくまでも参考書であり、各人それぞれ自分の頭で考え、自分なりの解を得ることであることを重視したという。
このため石門心学は商人の道、町人の道というだけではなく、「人の道」を説くものとして武士階級にも賛同者が広がっていった。
◆心学の広がりと「三方よし」
梅岩は自らの思想を広める弟子にも恵まれた。手島堵庵(とあん)は石田梅岩の最も良き祖述者となり、石門心学の普及に大きく貢献した。
また堵庵の弟子・中沢道二(どうに)は道話者として優れ、石門心学の普及に努めており、寛政の改革を行った松平定信の側近も中沢道二の門下に入ったという。
石田梅岩には「実(まこと)の商人は先(方)も立つ、我も立つことを思うなり」との教えも残っており、これが近江商人の「三方よし」につながっていったともされる。
◆山口高商・竹中靖一教授
石田梅岩の研究では山口高商教授に竹中靖一(やすかず)先生がおられた。竹中先生は「石門心学の経済的思想」で学士院賞を受賞されている。
竹中先生は大阪生まれで京大・経済を卒業。在学中に恩師から石田梅岩の経済思想を学び、心惹かれたという。昭和7年(1932年)に山口高商に講師として赴任、昭和9年(1934年)に教授に就任。この間山口高商の沿革史編纂主任を務め、その間経済思想史への関心を強めたという。
先に挙げた先生の著書は石門心学について多角的な視点から記述した800頁の大著である。
(学23期kz)
追記
私の学生当時、M.ウェーバーの講義を受けた。先生の名前は「中村貞二」先生。
Web検索してみるとヒットした。
兵庫・神戸市生まれ。
1953年(昭和28年)に山口大学経済学部卒。
1958年に一橋大学・大学院社会学研究科博士修了。
山口大学助教授から東京経済大学教授へ。2002年同大学を退官。同大学名誉教授、とある。
講義を受けたのは、中村先生が山大経済の助教授時代だったのだ。
中村先生に石田梅岩の評価を伺ってみたかった。
昨年(2021年)2月、私は人間ドックを受け、腹部大動脈瘤が見つかった。破裂すると、命の危険がある恐ろしい病気だ。私は大学病院に行き、手術を受けることになった。
◇大手術の日程
6月30日、再び、大学病院に行った。前回の診察で青年医師から減量を指示されていた。体重が重いと、手術時、負担が大きい。76㎏の体重を72~73㎏に減量するようにー。私は素直に従い、減量に努めた。この日の体重は73・6㎏だった。
大学病院の検査・診察は2回目だ。時間がかかることはわかっている。文庫本を持参し、長期戦に備えた。午後2時、血液検査。午後4時、頭部のMRI検査。
夕方、ようやく青年医師の診察を受ける。入院日と手術日を告げられた。
7月9日入院。7月13日手術。
手術は心臓血管外科の医師4人が担当するという。手術時間は4~6時間。大手術だ。退院後、1カ月は自宅療養となる。
入院日に合わせ、仕事を前倒しして進めた。
◇恐ろしい体験談
入院前、友人に腹部大動脈瘤手術を受けることを知らせた。
すると、友人は恐ろしい体験談を語り始めたではないか。
妻が倒れる前夜、夫婦は談笑しながら、夕食をともにとった。
妻は食欲もあり、普段とまったく変わりがなかった。
翌朝を迎えた。朝食後、友人は「行ってくるね」といって先に会社に向かった。
妻も仕事をしており、遅れて出たそうだ。
夕方、妻は帰宅した。妻は用事があって近くの知人宅を訪れた。玄関先で立ち話をしている最中、妻が突然、倒れこんでしまった。驚いた知人は直ちに救急車を呼んだ。妻は大学病院に運ばれた。
友人は仕事を終え、帰宅した。書置きがあり、急いで大学病院に駆け付けた。だが、妻はすでに死去していたという。
死因は大動脈瘤破裂・・・。
妻も友人も大動脈に瘤ができていることをまったく知らなかった。
定期健康診断では見つからなかったそうだ。
◇お守り持参で入院
7月9日、入院の日。三女が運転する車で大学病院に行く。島根県出雲市在住の兄から送られてきた神社のお守り、そして東京都渋谷区在住の次女から届いた八幡宮のお守りを持参する。入退院受付で手続きを済ませ、病棟へ。夕方。妻と同席で、青年医師から腹部大動脈瘤手術の説明を受ける。
大手術の日が迫って来る。手術に備え、絶食となった。《続く》
(鳳陽会東京支部 S)
山口大学開学の祖とされる上田鳳陽先生。
名は上田茂右衛門纉明(もうえもんつぐあき)。長州藩下級藩士・宮崎猪兵衛在政の三男として山口大内氷上に生まれる。
山口の中心部に近い大内氷上。山口市の北部に東西二つの鳳翩山(ほうべんざん)があり、号・鳳陽の「鳳」は鳳翩山から、また「陽」は南を意味するため、山の南に位置する出生地・大内氷上を指すとする説がある。
しかし、「鳳」には優れた人物の意もあり、また「陽」は光の差すところでもあることから、「鳳陽」の号には、もっと意欲的な意味が込められていたのかもしれない。
幼少の頃、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後。上田家を継ぐ。
幼いころから学問、こと文学を好んで学んだという。
寛政12年(1800年)、32歳にして藩費生として萩の藩校明倫館に入学し、文化6年(1809年)まで9年にわたり儒学や国学を学ぶ。
明倫館には10代半ばに入学、学びの規定年数は3年というのが通例であるのに照らし、異例に長く学んだようだ。
◆山口講堂小史
9年の修学を経て、齢40を超え地元山口に帰っている。
山口に戻った当時、学び舎はどのような状況であったのか。
日本海に面した萩には藩校明倫館があり、他方、瀬戸内海に面した三田尻(防府)には船頭から医者に転じた名物の漢学者・河野養哲が開所した越氏塾(えっしじゅく)があったが、内陸の山口は本格的な学問所はなかったのだ。
大内家24代弘世(ひろよ)の時代が始まる前は一農村だった山口。京に上り、京の町に感銘を受けた弘世は、山口の地形が京都盆地に酷似していたことから、町の通りに大路、小路と京風な名前を付し、山口を「西の京」として造り変える。
15世紀後半には京都を舞台にした応仁の乱もあり、乱を逃れた公家や文化人が西の京に身を寄せ、また大陸からの先進文明を取り入れたことから山口は文教の中心地となっていったが、36代大内義隆が家臣の謀反により大内家が滅びると山口も衰退し、意欲ある若者を惹きつける学び舎はなく、学問する上での「空白地」になっていた。
このため鳳陽翁は郷里山口で学問所創設に注力し、藩からの資金下給に加え近隣の豪商や富農の力添えを得て、文化12年(1815年)、中河原に私塾「山口講堂」を建て、山口に住む藩士の教育に当たったという。鳳陽翁47歳の時であった。
この「山口講堂」が山口大学の「淵源」であり、山口教育の礎となった。
山口大学8学部中、最も古い歴史を持つ経済学部の前身である山口高商の校歌に「仰ぐは鳳翩、臨むは椹野 基を文化の遠きにおきて 時世の進みに伴ひ来る」の「文化」とは講堂の開設された年(文化12年=1815年)の元号である。
文化12年といえば、どのような年であったのか。
杉田玄白が解体新書を著し、伊能忠敬が日本の測量を続けていた時に当たる。
外国に目を向けると前年の1814年に英国人スチーブンソンが蒸気機関車を制作し、産業革命の中で新たな技術が生み出されていた時に当たる。
この山口講堂は、萩から藩主が参勤交代の途中に立ち寄る先とされ、藩主はそこでの武道の稽古や勉学の様子を観閲したという。
◆明倫館の弟分、山口講習堂
当時は天変地異もあり、財政は逼迫、一揆も多発しており、藩の人材育成が急務であった。
1845年に鳳陽は藩の賛同を得て山口講堂を文武の総合学舎とする山口講習堂と改称し、萩の明倫館の支校的存在になっていく。
万延元年(1860年)には三田尻(防府)の越氏塾とともに、山口講習堂も明倫館の直轄となり、「山口明倫館」と改称された。このため諸役は明倫館から派遣されることになり、こうして私塾から「藩の学び舎」になったのであり、この翌年、1861年に長山(亀山)に移転している。
山口講習堂の存在感が決定的に増したのは、文久3年(1863年)を契機とする。この年に馬関戦争、すなわち関門海峡を封鎖し外国船砲撃による攘夷が決行され、それを指揮するため藩庁が萩から山口へ移転したのであり、翌年には城も移転する。これにより、政治と軍事の機能は山口へ、また文教も山口へと移転する。その後、明治3年(1870年)に維新政府の教育改革で山口明倫館は山口中学となるに至る。
◆鳳陽翁の人となり
学問を好み、博識であったという。山口講堂の開所にこぎつけた後、講堂の運営を門人に任せ、国学研究のため萩の明倫館で学び直している。
好奇心は旺盛、食欲も旺盛、健脚で髪は晩年まで黒々としていたようだ。また、老いてもなお読書の折には、眼鏡の助けは要らなかったという。
情緒豊かな先生であったようで、友人が訪ねてきた折には御馳走でもてなし、友人が去る時には、後姿が見えなくなるまで見送るのを常とした。
喜怒哀楽豊かに本を読んだようで、読んでは涙を流し、苦しきと思しき者には大声で励まし、悪人と思しき者を叱り飛ばしたため、何事が起きたかと度々近所の住人が駆け付けたという。
鳳陽翁は嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年に85歳で没する。
墓は大内家の菩提寺のひとつである乗福寺にあり、毎年命日の12月8日には「鳳陽忌」が執り行われており、山大の学長や理事、鳳陽の有志代表諸氏が集い供養を行っている。
(学23期kz)
参考文献:山口大学「山口大学の来た道」
◆腹部大動脈瘤
昨年(2021年)2月、私は首都圏のクリニックで人間ドックを受診した。
私は元気だ。健康そのものに見える。だが、親しい知人(彼もまた、元気だった)が突然、脳出血で緊急入院した。健康を過信してはいけないと実感し、2年前から人間ドックを受けるようにしている。
薄暗い検査室。腹部エコーを担当する女性が静かに告げた。
「腹部大動脈瘤が昨年より大きくなっています」
昨年の腹部エコーで腹部大動脈瘤が見つかった。
しかし、自覚症状はない。元気いっぱいだ。よって昨年の段階では、さして気にせず、放置していた。
健常者の腹部大動脈は直径2㎝程度という。私の大動脈には瘤(こぶ)がある。昨年は直径5・5㎝だったが、今回は6・1㎝に拡大しているという。
検査担当の女性はこういった。
「先生(医師)からお話があると思います」
人間ドックの検査項目をすべて終えた。最後に医師との面談がある。
男性医師が厳しい口調でいった。
「腹部大動脈瘤が大きくなっています。放置すると、破裂しますよ」
破裂すると、命の危険があるという。
「大学病院などで精密検査を受けてください。おそらく手術になるでしょう」
これはおおごとだ。帰宅してネットで「腹部大動脈瘤」を検索した。
無症状で、ある日、突然、破裂する。恐ろしい病気だ。これは放置できない。
地元の医院に行く。かかりつけ医の女性医師に腹部大動脈瘤の件で、大学病院への紹介状を書いていただくようお願いする。その場で紹介状を書いてくれた。予約は自分でとるつもりだったが、女性医師は「こちらで予約をとりましょうか」という。予約をとっていただけるのなら、こんなありがたいことはない。受診希望日を4件ほど記す。待合室で待機する。しばらくして予約がとれた。受診日は5月19日に決まった。
◆大学病院
朝、車で大学病院に行った。駐車場に車を停める。
午前8時、初診受付に行く。診察券を発行してもらい、心臓血管外科外来受付へ。待合室で待機する。患者が多い。
初日なので診察だけかと思っていた。ところが、多くの検査を受けることになった。血液検査、心電図、レントゲン、免疫力、血管弾力性、心臓、そして造影剤を投入してのCT検査・・・。
それぞれの検査で長時間の順番待ち。ああ、文庫本を持ってくればよかった。お昼を過ぎたが、CT検査を控えているので、昼食をとることはできない。
午後4時、CT検査を行った。その後、再び、心臓血管外科外来の待合室で待機する。夕方、ようやく私の順番が来た。ドアをノック。診察室に入る。白衣の青年医師が座っていた。驚くほど若い。若いが、落ち着いている。経験に裏打ちされた自信が漂っている。信頼できる医師と直感した。
青年医師は単刀直入にいう。
「このまま、放置すると、破裂するおそれがあります。投薬による治療はできません。手術しましょう」
「はい。わかりました」
◆ふたつの手術方法
続いてふたつの手術方法について図解を示しながら、ていねいに説明する。
1.人工血管置換手術
腹部を胃袋のあたりからへその下まで20~30㎝切開する。腹部大動脈の上下を止血し、動脈瘤にメスを入れる。動脈瘤を開く。内部の血栓などを取り除き、きれいにする。人工血管を装着する。その後、動脈瘤を使ってラッピングするように人工血管を包む。
2.ステントグラフト内挿手術
日本では2006年にステントグラフト製品が認可された。新しい手術方法だ。人工血管にバネ状の金属を取り付け、これを細かいカテーテルの中に格納する。脚の付け根を4㎝切開。動脈内に挿入する。動脈瘤まで運び、ステントグラフトを留置する。
ステントグラフト内挿手術は腹部を切開しないので、体への負担が少ない。手術後、短期間で退院できる。だが、新しい手術方法なので手術してから10年後、20年後の検証データが少ない。患部から血液が漏れて動脈瘤が再び、ふくらむ心配がある。その時は再手術が必要となる。10年~20年後といえば、私は80歳~90歳だ。果たして手術に耐える体力が残っているだろうか。
青年医師は人工血管置換手術を勧める。私に異存はない。
その場で人工血管置換手術をすることを決定した。
次は手術の日程だ。大動脈瘤を放置すれば、するほど、破裂する確率は高まる。青年医師は6月に手術をしましょう-と提案した。だが、私は新型コロナのワクチン接種の日程(2回目の接種が6月16日)などを考慮して7月中旬を希望した。結局、6月30日に再度、検査と診察を行い、手術日を決定することになった。
この日、検査・診察が終了したのは午後6時。朝の8時から10時間、大学病院にいたことになる。長い、長い1日だった。《続く》
(鳳陽会東京支部 S)
◆寄付のかたち
「寄付後進国」の日本ではあるが、様々な取り組みもなされている。
生協を通じてユニセフ基金に寄付される取組みは1984年に始まっている。
また一食当たり20円(途上国の学校給食1回分に相当)が途上国に寄付されるテーブルフォーツー(TFT)。これは2007年から始まった日本発の取り組みだ。
最近では各種寄付行為が社会に浸透してきたようにみえる。
具体的な例を挙げてみよう。
・ふるさと納税
・クラウドファンディング
・遺言による遺贈寄付
・ポイント寄付
などがある。
また、12のジャンルから自分で寄付のポートフォリオが選べるsolidというのも出てきた。
また香典返しを慈善団体などに寄付する取り組みもなされ始めたという。もちろん香典を頂いた方に、故人の意志であることを事前に伝えておく必要はあるが。
「寄付をしよう」と構えなくても、料金を払う際に少額の寄付ができる制度もある。例えば、帰省する際に購入する航空券のインターネット決済の際、「寄付」のチェックボックスがあり、チェックを入れるだけで簡単に100円を寄付できるようになっている。最近ではチェックマークを入れないと、私自身、後味の悪さを覚えるようにさえなった。
◆遺贈寄付
終活の一環でまとまった額を寄付する手もある。
日本の高齢者は金持ちが多い。
統計では金融資産の3分の2が60歳以上の高齢者に帰属していることになっている。日本人の金融資産残高は死ぬ直前がピークになるようで、こうした国民は世界でも稀と言われる。
笑い話をひとつ。
今では故人となった長寿双子姉妹の金さん・銀さん。100歳を超え、お迎えが近い年になった頃でも「老後が心配」と呟いていた。
カネは墓場まで持って行けない。残された家族が相続税を払うようなことになる場合、この遺贈寄付という大技がある。
人生最後の締め括りに、母校や公的研究機関、お世話になった自治体、あるいは活躍して欲しいNPO法人に、遺言で寄付を申し出るのだ。
◆コロナ禍の困窮学生支援
また、今回のコロナ禍では、大学生諸君にもしわ寄せがいった。
困窮学生の救済は行政も行う。行政が行う支援は大がかりであるが、その反面、時間がかかり、しかも支援してほしい先に支援が向かうとは限らない。
これに対して個人的な寄付は、個人の判断で手を差し伸べたい先にピンポイントで支援を申し出ることができる。
◆魅力的な税額控除
最近思うところあって山口大学基金に少額ながら寄付することにした。
寄付を行った場合、確定申告で寄付控除を受けることができるが、母校では、学生へ修学支援する寄付金について「所得控除」ではなく、節税効果の高い「税額控除」が平成28年度以降適用できるようになっているのがありがたかった。
ただし課税所得金額が5000万円を超える富裕者の方はこの恩典に与ることができない。ご留意願いたい。
(学23期kz)