木戸孝允 ④

◆抑え役、調整役の木戸

木戸は明倫館で吉田松陰に兄事している。吉田松陰から「事を成すの才あり」と見込まれ、また、久坂玄瑞や高杉晋作からは兄貴分と慕われている。

木戸自身、ペリー来航で国事に目覚めた尊王攘夷の「熱い」志士だが、長州藩士の前ではもっぱら抑え役に回っている。松陰、久坂、高杉が、より熱く、激しかったからであろう。

高杉の長井雅楽(ながいうた)暗殺に反対し、久坂の外国船砲撃(馬関戦争第一砲の下関事件)にも反対し、禁門の変を惹き起こす長州藩急進派を抑えにかかり、また吉田松陰の老中・間部詮勝要撃を断念させるべく、江戸から長州に下った。

そのどれもうまくいかないほど、若い長州藩士の血は熱かったともいえる。

さらには、酒で舌禍事件を起こす長州藩の重鎮・周布政之助(すふまさのすけ)を諫めるのも木戸孝允の役回りであった。

◆木戸孝允の評価

 ここでは木戸と同時代人の板垣退助と大隈重信に語ってもらおう。

板垣退助

「実に品格の良善なる人であって、終始機事を処理するに慎重であって、すこしも軽卒なところがなく、諸物に聡明で、温情に敦厚(とんこう)なる性質(たち)であった」とし、「優等生」たる木戸にて賛辞を送っている。

大隈重信

「木戸は正直真面目な人物であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、併しなかなか誠実な人であった。(中略)木戸は洒々落々とした所があって、思ったことは何でも喋舌ると云う風であるから、大久保の沈黙とは正反対である。木戸は詩も作れば歌も詠む、風流韻事は頗る長じていて、遊ぶことも騒ぐことも好きで陽気であった」としている。

また、「最も感心なことは長州出身ながら、薩長の専横跋扈を憤ってこれを抑えた」としており、薩長の「跋扈」を良しとしない佐賀藩出の大隈にとって、木戸は話せる存在であったようだ。

◆さいごに

明治の三傑の中では影は薄いように思われるが、これは名家の生まれ故のものであるかもしれない。整った風貌、温和な性格、文化・学問の素養、金銭に不自由することなく、若手を集め面倒を見た。

高杉の上海渡航に際しても、また長州ファイブのロンドン渡航に際しても、金銭の工面を含め、若手の面倒を見ることに裏で汗をかくこともしている

多方面での活躍ゆえ、後々顧みられる語り草の名場面とは縁が薄かった人物。また諫め役、たしなめ役という損な役回りに回った木戸孝允であった。

過去、木戸孝允が大河ドラマの主人公になったことはないようで、今後の企画を待つほかない。

幕末当時、木戸孝允、いや桂小五郎は龍馬と同じくらいモテたようで、大河ドラマでは気品漂う俳優に演じてもらうことになる。

さて誰にすべきか。

(学23期kz)

「夫・力道山の教え」

~最後まで決して諦めるな~

5
年半前の2017年3月28日になりますが、亀戸のアンフェシリオン(旧東京平安閣)まで講演会を聴きに行って来ました。
講師は力道山夫人の田中敬子さんでした。

私は小学生の頃、毎週金曜日の夜8時~は三菱電機提供の日テレ系の広島テレビでプロレス中継があり、家族で固唾を飲んで観たものです。
外国人レスラーを相手に劣勢だった力道山の空手チョップが炸裂し、母は「やっちゃれ、やっちゃれ」と広島弁で連呼したものです。
我らの力道山はル・テーズ、ミスターアトミック、ブラッシー、デストロイヤー等と勇敢に戦ったものです。
吸血鬼ブラッシー戦では会場ばかりではなく、全国のテレビ視聴者に死者が続出しました。

講演会は冒頭に貴重な懐かしい秘蔵フィルムの映像の上映紹介があり、田中敬子さんから秘話の数々の紹介もありました。
最後は鳴海剛リングアナウンサーの力道山の紹介に当時にタイムスリップし、感動の余り大粒の涙でした。(参加者約240名)

(学22期Y・Y)

第4回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

2022年8月14日(日)~20(土)
11:00~18:00(最終日は17:00)
東京交通会館1Fギャラリー「パールルーム」
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、
中学生以上)*小学生以下は無料

【8月15日の投稿】
今日の東京は台風一過で雲は多いものの晴れ間もあり、比較的穏やかな天気となりました。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に昨年に続き行って来ました。
初日の13:30に到着し、事務局長の大越貴之にご挨拶し、約1時間かけて約30点のパネル展示を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
是非、会期中に足を運んで頂きたい。
(学22期 Y・Y)

もう一つの戦争

◇最強部隊の日系米兵442連隊

先の大戦では米軍に442連隊戦闘団という日系二世で構成された陸軍部隊があった。

当時、敵性市民とされた日系二世。彼らは西海岸の強制収容所から志願し、米国軍人として出征している。

主に欧州を中心とした戦線に派兵され、優れた戦果を挙げたことにより大戦期間中、米陸軍内では最も多くの勲章を得、米国陸軍史上最強の部隊ともいわれている。

当時は米国軍の中でも彼らに対する差別があったという。米国人から日系米兵は「いつ日本側に寝返るかもしれない」との疑念を払拭するためにも、彼らは懸命になって米国のために戦った。

◇日本戦で活躍した部隊:MSI

米陸軍には、日本から地理的に離れた欧州戦線に派兵された部隊とは異なり、日本戦で重要な働きをした日系二世の教育機関があった。それは米国陸軍諜報部(MSI:ミリタリー・インテリジェンス・サービス)語学学校。ここでいう「語学」とは日本語のことだ。戦前に3千名、戦後に3千名で、計6千名学んでいる。

この教育機関は日米開戦を見込んで開戦のひと月前の1941年11月に設置され、その85%が日系二世だったという。

彼らは日本軍の通信傍受、盗聴、捕虜の尋問、捕虜から入手した資料の解析で能力を発揮した。山本五十六連合艦隊司令長官の撃墜も、戦艦武蔵から発せられた暗号電文の解読も彼らの手によるという。

また、彼らは日本兵捕虜の尋問でも活躍する。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があった。しかし、捕虜となった日本人は「日本人の顔をした日系兵」から話しかけられると、何でも喋ってしまったという。

見知らぬ外地で「日本人とおぼしき顔」を見つけると警戒が緩むものだ。話しかけても、怪訝な顔をされ、早口の英語が返ってきた覚えが私にもある。

日本兵捕虜の中には、尋問に頑なに口をつむぐ者もいたが、タバコを喫わせ、演歌を一緒に歌って心を和らげて、情報を得ていたという。

◇日系米兵の戦後

彼らは戦後、日本でもマッカーサーの出迎えや、ミズーリ号での調印式でも活躍する。戦後の占領軍と日本との間に入り、無用な摩擦が生じないように動き、活躍し、日本の戦後復興にも貢献した。

また彼らは、相当な規模の対日支援物資の寄付・支援などを通じて日本の戦後復興の手助けをしている。戦後間もない日本の高度成長に寄与したのは朝鮮戦争特需だけではないようだ。

◇人材を活用した米国

米国陸軍情報部にはこうした日系人だけではなく、ドイツ・オーストリア系隊員による部隊「リッチー・ボーイズ」もいた。彼らはナチスに追われた若者でユダヤ系ドイツ人も多く、対独戦における米陸軍の心理戦要員となり、連合国のノルマンデー上陸作戦では決定的な戦力になったとされる。

日系、独系、ユダヤ系の米国人。こうしたあらゆる人材を活用し、情報戦を展開した米国は極めて有利に戦争を進めていった。

他方、日本はどうであったか。

敵国を研究することなく、「鬼畜米英」というプロパガンダで片づけ、言葉も敵性言語として使用を禁止、それに代わる日本語表現の研究に精力を注ぎ込むにとどまった。

◇アーリントン墓地

太平洋戦争時、敵性市民として弾圧を受けた日系二世に中で、米兵軍に志願し数々の戦果を挙げた442連隊。

戦争終結直後、時の米大統領は米軍の中で最も輝かしい功績を挙げた日系二世の442連隊を閲兵し讃えた。

「諸君が戦ったのは敵兵だけではない。偏見とも闘った。そして諸君は勝ったのだ」。

この連隊兵のうち60余名が「歴史的に特筆すべきマイノリティー(少数精鋭者)」として、ケネディー大統領らと共に国立アーリントン墓地に眠る。

(学23期kz)

フリーダムトーチの442連隊・部隊章

続・人間ドックのすすめ③

私は昨年(2021年)2月、人間ドックを受けた。

腹部大動脈瘤が見つかった。昨年7月、大学病院で大手術を行った。

続いて精密検査で冠動脈(心臓を動かす大切な動脈)に重大な疾患が発覚した。3か所が閉塞寸前という。今年(2022年)1月、大学病院で手術を行った。

◇白衣のお迎え

 大手術が終わった。私は大学病院の個室で横たわっている。体には何本もの管が付けられている。胸部からは出血が続く。

夜。高熱を発した。夢を見た。

―冬の日、私は九州の実家にいる。その日は九州には珍しく、大雪が降っていた。

私は庭に出た。

おや、だれか、いる。

祖母(故人)だ。白い着物を着ている。私と目が合った。微笑むことはない。無表情。なにもいわない。沈黙している。

私は雪景色を撮影しようと、いったん、家に戻り、カメラを探した。

だが、カメラは見つからない。しかたなく、再び、庭に出た。

なんと、祖母が同じ場所に立っているではないか。

突然、祖母はくるりと後ろを向いた。門を開け、黙って出ていく。

私はついて行かなかった。

 人生の最期にあの世からお迎えが来るという話はよく聞く。だが、ほんとうにお迎えが来るとは・・・。あのまま、祖母について行ったら、どうなっていたのだろうか。

◇リハビリ

 手術のあと、病棟でリハビリを行った。体に点滴などたくさんの管がついている。身体を動かすのは大変だ。だが、ベッドに横たわっていれば、回復が遅れる。

リハビリに励む。まず、ベッドから起き上がる。病室の椅子に座る。

座ることもリハビリの一環だ。さらに点滴を付けたまま、病棟内を歩く。肺機能回復訓練も1日3セット行った。若い看護師が「こんなにリハビリに熱心な患者さんはそういません」とほめてくれた。

 【1月22日】

順調に回復している。医師が足、腕、腹部についていた管を全部抜いた。

身体が一気に自由になる。シャワーも解禁された。おかゆの食事も始まった。

医師は「リハビリの効果があって回復が早い。まもなく退院できるでしょう」と微笑みながらいった。

【1月26日】

退院の日。妻が迎えに来る。タクシーでマンションに帰った。

昼食は妻の手作りの親子丼。おいしい。食後、妻の付き添いでマンションの外周を散歩する。マンションの友人たちと出会った。手術の成功と退院を報告する。みな、喜んでくれた。夜は鴨汁つけうどん。酒はまだ、飲めない。

シャワーを浴び、ベッドに潜り込む。心地よい眠気に誘われた。

◇自宅療養

 退院後、1か月は自宅療養だ。医師が具体的な指示をした。

  • 酒は当分の間、禁止
  • コーヒーは1日1杯
  • 水は1日2リットル飲む(相当な量だ)
  • 車の運転は禁止
  • 肉はおおいに食べる(手術で失われた血液を増やす)
  • 散歩を心がけ、距離を徐々に伸ばしていく
  • 重い物を持つのは禁止・・・など

私は素直に指示に従った。

1か月後、大学病院で診察を受けた。医師が微笑んでいった。

「数値がすべてよくなっています。お酒は飲んでいいですよ。現場復帰して、ばりばり仕事してください」

 私は3月から現場復帰した。元気に仕事をしている。酒もおおいに飲んでいる。これも人間ドックを受けたおかげだ。

みなさん、人間ドックをおすすめします。

 (東京支部 S)

追記

※大手術の結果、心臓から動脈にかけて、血流がきわめてよくなったようです。酒を飲むと、足の甲や指がピンク色に染まります。学生時代にもどったような気分です。

私と演劇鑑賞(1)

社会人となった23歳の頃、人から誘われて、演劇鑑賞のサークル的なものに入り、舞台を見始めました。
入社して初めての勤務地が地元の広島となり、配属となった頃です。
高校時代には幽霊部員に近かったが、演劇部に入っていて、発声練習やら、メイクの練習をしたりしましたが、演劇部員とは名ばかりで、同級生に頼まれて人数あわせに協力した程度の記憶しかありません。
ただ、どういうわけか、高校時代の卒業アルバムには、演劇部員として写真が出ていて何かにつけ有難い。
演劇部の顧問が、地学の先生をされていた山田洋次監督の弟さんだったというのは後で知ったのでしたが。

20代の前半から始まった演劇鑑賞は33歳で広島を離れるまでに、文学座、俳優座、劇団民藝等の新劇中心に8年間で100公演以上観るところとなった。
サークルに入っていたので、公演後はいろいろと寸評会的なものをやったり、台本を事前に入手したりして、鑑賞中心ではあったが、結構、演劇青年でした。
その上、広島に来る劇団四季や宝塚公演やテント劇場も好きで見たりした。
地元の広島大学や比治山公園でのテント劇場は臨場感があり、観客である自分が舞台に上がって演じたくなるような気分にさせるものがあり、虜になった。舞台と観客席との敷居を感じさせなかった。

東京に転勤になって以降は仕事が俄然忙しくなり、帰宅出来るのも遅くなり、演劇鑑賞どころではなくなった。
その後は知り合いの女性が小さな劇団にいて、数年に一度、お付き合いで見る程度でしたが、最近、縁あって演劇鑑賞を再開しました。
広島と違って東京は舞台の公演回数も多く環境的にも恵まれているので何かにつけ楽しみです。

写真は文学座の北村和夫さんと杉村春子さん
(学22期 Y・Y)

続・人間ドックのすすめ②

 人間ドックで腹部大動脈瘤が見つかった。

昨年7月、私は大学病院で大手術を受けた。手術前に行った全身の精密検査で、今度は冠動脈(心臓を動かす大切な動脈)に疾患が見つかる。3か所が閉塞寸前だという。青年外科医の勧めで、冠動脈のバイパス手術を行うことになった。

◇驚くべき遭遇

手術を前にした昨年11月の週末、私は日比谷公園を訪れた。陽光を浴びてベンチに座り、友人と話し込んでいた。

隣のベンチに青年が座った。彼は感染防止のため、マスクをしているが、容貌があの青年外科医によく似ている。だが、まさか本人とは思わなかった。そのとき、青年の携帯電話が鳴った。どうも病院とやりとりしているようだ。声の記憶。間違いない。

電話が終わった。私は「先生」と声をかけた。先方も驚いている。

偶然、青年外科医と患者が日比谷公園で出会う可能性はあるかもしれない。だが、同じ日、同じ時刻に隣のベンチに座るとは・・・。

―この青年は天が遣わした医師ではないのか

 帰宅後、妻に話すと、妻も驚いていた。

◇大手術

 令和4年、正月。家族とともに新年の宴を催した。大いに酒を飲む。愉快な宴だった。大手術の日程が迫る。正月休み明けに仕事の引継ぎを行った。

 【1月13日】

大学病院に入院した。大手術に備え、検査が続く。

 【1月17日】

妻と同席で手術の説明を受ける。手術中に死亡する確率は1・3%という。

手術同意書に署名する。

 【1月18日】

大手術の朝を迎えた。よく眠れた。窓のカーテンを開ける。快晴だ。見事な朝日が昇る。なんの不安もない。心境は澄み切っている。

 午前8時30分、手術室に入った。全身麻酔。手術中の記憶はまったくない。

  《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》

外科医3人。長時間に及んだ手術後、集中治療室に運ばれたようだ。

私は病床に横たわっている。執刀した外科医が声をかける。

「手術終わりましたよ。起きてください」

声ははっきり聞こえる。意識は鮮明だ。だが、体が動かない。

声を出せない。眼も開かない。

なんとか意志表示をしようと思う。あちこち、動かしてみる。

眼。顔面。左手。右手。指先。だめだ。まったく、動かない。

おや。右足の指が動くではないか。足の指をぴくぴく動かす。

「眼は開かない。声も出せないが、意識はもどりました。先生の声

も聞こえます」(と、私は伝えたかった) 

 だが、外科医は想定外の反応をした。

 「あ、けいれんが始まった」

 「違う。違う。これは意識が戻った意思表示なんです」

 (と、私は伝えたかった)

私は、力をこめてさらに右足の指を動かす。

外科医が心配そうに言った。

 「けいれんが激しくなった。脳に血栓が飛んだのかもしれない」

そうじゃない。そうじゃない。意識が戻ったことを知らせる意思表示なんですけど・・・。         

 完全に意識を失ったように見え、横たわって、眼も体も動かせない人でも「誰が来たか、わかる。枕元で自分の名前をいいなさい」とよく、いわれる。

あれは本当なのだ。体験した私には断言できる。(続く)

 (東京支部 S)

木戸孝允 ③

人脈が豊富で、政治的センスに優れ、先を見通す識見に優れていたとされる木戸孝允公。

交渉・調整能力が高いためか「長州の外交官」とも呼ばれ、討幕を仕上げ、維新を形作ることに貢献した長州藩の大物だ。

また木戸は、士分でこそないが優れた人材を見つけて登用し、活躍させるのがうまかった。木戸の縁で開いた花が、伊藤博文と大村益次郎の二輪ではなかったか。

◆伊藤博文

伊藤は木戸の義弟(木戸の妹・治子の夫)で長州藩士・来原(くるはら)良蔵の育み(はぐくみ)となった。松陰が「ああ、我の尊信するところの者、ひとり桂(木戸)と来原とのみ」と語った、その来原だ。来原と松陰は昵懇の仲で、来原の紹介で伊藤は松下村塾生となる。来原は伊藤を義兄の木戸に紹介し、木戸は伊藤を雇人とした。

吉田松陰処刑後の遺体を南千住・回向院に埋葬したのが木戸であったが、その脇に居たのが8歳年下の伊藤だった.

また木戸は伊藤を他藩同志の伝達役として使っており、こうしたことも伊藤の顔を広げ、伊藤を世に出す契機となったようだ。

こうしたことから伊藤は木戸から知遇を得たことに感謝し、木戸に対し最大級の賛辞を与えている。

しかし、伊藤は木戸から最後まで「雇い人」として遇されたことに納得がいかず、わだかまりがあったようで、後々「(木戸公の)度量はひろく大きくはなく、随分困ったことも多かった。」とチクリと心情を吐露している。こうしたこともあったためか、伊藤は木戸のライバルの大久保利通と通じるようになってゆくが、これにはこうした溶かし切れないわだかまりがあったことが背景にあるのかもしれない。

◆大村益次郎

吉田松陰は江戸伝馬町処刑場で最期を迎えたが、木戸は松陰を小塚原回向院(えこういん)で葬った帰りに、見事な手さばきで腑分け(人体解剖)をしている人物に遭遇し、驚嘆する。

腑分けの見学者にその人物の名を聞いた時から大村との縁が始まる。この時、桂(木戸)は27歳、村田蔵六(大村益次郎)は36歳であった。

当時木戸は長州藩で藩政を掌握していたが、大村益次郎は宇和島藩に出仕し、100石取りの士分となり、幕府の蕃所調所(ばんしょしらべしょ・洋学の研究・教育機関)教授であった。木戸はその大村を、その職を捨てさせ口説き落として安い食い扶持で長州に招いた。招く方も無茶な招き方をしたが、招かれる方もよくぞ応じたものだ。しかも木戸は大村を軍の総司令官に据える。藩の重役の反対を押さえて。

その期待に応えて、村田は四境戦争(幕府・長州戦争、いわゆる第二次長州征伐)、彰義隊との戦い、戊辰戦争で大きな活躍をする。

大村が死ぬ前、九段に招魂社建立という願いを聞き、またその境内に桜を植える願いを聞き届けたのが木戸孝允であった。

(学23期kz)

安田ダンス教室(山口市)

昨年の正月の1月9日のことです。
最近、毎日のように東京在住の学生時代の友人とCメールでやり取りしています。
話が学生時代に一緒に一時期、社交ダンスを習いに通った掲記ダンス教室の話になりました。
ダンス教室を主宰されていた安田羊佑先生(男性)はお元気であろうかなと。
50年位前の話なので、いくら何でも亡くなられているのでは?となりました。
ネットで検索して、今日恐る恐る思いきって電話してみました。

女の方が電話に出られ、本人と代わりますと言われて吃驚しました。やったあ。
当時、私は40代後半に見えたので100歳近いかと思いましたが、年齢を聞くと92歳とのことでした。
ご健在でした。
思い出話を暫ししました。
社交ダンスとは別に日本舞踊も教えておられ、素質を見込まれた友人の付き添いで、一日だけ中河原のご自宅に行き、日本舞踊も習いました。

昔、安田先生からダンスをやっているとノイローゼになることはないと教わりました。
先生がお元気なのは矢張り社交ダンスや日舞をされているからなのだと友人と話しました。
健康の為に社交ダンスでも再開しますか。
華麗なるステップは踏めますか?

(学22期 Y・Y)

続・人間ドックのすすめ①

 私は昨年(2021年)2月、人間ドックを受けた。

重大な疾患が見つかった。

腹部大動脈瘤・・・。

放置すると、破裂。死に至る恐ろしい病気だ。昨年7月に大学病院に入院。外科医4人による大手術を受けた。手術は成功し、無事、退院した。

 このときの闘病記は「人間ドックのすすめ」(ホームページ下段のアーカイブ、2022年3月に収録)で紹介した。

 あれから1年が経過した。自宅療養を経て、社会復帰。仕事、役職、趣味、旅行、そして孫の世話・・・。元気に暮らしている。

 ところで、この闘病記「人間ドックのすすめ」には続編があるのです。

◇冠動脈に異常

 昨年7月、腹部大動脈瘤で大学病院に入院した。そのさい、全身の精密検査を行った。心臓カテーテル検査で、私の冠動脈に異常が見つかった。冠動脈は心臓を動かす大切な動脈だが、3カ所が閉塞寸前という。

大学病院の一室で説明を受けた。特殊な手法で撮影した心臓周辺の生々しい写真を、若い外科医が示す。確かに3カ所の血管が極めて細くなっている。閉塞どころか、ちぎれてしまうのではないかーと不安になるほどだ。

青年外科医は恐ろしいことをいった。淡々と・・・。

「閉塞すると、心臓が止まる恐れがあります」

青年外科医は、まず、喫緊の課題である腹部大動脈瘤の手術を実施。数カ月を経て、体力が回復してから、冠動脈の手術を行うことを勧める。私に異存はない。

「お願いします」

◇ふたつの手術方法

腹部大動脈瘤の手術が無事、終わった。1か月間の自宅療養後、私は、冠動脈手術について調べた。複数の手術体験者にも話を聞いた。

冠動脈の疾患にはふたつの手術方法がある。

【カテーテル手術】

狭くなった血管に手首や太ももの付け根などから細い管を通して拡幅する。胸部を切開しないので、身体への負担が少ない。数日で退院できる。ただし、再発する恐れがあるという。薬も大量に服用しなくてならない。

【バイパス手術】

全身麻酔をして胸部(喉元から胃袋のあたりまで)にメスを入れる。心臓をおおう胸骨を切開し、冠動脈をむき出しにする。足などの血管を切り取って、冠動脈につなぎ、バイパスを開通させる。完治するが、手術時、大量に出血。身体への負担も大きい。切開した胸骨が回復するまで3カ月を要する。

さらに恐ろしいことに手術中に死亡するケースもまれにあるという。

昨年9月、大学病院で診察を受けた。冠動脈疾患の手術方法について相談する。

私はカテーテル手術を希望した。

だが、青年外科医は、疾患が3カ所(しかもカテーテル手術が難しい箇所)あることなどを理由にバイパス手術を勧める。

私は逡巡した。その日は結論を見送った。

10月に2回目の面談が行われた。

結局、信頼する青年外科医の方針に同意した。

(東京支部 S)