ペリー来航、その時幕府は その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】  

老中首座・阿部正弘。

とにかく評判が良い。

江戸末期、幕閣トップの人物で、政治手腕が最も高く評価されている人物のひとりだ。

勝海舟は阿部を評して「数年の寿(とし)をもってすれば、薩長は抗敵とはならず、条約調印は勅許され、宮卿親藩の幽閉なく、志士の惨戮冤罪にかかることなく、水戸公も漸次持重の方針に傾きて、国備の年に整いしは必然なり」とする。

各方面をうまく調整することができる能力ありとみており、その政治手腕はなかなかのものだ。

例えば、阿部自身、異国船打払令の復活を度々諮問しているが、これは打払令の復活が阿部の本意ではなく、攘夷派のガス抜きのためにこうした策を講じたのではないかといわれている。

幕府内では、攘夷派と開国派に分かれており、井伊直弼大老が登場する2代前のトップである老中首座にあり、この中で大名クラスでは開明的な薩摩の島津斉彬、片や扱いの難しい攘夷派の水戸・徳川斉昭など、両方の側からの意見を聞き、砲台や反射炉製造のスペシャリストである江川英龍、砲術家の高島秋帆、勝海舟らを登用して海防の強化に努め、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万次郎など家柄ではなく能力中心の大胆な人材登用を行った。

また、制度面では講武所、伝習所、洋学所を創設し、講武所は後の日本陸軍に、長崎海軍伝習所は日本海軍に、洋学所は東京大学の前身となった。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁を緩和し、幕政改革、いわゆる安政の改革を行った。

在任中は相当な苦労があったはずだ。

黒船だけではない。安政の大地震もあり、コレラの流行もあった。

精神的な面ではもちろんだが、肉体的な面でも苦労があったようだ。

肥満体であり、正座が苦痛だったにも拘わらず、人の話を聞くときは常に正座していたという。

たとえ長時間であっても。

以前、福澤諭吉の話で登場して頂いた木村芥舟(喜毅)の話がある。

木村も阿部正弘によって登用された逸材のひとり。

昌平黌で学んだ木村は阿部の推挙で目付となり、長崎海軍伝習所取締を経て、軍艦奉行・咸臨丸司令官となり遣米副使となり米国に渡り、帰国後は幕府海軍の西洋化に尽力した人物だ。

木村も幾度か阿部正弘と接する機会があったが、木村は、阿部が正座した跡をみると汗で畳が湿っていた、と記している。

肥満体で大酒のみの阿部正弘。

39歳。不惑を前に老中職のまま急逝するが、その死因については、がん、糖尿病、過労死、暗殺説もある。

臨終間際にはやせ衰えていたことから、酒好きに多い肝臓がん説が有力のようだが、外交問題を巡る激務が死期を早めたともされる。

(学23期kz)

林芳正氏、内閣官房庁長官就任のお祝い その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】  

写真は山口大学創基200周年記念式典で祝辞を述べられた林芳正農林水産大臣(当時)

平成27年5月30日(土)

平成27年度鳳陽会東京支部総会でも林農林水産大臣(当時)をお迎えし、

「食と農」というタイトルで講演して頂いた(平成27年6月6日・土曜)

(学40期 K・Y)

昭和モデルの崩壊

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】 

2023年は、ポストコロナを実感する日々になりました。科学的根拠が説明されないままに行われた緊急事態宣言や黙食、アルコールは午後8時までの様な縛りも完全になくなり、コロナ前の日常が戻ってきた事は本当に嬉しい限りです。

一方で、コロナ禍では有耶無耶にされていた負の側面が一気に吹き出した年でもありました。

イスラエル企業の日本法人に勤務する私に取っては、イスラエル本社の同僚や同僚の家族が予備役招集され、社員の3割が兵役に従事する事態にも直面していますが、悠久の歴史の中で醸成された憎しみの構造がアフターコロナに戦争という、最悪な形で一気に噴出してしまいました。

日本では、損保会社による談合、自民党のパーティ券を使っての裏金作り(40年前、高校生の時に、同じ事を小遣い稼ぎしてました)

トヨタの100%子会社のダイハツによる数十年にわたるデータ改ざん、そして下世話なレベルではあるがエネオス社長の懇親会でのセクハラやジャニーズの性犯罪など、コロナ禍で封印されていた、日本が昭和の時代に作った象徴的な仕組みが現在の社会には受け入れない事が改めてハイライトされました。

昭和型の成功モデルは何かを私なりに考えると

一部のエリートと言われる人達が政官財が連帯して、限られた人にしか情報やデータを出さずブラックボックスの中でお金が回る仕組みを作っていたのだと思います。(その仕組みに参加してるエリートは個々には悪意はなく、昭和の時代にはそれが一番効率的で世の中に受け入れられていた)

この5年間にDX(デジタリゼーション)がもたらしたのは、一部の人にだけアクセスがゆるされていたデータの何百万倍ものデータを瞬時に集め、人間の頭脳の数千倍のスピードでそれを解析するビッグデータとAI技術の圧倒的な進歩です。

それは昭和の時代のモデルに固執する企業や政党に容赦なく襲いかかっている様に見えます。

Not a rest on your past success.

あなたの過去成功の上に胡座をかくな!

数年前に勤めていた米系の企業のCEOがよく口にしていたフレーズです。

I respect your past success but it doesn’t work for the future.

あなたの成功には敬意を表するが、あなたの武勇伝は将来に役に立つ事はないでしょう。

改めてこの言葉の意味を再認識する2023年の年の瀬です。

皆様,良いお年を!

学37期 上野啓

先輩の書道展に誘われて

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】 

12月初旬の長州歴史ウォークで、趣味多きT先輩とお会いした。

午前中は消防団の訓練があるということで、午後の部から参加されたT先輩。

長崎北高、安田ゼミ、水泳部所属。卒業後は大手住宅メーカーでご活躍された18期の先輩だ。

私がお会いするのは初対面だが、私も生まれは長崎。

同郷のためお国訛りも一緒。とても親近感が湧く。

先輩から名刺を頂いたが、そこには先輩の現在のご活躍ぶりを示す肩書が詰まっていた。

都内某区消防団 分団班長 応急手当普及員

同区書道連盟 同人

日本スポーツ協会公認 水泳コーチ

宅地建物取引士

今後

 詩吟、カラオケ、山歩き、映画鑑賞

とある。

先輩に消防団に入隊された経緯を伺うと、第一線を退いた時、第二の人生はお国のため、人のために役立ちたいと思い消防団の活動を始められたという。

この時、書道展の案内はがきを頂いていたため、年の瀬に展覧会会場に伺った。

先輩の書は神奈川の俳人で馬酔木会同人の故・古賀まり子の句を書いたもの。

月光の 觸れて白玉 椿落つ

先輩としては「觸」と「椿」の字を強調した同じ書も出したが、選者が出展・署名・落款の箇所を好み、この書を選抜したという。

先輩の思うに任せた感じ二文字を配した書をぜひ見たかった。

特に潤渇と垂れたはらいを大きく強調した「椿」の字を。

よく話を伺うと、先輩はこれまでにも毎日書道展で何度も入賞されているという。相当な実力の持ち主のようだ。

先輩は、書に限らず、多方面でお忙しく、充実した毎日を過ごされているようで、そうした先輩の姿を拝見すると元気を頂く。

私も見習わないといけない。

(学23期kz)

先輩の書
書道はユネスコ無形文化遺産の候補になっている

林芳正氏、内閣官房長官就任のお祝い

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】 

2023年12月14日、林芳正氏が第二次岸田内閣の内閣官房長官に就任した。

林氏へ長官就任のお祝いを述べるに際し、林氏と山口大学・山口大学経済学部と関わりについてご紹介したい。

林氏は、山口県立下関西高校、東京大学法学部卒の、山口県の有力政治家である。

山口大学が平成27年5月に創基200周年を迎えた折、林氏は創基200年記念式典会場の山口市に来賓として来られ、祝辞を述べられている。

また平成27年6月に開催した鳳陽会東京支部及び全国総会では、農林水産大臣として講演して頂いた。

当時の会場には下関西高校の同窓生もおられたようで懐かしく歓談されていたようだ。

山口県は、明治以降8名の総理大臣を輩出しており、林氏も将来の総理と期待されている。

ご本人も総理を目指しておられ、この先鳳陽会総会に総理大臣になられた林氏をお招きさせて頂きたいものだ。

林氏の更なるご活躍を祈念したい。

(40期 K・Y)

後輩の絵本作家

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

山口市の関係者が集まる秋の会合で、鳳陽会同窓生のO女史と面識を得た。

霞が関近くの大手企業に勤務しており、名刺には名刺には総務系セクションのチームリーダーとある。

会が終わり地下鉄駅に向かう時に再び話す機会があった折、彼女から講談師・神田京子のイベント参加の案内を受けた。

手渡されたのがイベント案内のチラシだ。

「神田京子大独演会」

2024年1月25日(木)、19時開演

会場 有楽町よみうりホール

とあった。

どうやらO女史は講談師・神田京子の熱烈な応援団のようだ。

神田京子氏・・・。

聞き覚えがない。

その場はチラシを受け取るだけで終わる。

神田京子。

公開されているプロフィールを調べてみると、岐阜県出身。日大芸術学部在学中に講談師の世界に入り、修業を重ね2014年に講談師・落語協会で真打に昇進。夫は詩人で一児の母。

2020年2月に山口へ移住しており、朗読も含めテレビ、ラジオへの出演も多く、山口ではレギュラー出演している番組がある。

現在は東京と山口の拠点を軸に全国で活躍されているようだ。

神田京子氏の興行イベントをみてみると、その中に光市民ホールで行われた「金子みすゞ 生誕120年記念・神田京子独演会」というのがあった。

金子みすゞは才能あふれながら薄幸のなか夭折した女流詩人で、小学生の本にも取り上げられている。

「私と小鳥と鈴と・・・みんなちがって、みんないい」

有名な一節だ。

神田京子氏の夫が詩人であったことから、詩人の世界にも興味を抱いたのかもしれない。

また谷川俊太郎の絵本の朗読も行っている。

ひょっとして・・・。

気になって調べてみると鳳陽会同窓生のO女史も児童向け絵本作家のようだ。

「おかねをかせぐ」、「おかねをつかう」など、子供向けのお金に関する教育の絵本(翻訳)を書いている。

また、小学生向けの児童書「お金にふりまわされずに生きようぜ」(岩崎書店)では、ウサミの名前で子供たちにお金との向き合い方を伝えている。この本のサブタイトルが「レストランたてなおし大作戦」。

思わず手に取ってみたくなるタイトルだ。

後輩・O女史の本はもちろんAmazonで紹介されている。

孫と一緒の時間を過ごす時に良いかもしれない。

(学23期kz)

ペリー来航、その時幕府は その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年 12月トピックス】  

ペリーが来航した時の老中首座は阿部正弘。

阿部正弘の肖像画は学校の教科書でも見たことがある。よく知られており、ふくよかな体型で穏やかな風貌だ。

阿部公が度重なる外国船の来航やアヘン戦争などで対外的な脅威が深刻化する時代に幕政を取り仕切ることになる。

もともと酒好きで毎晩二升酒をしていたというのには恐れ入る。

四合瓶二本ではなく、一升瓶二本だ。

国難が近づいた時にはさらに酒の量がふえたという。

外国勢力は開国を迫り、外国事情に明るい開明派は開国に理解を示す。しかし、日本の権威の大深部である朝廷は開国に難色を示しており、幕府の舵取りは困難を極める。

国内が開国派と攘夷派に分かれる中、どちらに軍配を上げても紛糾し、お互いの身が危険に晒されるような状況下で、うまく泳いだようにみえる阿部正弘。

相当なストレスもあったであろう。このため阿部は老中在任のまま39歳で急逝する。

しかしその間、色々なところに後々に花開く種を蒔いている。制度の創設然り、人材の登用然り。いわゆる安政の改革だ。

登用された人材は明治になって外政・内政でリーダーシップを発揮することになる。

◆早い出世

阿部公は譜代・備後福山藩の7代藩主である。

江戸城で生まれ、国元に帰ったのは藩主になった翌年、数えの19の時、一度限りで、国元での滞在は数か月限り。とんぼ返りで再び江戸へ帰っていった。

とにかく早い出世であった

(カッコ内は前任の水野忠邦と後任の堀田正睦の場合)

19歳(21歳、19歳) 奏者番として出世コースに乗る。

21歳(23歳、24歳) 寺社奉行

25歳(40歳、31歳) 老中

27歳(45歳、45歳) 老中首座

かなり若くして老中になった。

◆断つべきは断つ

阿部はその穏やかな風貌とふくよかな体型には似つかず、思い切った裁断もした。

寺社奉行の時には大奥・僧侶の関係乱れ極まれる折に、名のある僧侶を処分している。

外国問題が紛糾した際、問題の扱いに慣れた水野忠邦が老中首座に復帰した折、水野の子飼いながら水野を陥れた蛮社の獄の主、悪名高き鳥居耀蔵を処分している。

またその翌年、阿部は老中首座の水野を天保の改革での不正を理由に老中首座から追い落とし、阿部自ら老中首座に就いている。

年若い時に。

なかなかできることではない。

剛腕の持ち主でもあった。

つづく

(学23期kz)

令和5年度山口七夕会「秋の交流会」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

12月16日(土)の東京は雲が多いものの、一部ですが青空もありました。
こうした中、新宿区のJR飯田橋駅から徒歩3分のインテリジェントロビー・ロコで11:00~開催の講演会&交流会に参加しました。
講演会の講師は株式会社レノファ山口 代表取締役会長の小山文彦氏(50歳)で、演題は『レノファ山口FCの過去・現在・未来』でした。
悪天候による航空便の欠航により、最初の30分は事業部の上利直輝氏の説明でした。

小山文彦氏は徳山高校のご出身で山口大学人文学部を卒業後は東京での会社員生活を経て、2006年にシステム開発やITコンサルティングの会社を起業し、成長させ、上場会社の電算システムに売却。
その後は2016年に周南市に経営コンサルやスポーツ支援を行う365yを設立され(社長現任)、2022年1月にレノファ山口の社長に就任され、現在は取締役会長。

資料に基づき、1時間余りの講演の後、休憩を挟んで、交流会に移りました。
歓談の後、14:00~恒例のじゃんけん大会による景品提供があり、吉田美香さんにより「ホワイトクリスマス」、「サイレントナイト」の独唱、全員で「きよしこの夜」を合唱し、14:30秋草会長の中締めでお開きとなりました。

追記)
私は大相撲やプロ野球(高校野球を含む)には関心があり、かなり足を運んでいますが、サッカーは関心外で、ワールドサッカーの話題にも耳を閉ざす程でしたが、今回の小山会長の講演を縁に来季から少し、首都圏でのレノファ山口の応援に足を運んで、勉強してみたいと思います。

そういえば、1979年にアルゼンチンの「神の手」、マラドーナ選手(19歳)が初来日した時に、広島県営グランドに一人で試合を観に行ったことを最近思い出しました。
(学22期 Y・Y)

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「畑ゼミ」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

山口大学経済学部に畑ゼミがあった。

 30年以上の前になるが、経済学部経済学科に在籍していた私はゼミに加入するためサークルの先輩から情報収集に注力した。当時はバブル絶頂期の時代であり、勉強よりいかにうまく世の中を生きていくかが重要だと勘違いをしていた。経済学部には素晴らしい先生が多くおられたが、情報が全くない畑隆先生のゼミに加入する事に決めた。それもその筈、ゼミ一期生である。

畑先生は、静岡県のご出身で、県立静岡高校から東京大学 法学部 第3類(政治第三コース) 、東京大学大学院経済学研究科応用経済学専攻を経て、山口大学経済学部に来られた。先生の若々しさに魅力を感じ加入した。

ゼミではマルクス経済学の理論である資本論、系列の宇野学派の恐慌論、人的資源管理などその他多くを学んだ。私は畑ゼミの第一期生としてゼミ幹事をした、先生もゼミ運営は初めてであり、運営にはいろいろと相談させていた。

卒業後も、先生とはお付き合いをさせていただいており、私の結婚式にも出席していただき、数年前にも静岡でお会いさせていただいたがお元気であった。先生は山口には15年ほどおられ、実家のご事情もあり静岡の大学に移られた。

山口大学での畑ゼミの歴史が終わった。しかし、学生時代のご縁が今も続いている。そして、山口でのゼミの授業が思い出として残っている。

畑ゼミの後輩のみなさま、ご連絡をいただければ幸いです。

学40期 山口 guccikatsu@gmail.com

(ご参考)

畑先生

https://researchmap.jp/t-hata/

私とアルバイト歴

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

学生時代に体験したアルバイトを思い出し、整理してみようと思い列挙してみます。
備忘のためですので他意はありません。
もう人生も最終章に差し掛かっていますので。(笑)

自分は学業には全く向かないことを知り、社会勉強のつもりで随分とバイトをしたものです。
休学した為、留年を余儀なくされましたが、平均的な学生と比べて随分と収入を得たことを自負しております。
ただ、働き過ぎたり、働いて手にしたお金で遊び過ぎた為に、社会人になってから、随分と横着な人間になったことは残念です。
社会人になってから学生時代に学業に励んでおけば良かったと思うことが多かったです。

順不同)
1)中学校での模擬試験の試験官(徳山市の岐陽中学)…教壇に立つとよく教室の全体が見えることがわかりました。
私も学生の身だったので、カンニングは非常に難しいことがわかりました。(笑)
最近ではスマホの持ち込みによる不正が問題になっていますが。
人手が足りない時は同じ山口大学進学指導会の添削のバイトもしました。
先日の長州歴史ウォークで、進学指導会に所属された大先輩とお話する機会がありました。

2)市場調査の仕事…スーツ姿で山口県下のほぼ全域を回りました。
学生時代の一番メインの仕事でした。
世論調査や視聴率調査、車に関するアンケート等いろいろとやりました。
標準語で喋るので訓練となり広島弁を卒業することが出来ました。
世論調査等は日本リサーチセンター、視聴率調査はビデオリサーチでした。
当時、熊毛郡であった八代地区(現在は周南市)でナベヅルの渡来に遭遇した時は感動ものでした。

3)新聞配達…毎日新聞と朝日新聞&中国新聞の店舗で時期を違えてやりました。
配達している時にご苦労さんと声をかけられるのが一番嬉しかったです。
新聞配達当時、三島由紀夫の割腹自殺が翌日の朝刊で報道されたのが一番の思い出です。

4)ホテルでの調理場の仕事…湯田温泉の豪華ホテルでの皿洗いがメインでした。(かめ福)
調理師さんを見ていて、調理の世界に憧れたものです。
数年前に女将さんとFacebookで友達になりました。

5)豪華旅館での布団敷きの仕事…同じく湯田温泉で今でいえばベッドメイキングの仕事です。(水野旅館)
ここの旅館のお嬢様は時津風前理事長(元大関豊山)に嫁がれています。
(人が集まらなかった時の代打要員)

6)測量の仕事…下関郊外の長府というところに行きました。
単発の仕事でした。

7)家庭教師…リッチな家庭でしたが、やんちゃな双子の小学生相手にしました。
勉強を教えるというより、一緒にキャッチボールや戯れていただけです。
私は人を教育など全く出来ません。

8)酒屋でビール配達の仕事…重いビールケースを倉庫で車に載せていましたので、腰を痛める切っ掛けとなりました。

9)証券会社での黒板書き&値紙書き…
今はコンピュータ化されていますが、当時は短波放送を聴きながら、店頭用と営業用を分担(3人で)してチョークで書いていました。
営業用には値紙といって紙に値動きも書いていました。
株に興味を持つきっかけとなりました。
四条烏丸の準大手証券の京都支店で京都時代でした。

10)キャバレーでのウエイターの仕事…これも京都時代のことでした。
寺町京極の近くでした。
「木屋町入る」の記憶です。
ナンバーワンは美貌と若さではないことを知りました。
この人がというようなおばさんでした。
アシストする女性を如何に多く付けるかが決め手でした。
重いビール瓶をお盆に載せて何本も運んだものです。
復学して、友人に頼まれて、泉都町の「クラブ奈加」で1日だけ一緒にウエイターの仕事をしました。

11)印刷工場での徹夜作業…同じく京都時代のことです。
太秦のD印刷でした。
こんなに辛い仕事が世の中にあるとは知りませんでした。
立って寝ていました。(笑)
一日か二日で辞めました。

12)シュークリーム工場での製造員…同じく京都時代のことです。
京都・向日町競輪場近くの山の中腹だったと記憶しています。
シューにクリームを詰める仕事でした。
三条大宮から会社のマイクロバスで送迎して貰っていました。

13)日産追浜工場での季節工…夏休みの臨時工でした。(車体艤装課)
金沢文庫での蛸部屋から通いました。
製造工場での窓ガラスにゴムを付ける仕事でした。
10万円でパイオニアのセパレーツステレオを購入しました。

14)ボウリング場での受付の仕事…当時はボウリング熱が凄くて新設のボウル山口と系列の山口ボウリングセンターの2箇所でやりました。
ピンチヒッターとして数日でした。
(最近になってかめ福の経営だったのを知りました。)

15)上記ボウル山口のレストランでウエイターの仕事をしました。(1週間程度)

写真は日本橋の「おいでませ山口館」
(学22期 Y・Y)

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