寮の友、下宿の仲間 ④平川編

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年7月 トピックス】

◆平川での下宿生活

三年生の時にあたる昭和43年(1973年)、経済講堂の老朽化もあり経済学部が学都開闢の地・亀山から平川の吉田キャンパスに移転した。これに伴い私も亀山のふもと・白石町のプレハブ長屋から平川の下宿に移った。

大家さんの苗字を取った竹〇下宿。所在は山口市黒川●●3番地。

今でも3ケタの地番まで覚えている。これは、当時親切で、温和な人柄の下宿のT夫人(いわゆる下宿のおばさん)にお世話になり、卒業してからも年賀状のやり取りをしていた時期があったからだろう。

下宿では7名の長屋のほか、母屋にも貸し間があり、さらには二つの棟の間には蔵に手を加えた離れにも一人住まいの部屋があった。

学生も所属学部はさまざまで、経済のほか、教育、医学部、農学部など、都合10名ほどの学生がお世話になっていた。

◆物理学科・Ⅿ君との出会い

この下宿には準硬式野球部の入居者が多かった。代々、先輩からの紹介・引継ぎがあったからかもしれない。この「準硬式閥」の入居者の中に文理学部・物理学科の同級生M君がいた。やはり福岡の名門K高校出身だ。ジェームス・ボンドを愛し、普段は物静かでハンサム、身のこなしもダンディーなM君だ。しかし、私の冗談がツボにはまると、アゴが外れんばかりに面相を崩して爆発的に笑い出す。腹を痙攣させながらしばらく笑いが止まない。この彼と大変ウマが合った。

彼は名古屋に勤め、山口の長府に自宅を構えていた。出張の折にはお互いの自宅に泊まり合う仲で、年賀状を欠かすことはなかった。

爆笑殿下のⅯ君、勤めの最後の勤務地は東京と相成り、仕事を終えた後、待ち合わせて飲みに出かけた。

退職後は、山口に戻ると思いきや、山口の自宅を閉じて、東京に居を構えることになった。

東京人となったM君。彼には東京に、家族ぐるみの交流があった準硬式野球部のY先輩がいた。そのY先輩は経済出で、私とは鳳陽会の1年先輩に当たる。しっかりした先輩で、いつもにこやかで朗らかだ。私と先輩とは、その下宿で入れ違いになったのだろうか、重なってはいないように思う。

Ⅿ君を通じて私も交流の輪に入れて頂いたことで、また一つ輪が広がった。

◆下宿の集い

Y先輩、Ⅿ君、その奥方お二人を含めた5人で会食会をスタートさせた。コロナ前の話だ。奥様はご両人とも山口のご出身。Y夫人は直木賞作家・古川薫氏と同窓の教育学部のご出身、Ⅿ夫人は我々男子学生が憧れた山口の女子大出(現・県立大)で、その古川氏とは同郷の下関で、近隣だったという。

会食会は定期的に続き、春には上野で花見をしようということになった。

コロナの話がちらほら出始めた頃だ。

せっかくならこの花見の会に、九州在住で下宿の後輩(農学部・院)N君を呼ぶことを考えた。

2020年早々に、彼に連絡を取ったところ、娘さんが東京在住ということもあり、彼は早速航空券を予約した。

◆コロナに敏感だった農学部生N君

コロナの発生源が中国・武漢として世界のニュースになり始めたのは2019年の12月で、日本で騒ぎになったのが年明けの札幌雪まつりでの集団感染だったように思う。

すると彼から連絡が入り、コロナがとても心配なので東京行きを取りやめるという。

私としては、コロナは中国・武漢や北海道の雪祭りの話なので、まだまだ大丈夫、さほど心配することもないのではないかとして、彼の上京を促したのだが、彼の決意は固かった。専門的にウイルスについて学んでおり、ウイルスの怖さを知っていたのだ。

そのうちに関東でも、屋形船での感染や、ダイヤモンド・プリンセス号横浜入港時の模様が報道され、コロナ感染の話があれよあれよと全国に広がっていき、下宿の花見の会は中止とせざるを得なくなった。

◆下宿にいた経済の同級生

下宿長屋には経済学部の同級生が二人おり、二人とも北九州の名門計K倉高校出身。そのうちの一人I君が私と背中合わせの部屋に入っていた。英国の前衛ロックをマニアックなステレオセットで聴いており、下宿の壁が薄いため私の部屋までよく聞こえたが、私も好きなタチなので気にはならなかった。

ある時彼から、スピーカーを買い替えたので聴きに来ないかと誘いがあった。4畳半の部屋に入ると、「ふすま大」のスピーカーが2台鎮座していた。プレーヤーに針を落とすと低重音が下腹に響く。アルミサッシのガラス窓も震えていた。それでも我々二人は演奏に耳を澄ませた。

この同級生I君、商社に就職したが、その後の消息は分からない。

◆縁

学部や学年は違えども下宿を通じて生涯の友となった先輩・後輩がいた。

また同じ下宿、同じ経済学部の同級生ながら、卒業後音信不通となった友人もいる。

出会いとつながりに感謝し、いま繋がっている縁を大切にしたい。

(学23期kz)

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宇部での全国総会余話(その2・同窓との出会い)

山口大学経済学部同窓会

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【2023年7月トピックス】

◆同期のM君

ANAクラウンプラザホテル宇部。

総会の2次会は有志で、会場の15階のラウンジへ行くことになった。

案内してくれたのはM君。23期とネームタグにある。

23期といえば私と同期じゃないか。

海が見る眺望の良いところ。

M君の名刺を拝見すると、M商店代表取締役とある。宇部興産に就職し、退職と同時に会社を立ち上げたようだ。

宇部興産といえば地元の大企業。そこを退職し会社を立ち上げ、手広く事業を展開している地元の名士だ。

M君が席を立って、15階からみえる景色を説明してくれた。現役時代にお世話になったという宇部興産の工場もみえる。

彼は、このラウンジをよく使っているようで、ラウンジのマスターとも親しいようだ。

このM君、学校にはあまり出ていなかったというが、私も学校にはあまり出ていない。

経済のクラスは当時、50音順に経1、経2、経3と3クラスに分かれており、座席の並びもそうだった。

私は経1の班だが、M君は50音順では経3だろう。席も遠かったはずだ。

しかし、どこかで見たような気もする。

総会の懇親会では三都逍遙歌、鳳陽寮歌や山大学生歌をみんなで合唱した。

歌詞が配られ、歌えるかどうか不安だったが、みんなと歌い出せばどうにか歌えるものだ。

ということは、当時、私もみんなと一緒に結構歌っていたのではないか。

そういうことなら、M君と私も学校にあまり出ていないと言いながら、結構学校に顔を出しており、食堂や廊下で顔を合わせていたのかもしれない。

「どこかでみたような・・・」とは、こういうことかもしれない。

北海道支部のK支部長。名前を聞いても記憶にないが、彼ともどこかできっと出会って、話しているはずだ。「K」と言えば経1だから。

◆後輩のU君

総会帰りの宇部空港でのこと。

東京支部の活動にも積極的に参加してくれている鈴木ゼミのU君と宇部空港の待合室でばったり出会った。

総会に出ていたのだろうか。

昨日のことを思い出したが、記憶にない。

彼は東京から小田和正の公演を観に来たという。宇部空港で車を借り、泊りは湯田温泉ということだった。

小田和正を目掛けて、東京から「ご婦人方」がたくさん来ているという話だったが、小田和正は殿方にも人気があったのだ。

私が学生の頃、オフコース時代からヒットを飛ばしていた。からソロになっても人気が衰えない。高いキーでの澄んだ声は健在だ。

今ではキーを二つ下げないと小田和正の曲は歌えないが、彼は当時からキーは変っていない。お見事!

ポール・マッカートニーも然り。キーは落ちていない。参りました!

Uく君とは同じフライトで羽田に向かい、空港ターミナルに向かうバスでも一緒になり、湯田でのこと、宇部でのこと、公演のことを伺った。

それから1週間もしない間に、虎ノ門の料理屋で、またばったり出会ってしまった。お互い苦笑。

 ….. small world

重なり合う偶然。こんなこともあるものだ。

(学23期kz)

夏目雅子さんの歩道橋

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

学生時代に付き合いがあった同級生や先輩の出身高校に地元の山口高校、防府高校、下関西高校の人が多かったです。
防府高校出身の人は下宿しないで自宅から山口迄通っていました。(先輩は野村證券、同級生は松下電器、富士銀行に就職)
作家の伊集院静さんも防府高校の出身ですが、1学年上で立教大学に進学されたようですが。

昨年7月1日の出勤前に夏目雅子さんが、映画「時代屋の女房」で渡った品川区の大井の三叉路にある倉田歩道橋を渡ってきました。(ロケ地)
引っ越し前は歩いて直ぐの所に住んでいましたので、毎日のように外出の際に見ていた歩道橋ですが、渡ったのは6年半ぶり2回目でした。
38年半前の銀色の日傘を持った真弓役の夏目雅子さんに会えそうな気がしたのです…。
夏目雅子さんの菩提寺はご主人の出身地である防府市内の大楽寺のようです。
山口銀行のCMキャラクターを1977年から8年間もされていたのは初めて知りました。
(学22期 Y・Y)

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宇部での全国総会余話(その1)

◆ホテル予約

会場は宇部のANAクラウンプラザホテル宇部。6/17日(土)当日は、近くの“宇部きららドーム”で行われる小田和正の公演と重なった。東京からも多くの客が押し寄せたようで、航空チケットも取りにくく、ANAホテルも満杯で、通常1万3千円台の宿泊料金が、2万円近くに上がっていた。

私は止む無く、近くのビジネスホテルを探した。試しに総会開催会場「JR宇部新川駅」の隣駅・琴芝のビジネスホテルに電話を掛けてみたところ、感じの良い受付の方が出て、すんなり予約が取れた。

価格は税込み5千円という。

なんだ、安く泊まれるじゃないか。即決!

◆ビジネスホテルも無人

総会当日がやってきた。昼過ぎに目的地に到着予定となる。当日は蒸し暑く、早めにホテルに入って、シャワーを浴び、会に臨みたいところだ。

しかし、チェックインは通常15時から。その前は使わせてくれないのだろう。ダメもとで宿泊ホテルにシャワー利用を申し出ると、意外にも、すんなりオーケーが出た。

帰りは何時かと問われたため、夜遅くなると伝えた。すると、部屋を置けておくという。「部屋番号は●●号室、部屋に鍵を置いておくので料金を置いてチェックアウト願う、領収書も置いておく」とのこと。

ここもAIが活躍する最先端の無人ホテルとは真反対のヤツだ。

このホテルでは夜と早朝が無人になるらしい。

夜遅くにホテル着。

鍵かかっておらず、部屋に入る。

デスクの上には金額の入った領収書がちゃんと置いてある。

暑い。部屋には空調が利いていない。

ひょっとしてエアコンのリモコンの電池切れでエアコンが使えないのではないか。悪い予感がしたが、エアコンは問題なく稼働した。

ひと安心だ。

快適に眠りにつく。

翌朝、ホテルを出る前にシャワーを浴び、身支度をしたい。

ひょっとして温水が出なかったりして・・・。

シャワーも問題なく機能した。あぁ快適。

髪を整えて出発だ。

辺りを見渡してもドライヤーが見当たらない。

よく探すと、デスクの脇の定位置に収まっている。しかし、ドライヤーには茶色のガムテープで使用防止措置が施してある。どうやら故障しているようだ。

やっぱり安い料金にはこういう仕掛けがあったのか。

妙に納得した。

安く、快適に泊まることができたが、背広のいで立ちで、髪はボサボサのまま羽田に降り立つことになった。

JR宇部新川駅の琴芝駅といえば、近くに医学部もあり、工学部もある。山口大学病院にも徒歩8分で行けると出ている。

宿泊の需要はないのだろうか。

あるいは人手不足なのだろうか。

新型コロナもゴールデンウィーク明けには5類に移行したぞ。東京では街中でも、電車の中でもむしろ、マスクを着けていない人が多くなった感がある。

琴芝駅に向かう途中、地元のお地蔵さん「琴芝地蔵」を見つけたが、お地蔵さんはなんとマスクを着けているではないか。琴芝はまだコロナ警戒モードが解けていないのかもしれない。

(学23期kz)

山口市朝倉のM生命勤務のH

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

生まれ育った広島の実家の隣人がおしどり夫婦のHさんご夫妻でした。
お子さんがおられないこともあり、随分と可愛いがっていただき、隣の家に呼ばれてよく夕食を頂きました。
自宅には、「るり」と呼ぶ犬を飼っておられた。
そのHさんが、私が小学校の5年生だった頃に借家を引っ越してどこかに行かれました。

時が経ち、高校生だった頃に我が家を訪ねて来られましたが、私は登校していて不在で会えませんでしたが、山口市朝倉のM生命に勤務されているのを知りました。
その時に会いたくなって、自転車で山口市朝倉まで会いに行こうと地図で調べましたが、岩国迄は自転車で、日帰りで行ったことはありましたが、とても行ける距離ではなかった。

高校を卒業し、まさか山口市での学生生活を送ろうとは想像したこともありませんでした。
ただ、又、転勤されていると思い、問い合わせはしませんでした。

卒業し、社会人となり、故郷の広島に配属されましたが、その後、27歳の頃にM生命の生保レディの方と知り合いになり、Hさんのことを聞いたら、リタイアされ、すぐ近くのM生命ビルで警備の仕事をされているとの事。
それから暫くして、母から奥さまが亡くなられ、その後、直ぐに奥さまを追うようにトイレで倒れ亡くなられたと。

小学校2年生の頃に車で連れて貰った太田川橋、その時にHさんの親戚のべっぴんさんの年上の女の子がいて、彼女の自宅にもHさんに連れて行って貰ったことがありました。
その後、時を経て心当たりの場所にひとりで、自転車で行きましたが、家は見つかりませんでした。
矢張り警備員をされていた時に訪ねて行くべきでした。

写真1枚目は広島市中区袋町のM生命ビル。
建設から50年の歳月を経て建て替えられるようです。
私が勤務していた大手町のビルからは徒歩1分の距離でした。
写真2枚目は1957年に完成した太田川橋。
(学22期Y・Y)

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寮の友、下宿の仲間③ 亀山

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年7月 トピックス】

 ◇亀山のふもと、白石町の下宿長屋

亀山では教育学部の授業も行われていたが、私が亀山に移ってきた時には、教育学部がちょうど平川に移ったばかり。このため、亀山付近では華やかさが消え、かなり殺風景な景色に変ったのであろうが、私は知らない。

入学を機に家族から離れ住んだ想い出多き吉田寮の生活に別れを告げ、二人部屋の寮生活から亀山のふもと、白石町で下宿の一人暮らしが始まった。

生活空間をひとりで独占できたのは、生まれて此の方、この時が初めてであった。

気に入った本を読み、音楽を聴き込んだ。当時気分が乗った時に思うところを書き留めたノートが後年見つかり、読み直してみたことがあるが、何十年経った後でも、当時のものの見方、考え方、また感じ方は変わっていないことに驚ろく。

◆同期K君

下宿では経済学部の学生が多かった。経済学部同期で武道をやっていた長身のK君もその一人だ。

アルバイトにもよく一緒に出掛けた。長身のK君は目立つし、モテた。

卒業後、勤務地の最寄り駅、地下鉄G線の駅で、偶然にも反対側のホームにいたK君と目が合った。彼も最寄り駅が同じ駅だったのだ。

彼は間もなく結婚するが、私も式に呼ばれ、新居となる住まいにお邪魔したことがあるが、何ともうらやましく思ったものだ。

その後はお互い忙しく連絡が途絶えたが、第一線を退いた後、再び会食会や同期会ゴルフで顔を合わせることになった。

彼は会社勤めの時代に米国の大学に留学しており、ITに強く、情報処理にも長けていたこともあり、再就職した折、アジア支店の支社長を任された。

今年の春に帰国し、ご苦労さん会を企画したが、コロナ感染者数が急増した時期に当たり、やむなく延期となった。

◆昭和47年の水害

本年7月1日未明に山口市で線状降水帯が発生、48時間の雨量が332.5ミリと観測史上最大となり、車が川に浸かり犠牲者が出たようだ。美祢市でも川の氾濫で7台の車が立ち往生し、車の所有者のひとりと連絡が取れず、捜索が続いているとの報道がなされている。

昔も大雨が降った時のことを覚えている。2年生の時、下宿に引っ越してきて数か月後、昭和47年7月の話だ。私の下宿には丁度後輩・Y君が訪ねて来ていたが、帰れなくなった。

この時には停電となり、灰皿に油を注ぎ、ボロのTシャツを破って作った芯を作り、ろうそく代わりにして明かりを取り、酒を飲みながら夜明けを待った。水かさは増え、膝ほどに高さがあった上がり框(かまち)まであと数センチであわや床上浸水、畳も水浸しとなりかけたが、その寸前で水かさの勢いが止まった。

その時の後輩Y君、いまはどこで、どうしているのだろうか。

◆下宿長屋の有名人

中には他学部の学生もいた。亀山での下宿は5部屋連なったプレハブ長屋。一番端に住んでいたのは“前衛的”としてその筋では知られていた演劇部の大物部長A氏(文理学部在籍)。絶えず異性が出入りし、深夜遅くなっても、なかなか就寝してくれなかった。

近隣の奥さんたちも眠れなかったのだろう。苦情が絶えなかった。

このA氏が「亡くなった」という話が伝わってきたのは、私がこの下宿長屋を出て、間もない時であった。

そういえば・・・

そういえば、このプレハブ長屋には母屋があり、高校のF川先輩もおられた。高校時代は硬式テニス部で、日焼けした浅黒い顔で、サウスポーでサーブを打つ姿が印象的だった。麻雀がお好きなようで、下宿ではサウスポーで牌を切る光景しか記憶にない。学生運動でもお忙しかったようだ。

一年しかいなかったが、色々な人が居合わせた下宿であった。

もうひとり。

隣の部屋にいたのが経済同期のN島君名門T筑高校出身、山本ゼミ。ギターが好きで、優しい声で口ずさむフォークソングが隣室からよく聞こえてきていた。クラブはマンクラ。芸能人のように長身で、育ちの良い顔付きだった。就職はCBSソニーだったと記憶している。

彼を同期会や鳳陽会の会合に何度か誘ったことがある。

つい最近のこと、N島君から「お世話になりました」と、鳳陽会へ退会の連絡が届いた。

N島君、卒業後貴君と会う機会がなかったが、どうか達者で暮らしてくれ。

(学23期kz)

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学生時代の思い出(単位取得編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

一年休学留年して、ドロップアウト寸前迄行った京都でのバイト生活に終わりを告げ、山口市中央5丁目でのアパート生活が始まりました。
会社法のゼミには遅れて、漸く連休明けの途中から欠かさず出席したものの、相変わらずバイト生活でした。
教材はジュリストで、当番回の時に私は八幡製鉄政治献金事件の判例を取り上げて発表した記憶があります。
夏休みには宇部で説明会を受け、臨時季節工として神奈川県の日産追浜工場で1ヶ月働きました。

必修科目の会計学や原価計算、経済原論Ⅱの単位を取得しなければなりません。
今でも殆んど勉強もしなかったのにどうして会計学や原価計算の単位が取れたのか思い出せません。💦
経済原論Ⅱについては出題について全く答案を書けず、それはさておきと断り書きを入れて自作の問題を作って提出して何とか良を貰いました。

卒業して数年経ち、広島での同じ会社に勤務する3年後輩の結婚披露宴に出席した時に学部長もされたA教授に再会した時に自作問題で先生から良を貰った話をしましたら、そんなことはないでしょうと言われました。
答案用紙に4年生(実質は3年生なのですが)と書いていましたので、就職も決まっていると勘違いされ、下駄を履かせて貰ったのだろうと思います。
今でもなかなか卒業出来ず、1人アパートで暗澹たる気持ちになっている夢を時々観ます。💦

卒業して時を経て、小倉での結婚披露宴にも出た入学同期のYゼミだったY君が山口市民会館での経済学部の卒業式で答辞を読んだと聞いた時は吃驚仰天しました。
皆さん優秀で私のような勉強をしない学生は極々一部ということで誤解なきようにお願いします。
m(_ _)m
(学22期 Y・Y)


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山口の在来線(その2・鉄道の父 井上勝)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

鉄道の父・井上勝

◆山口線でも目立つ無人駅化

前号では山口県内で鉄道の無人化が進行している話をした。

私が入学した時、「小郡」から山口線で湯田温泉駅で降りる際、ひとつ手前の矢原駅はすでに無人駅になっており、当時驚いた記憶がある。

◆山口線開通100周年

今年4月で小郡—益田間の鉄道駅が開通して100周年になるという。おめでたい話だが、今回、山口線を調べてみると、今では新山口駅(旧小郡)から湯田温泉駅まで、周防下郷、上郷、仁保津、大歳、矢原、これらの駅は全て無人駅になっていた。

モータリゼーションの進展に伴うものでもあるので自然な流れなのかもしれないが、この先大丈夫かと心配になってくる。

さらに山口駅から先、すなわち益田までの上山口、宮野、仁保・・・長門峡も無人駅だ。さすがに津和野駅JR直営旅客駅となっているが、その先は益田まで無人駅が続く。

◆鉄道の父、萩藩士・井上勝(野村弥吉)

「新橋—横浜」間の鉄道を走らせたのが山口の井上勝だ。

井上勝は1843年、萩藩士・井上勝行の三男として生まれ、5歳で野村作兵衛の養嗣子となり野村弥吉と改名し、明倫館で学んでいる。

明治元年(1868年)、25歳で実家の井上籍に復籍した。

長州ファイブの一人として英国に渡りロンドン大で鉄道と鉱山について学ぶ。渡航時は20歳。野村弥吉と名乗っていた時代だ。長州ファイブの中では最も若い。馴染みのある長州ファイブの5名の写真の真ん中に写っている。

井上勝は英国から日本に帰り、明治2年に上京、工部省に仕えた。このとき鉄道建設の資金手当てに通訳として関わったことから彼の鉄道人生が始まる。

1872年(明治5年)には工事責任者として「新橋‐横浜」間の鉄道を完成させ、鉄道局長を経て、鉄道庁長官にまで上り詰めた。

井上の銅像が残るが、その銅像は東京駅の丸の内にある。丈の高い像で、東京駅の駅舎を見守るように建っている。

◆鉄道敷設の波は山口にも

明治30年代には山口県にも鉄道が敷設される。

小郡—山口間で鉄道が走るようになるのは1913年(大正2年)であるが、資金がないために便法で簡易鉄道敷設を急ぎ、1908年(明治41年)に狭軌で軽量の軽便鉄道が小郡—湯田間が開通、2年後には「亀山駅」、「山口駅」と延びていった。

軽便鉄道は軍用道路と重なっていたため、鉄道敷設の許可を得る必要があったが、当時の陸軍大臣は寺内正毅。すぐに使用許可が出たという。それもそれ。寺内大臣は山口出身だ。吉敷郡平川村の出身というから山大の平川キャンパスがあるところで生まれ育ったことになる。

軽便鉄道は現在の山口線のやや西側を走っており、今でも山口市内に軽便鉄道の跡が残る。

当時の軽便鉄道は停車駅、時刻表は定められていたが、のどかな時代で、手を上げれば電車が止まってくれたという。また、この軽便電車では、我らが先輩、山口高商の学生が飛び乗ったり飛び降りたりする光景も見られたようだ。

(学23期kz)

中央が「鉄道の父」井上勝(野村弥吉)。当時20歳

英語のヒアリング力(オリビアハッセー似のカナダ人)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

サラリーマン時代の40代後半だったと記憶していますが、大相撲観戦で三段目の早い時間だったので両国国技館の枡席でひとりで観戦している、すぐ後ろの枡席の二人連れの外国人の女性から話しかけられました。

日常英会話も満足に出来ない私でしたが、大相撲に関する数々の質問にちぎっては投げ、ちぎっては投げと流暢に受け答えが出来るではありませんか。
我ながら吃驚しました。

カナダから一定期間来日していて某県下の学校で英語を教えている人とわかりました。
当時、自宅で衛星放送で13時から大相撲中継を録画していましたので、記念にあなたが映っているビデオを贈ると言ったらオリヴィア・ハッセー似の女性は大喜びでした。
ところが、十両の取組となり、お互いに自席の2階席に移動し、バラバラとなりわからなくなってしまいました。💧

次からは私の妄想です。(非現実ですが現実かも、既に時効)
「ところが、後日、知り合いに頼んで調べて貰ったら、名前、自宅住所、自宅の電話番号までわかるという吃驚仰天なことが…。
自宅に事前に電話したら、本人は大喜びで録画ビデオは宅配便で送りました。」

現場で相撲観戦しているとこういう嬉しいハプニングもありますという話です。
30代の一時期4年位、毎週土曜日に聴き取れなければ喋れないがキャッチフレーズの茅ヶ崎方式の綱島の英語教室に通いましたが、ある日突然、聴こえるようになると云われましたが、待てど暮らせどなかなかその時期は到来しませんでしたが、得意な大相撲に限定すれば時を経て漸く私も…。💦
(学22期 Y・Y)

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親友の自殺(仮面の告白)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年7月トピックス

高校を卒業して山口での学生生活を送っていて、2年3ヶ月を経過した二十一歳の頃だったと記憶します。
私は後河原の下宿先で夜、地元局KRYのラジオを聴いていた。

すると私の親友の山口大学経済学部のA・Uが徳山市郊外で列車に飛び込んで自殺したと報じられた。
そんな馬鹿な!?、私達が自殺することはあっても、温和な性格で現実的で常識人で一番自殺からは遠いと思える友人の死であった。
きっと何かの間違いであろう。
すぐに他の友人と連絡を取り合って駅通りの彼の下宿に出向いた。

ご高齢の家主さんのところにも警察から連絡が入っていた。
家主さんの了解を得て部屋に入ると、三島由紀夫の「仮面の告白」と共に彼の遺書があった。
三島由紀夫は前年に割腹自殺を遂げていた。

学園生活は入学当時に共に一時期、同じ運動部に所属したり、文化会サークルに入ったりして、毎日、下宿先を行き来し、顔を会わせない日はないくらいであった。
ところが、私は文化会サークルに所属していたものの、サークルから遠ざかり、私は彼がサークルで活躍しているとばかり思っていて、お互いに行き来が途絶えた時期があった。
遺書によると彼は自殺することを決め、自分の死に場所まで下見して、計画通り完璧に遂行してしまった。

葬儀の際、お父さんやお兄さんは毅然とされていたが、お母さんのわが子を失った落胆ぶりは見るに耐えなかった。
そのお母さんから、私が録った彼の肉声が入った録音テープを形見にしたいので、聴かせてほしいとの申し入れがあった。
肉親からの申し出とはいえ、内容面の事情でお断りせざるを得なかった。

子供の頃から成績優秀でエリートだったようである。
音楽が好きで、よく下宿でギターを弾きクラシックの曲を聴いていた。
でも、若くして何かに挫折したのであろう。
今も下松市郊外の山の中の墓に静かに眠っているのであろう。
当時、お兄さんから彼が眠るであろう墓に案内されたが、あれから彼の3倍以上の50年余りも生きているというのに私はただ惰眠を貪り、齢を重ねています。
一度、私が生きているうちに墓参りをしてやりたいと思っていますが、今の私には下松は遠く実現していません。
この種の投稿はトピックスとして相応しくないのではと思いましたが、若くして終わりのない旅に出た彼を思い出してやることで供養になるかと思い投稿しました。
(学22期 Y・Y)

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