山口の在来線(その1)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

◆「省力化」最先端

宇部での全国総会参加のため山口を再訪。今回は愛媛・松山に所要ができたため、松山経由で山口に入り、総会が開かれる宇部の会場に向かう。

松山から乗ったのは防予フェリー。松山・三津浜港から瀬戸内海を渡り2時間半の船旅で山口・柳井港に入る。

ここからJRを使うが、その駅がローカル線の柳井港駅。この駅は無人駅だ。

国鉄が分割民営化されJR西日本の駅となったのが1987年(昭和62年)。

瀬戸内海を横切り、対岸の愛媛・松山からのフェリーが着くため、1992年は「みどりの窓口」も開設されていたのだが、1日平均乗車客が200人台へ減った2005年に無人駅になっている。

残念ながらAIが完備された今どきの無人駅ではない。最先端とは真反対のレトロな無人駅だ。

◆ちょっと不便な山口の在来線

この柳井港駅は無人のため、簡易版の切符・自動販売機が置いてある。切符を購入したいのだが目指すべき宇部駅までの料金表が載っていない。ローカル線で23駅、3時間ほどかかる遠いため、近郊駅路線図には収まりきらないのだ。着駅精算すべく取り敢えず小銭を掴み、200円の乗車券を購入した。

私が載ったのは新山口駅経由で宇部に向かうローカル線。各駅停車の電車に2時間ほど揺られ、新山口駅で昼を迎える。

宇部線に乗り換えるまでに20分あった。この乗り換え時間のうちに構内で立ち食いソバかコンビニでおにぎりを食べようと考えた。

しかし駅のホームを見渡せど、店がない。

立ち食いソバ・うどんはおろか、コンビニすらもない。キオスクもないぞ。

新幹線乗り換え口にはあるかもしれない。乗り換え時間が限られている中、結構離れている新幹線口に行ってみたが、無駄足だった。

改札を出ればコンビニがあるのだが、コンビニに行くにはどうするか。

駅員に相談だ。

駅員に、コンビニで買い物をするので改札から出ても良いかと尋ねたが、ダメだという。

コンビニに行くには改札で一旦精算し、電車に乗るには新たに切符を購入する必要があるという。

面倒なので、昼飯は我慢しようかと考えた。

駅員との会話の途中、駅員から向かう先を問われたので、(会場の「宇部新川」の隣、ホテルを取っている)「琴芝駅」というと、そこは無人駅なので、緑の窓口で精算して切符を買い直してくれという。

何とも不便だ。

◆結局、コンビニでおにぎりを購入

そうか、琴芝駅も無人駅か。それなら昼食を食べるところも無いのではと悪い予感がしてきた。

このため、安全策として新山口駅の改札を出てコンビニでおにぎりとサンドイッチを買うことを決断し、癪だが一度精算することにした。

この先1時間のローカル線の旅だ。始発列車なのでボックスシートの良い位置に陣取り、車窓からのどかな風景を見ながらおにぎりをほおばるか・・・

2両編成の宇部線の電車がホームに入ってきた。ボックスシートは見当たらない。通勤電車風の横長シートで、向かい側のお客さんと目が合う。

とても窓の景色を見ながらおにぎりどころではない。

車窓からの景色を眺めながら・・・レトロな夢想は泡と消える。

結局、コンビニで買ったものにありつけたのは着駅の屋根のない腰掛けイスだった。

◆宇部空港のJR最寄り駅、そこも無人

総会の翌日は宇部空港に向かうが、空港の最寄り駅であるJR草江駅もJR直営ではない。「委託駅」となっているが、人はいない。無人だ。

山口は「悪い無人化」が静かに進行してしまったようだ。

ちょっと待て。

その昔、鉄道庁長官であり、長州ファイブに名を連ねた日本の「鉄道の父・井上勝(野村弥吉)」は萩藩士だ。井上勝のお膝元・山口でこうした事態となっている。無人駅化はJR側の合理的な選択なのであろうが、複雑な気持ちになる。

この話の続きは次号で。

(学23期kz)

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【2023年7月トピックス

私は山口市での大学5年間在籍中に6箇所に住み、5回も引っ越しをしました。
入学した頃は平川に下宿し、次は道祖町(その後石観音町に町名変更)、古熊、亀山近くの鳳陽寮、中後河原町を経て、最後は中央五丁目の山口中央高校の近くでした。

鳳陽寮に入居していたのは数ヶ月程度と記憶します。
本来なら相部屋のようですが、空いている部屋もあり、私は一人部屋でした。
私は5つある寮の中の西寮でした。
入っていた期間が短く寮祭とかストームとかは体験していません。
同じ西寮には亀山公園での入学オリエンテーションで知り合い、学部で教養時代に同じK3クラスだったM君がいました。
彼は外出先から帰るとバケツに水を貯めて足を洗っていました。
高校時代は生徒会長をしていたと後に他の人から聞きました。
熊本が本社の九州最大のスーパーに就職したようですが、新入社員研修期間中に置き手紙を残して辞めたという嘘のような本人の弁です。
その後、地元の北九州市で寿司職人になったという異色の人です。
本人に5年位前に上京の際に45年振りに再会しましたが、全く風貌やイメージは一緒で吃驚しました。

風呂場は昼間に暗闇で見た為、汚かった山口大学印象があり、私は近くの銭湯に自転車で利用していました。
部屋で落書きをしていて点検の際だったか、一年後輩の文理学部の寮長に見つかり、頭ごなしに注意された記憶があります。

学生運動をしていてよくアジテーションされていた学部でも知名度の高い先輩が寮におられましたが、私は一般学生で話したこともありませんでしたが、卒業後の広島の同窓会で、40歳の頃に知り合い、お付き合いが始まりました。
奥様も学部の先輩で、美人で目立っていました。

学生時代は面識もなく、話したことはなくても、広島勤務時代に学生時代からお付き合いがあった学22期 Y・Yさんから紹介された学22期 Y・Nさんには特に公私にわたり、46年の長い間大変お世話になっています。
鳳陽寮は吉田地区への統合移転伴い、卒業暫くして廃寮となったと聞きました。

写真は30年位前の広島寮歌祭の一シーンです。
(学22期 Y・Y)


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山口の思い出(喫茶店他編)

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【2023年7月トピックス】

昨年11月12日に食事編は投稿しましたが、今回は喫茶店他編です。
道場門前にあった「谷間の灯」に何度か行った記憶がありますが、デートだったか否かは思い出せません。
同じサークルの仲間で評判が良かったので、下見を兼ねて最初は階段を降りてひとりで行ったのだと思います。

あとは糸米町にあった「グリーンパーク」を何度か利用しました。
これはセンタービルのダンスパーティーで知り合った某芸術短大の女性と後日、山口市民会館での発表会後に行ったのを覚えています。
広いスペースで爽やかなイメージで利用し易かった印象があります。
美味しいケーキを食べた記憶があります。
Facebookで友達になっている山口市在住の方から、今はもう失くなっていると以前お聞きしました。💧
(調べると2010年1月に自己破産を申請)

あとは道場門前のパチンコ店百万弗の2階にあった「白鳥」を利用しましたが、これも数回程度でした。

頻繁に利用したのは山口信用金庫本店近くにあった「リバーサイド」です。
京都時代にバイト先で馬券を八坂神社の場外馬券売場にパシりで行かされて競馬に興味を覚え、復学後に週末はリバーサイドでテレビ西日本の競馬中継を視聴していました。
ハイセイコーが登場する前後を含めての時期でした。
女性とあまり縁がありませんでしたので、行った喫茶店も数える程です。

先の長門峡の女性が、縁があったと聞いた朝倉近辺のおシャレな店名の喫茶店に一度ひとりで行った記憶はありますが、店名は思い出せません。

学生時代の友人は後河原のドリップで出す純喫茶や若いご夫婦がされていた深夜喫茶の「ムスタング」が忘れられないとか。
店内にムスタングの店の由来と思われる野生馬の写真があったとか。

私は中市のスマートボールの店やパチンコ百万弗や山口ホール、大市会館、マツヲには頻繁に出入りしていました。
(山口市ファンクラブメンバーの情報では百万弗は今は無く、跡地はマンションとなっているとか。)

卒業後、歳月を経て東京でのOB会に出席しても、入学同期に学内では見たことはない、本当にいた?とよく言われます。💦

GAROの「学生街の喫茶店」(1972年)が流れていたあの日に帰りたいです。

山口市の喫茶店の写真がないので六本木の「かき氷yelo(イエロ)」の写真を載せます。
夏の炎天下に若者ばかりで1時30分待ちでした。💦
(学22期 Y・Y)

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横浜市北部における廃仏毀釈のエピソード(その2)

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【2023年7月トピックス】

以前、当欄において横浜市都筑区における廃仏毀釈のエピソードをご紹介しましたが、同青葉区にも興味深い話が残っていますのでご紹介します。本件からは明治初期における廃仏毀釈がどのような性質を持っていたのかその一端に触れることができるような気がします。

江戸時代中期から庶民の間に大山詣でが盛んになりましたが、東急田園都市線藤が丘駅に程近い柿木台(旧上谷本村)の旧大山街道沿いに医薬神社と言う小さな神社があります。明治の前まではそこに東光寺(関東の高野山と呼ばれた川崎王禅寺の末寺)が広い寺域を持って所在していました。

 その寺の住持諦恵は11歳で仏門に入り成田山新勝寺(真言宗)で修行した後、東光寺に住持として赴任していましたが明治初年大政の維新に会い、何とその年に自ら率先して東光寺を廃して、寺内の境内宮に過ぎなかった医薬神社の神職に転身して檀家もみな神葬に変えてしまいました。

 明治政府の廃仏毀釈政策は寺院や有力檀家の抵抗が大きく、寺領を大幅に返上するなどの妥協により生き残った寺院も多い中で同寺を明治初年にたちまちに廃した理由は諦恵の出自によります。

 諦恵は徳川慶喜の父である水戸の烈公徳川斉昭の実子でした。母が婢として水戸藩に出ている時斉昭に見初められお手がつきましたが身分が低い出のため子として認知されないままに宿下がりとなり、下総の実家(宮本氏)で諦恵をひっそりと出産しました。その後諦恵は水戸藩の家臣の差配により新勝寺に入り、おそらくは真言宗の横のつながりによって東光寺に赴任したものと推測されます。

 その諦恵が明治初年に突然仏門を捨てて神職に転身したことは、推測の域を出ませんが水戸神道の影響が強くあったのではないでしょうか。徳川斉昭の庶子である諦恵は村名を姓とし、境内に湧出する清水に因んで名を谷本泉に改めました。時は明治政府が天皇を神格化して太平洋戦争の終結まで国家神道を推し進めていく中で谷本氏は時流に見事に乗っかったと言えるかも知れません。

 藤が丘駅近くのもえぎ野公園内に国威発揚目的で昭和15年(紀元2600年)に催した紀元節祝典の石碑が現在も残っていますが、地元の中里郷土史紙上には公園内に現存する池の元となった農業用水池を築造する村人達を指導する谷本泉の3代目か4代目の子孫の雄姿が写っています。

なお、郷土誌である「中里郷土史」発行の昭和44年においても、谷本泉の実父は明らかにされておらず、徳川慶喜の異母弟という出自が戦後20年を経た時点でも何らかのタブーに触れる可能性があったことが推察され、昭和史を考えていく上でも大変興味深いと思います。 (22期 YY)