名畑ゼミの思い出 -7

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年 8月トピックス

■■名畑先生について

『一言でいうと、とてもおかしな先生

そばにいると心を開いてしまう (就職相談時のコーヒーはとてもおいしかった)

すぐ悪ノリする (ゼミ10周年記念パーティのときはすごかった)

歌を大きな声で歌う (入ゼミ後の登山で鳳陽寮寮歌を指導されたときは驚いた)

ゼミの時間にはとてもシビアになる (普段とあまりに違うためとまどった)

ソフトボールの名投手 (一度は打ち砕いてみたかった)

なんといっても山大一の先生です』

『いつも陽気で明るい先生は、いつも長い目で私たちをみてくださいました。

皆がよいゼミだったというのも先生なくしては語ることができません。』

『飾り気がなく、ゼミ生に対しても体でぶつかっていくような気さくな人柄に親しみを覚えました。

コンクールで函館に行く時、教職員に寄付をお願いして回ったところ、学部で最高寄付者は名畑先生でした。相手にしてくれない教授が多い中であの時は名畑先生が仏様に見えたものです。

また、名畑先生を語るには奥様のことを忘れてはいけません。コンパの都度押しかける我々をやさしく迎えてくださり、我々の底なしの腹を満たしてくださいました。また、あの酒の飲みっぷりのよさにも見とれたものです。

名畑先生、そして奥様のことは私の胸に強烈なイメージを残し続けることでしょう。』

『カゲで人の悪口をいうのは得意だが、明るいところでは何も言えない。一言でいえば、先生は我々のスターだ。』

『先生は勉強の方は非常にシビアにやり、また他方、遊びにおいては我先に立って存分にやり満足しちょるという風である。ぼくは非常に無邪気な人であると思う。就職の時、非常にお世話になった。』

『まさに学生気質を知り尽くした先生であった。ゼミの時間は非常に鋭いまなざしを黒縁メガネの奥から光らせる厳しい人となり、コンパ、スポーツの時は先生という立場を離れて学生といっしょに遊びまくるといった、とても愉快な先生であった。』

『先生と知り合えたことは、私の人生において大きな影響を与えることと思います。学問において先生から学びきれなかったことは、私が至らなかったためと反省しております。先生という人格に二年間ふれたことで、すばらしい大学生活を過ごせました。』

『本当に素敵な先生でした。』

『いつも女性の味方で、やさしい先生でした。』

『酒を飲まないことを別にすれば、すばらしい先生である。』

■■名畑先生による9期生の印象他

「やる気のある人の、やる気のある人による、やる気のある人のためのゼミ」

残念ながら、ゼミの実態は今のところまだまだそのような理想からはほど遠い。ゼミナール指導上の私の無能を棚に上げてそのようなことを平気で言える義理ではないが、研究テーマを中心にしたゼミのまとまりをどのように形成していったらよいのか、9期生諸君が展開してくれたさまざまな試行の中でさんざんに考えさせられた1年であった。

大学祭への研究成果を企画したり、東南アジア視察旅行を計画したり、3年-4年のサブゼミを実験したりしたが、いずれも不首尾に終わった。東奔西走してくれた幹事の労に対して心から感謝の意を表したいが、同時にあれほどのエネルギーをもってしてもなお打ち破ることのできなかった状況とは何かについて、9期生がつかみ取ったものを10期生に継承させていってほしいと思っている。

ゼミナール必修という現在の枠組みの中では、ゼミに入ってくる諸君の動機や意向があまりに多様であり、創造的研究の一点において統一をとることはきわめて難しい。平均的なところで統一を保とうとすれば、それは教官が学生と同一次元にまで入り込んでいって学生諸君の欲求に迎合するという悲劇を生みがちである。私自身もこの悲劇の体験を幾度となく苦々しい思いで繰り返してきた。けっして迎合はすまいと心に決めていても、単細胞的生活反応の悲しさ、ついつい学生諸君に乗せられて「悪ノリ」してしまう。

今年度も二年生諸君のゼミナールの配属が決定し、名畑ゼミは13名の新ゼミ生を迎えることになった。聞くところによれば、今年度のゼミ紹介はやる気のない人は一切受け入れないというほどの「格調高い」ものだったという。したがって、11期生はその点での厳しさを充分に意識した諸君であろうと期待している。

9期生は実によくやってくれた。この「精鋭」たちを上回る精鋭が来るのかと今から楽しみである。(一部編集)』以上、ゼミ内報より。

2年間の必修科目であったゼミナール。それぞれのゼミに特徴があり、今でも初見の同窓生には「どこのゼミでしたか?」と尋ねるほど。

他ゼミの「思い出」も拝見できれば、と期待して「名畑ゼミの思い出」を終わります。

拙い昔語りにお付き合いいただき、ありがとうございました。

学27期 三島

松陰考 その2 二つの事件

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

二つの出来事が我が国に及ぼした影響は誠に大きいものがあった。

当然年若き松陰にとっても大きな影響を与えた。

アヘン戦争とペリー来航だ。

アヘン戦争

天保14年(1843年)松陰14歳の時、我が国の朝野を「足元から震え上がらせた」アヘン戦争が起きる。

中国が「欧州の蛮国」英国に屈したという。その中国では欧州人が街中を闊歩し、地元民は欧州人に服従している姿が伝わっている。

途上国の中国ではない。

当時中国は我が国にとって、千年の長きにわたり、我が国の政治、文化の模範であり、儒者にとっては孔子や孟子を生んだいわば模範国であり、思想「先進国」だ。また、あの偉大な釈迦を生んだインドも英国の植民地になったというではないか。

その英国が日本を目指してくればどのようなことになるか。

備えなければ「第二の中国」、「第二のインド」となる。

松陰が師と仰ぐ松代藩士・佐久間象山は直ちに儒学を捨て、西洋流砲術を志す。

アヘン戦争を契機に国を憂えての遍歴が始まる。

清が大敗したことが気にかかっており、これまでの兵法が時代遅れではないかという疑問を持ちながら。

ペリー来航

もうひとつの大事件が10年後に起きる。

嘉永6年(1853年)、松陰24歳の時。ペリーの浦賀来航だ。

ペリー来航を契機に松陰は士籍を剥奪された後、密航の国禁を犯すし、萩に護送されて投獄される。

釈放後も監視される身ながら、かつて明倫館の兵学教授を務めた松陰の学殖は兵学の講釈にとどまらず、また単なる外国排斥の攘夷論者でもなかった

◆渡航を志すも・・・

1853年にペリーの来航を見た後、唐突に海外渡航を果たしたいとの意向を黒船に伝えるも乗船拒否。そこで、同年、長崎に来航していたロシア・プチャーチンの船に乗り込もうとしたが、クリミア戦争で予定より早く出航したためプチャーチンの船にも乗り遅れた。

また、次の機会に再度ペリーの船に乗り込もうとするが、無許可の海外渡航という国禁を犯す松陰を庇えば締結されたばかりの和親条約が水泡に帰すことを懼れ、ペリー側に乗り込みを拒否される。

◇なにゆえの過激な行動か

書斎の人にあらず、行動の人という松陰評がある。

山鹿流兵学を講じたが、もともと客観的に外側から物事を観察し著述する「学者」ではなかったのではないか。教育者であり、行動派の思想家だったといえるかもしれない。

蘭語などの外国語が不自由で、松陰の知識の総体は同時代の知識人より「かなり」低かったという評価もある。

なにゆえに過激になったのか

温和で純粋、丁寧、質素だった松陰は、藩主にも熱い忠誠心を持つと同時に何よりも天朝に絶対的な信頼を捧げていた。これが松陰をあのような言動に追いやったという見方がある。

また、アヘン戦争による清の窮状を踏まえ外国の来航を過度に不安視し、それゆえに勅許を得ずに条約を結んだ幕府が許せなかった。許せないというより、外国からの蹂躙に怯えたのだろう。

こうしたこともあり29歳、刑に処せられる1年前の安政5年(1858年)に水野土佐の守忠央(ただなか)暗殺、安政の大獄を進めた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)要撃という過激な主張をし始める。

4歳下の木戸孝允が諫言役として江戸から萩に向かうが、松陰は頑なで、木戸の説得は失敗に終わり江戸に帰っていった。こういう頑固な一面を抱えており、安政の大獄の最後の犠牲者となった。

周りの人にも大変な迷惑を掛けた。藩主敬親、周布政之助、兄の梅太郎なかりせば早くに打ち首になっており、30までも生き延びていなかったのではないか。

一君万民

松陰を評価すべきはこの一点かもしれない。

これこそ儒教・朱子学に染まった士農工商の徳川の世を新たな世界、民主主義の世界に導いた当時の革命的な思想ではなかったか。松陰を評価すべき最大の点はここに存する。

清や朝鮮にできず、欧米列強と肩を並べる国民国家となったのは、「一君万民」思想が士農工商の階層性を破壊したからだ。

人々の階層を超え、藩を超え、天皇を中心に抱くオールジャパンとして列強国の一国として世界に踊り出る基盤を創り出したのだ。

(学23期kz)

名畑ゼミの思い出 -6

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

■■卒業を前にした9期生のゼミに対する感想

『それにしてもなんとなんとよく騒いだものじゃ。

酒にマージャン。ソフトボールにバレーボール、バドミントン、バスケット、ボーリング。コンパだらけに合コン、カクテル・パーティ、無人島キャンプなどなどなど。

貧乏暇なし集団である我々名畑ゼミ、面々はよく耐えることができたものだ。しかし、しかし、この忍耐力こそ未来の力強い味方となるのだ。

よくやった、われら仲間たち!

(追記、勉強もやりました…)』

『山大広しとはいえども名畑ゼミほどスゴイ集団はない!

スポーツマッチはすべて参加。課外に特訓さえする。酒が大好き。マージャン大好き。勉強大好き。女大好き。男大好き。

「ルーズルーズ」「東大一直線」「パイレーツ」「亀有公園前派出所」「巨人の星」などを加えて割ったような好青年の集団である。まるで変態集団「バラ族」の中に置かれたサクランボのようでもあり「ベルサイユのばら」のようでもあった。[注1]

他のゼミの連中は名畑ゼミに一目置いている。[注2]

まさにゼミ生や先生を含め理想的な環境であったように思う。

一方、女に縁がないというかモテない、悲しいほど純情な小心者集団。いつも「女」に関しては哀愁が漂っていたが、それもよかった。』

[注1]

「ルーズルーズ」

         コンタロウ作「ルーズ!ルーズ!!」。ルーズすぎる怪盗を描いたギャグまんが。

「東大一直線」

         小林よしのり作。東大受験をネタにしたギャグまんが。

「パイレーツ」

         江口寿史作「すすめ!!パイレーツ」。プロ野球チーム「千葉パイレーツ」を舞台としたギャグまんが。

「亀有公園前派出所」

         秋本治作「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。同派出所を舞台としたギャグまんが。

「巨人の星」

         梶原一騎原作、川崎のぼる作画。スポーツ根性まんがの代表作。

「バラ族」

         1971年創刊の男性同性愛専門雑誌『薔薇族』から転じた、BLの旧隠語。

「ベルサイユのばら」

         池田理代子作。男装の麗人オスカルを主人公として、フランス革命前後を描いた少女まんが。

[注2]

エビデンスはありません。

『この4年間、最後までクラブ活動に没頭していたので、ゼミ活動に積極的に参加しなかったことを残念に思っています。しかし、ゼミを通していろいろな思い出もできました。

名畑ゼミの連中はとにかくタフな者ばかりで、無人島キャンプ、カクテル・パーティ、はたまた人々の眠りを襲う深夜の下宿巡りなど、小心者の私は驚かされてばかりいたような気がします。でも、他のゼミでは経験することのできない貴重な体験でした。』

『実に多彩な個性をもつ小心者達が、学生の特権である比較的自由で勝手気ままなやり方を生かし、フランクな人間関係を作り上げた。すなわち、ゼミを自分たちに引き寄せることに成功した。しかし、一方で危機感が足りず、退廃的傾向のあったことを無視してはならない。』

『3年の時、ぼくはまじめなまじめな学生さんであった。そのぼくをここまで変えてしまったは、誰だ!

毎晩毎晩、麻雀。(´Д`)ハァ…

しかし、なかなかいい仲間を多く持ったと思う。サマーキャンプ、カクテル・パーティ、その他いろいろ。まったく未知の分野も経験できた。勉強の方もなかなかおもしろかった。

残念なことは、東南アジアを実際にみられなかったことである。』

『名畑ゼミ9期生の特徴は「飲む、打つ、買えない」であり、スポーツ好きの集まりでもある。ソフトボール準優勝、バレーボール4位という実績からみてもわかるように、ただ好きなだけではなく実力もあったのである(個人の実力?+チームワークの力!)

私はゼミの時間は寡黙の人であり、スポーツマッチ、コンパ、マージャンにおいては大活躍の人であった。もっと勉強すればよかったと後悔の念にたえませんが、ゼミの愉快な連中を知り得たことはうれしく思う。』

『乙女のひとり言

そう、名畑ゼミの9期生って変わっているのよね。

いつも男ばっかり集まって魔の三角地帯[注3]なんて所で何かやってるみたい。

「××」

あれ? 何か言った?

ああ、飯塚さんね。いつも変なこと言っているの。〇〇とか△△とか。いや~ね、恥ずかしいわ。

「寝させへんで~」

あれは柴田さんかな、それとも三島さんかしら。

「ゴニョニョ」

あの人寝ぼけてるのかしら。そうだ、古賀さんは低血圧だったんだわ。

アレンジボールが好きなのは下尾さん。パチンコじゃないのよ。

女の人を連れたイカス人は有冨さんっていうの。

道着の人は真田さん。男らしい人。私好みよ。

あの真面目な人、恵谷さんっていうのよ。いい人よ。

あそこでニラメッコしている人たち、木月さんと野村さんよ。きっとお金でも借りっこしているのよ。

名畑ゼミにはライバルが二人いるの。前川さんと南さん。二人ともかわいい人よ。でも私、負けないから。

とにかくいい人ばっかり。素敵なゼミよ。』

[注3]

カルチェラタンの近在に比較的多く9期生の下宿が集まっており、遊び相手を求めるメンバーに強襲されていた。

『花なき山、山都逍遥歌は いとあはれなり。

春の遠足にてこの歌覚えしに 暗唱したりて こんぱのおりに歌うはいうべきにあらず。

山都逍遥歌は覚えにくしあれど、この歌 歌うほどにあはれをさそうふぜいなりしか。

こんぱは月一回にて 夏はびあぱーてぃを行ふ。

かくてるぱーてぃはおもしろけれど、相手おらずは このうへなき問題となりにしものなり。

そふとぼーるは三年組の弱さに驚くものなり。安部ゼミの敵討ちなど思いだによらぬことなり。

学内ぜみ大会は負けることよるされぬものなり。

鈴木ぜみ 関下ぜみなど赤子と同じものにて、あの本を読めばあの本に従い、この本を読めばこの本の信者となる烏合の衆と心得たり。』

『とても良い雰囲気でしたが、溶けこむのが遅かったので残念でした。』

『気を使ってもらったり、迷惑をかけたことも多かったことと思います。先生をはじめ、皆さん、どうもお世話になりました。ありがとう!』

『勉強より遊んだことの思い出が多い。名畑ゼミにはいってよかったと思う。』

(次回で終わり)

学27期 三島

恩師の訃報(鞆の浦出身の青髭先生)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

2007-11-30mixi投稿分より

昨夜、久しぶりに日吉の自宅に帰ったら小学校時代の恩師(5、6年次担任)の奥様から喪中葉書が届いていた。
それも、今年の一月に亡くなられている。

一昨年、秋に帰省した際、広島でお会いした時は、万が一の時にはY君(私)に連絡するように連絡リストを作って家族に託しているので、棺を運んでくれと言われたことがあります。
私も今頃知るなんて、何という落第生であるか。
きちんとウオッチングしておかないで、不義理な人である。

酒が好きで、あちこちが悪く入退院を繰り返しておられた。
年賀状のやり取りはしていましたが、私が39歳で二度目の広島勤務となった時に広島市民球場で、それらしき人を見つけ16年ぶりに再会しお付き合いが始まった。
居酒屋でサシでよく飲んだ。
大のカープファンで結構、野球談義に花を咲かせた。
会社のクラシックコンサートにもご招待したが、奥様と来られたことは一度もなかった。
私の知らない女性が多かった。

最後は国立大学の付属小の副校長を務められた先生からは教育論を聞かされた。
小学校時代に、ぼんやりしてあまり成績の良くなかった私には、耳の痛い話であった。

45歳の時に、私が幹事で正月に同窓会を開いた。
三人の恩師をお呼びした。
私は仕事もそこそこに、全力投球した。
町立の小学校で50名程度の単一クラスであったが、地元を始め、全国から実に30数名が集まった。
33年ぶりの再会もあった。
先生にも絶賛していただき大変喜んでいただけた。
酒が好きな先生で、いつか、いきつけの居酒屋近くのキャバレーにロシアのダンサーが来日ということで悪友の先導で行ったら、先客の先生が女性とボックスに座っておられて生徒の私は閉口したことがある。
又、クラスメイトに歓楽街で夜のお店をやっている女性がいて、同窓会をドタキャンしたので先生をお連れしたら、恩師に向かって、「そこのおじさん、座る席がないよ。」と言われ苦笑したこともある。
生徒も歳月が経ち、先生の顔を覚えていないのは仕方がないが。。。

45歳の時の同窓会も、私が東京に転勤となり、5年毎にやろうということで、地元の人に引き継いだが、その後は一度もやっていない。
3人の恩師を入れて皆で一堂に会することももうない。
そういえば、弟さんがおられ修学旅行で別府、阿蘇に行った時に下関駅のホームに生徒に挨拶に来られた。
後に弟さんは山大農学部出身で当時、シモラク牛乳に勤められていたのを知った。
先生のご冥福をお祈りします。

写真は広島の歓楽街、新天地の「酒処石松」です。
カープ優勝時には必ず報道されます。
二代目の奥様が母校基町高校の先輩で、覗くと恩師の先生がカウンターで、ひとりで呑んでおられました。
(学22期Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -5

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】


■■ゼミ10周年記念パーティ奮闘録(ゼミ内報より)


★★ 序章 意義

名畑ゼミ10周年とゼミ誌発刊を記念して、我々はカクテル・パーティを行うことにした。

日時:1978年11月26日(日) 6:00P.M.
場所:かめ福ホテル

★★ 第一章 計画

だいたい就職活動が一段落ついたころのこと。「カクテル・パーティをやろう」とわが幹事三島氏が言い出した時、我々は半信半疑のままなんとなく賛成した。ここで強い反対意見が出なかったことがそもそも運のつきであった。

パーティに向けて活動が始まったが、みんな半信半疑のままだったことから非常にいい加減で、実際には何もやらなかった。そしていよいよ本当にやらなければならないと実感した時、我々は焦った。パートナー探しという難題と、実行可能なプログラム作りとその準備の期限が目前に迫っていたのだ。

★★ 第二章 準備

いよいよ準備が始まったが、それは開催日の二週間くらい前のことだった。
準備といってもカクテル・パーティなど経験がなく、何をやっていいのかわからない。開催が11月26日と決まっているだけ。その他のことは一切白紙の状態であった。

この時は「まだ二週間あるさ」と不思議に余裕があった。我々が本気で焦ってきたのはあと一週間となった時だった。

まず、パーティにおける様々な役割を決めるということから話し合いが始まった。

司会:木月氏
音楽:真田氏
受付:古賀氏、前川さん、南さん
装飾:有冨氏、柴田氏、野村氏、
会計:恵谷氏、下尾氏
渉外:飯塚氏、三島氏
ポスター作成:西田氏(10期)

以上のように各自の役が決まった。[注1]

次に、プログラムを作成することに全力が注がれた。カクテル・パーティはシリアスなものであるという常識を打破したいという名畑先生のご意向もあり、作成は非常に困難なものとなった。
プログラム上もっとも問題となったのはダンスであった。なにせダンスを踊れるのは真田氏一人。必然的に他ゼミ生は特訓せざるをえなくなった。血のにじむような努力の末、特に前川さん、南さんの女性二人の協力もあり、二日間という短期間でなんとか一応みられるようになった。
このような苦闘の結果、プログラムは次のようになった。

第一部
 司会者あいさつ
 名畑教授あいさつ
 幹事あいさつ
 乾杯

第二部
 自己紹介
 ダンス

結局、先生の意を反映したものとは言い難い、ごく普通のものになってしまった…。しかし、当初の精神を忘れてしまったわけではない(キリッ。

★★ 第三章 実行

ついにパーティ開催の日、11月26日となった。
みんなやや興奮気味に、かつ緊張した面持ちでパートナーを連れて会場にやってきた。

いよいよパーティが始まった。

第一部は少々かしこまった雰囲気の中で格調高く進行した。名畑先生のあいさつに、全員まじめに聞き入っていたのが印象的であった。
そして、乾杯。
全体の雰囲気もほぐれて立食パーティらしくなり、会話も弾んで盛り上がっていった。

第二部は自己紹介から。
やや不安もあったが、ユニークな自己紹介が続いてさらに場を盛り上げた。
最後に練習を積んだダンス。ブルース、ジルバ、ディスコと次々と流れる音楽の中で、みんな酒も回ってきたせいか、楽しそうに踊っていた。特に、名畑先生の独特な、とても愉快なディスコ風ダンスが印象的だった。

楽しいムードのうちに終会の時間となった。
我々は学部の愛唱歌である鳳陽寮寮歌(花なき山の♪)と山都逍遥歌(春を弔う落英か♪)を全員で合唱し、パーティを終えた。

★★ 第四章 結び

この行事を通じ我々名畑ゼミの団結力が発揮され、当初不安に感じていたパーティをなんとか成功に導いた。
名畑先生をはじめ、三木さん(8期)、三年生諸君(10期)、パートナーのみなさんのご協力に感謝したします。』

[注1]
結婚式等で裏方を手伝ったことがある方はお気付きかもしれませんが、なぜか「カメラ/撮影」担当がありません。その結果、開催した思い出だけが残るイベントとなってしまいました。

■■感想編

名畑ゼミ4年生の雰囲気 ~オカマのひとりごと~

わたしたち名畑ゼミのふんいき?
いいわよ

どうしてって?
そりゃ みんな仲がいいもの

勉強?
そりゃ してるわよ。びんびんよ

遊び?
そりゃ もう言葉をこえてるわ

そうそう この前カクテル・パーティってやったわよ
うふふ 楽しかったわ
お金に羽がはえてとんでいったわ。残念ね。
』(ゼミ内報より)

会場となったかめ福ホテルは2020.3から新築・増改築工事を行い、2022.9にリニューアルオープン。今は宿泊とバンケットで別々の営業となっています。
添付写真はパーティから40年後に撮影したもの。意図したわけではありませんが、ゼミ同期会で改装前の同ホテルに宿泊しました。

(つづく)

学27期 三島

趣味は将棋(へぼですが・・・)青春編①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

私の趣味は将棋です。

地元の将棋同好会に入会。週末、定例会に参加して仲間と将棋を指しています。実力は1級。弱い。会員の多くは有段者です。8段の方もいます。先日、彼に話を聞くと、強豪・早稲田大学将棋部OBとか。強いはずです。

       ◇中学生で将棋を始める

私は九州の鉄の街、八幡出身。

中学生のとき、将棋を始めました。同じ中学のA君に誘われ、将棋を指すようになりました。ときどき、彼の家に友人が集まり、わいわいいいながら、将棋を楽しんでいました。

 しかしながら、私は剣道部です。放課後は毎日、剣道の稽古。週末も試合があり、将棋に割く時間はそんなにありませんでした。それでも少しずつ、将棋も面白くなっていったのです。

         ◇中学生将棋大会

 ある日、八幡で中学生将棋大会が開催されました。中学からA君と私が出場しました。弱い私は2回戦で敗退しました。強いA君は順調に勝ち進み、決勝戦に勝ち上がったのです。

 決勝戦の舞台は特別です。負けた選手全員が将棋盤の周りに集まります。大会を運営する大人たちも大いなる関心を持って立ち会います。注目の一戦です。

 さあ、決勝戦が始まりました。持ち時間(考える時間)は確か30分だったと記憶しています。序盤戦。二人は時間を使わず、駒組を進めていきます。中盤の難解な局面。A君は熟考し、1手指します。すると、相手はノータイムでさっと指す。再び、A君は考え、時間を使って次の手を指します。今度もまた、相手は

ゼロ秒でさっと指す。局面は進み、A君の王将は次第に追い詰められていきます。残り時間わずか。A君の表情は苦しそうです。一方の相手は持ち時間を一切使わず、涼しい顔。A君は持ち時間を使い切りました。ついに投了。完敗でした。

 自信家のA君にとって痛い敗戦はショックだったようです。満座の中で恥をかいた・・・。A君はその日を最後に将棋を断念。二度と将棋を指すことはありませんでした。

 月日は流れます。高校受験の季節が巡ってきます。A君と私は八幡中央高校に進学しました。入学式の後、別の中学から進学してきた同級生の顔を見て驚きました。中学生将棋大会決勝戦でA君を完膚なきまでに叩きのめし、再起不能に追い込んだあの男がいたのです。   続く

 (鳳陽会東京支部 S)

松陰考 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

松陰は長州藩士杉百合之介の次男に生まれる。幼名は寅次郎。寅年生まれであった。

5歳にして長州藩山鹿流兵学師範の叔父(父の弟、杉家次男)吉田大助の家に養子に入り、吉田家を嗣ぐ。

「吉田家を嗣いだ」ということは明倫館に出仕して山鹿流軍学を講ずる定めとなったのであり、軍学を講じたのは松陰の意志ではない。

その養父が早世したため、「吉田家の学問」山鹿流兵法を叔父(父の弟、杉家三男)の玉木文之進が教育を施す。

玉木は四書五経を始め山鹿素行の平易なものの詰め込み教育を四六時中、スパルタ式に行ったようだ。

松陰がなまじ「できる子」であったため、文之進のスパルタ詰め込み教育に拍車がかかったという。

NHKの大河ドラマで文之進の役を奥田瑛二が「しかめ面」で演じていたが、はまり役だったように思う。

◆11歳で御進講

11歳の時に、当時二十歳(はたち)であった藩主毛利敬親の御前で素行の武教全書・戦法論を講じた。講義の巧みさ、そして藩主の問いにもよどみなく答えたため、厚いお褒めの言葉を賜ったという。

毛利敬親は何よりも有能な人材を愛する藩主であり、松陰が野山獄に押し込められていた時も、時々食事の箸を止め「寅次郎は何をしちょるのかのう」と独り言をつぶやいたという。

◆松下村塾での松陰

松陰は月謝をとらなかった。

「師道の緩みの原因は弟子から報酬をとることにあり」とする。

萩にあって青年知識人が私塾を開き、月謝はなし、和漢に渡る文学(イソップ物語)、私学の素養、青森から九州まで全国行脚で知識人を通じて知り得た情報、また実体験に基づいた体験談や内外の情報まで講じ、塾生にとっては博覧強記の人物と映ったようだ。

「つまらない」明倫館の講義にあきたらなかった高杉晋作。祖父や父から止められていた村塾へ入門する。自らの実体験を織り込んだ講義に触れ「学問が生きている」と感じたという。

また、松陰は自分のことを「僕」と呼び、塾生に対しては、たとえ少年であっても「あなた」と呼びかけ、塾生を「諸友」と呼んだ。

師としての松陰も塾生とほぼ同様の歳。若かったからだ。

また、入門希望者に対して「自分は師たりえない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に勉強しよう」と言っている。入塾者に最初に与える言葉が「しっかり勉強なされませい」だ。

塾生に対しては年齢、身分の差を取り外し、すべて平等に扱ったという。

◆ひととなり

本来は茶目っ気があり、活動的で、ユーモアを愛する者であった。

酒・タバコはやらず、囲碁は打たず将棋も指さず、極めて禁欲的であり、独身であった。

人を引き付ける不思議な磁力を持っていたという。

言葉遊びが好きなようで自分のことを二十一回猛士と呼んでいることは有名だ。

吉田家に養子になる前の苗字は杉。杉の字の「偏(へん)」は十と八、それに「旁(つくり)」はハネ3本で合計二十一。

吉田は吉田の吉の「冠(かんむり)」が十一に「口」がひとつ、田は「口」の中に十があり、合わせて二十一に口二つで二十一回となる。

睡眠時間が短かったためか、講義中に居眠りし、机に伏して眠ったという話も残る。

◆松陰と経済

松陰が松下村塾で力を入れたのが地理と歴史、それに意外なことに算術であった。ことあるごとに「算術・経済」を口にし、塾生たちを叱咤激励したという。

品川弥二郎が語るには松陰は「士農工商の別なし。世間のこと、算盤珠をはずれたるものなし」と常に戒めたという。

当時15~6歳の弥二郎は「(松陰)先生の経済、経済というのは何のことかわからず、ただ経済とは金儲けのことだとのみ思われ、奇妙なことを言う先生だと思った」と松陰の想い出を正直に語っている。

松陰の愛読書の一つは太宰春台の産語であったという。四民が職分を尽くして富国殖産に努めるべきとした政治経済論書。産業や民生経済政策が論じられており、時代を超えた有用の書として注目されていた本だ。

◆アキレス腱—語学の才に欠けた松陰

勝海舟や佐久間象山、大村益次郎、福沢諭吉と異なり、語学の才能には恵まれなかったようで、蘭学の学習を放棄している。

このため、原書を読むことはできず、翻訳書にすがるほかなかったようだ。

アヘン戦争の全貌を伝える阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)。江戸末期の儒学者で浜松藩主水野忠邦に仕えた塩谷宕陰(しおのやとういん)が記した本を読むほかはなかったようだ。

松陰も人の子。アキレス腱はある。

(学23期kz)

10・8決戦(中日vs巨人)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

今季のセ・リーグは広島東洋カープが阪神タイガースを追っていますが、岡田阪神、安定した強さで逃げ切りそうな勢いです。
パ・リーグはオリックスが今年も強いですね。

10・8決戦は1994年10月8日に行われた中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツが日本プロ野球史上初めてシーズンの勝率が同率首位で並んだチーム同士での最終戦直接決戦となった試合です。

中日は高木(守道)監督、巨人は長嶋監督でした。
私が広島勤務していた28年前のことです。
私は最終決戦を前に、地元名古屋での最終決戦となることや、巨人キラーの今中の先発が予想されるということで、下馬評も中日有利ということで、7割方優勝を信じていました。

それでも勝負事、緊張しながらも、ラジオ中継、その後、テレビ中継を食い入るように観た記憶があります。
中日が優勝したら、優勝決定後に歓楽街の広島の流川に繰り出し、思い切り祝杯に酔えると楽しみにしていたし、行きつけのスナック2店には大判振る舞いの大量のボトルキープの約束をしていた。
ところが、巨人の4番の落合にライトに先制ホームランを打たれた。
又、序盤の二塁ランナーの中村が牽制で痛いアウトになった記憶や落合が立浪の打球の捕球の際、足を滑らせて負傷退場した記憶が鮮明に残っています。
それにも増して覚えているのは、ラジオを聴いていて、中日の今中がノックアウトされて、中日の投手コーチがマウンドに向かったが、NHKのラジオ解説をしていた星野仙一さんが、「あの中日の投手コーチは何だ。マウンドに向かうのに下を向いて行っている。」との叱責であった。
その中日の投手コーチが、お付き合いがあったTさんであった。
敢えて星野さんは明治大学出身で子飼いだったTさんの名前を言わなかったのである。
打撃コーチだったKコーチ、バッテリーコーチのIコーチとも当時は広島遠征で来広の度に飲み歩いていた。
(写真2枚目の後列3人は広島・流川を飲み歩いていた頃の3コーチです。メガホン持っているのが私です。)

中日は3-6で最終決戦に敗れ、勝利の女神は微笑まずに、それから一週間は、私は会社に行っても、悔しさと意気消沈から、ほとんど死んでいた。
後にも先にも、31年間、中日を応援していてこれ以上緊張した試合もないし悔しい思いをしたこともない。
その後、10・8の屈辱を思い出しては、アンチ巨人の思いは強くなり、あの日のリベンジの日々は続いていて中日を応援しています。
私がその後、中日の監督だった落合監督を好きになれなかったのも、あの10・8の怨念かもしれない。(笑)
そうそう、広島市民球場に特注の中日のユニフォーム姿で応援に行っていた頃、試合が終わって帰る際に、ファンから高木監督に間違えられたのを思い出しました。(笑)
(頑固な風貌と重い背番号87ゆえに)
写真1枚目はドラゴンズが1999年セ・リーグの優勝を決めた翌日の横浜ベイシェラトンホテルでの写真
(学22期 Y・Y)

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第5回 ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町(改訂版)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

2023年8月13日(日)~19(土)
11:00~18:00(初日は13:00~、最終日は17:00)
東京交通会館「2Fギャラリー」(三菱UFJ銀行隣り)
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会
【問い合せ】TEL090-2754-5652(東京事務局:大越)

【8月13日の投稿】
今日の東京は台風接近の影響もあり、雨模様で湿気の多い一日となりました。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に一昨年、昨年に続き行って来ました。
初日のオープンの13:00に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶し、1時間45分かけて約35点のパネル展示を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
又、特別展示…基町高校卒業生(富田葵天さん)による平和祈念の油彩原画5点の鑑賞も併せてしました。
是非、皆様にも会期中に足を運んで頂きたい。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -4 サマーキャンプ感想編

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

『★第1話

カリフォルニア・シャワー♪[注1]を聞くと、無人島へ行った連中はあの筆では書き表すことができようがない強烈な悪夢を脳裏に、あたかも京都知恩院の大釣り鐘の中へ頭を突っ込みガーンと一発鳴らされたような思いを受けるはずである。人間が野性に戻ることはまさにあのような状態をいうのだろう。

朝、いつとはなしにむくっと起き上がると一番心が惹かれるのはメシの心配であった。とにかく腹が減る。この時カルチェラタン[注2]のモーニング定食が恋しかったこと!

「メシができたぞ~」

悲鳴とも聞こえる声があがる。野性に戻った連中、そこに存在する理念は【弱肉強食】のそれであった。一斉に右手に昨日使った割りばしを持ち、左手におかずを入れるおわん。我も我もと、砂糖にたかる蟻の如くおかずに殺到する。
三島がヒステリックな叫び声をあげた。
「押すな~」
真田がわめく。
「作ったもんが先や~」
まさに地獄絵である。

めしを食べ終えると人間の心から野性は去って行く。連中の顔にはパチンコでチューリップに玉が2個同時に入った時のような安堵の表情とも、マージャンでリーチ一発ツモの時に味わう満足感ともとれるエクスタシーが漂うのであった。

(第1話 完)

[注1]カリフォルニア・シャワー
サックス奏者、渡辺貞夫が1978年にリリースしたジャズアルバム、およびそのタイトル曲。島に滞在中BGMとして延々と流れた。

[注2]カルチェラタン
当時、山口大学正門から湯田温泉に抜ける県道200号線(山大通り)と椹野川沿いの県道61号線(山口小郡秋穂線/旧称平川バイパス)が分岐する古曽交差点そばにあった喫茶店。

★第2話

そもそも無人島などへゼミ旅行で行くなど山口大学経済学部広しといえど他のゼミであろうか。いわんや何々をや(反語法で”いやあるはずがない”の意)。
このような事態に陥った原因は?
いかなる背景のもとに成立の憂き目にいたったのだろうか。

先見の明があったのは有冨と古賀だったろうか。彼らは無人島反対派の急先鋒だった。彼らは無人島という言葉からくる殺伐とした、まるで徹夜でマージャンをして4人とも±0であるような雰囲気を感じ、信州は上高地へ行こうとする案を考え根回しを始めたが【鶴の一声】。先生が無人島賛成の意を表明するにいたっては
「のれんに腕押し」
「ぬかに釘」
「月夜に提灯」
「不可の後のレポート」
「クリープのないコーヒー」[注3]
「下尾の親にリーチ」[注4]
「カビのはえたなめ竹」
まったく無意味なものである。

上高地へ行くなどと言い出せば飯塚がこういうであろう。
「少女趣味やね~」
どっちが少女趣味であろうか。

かくして無人島旅行は現実のものとなり、計画は進められたのだった。

(第2話 完)

[注3]
昭和40年代に俳優・芦田紳介が出演したCMの「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」というキャッチコピーをもじったもの。今はブラック愛好者も多く死語となっている。

[注4]
麻雀で親になったら無双と化す下尾9期生に対し、手牌/待ち牌を変えられない役で挑むこと。

★第3話

旅行とは出発する時が一番楽しいものであり、それはエロ本をこれから読もうとする時の、最初のページを開く瞬間のこれから起きるであろう事への期待と不安が混じった感激とも共通するものである。出発の時に南さん、前川さんが弁当を作って門出を祝ってくれたのにも感激したが、この感激は前者の感激とはまったく異質のもので誤解なきようにしてもらいたい。

弁当をもらったお礼としておみやげなどを買って帰るのが当然のことで、買わなかった我々は糾弾されてしかるべきだが、我々は一度野性に戻ったことで悟りを開いたのである。

悟りを開いた者はおみやげは買わないのである。

悟りを開いた者はゼミの発表には力を入れないのである。

このように悟りを開いた我々は、夜中に他人の下宿に押しかけ他人を起こす事を当然と思うのであって、その点恵谷はまだまだ悟りが十分ではなく、
「堕落しきっちょる~」
などと叫ぶのであろう。

(第3話 完)

★第4話

太陽が水平線に沈むとカーバイトライトに火がともり、特有のにおいが立ち込める。枯れた松の枝を集めたキャンプファイヤーの炎が轟々と立ち昇り、天を焦がす勢いである。海のかなたに浮かぶ漁火の明かりとは対照的な動と静の光の共演である。

このキャンプファイヤーの火を見ている漁船の漁師は何を思うのだろうか。(以下略)

(第4話 完)』(ゼミ内報より)

■■サマーキャンプ感想編2

『無人島に行って泳いだり、タコ・アワビ・サザエなどを採って食い、たき火を囲んで酒を飲み朝まで騒いだりといったサマーキャンプは思い出深く、大学生活の中で画期的なことでした。』(ゼミ誌第1号より)

過酷ですが楽しくもあったサマーキャンプで鍛えられた9期生でしたが、さらにゼミ10周年記念パーティという試練が降りかかるのでした。

『今一番困っているのはパーティのことであります。
本当は金もないし彼女もいないし出たくないのですが、出ないとゼミの単位をくれないそうなのでしかたがありません。』(ゼミ誌第1号より)

(つづく)

学27期 三島