永池先輩のこと ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

◆永池先輩の先輩の経歴

教えて頂いた。東芝内では有名人で、退職後に大学の先生になられた立派な方とのことだった。

歴史ウォークの道すがら、永池先輩と同じ東芝に在籍された複数名の方から、永池先輩の人となりについて簡単に教えて頂いた。

永池先輩は学15期。山大経済学部を卒業され、中央大学総合政策研究科博士課程を修了。

東芝に36年間勤務され、本社の経営企画、欧米や中国を中心とするアジアの戦略企画に携わり、ドイツの国立キール大世界経済研究所にも留学されている。東芝アメリカの副社長のほか、経営トップの特別補佐も務められ、いわば東芝の頭脳であったようだ。

平成15年に東芝を退職され、九大大学院経済学研究院教授として同大学院ビジネススクールで教鞭をとられている。

◆高等商業学校創設の背景

永池先輩の論考「旧制官立専門学校と山口高商」―その誇り高き歴史と意義―(平成20年3月)にも山口高商誕生の背景が記されている。

すなわち、明治政府は明治10年(1877年)、東京大を設立し、人材育成に資するため行政を中心に、司法・立法なども含め、国家の屋台骨となる人材の育成に向かう。本格的にこうした人材を全国的に多く輩出せんがために明治19年(1886年)には帝国大学令を出すが、紆余曲折を経て、ようやく京都帝大ができたのが明治30年(1897年)だ。

他方、日清戦争(明治27年)のあと、明治30年代には日露戦争(明治37年)があり、商工業の分野で目覚ましい発展の時機を迎える。

そうした時代にはそれまでの帝大によって排出される官僚のような人材だけでは間に合わない。産業の発展とともに、こうした分野に対応できる人材の需要が出てくるのは当然のことであった。すなわち工業や商業を担うビジネスの専門家集団だ。

そこで明治33年に東京高商が、明治35年には神戸高商が設立され、そして明治38年、全国3番目に山口高商が設立された。次いで長崎高商、そして明治43年の小樽高商設立と続く。

◆永池先輩の遺稿

先輩が残された論考の中には、当時の高等教育の中での高商の位置づけと山口高商の特色について以下のような記述がある。

●山口高商が設立された明治38年当初の頃、帝大卒は行政へ、高商卒は企業へと緩やかな棲み分けが出来ていた。すなわち高商などの専門学校は行政に向かう帝大と肩を並べる確率されたキャリアであった。

●企業は財閥企業を中心に近代化・大規模化し、明治末から大正の初めには高等教育機関の卒業生の就職先として、行政より民間企業の方が質的・量的にウェイトを増していき、帝大出身者も次第に新しいキャリアを求めて企業に就職し始める。

●しかし、帝大出身者が新たに身を投じ始めた企業とは財閥の中核企業である銀行であり、商・工業、新興企業といったリスクの大きい分野は専門学校出身者であった。

●企業が安定的に発展していき、一般企業の社会的な地位や評価が高まり、安定すると、やがて帝大出身者もそうした一般的な企業にも就職し始める。我が国の近代化はこうした過程の繰り返しであった。

従って産業の近代化の担い手は帝大出身者とは言えない。産業近代化の真の担い手は専門学校の出身者たちである。

●高商はそれぞれの地理的位置や歴史的な沿革から強烈な個性と得意分野を持ち、エリート意識やライバル意識が強かった。当時高商の学生は共通して帝大への強い対抗心を持っており、それが後の単科大学昇格運動にもなった。

●東京高商、神戸高商が広く世界全体を対象としたのに対し、山口高商はアジア、中でも北東アジアに強いという定評があった。語学は英・独・仏に加え中国語、朝鮮語、モンゴル語などアジアの言語が充実しており、他の高商に先駆けてタイプライターも導入した。

(同じアジアを目指した長崎大は東南アジアに重点を置いた)

●山口高商は中国・韓国・台湾との交流も盛んに行ない、これらの諸国から多くの留学生が応募してきた。また、山口高商の生徒は満・韓への修学旅行が好例となっていた。

またこうした流れで、東亜亜経済研究所が設立(昭和8年1933年)され、満・韓・蒙の研究では全国的にその名を知られた。

●戦後GHQの指導で新制大学ができたが平凡な総合大学(ミニ東大)となり、山大経済学部もその中に埋没したかにみえる。

●1990年代に入り我が国はグローバリゼーションの波の乗り遅れ、また大学も海外の大学に立ち遅れ、

最近では、ビジネススクールなど、戦前には山口高商が担っていた実学重視の経営大学院が切望されるようになった。現在、母校でも高度職業人コースが新設され成果を上げつつあることは心強い限りである。山口高商ー山口大学経済学部の伝統と強みを生かした実学教育のさらなる充実を期待する。

◆九大教授時代

既述したように、永池先輩は東芝退職後、九大大学院でビジネススクールの教授を務められた。ビジネススクールとは、実学重視の経営大学院だ。いわば九大という官立の商業専門学校で教鞭をとられたのだ。

九大教授時代の永池先生はゼミ生を連れて、萩の松下村塾を訪ねるのが恒例行事であったという。

◆東亜経済研究

支那、満韓蒙。永池先輩ご指摘のとおり、山口高商が専門性を有し、得意とした地域。

先の大戦を挟んで政治体制が変わり、ヒトやモノの交流が抑制され、我が国とは微妙な関係が続いているようにみえる。

しかし、地政学的にお互いは重要な近隣国であることには変わりがない。

このためこれら諸国・地域との関係の重要性は、経済の側面にとどまらない。政治、文化、社会制度含めた幅広い分野での蓄積が重要であり、こうした資産を次の世代につないでいく必要がある。

しかし現在は、これら諸国と十分な交流が出来ているとは言えない。

逆説的に言えば、だからこそ、これまで蓄積してきた専門性、交流をしてきた人的つながりを活かして、調査・研究の蓄積を図ることが重要で、ここに東亜経済研究所の存在価値があると言えないか。

北東アジアの政治環境が変わったのはここ100年ほどの歴史しかない。

この先、30年、50年は社会、経済、そして政治までもが加速度的に流動化しないとも限らない。

山大・東亜経済研究所がこれら諸国・地域の学術研究、資料収集のメッカとなり、人材交流においても我が国の拠点となることを願っている。

永池先輩もそう願っておられるように思う。

永池先輩のご冥福をお祈りしたい。

(学23期kz)

永池先輩のこと ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

◆永池先輩との出会い

昨年12月3日に長州歴史ウォークで名所旧跡を廻った。

集合場所は両国駅改札口。

皆さんが揃ったが、スタートの時間が来たが、お見えになっていない参加者がいる。

15期の永池先輩だ。

永池先輩とは面識はない。

皆さんには先に最初の訪問地・回向院に向かってもらい、私も案内役の一人になっていたため先輩をお待ちすることにした。

なかなかお見えにならない。

途中で体調を崩され、お帰りになったのかもしれない。

色々な可能性を考えてみる。

そのうちに5分が過ぎ、10分が過ぎた。

変だな。

思い切って、予め調べておいた永池先輩の携帯電話に架けてみた。

応答なし。

15分過ぎ、20分が経過した。

先に出発してもらった一行とはかなり離れてしまった。

その後も間隔を空けて何度か電話するも、やはり応答なし。やはり変だ。

集合時間から20分も過ぎ、そろそろ諦めかけ、これで最後と決めた電話を掛けたところ、応答があった。

改札口でようやく永池先輩とお会いすることができた。

先生とは初対面だが、すぐに判った。

先生と二人、一行が向かった回向院に向かう。

道すがら先輩の生まれは長崎だとの話があり、私も生まれは長崎だ。長崎の話になった。また永池先輩の兄は長崎大の経済学部に在籍されていたとのこと。今回の歴史ウォークには、昨年夏に交流ができた長崎大学経済学部同窓会(瓊林会)の東京支部長も参加されていることを紹介した。

◆勝海舟生誕の地での写真

途中の行程で、JR両国駅の南、両国公園の一角に史跡がある。「勝海舟生誕の地」となっている。歴史年表を見、銅像を眺めた後、休憩も兼ねて備え付けの椅子で記念撮影ができるようになっており、折角だからと、永池先輩をお誘いし、先輩の写真を私の携帯に収めた。

◆お礼のメール

翌12月4日に写真を永池先輩に送り、次回もご参加くださいとお伝えしたが、すぐには返事が来なかった。

先生から返事が来たのはしばらく経ってからだ。

写真のお礼が書いてあり、「良い記念になりました。いい企画があったらこれからも参加したいと思います。ありがとうございました。」との丁寧なお礼のメールが届いた。

◆訃報

それから4日後の18日(日曜)に永池先輩がお亡くなりになったとの連絡が届いた。

そんなはずはない。てっきり人違いだと思った。

つい数日までメールのやり取りをしていたのだから。

先輩からのメールが届いた日時を確認してみると、12月14日(水)朝9時となっていた。
亡くなる4日前の14日(水)のことだ。

◆永池先輩の遺稿

永池先輩の著作の中に「旧制官立専門学校と山口高商」―その誇り高き歴史と意義―

というのがある。

永池先輩がみた山口高商の位置づけとその存在意義についての論考だ。

次稿で紹介する。

(学23期kz)

センタービルでダンスパーティー開催(ラストダンスは私に)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

山口での学生生活の楽しみといえば週末の土日のダンスパーティーでした。
3年生の夏に季節工として日産の追浜工場でバイトをし、パイオニアのステレオを購入しましたので、同じ高校の仲間に助けて貰いダンスパーティーを主催しました。

チケットを印刷し、販売を開始。
茶道部等の著名で部員の多いサークルなら前売りも捌けますが、同好会名で組織力もなく、前売りのチケットは今一歩でした。
当日券に期待する以外にはありませんでした。
オープンして暫くの出足はさほどではありませんでしたが、その後は立錘の余地もない程の盛況でした。

事前や終了後の税務署への届け出や申告等も大変勉強になりました。
大袈裟ですが、起業の喜びとはこんなものかといったことを経験することが出来ました。

選曲も自分の好きな曲を選びました。
ベンチャーズの「クラシカル・ガス」や、映画「ガラス部屋」のテーマ曲、堺正章の「さらば恋人」を流した記憶があります。
エンディングの曲は越路吹雪の「ラストダンスは私に」でした。

大学の講義では見掛けた記憶もないのに暗闇の中でミラーボールに照らし出された顔はお互いに忘れられないという人も多いです。💦
ダンスパーティーでは私は大抵は「壁の花」ならぬ男性なので「壁のシミ」でした。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -3 サマーキャンプ計画編

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

馬島は、山口大学から約125kmの浜田漁港から北東に約2km、
瀬戸ケ島の西約600m、東西約680m×南北約240mの無人島。
島名はかつて馬を放牧していたことに由来するそうです。
島には常用できる電気・水道・ガス・トイレの類いはなく、
水はポリタンクで持ち込み、火はたき火と卓上コンロ、
明りはカーバイトライトと懐中電灯。計画・準備は念入り(?)に
行いました。

–計画書らしきものより–

まずは今回のソフトボール大会において日頃の練習成果をいかん
なく発揮され、みごと準優勝という輝かしい成績を勝ちえたことは
まことにすばらしきことと考えます。ごくろうさまでした。

さて、我々名畑ゼミにおけるこのたびのサマーキャンプの意義に
ついて少々触れておきたいと思います。

我々現代人は人間の叡智によって勝ち取った文明の上に安住の日々
を送っています。しかし、文明から切り離された現代人は非常に
無力な存在にしかすぎないものであることを忘れてはなりません。
例えば福岡における水不足[注1]。水道の蛇口をひねると水が出る
という生活に慣れていた人々は、それを常識だ、あたりまえのこと
だと思っていました。それがひとたび水が止まると、それだけで
生活は成り立たなくなってしまいました。宮城沖地震[注2]に
おいても仙台では電気・ガス・水道が止まってしまい、大変な
出来事として報道されました。

そこで我々は文明社会からまったく隔離された無人島で生活を行ない、
自然の中にとけこんだ数日間を過ごすことで現代文明社会について
あらためて考えてみることにしました。

日程

1978年7月11日(火)

A.M.09:00 出発 山口大学正門前に集合
自動車 名畑号3名 有冨号4名 古賀号3名 柴田号1名 計11名

※自動車を持ってくる人はオイル、冷却水、空気圧その他点検を
忘れぬこと
※ガソリンは満タン入れの満タン返しにて、満タンにしてくること

A.M.10:00 津和野
A.M.12:00 浜田着(三島号[注3]速力不足のため約3時間をみて
おくことにした)
浜田で食料、酒などを購入(約1時間)
P.M.01:00 渡島
P.M.01:30 着島
P.M.03:00 テント設営。薪・庵など作成
P.M.?           (太陽が水平線に隠れるころ)夕食

時間による束縛をすることは無人島生活の主旨と矛盾する。
腹が減ったら食い、日が昇れば起き、沈めば寝るのが一番のぞま
しい姿である。しかし、そこは現代人の悲しさ。何らかの方針が
なければ不安で仕方ないであろう。
よって、大雑把なものを決めておく。

7月12日(水)

太陽が昇るころ起床→朝食→あそび→昼食→あそび→夕食
→あそび→ねむる

※あそぶ
あそぶといってもそこは無人島のこと。海に潜るか、魚を釣るか。
そこで、トランプ、マージョン、将棋、碁などは持っていった
ほうがよいと思う。また、12日の夜にはキャンプファイヤーを
やりたいが、山火事にならぬように注意めされ。

7月13日(木)
12日と同じ

7月14日(金)
朝食をすませたのち、後片付けをすまし、テントをたたみ
出発の準備をする。

P.M.00:00 離島
P.M.01:00 浜田着
P.M.04:00 山口にたどり着く(神のご加護あれ!)

[注1]
福岡県福岡市で1978年(昭和53年)5月から翌1979年(昭和54年)
3月まで続いた渇水のこと。年降水量が少なかったため、287日間に
わたって時間指定断水による給水制限が行われた。

[注2]
1978年宮城県沖地震のこと。
6月12日17時14分発生。マグニチュード7.4、仙台の震度5

[注3]
SUZUKIのオフロードバイクTS250 通称ハスラー250。
単気筒2サイクル車。加速、最高速共あまりよくなかった。

–(以上)–

感想編へつづく。

学27期 三島

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名畑ゼミの主要行事 -2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

ゼミ誌第6号(昭和61年10月発行)にちょうどよい記述がありました
ので以下に引用いたします。

『ゼミ生諸君のかねてからの要望もあって、名畑ゼミのこれまでの
行事にどのようなものがあったかを書き記しておくことにしたい。
私のアルバムと記憶に残っているものに限られるので、初期に
なればなるほど欠落が多くなっている。

期 卒年 員数 サマーキャンプ ゼミ旅行等
0 1970 12   -          -
1 1971  12       -                          -
2 1972 14       -                          -
3 1973 16     北浦・萩                  -
4 1974 10    馬島(I)                  -
5 1975  4     祝島                          -
6 1976   9       -                        四国一周
7 1977   13  馬島(II)                -
8 1978  12  -                             沖縄
9 1979  12  馬島(III)              九州、ゼミ10周年記念パーティ
10 1980 12  -                           南紀
11 1981  13  馬島(IV)               -
12 1982  14 見島(I)                 青海島・長門 タイ
13 1983  13 馬島(V)                川棚・豊北
韓国(釜山・慶州・ソウル)
14 1984 15  見島(II)            -
15 1985 12  壱岐                   -
16 1986 15  角島                   -

無人島キャンプは1973年夏に浜田市出身の長崎君の紹介で馬島に
乗りこんだことに始まり、その後馬島へは4回、ほぼ隔年に出かけ
ている。13期の馬島キャンプは雨に降られてたいへんであった。
灯台の廃屋の崩れかけた床の上にたむろして、雨が止むのを待った
ことを憶えている。「島守」が故人となられたこともあって、
1984年以降はこの島に出かけていない。

80年代になると東南アジア旅行が多くなっている。費用の節約の
ために観光ルートに乗っていくよりないが、できるだけ多くの
オプションをつけて、農村へ入り込んだり現地の工場を訪ねたり
している。(以下略)

1986年5月2日
名畑 恒

これらゼミ行事について「名畑 恒先生のご退官にあたって」
(*)で当時の瀧口経済学部長は次のように述べておられます。
『理論の実践の場として離島における夏合宿や年度末の東南アジア
ヘのゼミ旅行やゼミ単位でのボランティア活動を通じて、学生たち
は確実に行動力を身につけ逞しさを増していきました。』

行事の多くはゼミ生自ら計画して準備・実行し、振り返りを行う
スタイルでした。次回はサマーキャンプの一端をご紹介いたします。

(*)添付資料の説明
出典:
「東亜経済研究 名畑恒教授退官記念号」巻頭言(2003年3月発行62巻1号)

(つづく)

学27期 三島

山口七夕会年次総会&懇親会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

令和5年度 山口七夕会年次総会が8月5日(土)10時30分~飯田橋のインテリジェントロビー・ルコであり、昨年に続き2回目の出席となりました。(昨年5月末入会)

総会は議長役の秋草史幸会長の挨拶で始まり、令和4年度事業報告、秋草会長が再任され、令和5年度事業計画等の議事進行。
伊藤山口市長のご挨拶及び入江市議会議長のご祝辞がありました。
休憩を挟んで、伊藤市長による山口市の先の水害報告、新庁舎建て替え計画、国宝瑠璃光寺五重塔屋根葺き替え工事等の近況報告があり、「大内文化と山口市のまちづくり」と題する興味深い講演が1時間余りありました。
その後、休憩を挟んで昼食懇親会があり、歓談後、山口県東京事務所清水新所長のご祝辞、商工振興部中村部長他による山口市ふるさと納税のご案内等があり、14時40分大変な盛り上がりの中、山口市総合政策部吉村部長による中締めとなりました。

山口市幹部職員を含めて70名余りの方が出席され、盛り沢山の趣向を凝らした企画の数々に首都圏から山口市を応援する弾みになりそうです。
94歳と95歳になられる古くからの会員のお二人の方が久しぶりにご一緒に出席されていて、年齢を感じさせないご挨拶や余興の披露があり、私は元気を頂きました。
今回、30代~40代の若い世代の方の出席が多かった印象があり、これからが楽しみです。
帰宅後、以前購入していた「大内氏がわかる本(入門編)」で早速、勉強しました。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

私が所属した名畑ゼミ(9期)について昔語りをしたいと思います。
名畑ゼミを知らない方もおられると思うので、まずは簡単に紹介を。

研究分野:経済発展論
指導教官:名畑 恒(なばた ひさし)先生
出身:岐阜県
生年:1940年
ゼミ担当:1969年~
退官:2003年
没年:2012年

略歴・著作等については「東亜経済研究 名畑恒教授退官記念号」(2003年3月発行62巻1号)に詳しく載っています。国会図書館にもマイクロフィルム化されたものがあります。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I6543335-00

ゼミの生い立ちや指導方針については、ゼミ誌第1号(1978年発行)に名畑先生ご自身による記述がありましたので以下に引用します。

『私のゼミナール活動は1969年の秋からである。長期間にわたって経済学部の本館が占拠されるという不幸な事態の中で岡倉伯士先生が急逝され、先生亡き後の岡倉ゼミを私がお世話するという形で私のゼミナール指導は始まった。岡倉ゼミの研究領域が国際経済学だけでなく、寡占問題やマーケティングまでに及んでいたために、当初の卒論指導では安田充先生や鈴木重靖先生に迷惑をおかけせざるをえなかった。伊藤敏夫君、宮川信治君、松見俊一君などの岡倉ゼミ最終期生は、わずか半年のつき合いであった。したがって、「名畑ゼミ」の第一期は、橋本博君が幹事をつとめた井手昇君、森山信治君、山田隆君たちのゼミナール(1971年卒)であるということになる。もちろん、「純粋」の名畑ゼミは1972年卒業の浅野敏夫君、佐伯秀政君、久芳鋭治君、町田章君、村河勝信君たちのゼミである。(中略)

いま想えば、ゼミを初期にさかのぼればのぼるほど学問以外の領域でゼミ生諸君の私的な領域に立入ったケースが多かったものである。一人の人間の生きざまにかかわる未熟で生硬な議論をゼミ生諸君に直接ぶっつけたこともしばしばあった。

私はいまも当時言ったことについての基本線を変更してはいないつもりであるが、表現の仕方は年とともに少しづつ変わってゆくのを感じている。怒れる若者、打ちひしがれた若者、心やさしい若者。時代とともにゼミ生諸君の気質も移り変わってゆく。私にはそれらをフォローするのが精一杯であったけれども、決して迎合はすまいとまじめに考えだしたのはこの二、三年来のことのように思う。』

履修時間でのゼミ活動は、指定図書を輪読し担当箇所を皆を相手に解説したり、卒論に向けた研究成果の発表・検討が主でしたが、時間外の行事がまた楽しいものでした。コンパやキャンプ、パーティ、ゼミ生の誕生会等の日程調整のため、3階北西(グラウンド)側突当たりの研究室には幾度となくうかがいました。

(つづく)

学27期 三島

江戸時代後期の幕府役人と農村との関係の一例

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

横浜市鶴見区に県立三ツ池公園という緑豊かで広い公園があり、中の池の堤上に「千町田に引くともつきじ君が代の恵みもふかき三ツ池の水」という歌碑がひっそりと建っている。その裏面には天保十四年(1843)上末吉村」の銘がある。詠み人は藤原増貤とあるがネット検索しても名前にヒットすることはなく、10人中9人はその名を知らないと言っても過言ではない。本名は奥村増貤(ますのぶ)と言って文政の末(1830年)頃から武蔵国の25か村に所在する増上寺領の役人として領村の支配に務め、困窮者救済や用水設備の普及、勤勉な農業従事者の表彰などに携わって領民に大変慕われた人であり、件の歌碑は奥村の功績を称えるために領民がこぞって建立したものである。

 奥村は一介の地方役人であったが、高野長英に師事し、伊能忠敬から測量を学び、渡辺崋山とも交友があった進歩的合理主義者であった。その優れた技術を見込まれて鳥居耀蔵・江川英龍ら幕僚による江戸湾巡視(1839年)の際には渡辺崋山から測量技術者として推挙されたものの、寺侍という身分を問題視した鳥居(南町奉行、蛮社の獄の仕掛け人)の意向により参加を許されなかった経緯がある。

 私が住む横浜市北部の4か村(王禅寺、石川、川和、荏田)は家康が江戸に入国(1590)後ほどなく第2代将軍徳川秀忠の正室であるお江の化粧領地となったが、お江が死去した後は徳川家菩提寺である増上寺領となり、江戸時代を通じて奥村のような寺役人が管理の責を担った。

 因みにお江が江戸城で死去した際は、先の4か村の村人3.5百人が剃髪し、白装束を着てお江のお棺を江戸城から青山火葬場まで運ぶ他、火葬儀礼の下働きを担っている。幕府はこれを大きな恩義として上述の村には大幅な年貢の減免特権をその後200年近く与えた。従い近世までこれらの村は他村に比べ大きな恩恵を享受した。奥村が主として勤仕した天保年間には川和村の名主であった信田太郎右エ門が同8年、15年の日記(幽篁日記)を残しており農民のくらしや寺役人との関係がよく分かる。

 天保年間(1830~1844)は全国的な大飢饉が繰り返し発生し、農村も大きく疲弊したため、奥村は少しでも食い扶持を残したい村側と年貢の収量を高めたい増上寺との間の板挟みとなり苦慮した。

領民側に与する姿勢が大であった奥村は個人としても大きな借財をかかえていた為退役の意向を示したが、村役人たちは奥村の借財を肩代わりすることを申し出て400両を25か村に割り付けて奥村を支えたことが信田日記に記されている。

 奥村は天保12年(1842)に江戸で病没したが、村役人たちは奥村の葬儀のために3日間江戸に滞在している。信田名主の詳細な日記が後世に残ったために、江戸後期における幕府の地方役人と農村との関係がかいまみえる一例である。

(22期YY)

お見合い雑感(ザ・ホテルヨコハマ編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

30代半ばの頃に会社の先輩夫婦(学部の先輩でもある)に薦められて、横浜の山下公園近くのザ・ヨコと呼ばれ親しまれた「ザ・ホテルヨコハマ」という一流ホテルのラウンジでお見合いをしたことがあります。

当時は写真付きの年賀状を毎年、作製していて、たまたまお相手の方が先輩夫婦から6人の美女に囲まれたその年賀状を見られて申込みがありました。
私はその美女6人を差し置いての「ちょっとマッタ!」の挑戦に少なからず期待しました。
釣書を交換することなく、ぶっつけ本番で。

当日は先輩夫婦に加え、女性のお祖母さんも同席され、緊張が走りました。
何でも大手の運送関係の勤務先では○○部屋と呼ばれている女性でした。
確かに私は大の相撲好きで、ふくよかな女性は好きですが、後で先輩の話では、私は横を向いて窓の外の山下公園見ていて全てを察したそうです。

私はサラリーマン時代に一時M先輩の門下生で落第生でしたが、公私に大変お世話になったM先輩は病魔に侵されて、確か40代半ばの若さで亡くなられ、故郷広島の広島駅近くのお墓に眠られています。

つまらぬ投稿をしました。

写真は山下公園ですが、本文とは一切関係はありません。💦
(学22期 Y・Y)


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