サビエル聖堂と惣野旅館の女将さん 

岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

僕たちの青春の街、山口市は今、「クリスマス市」といわれています。やはり、旧ザビエル聖堂は趣(おもむき)があって良かったです。

 中央に登り階段。登り切ったところに建つ三角屋根の2棟の塔。鳴り響く鐘の音・・・。

 学生時代、地元の放送局でニュース取材のアシスタントとしてアルバイトをやっていました。天地茂がサビエル聖堂を訪れたとき、取材しました。

 別の機会には県知事室に取材で入ったこともあります。運動靴にGパン姿で赤いふわふわの絨毯を踏みました。

◇惣野旅館の絶景写真

 一の坂川沿いの惣野旅館の宴会場に掲げられていた亀山の麓にあった山大経済学部とサビエル聖堂を望む白黒写真は絶景でした。きっと、惣野旅館をコンパで使用していた経済学部関係者が寄贈したものかもしれません。

 1980年代の惣野旅館といえば、名物女将の房子さんです。

 「はぁ~ あんたらぁ、しっかりせんとおえんでぇ」といつもいわれていたような気がします。(笑)

 少し世代が上の方には惣野旅館のお嬢様だった?

◇卒業後も交流

 卒業後も何度か、惣野旅館を同期会で利用しています。遠方から幹事をしたときは電話やはがきで連絡をとりました。

 学生時代、僕は女将さんにはなんとなく、がさつな印象があったのですが、連絡や賀詞交換のはがきの文字は達筆でした。能筆といったほうがいいのかもしれません。

 そして、学生時代のままの料理とやかん酒(やかんで直の燗付け)を所望すると、「ほんとにそれでええんかね」と笑っていました。

 コンパで利用しなくても山口を再訪した際、菓子折りを持参すると大変喜んでくれました。

 最後に利用したときは、あの名物女将の房子さんが施設に入所していました。現在は廃業・・・。

 もう、あの元気いっぱいだった「惣野のおばちゃん」に会うことは叶いません。

 我々の先達として既にお浄土に「もうちょっと、頑張ってから、ゆっくりと来んかね」と笑顔いっぱいで待っておられるような気がするこの師走です。

(岡山支部 B)

山大の地域貢献

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

「日系グローカル」471号(令和5年11月6日発行)に載った大学の地域貢献度調査で、山口大学が前回の全国29位から10位に急上昇し、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。この項目は、地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置、地域貢献をテーマにした教育プログラム、地域貢献を目的とした専用施設、学生ボランティア活動の必修化や単位制度、地域貢献を巡る他大学との連携を問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大だった。

山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)

ペリー来航、その時ペリーは

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

今年はペリー来航170周年ということで、東京湾では記念クルーズも行われている。

170年前に戻ろう。

東インド艦隊司令官ペリーが黒船に乗ってやってきた。

蒸気船サスケハナ。

カタカナで書くと日本語であるかのような響きがある。

Susquehanna

ネイティブ・アメリカンの言葉で、米国北東部を流れる「広く深い川」の意だという。

それが転じてその川(hanna)の流域に住みついた部族をサスケ(susque)族と言うようになり、サスケハナはその地域一帯の地名となったようだ。

ペリーが浦賀沖に現れたのが59歳の時。

米国が太平洋岸まで達する領土を得ることとなったメキシコとの戦争。ペリーは来航直前、このメキシコ戦で活躍している。

メキシコとの戦いが勝利のうちに終わり、ペリーの艦隊勤務の残り日はわずかとなった。

ペリーは名門海軍一族の生まれであり、その誇らしい海軍軍人キャリアの最後を飾るポストとして花形の地中海艦隊司令官を希望していたという。

しかし、豈図らんや日本行きの任務が回ってきた。

異国に門を閉ざしてきた手強い日本。その門を叩き、こじ開けるのだ。

厳しい任務になるのだろうが、「日本を開国に導いた歴史の偉業」として刻まれることをペリーは意識し始めた。

日本研究のためにシーボルトの著作を読み、日本と交流のあったオランダの駐米高官から日本の情報を入手していたという。

また、蒸気船の早期導入を主張し「米国海軍蒸気船の父」と言われたペリーだ。メキシコ戦で発注した大型蒸気船ができた時には終戦を迎えており、この船の活躍の場を求めていた。このため日本に向かう艦は大型蒸気船と決めていた。

また、ペリーにはもうひとつ密かな野望があった。

彼は植物のコレクターでもあった。鎖国日本には植物の雑種が少なく、「自然選択」による進化により、島国日本で新品種の植物が発見できるかもしれないと考えていたようだ。

米国人ぺりーからすると、長く鎖国をし、交渉も一筋縄ではいかない、かたくなな日本を開国させたことは「偉業」であったかもしれないが、他の列強国からすると、やんちゃものに「してやられた」感覚だったのかもしれない。

第一次のペリー来航時の翌月、露プチャーチンが開国を求めてやってきた時、プチャーチンは幕府の指示に従い、紳士的に長崎で交渉を持った。

これに対しペリーは、来航が禁ぜられた浦賀に踏み込み、いきなり高官との面談を要求し、江戸湾内の測量まで行っている。

ずいぶん無茶をやったものだ。

こうしたことから、当時のペリーは西欧各国から評判がよろしくなかったという。

ペリーの二度目の来航時、日米和親条約が締結され、ペリーは日本の開港を手繰り寄せた。

その時、ペリーが用いた対日交渉の切り札が「友好よりも恐怖」だったという。

アジア研究、日本研究の結果辿り着いた着想だったのだろう。

大型の黒艦、世界最新技術を集めた巨艦の蒸気船を背景とした圧力外交。

ペリーの体躯もこれまた巨漢だ。身長1メートル95。日本側の記録にも「六尺四五寸」とある。

当時の米艦乗組員の中でもペリーがひと際大きく、米海軍の日本行きの人選で、日本に威圧感を与えるために、敢えて巨漢のペリーを選んだという話もある。

友好よりも恐怖による威圧外交の源流がここにあった。

ペリーは晩年、日本遠征記の執筆に力を注だ。日本に来た時には身体の相当な無理もあったのだろう。巨漢のペリー。晩年には身体もかなり悪くなっており、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたとされる。

ぺりーは日本を去った4年後の1858年に63歳で召された。

(学23期kz)

山口大学の地域貢献度、全国でトップテン入り

日本経済新聞社の経済誌「日経グローカル」471号(令和5年11月6日発行)は大学の地域貢献度調査結果を発表している。この中で山口大学は全国での順位が前回の29位から10位に急上昇、トップテン入りを果たしている。

調査は全国の国、公立大及び私立大765校を対象に行われ、回答があった518校の調査結果だ。

国立大も79校が対象となっている。

調査項目は①「大学の組織・制度」、②「学生・住民、教育制度・社会人教育」、③「企業、行政」、④「SDGs・グローバル」の4項目が柱。

このうち、①「大学の組織・制度」で山大は満点を取っている。

この項目は、

地域貢献をテーマにした専門部署や学部・学科の設置

地域貢献をテーマにした教育プログラム

地域貢献を目的とした専用施設

学生ボランティア活動の必修化や単位制度

地域貢献を巡る他大学との連携

などを問うもの。

また、③「企業、行政」は企業との共同研究、企業や自治体からの受託研究を問うもので、旧帝大が上位に入っており、また④でも海外からの留学生が多い都市部の大学のスコアが高いが、両項目でも山大は100点満点の80点程度を取っている。

トップテン入りした大学ではホームページで紹介しているが、山大はどうもやっていないようだ。

少なくとも、目立つ形で広報していない。もったいない。

また、学生数2000人未満の小規模校では、周南公立大(旧私立徳山大)が首位(全体の順位は14位)、2位は山陽小野田市立山口東京理科大であり、山口県としては地元への人材の繋げ止めに頑張っているようだ。

この20年ほど国が「地方創生」の音頭を取り、どこの県庁や市役所でも地元に就職するようキャンペーンを行っている。大学でも学生の地域への就職に配意している。

そもそも少子化が進んでいることから子供は長男か長女。このため就職で東京に出てこなくなっており、就職先は自ずと地元界隈になりつつあるようだ。

またインターネット社会になって久しく、各地域でも質を落とさないで生産性の高い仕事が可能な業種が広がってきている。

山大が地方の人材育成・供給にかなりの貢献をしているのは嬉しいが、東京に出てくる若い後輩が細ることにつながる話で、東京に出てきた我々としては、淋しい気持ちにもなる。

(学23期kz)

「山口七夕会 秋の紅葉ウォーキング」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

師走を迎え、12月2日(土)の東京は気温は13℃と低いものの快晴でした。
JR東京駅丸の内南口近くのはとバス乗り場に10:40に11名(内3名が女性で、全員山口中央高校出身)が集合し、11:00にはとバス出発となりました。
(藤井謙志本部長、岡本達也副本部長参加(世話人))
はとバスルート:
丸の内⇒日比谷公園~霞ヶ関~国会議事堂~虎ノ門ヒルズ~東京タワ~レインボーブリッジ~お台場~豊洲~築地~歌舞伎座~銀座~丸の内(1時間)

その後は丸の内の中華居酒屋「三九厨房有楽町店」にてランチ懇親会。
レノファ山口ファンの2名の新会員の方から全員で自己紹介を順次行い、それに関連した話題で話は尽きることなく、大変な盛り上がりとなりました。
ビールに日本酒、紹興酒等を飲み、懐かしいネイティブ山口弁が乱舞し、山口に思いを馳せ、あっという間の3時間40分で、再会を楽しみにお開きとなりました。

私は初めての東京本社勤務となった時に広島から上京し、一人ではとバスに乗り観光し、団体で皇居の二重橋前で集合写真を撮りました。
あれから40年、大都会東京は大変貌を遂げていて、圧倒されました。
(学22期 Y・Y)

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「名畑ゼミの思い出」を読んだ“効用”

鳳陽会岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

僕は山口大学経済学部を卒業し、今、岡山県に住んでいます。

以前から、鳳陽会東京支部のHPの熱烈な愛読者です。

◇タイの伝統工芸

最近、朝のテレビ番組でタイの伝統工芸に関するニュースが紹介されました。

伝統工芸の織物を商品化するコンテストが開催されたのです。福井工業大学の学生がコンテストに参加。伝統工芸の織物を活用して「甚平」を作り、販売する計画に乗り出します。ある部族に「甚平」を制作するよう頼むのですが、計画、試作段階できびしい評価を受け、失敗します。

しかし、福井工業大学の学生はあきらめません。更に奥地の部族を訪ね、改良を重ねて新しいデザインの「甚平」の試作に成功。さらに余り布で帽子やナップサックも作ります。今度は高い評価を受け、販売計画が進んでいるそうです。

◇東南アジア経済研究の名畑教授

 山口大学経済学部の名畑教授は東南アジア経済研究に人生をかけておられました。名畑先生がタイの伝統工芸に関するこのニュースを耳にすれば、きっと感涙を流されたことでしょう。

僕が東南アジア経済に関するニュースに関心を持つきっかけになったのが、鳳陽会東京支部のHPに連続して掲載されたトピックス「名畑ゼミの思い出」です。記事を読む機会を得たことによる“効用”です。

 「名畑ゼミの思い出」を投稿された筆者に感謝を申し上げます。

(鳳陽会岡山支部 B)

Beatlesのチカラ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

東京在住の山口県関係者が集う防長倶楽部の年次総会が開かれ、総会後の講演会のゲストスピーカーとして林前外相(下関出身)が招かれた。

講演後。

懇親会の会場には電子ピアノが置かれていた。

ビートルズが心底お好きだという林議員。

「アレ」が始まるかもしれない。

◆リバプール外相会合

2021年のG7外相のリバプール会合でのアノ話。

夕食会場はリバプール・ビートルズ博物館。

林議員の話によると・・・

「そこにはジョンゆかりのアノ白いピアノが置いてあり、博物館の方からこれはレプリカだとの説明があった後、お誘いがあった。

『どなたか座りませんか。弾くこともできます』

私が座ってImagineの弾き語りをやりました。最後は何と一同大合唱となりました」

・・・ということであった。

◆ミニ演奏会

懇親会も時半ばとなったころ、林大臣のミニ演奏会が始まった。

この日はLet it beから。

ポールっぽい空気が会場を包む。

2番まで。さらりと演奏が終わった。

「ブラーボ!」と一声。

会場からはアンコールの掛け声と手拍子が湧き起こる。

次には「アレ」が。

Imagineの弾き語りだ。

ここでも手拍子での合唱と相成った。

◆Beatlesのチカラ

Beatlesは強い。誰でも知っている。だからこそ誰が歌っても「合唱」にすることができる。

Beatlesが与えた影響はミュージシャンに対してだけではない。

例えば村上春樹。

彼の作品は世界の多くの国に翻訳されており、彼が「外国人に最も知られている日本人作家」になって久しい。

これは、彼の作品の中にBeatlesのテーストを織り込んでいることも人気の秘密のひとつだと思う。Beatlesの力を借りたといえるかもしれない。

Beatlesの影響はアーティストに対してだけではない。

ファッションもそうだが、本当のインパクトは別のところにある。

母国英国で旧い社会階級・恵まれない階層に光を与え、上流階級、女王陛下までも巻き込みファンにさせたこと。

固定化した階級・階層を溶かしたのだ。

また1964年の米国ツアーでは、観客席が白人と黒人に分けられた会場では「演奏しない」と表明し、人種差別に反対したこと。

暗にそうしたのではない。明示的に人種差別に反対したのだ。

しかも、ツアーの前年には公民権を推し進めたケネディーが暗殺されたという危ない頃に。

銃社会の米国おけるステージで、無防備に演奏をしている。

勇気の要る、身体を張った演奏。ずいぶん危ないことをしたものだ。

しかし彼らはどの政治家も、どの宗教家も、どの偉人も出来なかったことを、「結果として」、演奏活動を通じてサラリとやってのけた。

銃に対して無防備に身体を晒す演奏活動中に。暗殺されることもなく。

いや、むしろ熱狂的に愛されながら。

ホワイトアルバムの「Black bird」

You are only waiting for this moment to arise.

Black bird fly・・・

学生時代によく口ずさんでいたが、birdはイギリス英語の俗語で女性の意。ポールは「黒人女性に捧げる歌」としているのを後々知った。

ジョンのImagineも夢想的、牧歌的な歌ではないはずだ。

各種の社会的な摩擦、軋轢と闘ってきたBeatlesの一員であり、恵まれない少年時代を過ごしたジョンだからこそ、却って夢想的なImagineの歌詞が深みを持つ。

(学23期kz)

写真:防長倶楽部 相山氏撮影

師走のテニス部納会in渋谷 参加記 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

◆おしゃれなテニス部

鳳陽会の先輩からお声が掛かり、テニス部の納会に参加させて頂いた。

12月に入った週末。

場所は渋谷。

会食会場は青山学院大に接したおしゃれな洋風レストランだ。

さすがテニス部。

私自身、中高とテニスに多少覚えがあり、社会人になってからも数年は職場の仲間とテニスの真似事をして週末のひと時を過ごした時期があった。

その後、週末に握る道具はラケットではなくゴルフクラブに変り、ラケットは物置きで埃をかぶっている。

テニス部が結構な頻度で会合を開いていることは耳にしていた。

最近鳳陽会の集いがあった折、テニス部重鎮・N先輩との立ち話で、部外者でも気軽にテニスがやれる会合がないものかと伺ったことがあったことから、今回お声が掛かったというわけだ。

納会当日は午前中に郊外でテニスをし、夕刻からは街中で乾杯。これが年末の恒例行事となっているようだ。

私は部外者。初めてのテニス部会合参加でもあり、夕刻の乾杯だけ参加させて頂いた。

◆元気な経済学部・鳳陽会

乾杯に集まったのは20名。

私を含めた山大卒の「友情参加者」が4名(経済3、人文1)、残りがテニス部のオリジナルメンバーで、16期から47期の皆さんだ。

会の中で簡単な自己紹介が入り、和気あいあいのうちに会が進んでいったが、気付いたことが二つある。

ひとつは、オリジナルメンバーのうち、ほとんどが経済学部卒、すなわち鳳陽会の仲間だったこと。

オリジナルメンバーで、経済以外のメンバーと言えば、医学部がお一人、農学部がお一人くらいか。

圧倒的な経済のプレゼンス。

また、午前中のテニス会場は経済H先輩の所属テニスクラブだったという。

これまた鳳陽会の先輩のご活躍。

ふたつ目は30期の皆さんを「発見」できたこと。

鳳陽会東京支部の各種会合では常々10期前半以降、オイルショックの影響が本格化する前の23期(S50年卒)までの参加者が多く、24期以降数期間の皆さんにはほとんどお目にかかれない。

30期台も同様、個人的な付き合いのある後輩以外、あまりお目にかかる機会はない。

しかし、この席には30期台のメンバーが7~8名も集っておられ、一大集団となっていたことには驚いた。

◆貴重な部活の繋がり

現役の時の同窓会といえば、ほとんど同期会か会社内の先輩や後輩だ。

会社によっては先輩も後輩もいないところも多い。

その点、学生時代のサークルを通じた会合では同期はもちろんのこと、かなり上の先輩や、かなり下の後輩との交流を持つことができる。もちろん男女の別も問わない。

逆に言えば、こうした部活の集まりがないところで同期以外の交流を探すことは難しい。

世代を超え、また学部を越えた、こうした交流はテニス部で活発なようだ。

テニス部のほかにはワンゲル部の集いもよく耳にする。

◆学生時代の4年間、この特別で濃密な時間

思い返せば、学生時代の4年間は特別な時間だったような気がする。

多感な二十歳前後の4年間。

お勉強は置くとして、一緒に語り、一緒に遊んだ濃密な時間だった。

こうした時間の記憶は何年たっても消えることはない。

いや、最近ではこの時に蓄積された「繋がり」のプレゼンスが、私の中で年々大きくなってきているような気さえする。

この時の繋がりをもう一度手繰り寄せ、味わうことが楽しみになってきた。

年をとった証かもしれない。

(学23期kz)

写真の提供先はいずれもテニス部

創部75年記念OBOG戦 2023年4月30日
同上
中四国OBOG戦山口大会(山口、広島、岡山、愛媛、松山、広島修道の各大学

対抗戦)2022年10月29日・30日

同上
同上
同上

若き日の悪戯

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

昔、昔のことですが、学生の頃、悪戯をしてまずかったことがあります。
入学してすぐに知り合った教育学部の友人の下宿(山口市の中市商店街の山口駅寄り)を行き来していましたが、彼の学部は多くの女子学生がいるのに、私の学部では、同学年で3人しかいませんでした。
彼には気に入った女子学生がいるようで、いつも名前が出ました。
ということで、当時、彼の下宿は階段をとことこと上がって、鍵もない自由に出入り出来る古いタイプの下宿でした。

そして私は簡単な置き手紙というかメッセージを女性の字に似せて書いたのです。
「私、K君を訪ねてきましたが、お留守ようなので帰ります。 S子」と。
後日、彼の下宿を訪ねると、有頂天の喜びようでした。
私も最初はすぐに種明かしするつもりでいましたが、余りの喜びように遂に言い出せなくなった記憶があります。
大分、日にちが経って話しましたが、自嘲気味でむっとしていました。
悪い悪戯をしました。今でもエープリルフールが来ると思い出し、胸が痛みます。
下関出身の彼は山口県庁に入り、教育関係の仕事に携わりました。
(学22期 Y・Y)

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ペリー来航、その時龍馬は

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

◆その時の龍馬

坂本龍馬はどこに行っても人気がある。今年生誕100周年となる司馬遼太郎が坂本龍馬の知名度を引き上げた側面がある。しかし、何と言っても朝敵となった長州と、第一次長州征伐で政府軍の主力部隊となった薩摩を組ませて討幕という大転換をもたらし、維新の立役者のひとりとなったとされる龍馬。若くしてこの世を去ったことも人気が絶えない一因なのか。

龍馬は天保6年(1835年)11月15日に生を受けている。

吉田松陰や大久保一蔵(利通)と5歳年下、桂小五郎(木戸孝允)とは2歳年下になる。

ペリーが来航したのは嘉永6年6月3日。浦賀沖に現れ、米国大統領の国書を差し出し開国を迫る。

龍馬が江戸遊学のために土佐を発ったのが同じ年の3月。歳は数えで18の時だ。

江戸へのぼって3か月程度しか経っていない。

◆浜川砲台と龍馬

その間龍馬は剣の稽古で土佐藩の上屋敷(神田鍛治町)の長屋から目と鼻の先の千葉道場に通っていた。北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟千葉定吉の道場だった。

ペリー来航の翌4日早朝には、早くも「異国船渡来」を告げる高札が千葉道場に向かう道筋に立った。

一大事になりかねないことを知らせる高札だ。この高札で江戸の町が狼狽し、各藩の江戸屋敷では臨戦態勢を強いられことになる。

安穏な日々に慣れた武士たちは剣や槍を揃え、あるいは質屋から買い戻し、兜や鎧などの防具も手当てすることを余儀なくされた。このため戦時の武具の値は高騰したという。

高騰したのは武具だけではない。

江戸湾内では船の行き来が止まり、荷舟が入らないために食料や一般物資も急騰した。

◆土佐藩の沿岸警備

土佐藩では海に近い品川・浜川に下屋敷を持っており、龍馬も品川の沿岸警備に駆り出されている。

また、ペリーが翌年に再来することを言い残して帰ったため、幕府としては全国各地お台場(砲台)構築を進め、その数は800か所とも1000か所ともされる。もちろん江戸でも海岸端にお台場が設けられた。

土佐藩では下屋敷近く、浜川河口に抱(かかえ)屋敷があり、その敷地内に浜川砲台が構築された。

ここには江戸詰めの土佐藩士らが動員された。龍馬にも「臨時御用」がかかり、ここで警備の任に当たった。

現在、砲台の跡地には、当時据えられた8門の大砲のうち、発砲時の仰角が大きく、弾道が大きな弧を描く特徴を持つホーイッスル砲が原寸大で復元展示されている。

また有名な龍馬のことだ。龍馬がこの地に訪れたことを記念した龍馬像が立ち、人を集めている。

龍馬は死してもなお、足跡を残した町の町興しに活躍している。

(学23期kz)

浜川砲台跡
齢二十の頃の龍馬
立会川龍馬通り