親としてのアドバイス ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

現在の親世代は昭和の時代。彼らが身を置いたのが「年功序列、終身雇用」制度。これは日本の特徴的な雇用慣行として、世界的に経営学の研究対象となった。日本の勝れた経済パフォーマンスを生み出す制度要因と見られたからであった。

◆年功序列、終身雇用

この用語は米国の経営学者ジェームズ・アベグレンが1958年に初めて使い始めた「lifetime commitment」の訳であり、1950年~60年にかけての高度成長に伴う労働者不足への対応から始まったのだ。歴史は浅い。

アベグレンといえば日本の経営指導者のファンが多く、「日本的経営」という言葉を定着させた有名人だ。

戦後、輝かしい高度成長を遂げた日本経済。この時には会社経営の中心に年功序列があり、終身雇用があった。

この時代、会社に入れば先輩が仕事の仕方、他の部署や取引先との接し方、会議の進め方を手とり足とり教えてくれた。OJTだ。

また、アフターファイブになると飲みに連れて行ってくれた良き時代であった。

こうした時代は人口減への転化、バブル崩壊、IT革命を機に壊れていった。

企業のパフォーマンスの低下に伴い、福利厚生が削られ、給与も据え置かれ、終身雇用も維持できなくなった。

過去の人気企業も名前が変わり、姿を消している企業も多い。中央省庁の名前さえ頻繁に変わるようになったのだ。

評論家の中には子供の就職や転職に際してのアドバイスに関して、受験勉強では答えではなく答えを導く考え方を教えるようにと、また取った魚を持ってくるのではなく、魚の取り方を教えるべきという者もいる。

しかし、魚の取り方が変わってきているのだ。

また、「すべてのものは消えゆく中で、その奥の永遠なるもの、真の価値あるもの」を子供に伝えよという。

しかし、この「永遠で真の価値」と思われたものも、不透明で流動的であり、価値が簡単に逆転する場合が往々にして起こるのが現代だ。

◆親の教訓

年功序列・終身雇用の下で働いた親世代の意見は、変化が激しく、雇用の流動性が高まった時代には参考にならない場合が多い。

場合によっては親のアドバイスが「誤り」となる可能性もある。

これまで会社人生を過ごしてきて我が子に気の利いたアドバイスをするのが難しい時代になった。

◆親の教訓の有効性

親にとって、自分が生きた時代の経験が全てである。

日本が輝いていた(と思われる)昭和の時代。

この時代は日本の経済史の中では特殊で、かなり短い時代であったかがわかる。昭和の経験から子への教訓を引き出すことには留意が必要だ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)。

自らの経験から教訓を導くには限界があることを戒めなければならない。

現在は新しい世界。ビジネスも変わった。

古き良き日本が得意とした安くて品質の高い製品を大量に生産することができるように磨き上げた従来型製造業中心の世界が大きく変わり、従来一過性の産業と思われていた情報産業が世界を覆い、モノづくりの世界を大きく変えようとしている。製造業の最高峰・自動車産業で電気自動車が出てきたように。

新しい世界は、親にとって馴染みのない世界であり、自分の時代の経験を伝えることの有効性には大きな疑問符が付く。

親は親としての意見を述べても良い。専門性、経験・実績、信頼関係(人的資産)、協調性の重要性は伝えるべきだ。

しかし、子供にアドバイスをするときには、自分の経験、特に自分中では評価してきた現役時代の成功体験、その有効性にこそ限界があることを認識することを忘れてはいけない。

少し寂しい気がするが・・・

(学23期kz)

親としてのアドバイス ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

◆進学や就職

進学する学校を決めるときは親と相談し、親の意向を踏まえて決めるのが一般的だろう。親が教育費を出すからだ。

学生が就職する場合でも、ある程度親の意向を踏まえて決める。

社会人としての経験が浅い学生は、長年社会人として競争社会を生き抜いてきた親の見識が自分の就職先を決めるうえで、ある程度参考になるし、「会社」に入り社会人として独り立ちすることで、親を安心させたいからだ。

このように人生の転機には親の意向がある程度反映される。就職を決め、働き始めると、親はひと安心することになる。

◆転職と親の意向

しかし、リストラの憂き目に会う場合は仕方がないが、何らかの都合で転職する場合、親は反対に回ることが多い。

労働統計をみると日本の転職率は5%と米国の半分以下となっている。転職率とは裏側の関係にある勤続年数の統計を見ても日本は平均11年、米国は4年となっており、欧州は日本に近いか、あるいは両国の中間に位置している。

最近では転職者数が多少増えているとはいうものの、諸外国と比べて転職する割合は少ない。

ここには子息の転職について親の慎重な姿勢が影を落としているのではないか。

昭和の時代、「年功序列、終身雇用」のもとで働いてきた親世代は、子の転職に対して否定的な態度をとる場合が多いと思われる。

この時代、この転職に際して「我慢が足りない」、「こらえ性がない」というのが一般的な親の見方だったように思う。というのも、昭和の時代は年功序列・終身雇用の世界に身を置いた世代であり、転職の相談を受けた際は、「(年功制のため)転職は不利だ」と答えるのが一般的だった。

実際、親世代は親や会社の先輩、また上司からそう言われて育ってきた。

確かに昭和の時代、そこにはある一定の合理性があった。

真面目に職をこなして行けば毎年給与は上がり、確実に昇進していったからだ。

日本が輝いていた「旧き良き昭和の時代」は一度就職した入った会社に尽くす愛社精神が美徳とされた。

そこでは中途採用は一般的ではなく、中途採用者は振り出しからスタートするため不利に扱われた。今でこそジョブ型労働への理解が進みつつあるが、当時は優秀だからとして、あるいは会社にとって必要な人材だからとして、中途入社の人材はほとんどおらず、前の会社に居ることができなくなったワケありの人物と見られる風潮さえあった。

また、制度面を見ても、昇進や年金制度や退職金に関する規約、退職金にかかる税制も長期継続就労に有利な設計になってきたのだ。

そもそも年金制度では転職先でも適用可能なポータブル型になっていなかった。

日本では学び直し、そして転職に消極的とされるが、そこには転職に不利に作用するこうした制度的な要因も介在していたのだ。

しかし、こうした古き良き時代が崩れ去ったのはバブル崩壊の影響が顕在化し、インターネットが商業化され「IT革命」が言われ出した1990年代半ばからのこと。あれから30年近く経つのだ。

最近では変化が加速度的に早くなっている。こうした時代、我々が昭和時代に聞かされた親から子へのアドバイスは、時には誤りとなるかもしれない。

(つづく)

(学23期kz)

幼子の死

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

先日、少し眠れぬことがありました。
50年以上前のあの日のことを思い出してしまったのです。
それは、4月になり少し暖かくなった季節であったのでしょう。
確か平日でした。
私は二十歳の頃で学生でした。
山口市古熊の家主さんの離れの2階に下宿していました。
1階は家主さんの息子さんの車が置いてあったような記憶があります。

外の前の土手で、子供達の遊ぶ声がしていましたが、やがて、何か異変があったのか、子供達の騒ぐような声に。
その後、女性の大声で叫ぶような声が加わりました。
子供達がお母さんを呼びに行ったのであろう。
私が行ってみると、お母さんが、3~4歳の男の子を抱きかかえて泣き叫んでいました。
私の下宿のすぐ前の川(仁保川)で溺れたようであった。
私は子供を抱えたお母さんを自転車の荷台に乗せ、3、4分程度で行ける、山口赤十字病院に急いだ。
私は丁度、その頃、新聞配達をしていた頃で、荷台を新聞配達用に大きなのに改良していた。
山口赤十字病院に駆けつけると、看護師さんとかすぐに対応していただいたが、看護師さんから、お母さんと一緒だったので「ご主人ですか?」と聞かれた。
私は新聞配達をしていた時期でジャンバーとか着ていたが、お母さんは30代半ばは過ぎており、私はただ、近所のもので自転車で運んだだけですと告げて病院を後にした。

下宿に帰って蘇生することを念じていたが、翌日か不在中にお母さんが、家主さんのところに挨拶に見えたのか、私はその幼子が亡くなったことを知った。
不慮の事故で、一番可愛い時期に幼な子を亡くして、お母さんはご主人に責められたであろう。
慰められたのならいいが。
毎日、現場の前を通らなければならなくて、辛い思いをされたであろう。
私は、浅瀬で溺れるような水深ではなく、それまで元気に戯れていたというのにそれでも人はいとも簡単に亡くなってしまうということを知りました。 
人の一生といいますが、この世に生を受けて、3~4歳ではあまりに短かすぎます。

写真は建て替え、増築等で新しくなった現在の山口赤十字病院
(学22期 Y・Y)

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趣味は将棋(へぼですが・・・)青春編②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

◇鉄の街の高校時代

私は九州の鉄の街、八幡で生まれました。

地元の福岡県立八幡中央高校に進学。剣道部に入部しました。放課後は毎日、激しい稽古です。さらに生徒会執行部の体育委員長に就任。秋の体育祭実行委員長を務め、高校最大の行事を仕切りました。

 忙しい青春の日々です。中学時代に楽しんでいた将棋を指す時間はありませんでした。

 さて、八幡の中学生将棋大会で優勝した少年は、N君です。N君は別の中学出身なのですが、同じ、八幡中央高校に進学したのです。高校には将棋部はありません。彼は独学で将棋を学んでいたようです。また、将棋好きの同級生を誘って団体戦にも出場していたとのことです。高校時代、彼と親しかったわけではないので、くわしくは知りません。

◇月刊文藝春秋に彼の名が

 私は小学生のころから月刊文藝春秋を愛読していました。巻頭グラビアから最終ページまでじっくり読むのです。高校時代のある日、将棋コーナーを読んで驚きました。

  「福岡県立八幡中央高校、N君が高校生名人に」

  なんと、あのN君が福岡県代表として全国大会に出場。優勝したというではありませんか。地方都市の少年が独学で日本一の座を勝ち取ったのです。すごい男だ。私はその日から、彼の動向を注目することになったのです。

◇プロ棋士への道

 大学受験の季節がやってきました。

N君は大学に進学しませんでした。上京し、将棋のプロ棋士を目指す奨励会に入ったのです。

 奨励会には全国の神童、天才少年が集まってきます。勝ち星を重ねると、昇段していきます。最後の関門が三段リーグ戦です。熾烈な戦いに勝ち残った者だけが晴れて四段に昇段。プロ棋士になるのです。

 しかも年齢制限があります。26歳までに四段に昇段できねば、奨励会を退会しなくてはなりません。とてつもなく厳しい世界です。

 18歳の春。N君は東京へ。私は山口大学経済学部に入学しました。東京と山口は遠い。彼は果たしてプロ棋士への道を順調に進んでいるのか。現代のようにインターネットのない時代です。長い間、彼の消息を知ることはありませんでした。続く

 (鳳陽会東京支部 S)

ソリの合わない二人の英傑 その4 勝と福澤の語学対決

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

外国語での会話能力は外国語の座学(読み書き)とは異なるものだ。語学力、特に会話能力は腹が座り、行動力があり、茶目っ気があり、また時々ホラを吹くような性格を有する方が上達が早く、特に陽気な米国人に受けが良い。

片や規則やルールにうるさい真面目な人物、またどちらかというと物事を理詰めで考える理性派や理工系の人物は外国語での会話がどうも苦手な傾向にあるようだ。

福澤先生は論理派で生真面目な性格だ。こうした人物は往々にしていい意味で外国人との会話で身に付けたい、良い意味の「いい加減さ」に欠ける。その点外国語での会話が思うに任せない者が多い。

◇クララの日記  ―福澤先生の会話力

外国人招聘講師の娘で、勝海舟の3男梅太郎の嫁となったクララの日記に、福澤先生の具体的な英会話が出てくる。日本語交じりの英語で、洗練されたものとは言えない。

クララは「日本語がわかる私限定の言い方なのだろうか?」と優しい解釈をする。

福澤先生の英会話に接し、私と福澤先生の距離が急速に縮まり、福澤先生が愛すべき身近な人物のように思えてきた。

他方、勝海舟。

勝海舟について回る「オレが、オレが」、あるいは「(ウィットのある)ほら吹き」とも呼ばれた勝。しかしこれは欧米人と対話する際、ある種必要な素養だ。

◆余話 坂本竜馬と外国語

ここにもう一人、勝海舟と似た男がいる。坂本龍馬だ。

では龍馬の英会話能力はどうであったか。残念ながら、記録としてはあまり記録に出てこないようだ。

しかし、海援隊では隊内の機密情報にかかわる意思伝達は「英語での会話が必須」とある。意外にも龍馬は結構な英語使いだったのかも知れない。

咸臨丸に通訳として同船したジョン万次郎は土佐の漁師。龍馬と同郷だ。同時代に生きた龍馬はジョン万次郎とも会ったことがあるという説もある。ジョン万次郎から米国の事情を聴くと共に、万次郎から英会話のコツを教えてもらっていたかもしれない龍馬。両者の仲介をしたのが勝海舟だったのではないかと想像を働かせるのも面白い。

(学23期kz)

クララ ホイットニー

ソリの合わない二人の英傑 その3 勝と福澤の語学対決

山口大学経済学部同窓会

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【2023年9月トピックス】

◇オランダ語

勝も福澤も海外を理解するために最初は蘭学から入った。使用言語はオランダ語。当時、開国前の日本が西洋社会の窓として開かれていたのが長崎の出島であった。

勝がオランダ語に最初に触れたのが江戸城に据えられた大砲だったという。大砲の砲身脇にオランダ語が書かれていたのだ。勝は海防には蘭語読解が必要であることを認識し、これを契機にオランダ語習得に熱を上げて、当時では貴重であった蘭和辞書ズーフ・ハルマを筆写するに至る。そしてペリー来航(1853)の3年前に蘭学・兵学塾を開いている。

他方、福澤も父が蘭学の盛んな気風だった豊前中津藩の家臣だったことから蘭学修行に励む。全国から秀才が集まる緒方洪庵の適塾を経て、安政5年(1858年)には中津藩の命を受けて江戸の中津藩邸の蘭学塾で蘭学を教授している。

◇外国語の読み書きと会話力は別物

横浜での出来事。福澤が横浜でオランダ語が通じないと思った経験をする。横浜で出会ったのは蘭語ではなく英語だった。

世界を動かしているのは大英帝国。オランダは西欧の小さな一国であることを気づかされた瞬間だったのかもしれない。ここで英語の必要性を痛感したのだろう。そこで、福沢は英語を勉強して米国渡航に臨んだ。

咸臨丸で到着したサンフランシスコでのこと。同じ船に乗った勝海舟が現地の者と「対等に会話していた」現場を福沢が目撃する。英語を話せた勝と、この時には残念ながらまだ英語を思うように操れなかった福澤。

ここでも福澤諭吉の勝海舟に対する嫉妬が生じたのだろう。

(学23期kz)

咸臨丸

直木賞作家の渡辺淳一さんが...

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2014-5-5mixi日記投稿分より引用

直木賞作家の渡辺淳一さんが亡くなられたそうです。
築地の聖路加病院に入院されていると人伝てに聞いていましたので、心配していました。
ご冥福をお祈り致します。

若い頃に、「化身」(1986年)「別れぬ理由」(1987年)の二冊を読んだ記憶があります。
1997年の「失楽園」は映画館で視聴。
昨年、私が入院中にテレビでの医療に関する討論で激論を戦わす先生の姿を拝見しました。
又、最近では週刊誌に連載されているエッセーを楽しみにしていました。

私の一番の思い出は先生の行きつけとかいう銀座の超一流のお店に行ったことです。
もう、30年前のことですが、ゴルフ場を経営し、株の仕手と言われた某バブル紳士の方と広島のマスコミ関係のUさんの紹介で知り合いとなり、一緒に虎ノ門の画廊のような事務所を案内された後、銀座の夜のお店に招待されました。
その時、渡辺先生がお気に入りの店だということがわかりました。
女性スタッフは女子大生風で超一流でした。
店のロールスロイスで送迎されたのを今でも鮮明に覚えています。
世の中、こんな世界があるのかと。(笑)

知り合ったバブル紳士もその後、事業に失敗し、破綻。
どうされたのか、消息もわかりません。
バブル期の一夜のあだ花だったのでしょうか。
(学22期 Y・Y)

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ソリの合わない二人の英傑 その2 勝海舟と福澤諭吉

山口大学経済学部同窓会

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【2023年9月トピックス】

立憲君主制を支持する福澤諭吉と連邦共和制を支持する勝海舟。あるべき国家像を異にする両者はさまざまなところでぶつかる。

もっとも、前稿で述べたように福澤は勝を「心底嫌っていた」が、勝は福澤よりも11歳年上のため、福澤の物言いを、苦々しく思いながらも半ば意識的に受け流していた感があるのだが。

◇咸臨丸に乗り合わせた勝と福澤

うるさ型の福澤が珍しく尊敬した人物がいる。

日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節団で、正使一行が乗った米国軍艦ポーハタン号の随伴艦・咸臨丸の総督(司令官)に任じられた木村摂津守喜毅だ。

木村は毛並みが良く軍艦奉行、若手官僚のホープであった。勝は格下の艦長。福澤は木村に頼み込み、従僕という立場で渡航が叶ったのであり、立場上木村に頭が上がらない。この木村と勝と三人が同じ咸臨丸に乗り合わせたことがある。

しかし、福澤同様、運悪く木村も勝より7歳年下だった。勝は上司であっても年下の者には上から目線の口をきく。

米国までの航海中、道半ばにして勝艦長が上司の木村司令官と対立し、勝が船を停め、ボートで帰国しようとする場面が記録に残っている。福澤が尊敬する木村司令官に勝が不服の態度を示すこうした場面も、福澤にとって勝への反発を強めたのだろう。

司令官の木村は評判の良い人物で、米国でも良い評判が立った。サンフランシスコまでの航海で傷んだ咸臨丸の修理費を米国が免除してくれた際も、「義理が立たぬ」として、持参していた資金のうち2万千両(約25億円)をサンフランシスコの大火で夫を失った婦人団体に寄付している。

木村は帰国後も幕府の役人として無事に勤めを果たし、人目を惹くこともなく、静かに現役を退いた。

福澤が尊敬した木村喜毅、号は「芥舟(かいしゅう)」。

海舟ならぬ、もう一人の「かいしゅう」だった。

◇新政府で出世した勝、在野で大活躍した福澤

勝は明治新政府になってからも新政府内で出世し、伯爵となり、枢密顧問官を務めるまでに至る。

こうした新政府でも華々しい活躍をした勝は、静かに幕府を去った木村司令官とは異なる。また、福澤も新政府からの誘いを辞し、在野で大活躍した。

新政府では、福澤がかつて敵視していた長州閥が大きな権力を握っていたからかも知れない。

◇「学問のすすめ」 福澤の真意とは・・・

茶目っ気のある福澤先生。

「学問のすすめ」の出だし、「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。

福澤の言葉のように引用される言葉だが、残念ながらこの言葉はトーマス.ジェファーソンが起草した米国独立宣言一説を和訳したものとの説が有力だ。

福澤が「学問のすすめ」の、福澤がこの言葉を用いた真意は何だろうか。

思うに、年長者の勝海舟に接する福澤諭吉自身の態度の決意表明であり、また年下を見下す勝海舟に対する福澤諭吉の反発だった、と解釈するのも面白い。

勝海舟とは異なり、幕臣のあるべき姿として将軍・慶喜を立てた福澤であったが、同時代に福澤諭吉同様、徳川慶喜公に尽くし、果ては名声を博した人物がもう一人いる。

渋沢栄一だ。福澤に続き、次の1万円札の顔となる渋沢栄一。

この二人、奇妙な縁でつながっている。

(学23期・kz)

ソリの合わない二人の英傑 その1 勝海舟と福澤諭吉

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

第1回長州歴史ウォークでは氷川神社から乃木神社まで赤坂周辺を巡ったが、赤坂を好んだ勝海舟の住居跡も訪ねた。

勝海舟を好む歴史愛好家は多く、3年前の2020年にも勝海舟記念館が洗足池(大田区)のほとりに開館した。

しかし、この勝海舟、江戸本所(墨田区両国)の下級武士から身を起こし、幕末の偉人となったが、クセのある人物だったようだ。

勝が「合わない」といった人物の中で有名どころは徳川慶喜、娘婿となった佐久間象山が挙げられるが、豊前(大分)中津藩の下級武士であった福澤諭吉と火花を散らせた話も有名だ。

同じ下級武士出身で幕臣となった勝と福澤。歳は勝が福澤より11歳上だった。勝は年下を小ばかにし、上から見下すような態度をとるクセがあったようだ。

福澤諭吉自身も慎み深い性格ではなかったようで、福澤に対する人物評価も、人格円満との話はあまり聞かれない。クセのある者同士の勝海舟と福澤諭吉、この二人はソリが合わなかったようだ。特に福澤は勝を「心底嫌っていた」という。

◇対立軸 その1.徳川慶喜を巡って

徳川慶喜を軸にすると両者は正反対の立場をとる。

そもそもこの二人は幕臣だ。このため福澤が慶喜を支えるとするのは当然だ。しかし、勝は同じ幕臣でありながら、「国家の体をなしていない徳川体制」をいち早く刷新すべきとの立場をとる。

これを国家観に引き延ばせば、福澤はあくまで幕府を中心に政治、外交を展開すべしとし、将軍・慶喜の絶対君主制を支持する立場、他方勝は、弱体となった幕府に雄藩・大名連合が取って代わる、いわば連邦共和制をとる立場だ。

こうした在るべき国家観の違いは、江戸城の無血開城に当たっての見解の違いを生む。

すなわち福澤は勝の江戸城の無血開城に異論を唱え、幕府として慶喜の指揮下で徹底的に薩・長と戦うべきとした。

他方、勝は幕臣でありながらも、弱体化した徳川幕府体制では西欧列強とは戦えず、薩摩藩と長州藩などの雄藩が軸となって国を建て直すべきで、薩長との戦(いくさ)をいわば「国内での小競り合い」との見方をする。

こうした異なる国家観を持つ両者は、薩摩藩、長州藩の動きに対しても見解の違いが出ることになる。

すなわち福澤は、幕臣として当然ながら薩長、特に長州を敵視していた。福澤によると「長州藩士は尊王攘夷を名目として、内心では邪心を抱き、幕府に代わって国政を壟断するもの」と激しく非難する。

勝は逆だ。逆というよりも、敵は国内ではなく外にいるのであり、既述した通り、「国内での小競り合い」では外国に勝てないとの立場であり、薩・長のスタンスに与する。

両者はそれぞれ発言力もあるし、弁も立つ。

異なる国家観を持つ両者。それゆえにいろいろな場面で火花を散らすことになる。

つづく

(学23期kz)

勝海舟記念館(大田区立)

子宝に恵まれた家庭

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2008-5-10mixi日記投稿分より引用

長女24歳 教師
長男22歳 調理師学校学生
次男21歳 介護士
次女17歳 生徒
三女16歳 生徒 
四女11歳 生徒

私の家庭の子供です。嘘です。(笑)
私は子宝に恵まれず、そんなことは、ありません。(笑) 

昨日、広島から上京した小・中学校時代のクラスメイトの子供さんです。
昨日は奥様の実家が東京ということで、築地のホテルに前泊し、今日は亡きお父様の三回忌法要があるそうです。
奥様が、昨年に続き、わざわざ美容室に寄って、カットとヘアダイをしていただきました。
2時前に来店され、5時過ぎまでかかり、その間、近くのジョナサンに入ったり、神田の街を散策したり、喫茶店に入ったりしました。
みっちり、お互いの近況報告、クラスメイトの動静、職場である学校の話も含めて3時間談笑したことになります。
今回は、夜、学部の同窓会の準備が入っていて、築地の寿司屋に付き合えず残念でした。

広島にいる時に確か、5人の子供さんと思っていたが、私が13年前に上京している間に又、ひとり増えて、全部で6人とは驚かされる。
バレーボールチームが1チーム出来るではないか。(笑)
東京でも、クラス会をしたことがありますが、奥様とは十歳も離れていて、いつもラブラブらしい。
ひとりも育てたことのない私には、子育ての苦労の実感はないが、子育てが大変そうだなあという思いと、このあとの、将来が楽しみでいいなあというのが率直な感想である。
このO君は、子供の頃から、親分肌で、リーダーシップが取れ、目立つ生徒だった。
小学校が単一のクラスだったこともあるが、公立の中学校でも3年間同じクラスで、都合9年間一緒のクラスだった。
そいえば、幼稚園も一緒だった。
子供の頃からバレーボールの盛んな地域で、小・中学とバレーをやっていたが、高校は広島のバレーの名門のS高校に進み、3年間で6回も全国大会に出場し、そのうちインターハイ2回、国体1回の全国制覇3回、準優勝3回の偉業を達成してしまった。
今は母校で、高校教師をしているが、数年前までは、バレー部の監督をしていたことがあり、私も何度か、春校バレーで代々木体育館に応援に駆けつけたこともあります。

写真は仕事でお付き合いのあったテレビ新広島のご担当の方が、東京迄送って頂いたビデオです。
(学22 Y・Y)

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