分断から歓喜へ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】



毎年恒例の師走のイベント
ベートーヴェンの第九コンサートに出かけた。 今年は第九が初めて演奏されてから200年目の節目の年らしい。
東京フィルハーモニーの総監督となった佐渡裕さんがタクトとを振る。

 佐渡裕さんは小澤征爾氏に師事し、一万人の第九や、コンサートの前には自ら楽器を弾いたり、演奏曲目の歴史や背景を分かりやすく説明するなど、大柄な体格も含め、これまでの指揮者のイメージを大きく変えた1人だと思う。
 今宵の演奏は、クリスマスイルミネーションが美しい東京オペラシテイ。
 第九に相応しいコンサートホール。

 万雷の拍手の中、登場した佐渡裕氏は

「ベートーヴェンの第九の第一楽章は、音符(レとラの様に音が離れている)と音程が分断されています。分断された音符で作られたメロディーは音が暴れたり怒っている様です。
一方で、第四楽章のメロディーは、音と音が隣り合わせで、まさに手を取り合って音を繋げていくという旋律です。
 そしてみなさんお待ちかねの、歓喜の歌は、手を取り合うだけでなく、喜びを分かち合い、そして抱き合ってお互いを讃えよう!
 という歌詞でクライマックスを迎えるのです。」

と爽やか口調で解説してくれた。

世の中は、まさに分断の連鎖。

ウクライナ,イスラエルの紛争などだけでなく、身近な私の職場でも、利己主義が台頭し、攻撃的な文書(テキスト)で個人の怒りを、ためらいや 恥じらいもなく周りに拡散させている人が目立ちます。(若者ではなく40代,50代)

 コロナ禍で定着したリモートワークは、隣に座る人の手を取ったり、抱き合って(これはセクハラ?笑)喜びを分かち合うことを人々に忘れさせている様に感じます。
 素晴らしい演奏でアンコールの万雷の拍手が鳴り止まない中、来年は(組織)の分断を,歓喜に変えるぞ!と思いを新たにした、師走の日曜日でした。 

良いお年をお迎えください。

 学37期 上野啓


 写真はオペラシテイに飾られた 假屋崎省吾さんの作品です。

鷗外、そして漱石 その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

◆漱石と松山、漱石と熊本

漱石は28の時に松山中学(松山東高の前身)へ赴任し、1年間松山で生活し、貴族院書記官長の娘・中根鏡子と見合い・婚約。

翌年、熊本の第五高等学校に赴任、鏡子と結婚し、結婚の翌月には教授となり、4年間熊本で過ごす。

熊本から3年間英国留学へ飛び立つ。

◆松山で見る坊ちゃん

松山で1年、熊本で4年。

1年しか居なかった松山では、いろいろなところに「坊ちゃん」の名がついている。

地元松山の坊ちゃん熱は熱い。

坊ちゃん団子

坊っちゃん饅頭

坊ちゃん列車

坊ちゃんスタジアム

坊ちゃん劇場

坊ちゃん湯

坊ちゃん食堂

居酒屋・坊ちゃん

カラオケ喫茶・坊ちゃん

など。

松山で「坊ちゃんの」冠がつかないのは、例えば・・・会員制高級クラブや高級ホテルくらいかもしれない。

それに比べて、4年間も生活した熊本はどうだ。

東京人の漱石が、結婚し、子供も生まれ、草枕を描く旅にも出、ロンドン行きのきっかけをつかんだのが熊本だ。

漱石ゆかりの銘菓などはなかなか出てこない。

小説・三四郎の主人公も熊本から東京に上った青年ではないか。

それなのにこの始末だ。

熊本県民はよそ者が嫌いなのか、あるいはインテリが嫌いなのか。

勝海舟が西郷隆盛と共に恐れた逸材・横井小南にしても、肥後・熊本ではまるで人気がなかった。

熊本県人は、神経質で、優れたインテリを敬遠する傾向があるようだ。

しかし、熊本での偉人ランキング(本年9/24付け、民放テレビ)は

1加藤清正

2北里柴三郎

3天草四郎

4八代亜紀

5夏目漱石

となっており、八代亜紀の次、なんとか5位に漱石が登場している。しかし、影が薄い。

漱石は熊本で6度転居したことから、地域住民とうまくいかず、居心地が良くなかったのかもしれない。

追記

我がふるさとで、老楽男女とも、すごい人気を誇ったのは熊本弁丸出しの破天荒なコメディアンだった。

【参考】

偉人ランキング

愛媛

1正岡子規

2夏目漱石

3秋山好古

4秋山真之

5大江健三郎

山口

1伊藤博文

2吉田松陰

3高杉晋作

4安倍晋三

5金子みすゞ

東京

1勝海舟

2夏目漱石

3芥川龍之介

4徳川慶喜

5吉田茂

大阪

1豊臣秀吉

2千利休

3福沢諭吉

4与謝野晶子

5松下幸之助

兵庫

1平清盛

2黒田官兵衛

3手塚治虫

4伊藤博文

5楠木正成

福岡

1黒田官兵衛

2黒田長政

3松田聖子

4松本清張

5菅原の道真

広島

1毛利元就

2池田勇人

3宮澤喜一

4小早川隆景

5岸田文雄

岡山

1犬養毅

2雪舟

3宮本武蔵

4竹久夢二

5橋本龍太郎

島根

1竹下昇

2錦織圭

3森鴎外

4小泉八雲

5若槻礼次郎

(学23期kz)

松山市内を走る「坊ちゃん列車」

徳山ワルツ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】


(学22期Y・Y)
◆1969年1月にコロムビアレコードから発売された山口県徳山市(現:周南市)のご当地ソングです。
作詞:三浦康照、作曲:山本丈晴
歌手は美鈴愛子です。
作曲があの山本丈晴さんとは…。
奥さまは女優の山本富士子さんで第一回ミス日本に輝いた人です。(1950年度)

◆私がこの曲があると初めて知り、聴いたのは20代後半だったと記憶しています。
その後はカラオケで検索しても無かったと記憶しています。
最近、YouTubeでも「徳山ワルツ」で検索すると聴ける便利な時代となりました。
広島県民だったのに最近、山口県民に傾斜しています。(笑)

◆学生時代後半に知り合った女性に徳山出身の人がいました。
卒業後、萩の街を自転車で回ったり、広島の平和記念公園で会いました。
今でも時々どうしているのかなと思うことがあります。
音痴な私はカラオケが大の苦手ですが、この曲は好きで歌います。

徳山ワルツの歌詞

霧がこんなに深いのに
あなたの来るのがわかるのよ
男ごころに泣かされながら
やっと見つけた恋だから
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

夢じゃないかと眼を閉じて
あなたをもういちど見た私
けむる小雨の回天基地に
炎える女のしあわせは
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

コンビナートの火のように
あなたは私を燃やしたの
みゆき通りも港の夜も
忘れられない思い出ね
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

追記)
写真3枚目は第2回長州歴史ウォークで「遊就館」見学の際の人間魚雷「回天」の展示

(学22期Y・Y)


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金子みすゞ 見えないもの

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】 

金子みすゞの詩をひとつ

「星とたんぽぽ」

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

◆慈愛の眼差し

すべてのひと、すべてのもの。

すべてがかけがえのない存在。

見えない存在、隠れた存在にも、眼差しを向ける。

慈悲深いまなざし。

見えないものの中にも大切なものがあり、

真実がある。

サン・テグジュぺリも言う。「大切なものは、目に見えない」

本当に大切なものは・・・隠れて見えない。

・・・若い時には解らなかった。

金子みすゞが詩を書き始めたのが20歳の時。

26で亡くなるが、彼女には解っていたのだ。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ⑤戦い済んで・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

戦い済んだ上野の山。

そこには両軍の戦死者が横たわっていたが、新政府軍の戦死者は早いところ回収され弔われたが、彰義隊の犠牲者は放置されたままだ。

逆賊となってしまった彰義隊。

この遺体をどうするのか。

◆仏麿和尚

箕輪の円通寺、23世住職。信濃の出で普段は学問への造詣が深く、説法も上手な仏麿和尚。

しかし普段は朝から酒ばかり飲んでいて法衣も継ぎはぎだらけ、

寺の畳も破れるに任せていたが、それを恥じる様子はない和尚。

その和尚が上野戦争の直後、上野の山に登る。

そこには、放置された彰義隊の遺体、200体余りが放置されていた。

彰義隊は新政府にとって「国賊」となり、弔うことは新政府への反抗と受け取られかねない。

しかし、このまま放置しておくことはできない。

そこに彰義隊を支援してきた錺職問屋・三河屋幸三郎が通りかかり、仏麿和尚と三河屋は相談の上、新政府に遺体の弔いを願い出る。

案の定、和尚は新政府に捕縛される。

それでも10日後には釈放され埋葬許可が下りた。

火葬を終えた遺骨は和尚の円通寺へ運ばれた。

こうして円通寺は明治の初期において「賊軍」徳川家の出身者の供養を行える唯一の寺となった。

◆三河屋の後日談

三河屋幸三郎は慕うことになった仏磨和尚に30両を差し出す。

和尚は瞬く間に30両を酒に使ったという。

次の30両も酒に消えた。

その次の30両も。

都合、90両を飲み干したと。

このため三河屋は立腹し、和尚との交際を断った。

・・・

仏磨和尚は新政府の手前もあったのか、飲んだと見せかけて、90両を旧幕臣をはじめ生活に困窮した者に分け与えていたという。

その話がどこからか聞こえてきた三河屋は真の事情を知って、仏磨和尚の円通寺の檀家になったという。

仏磨和尚、明治45年に66歳で没する。

南無阿弥陀仏。

◆黒門の移築

彰義隊の守りのシンボル黒門は明治40年に円通寺に移築された。

しかし国によって史跡とは認められず、保全資金もないまま放置されていた。

現在のように寺の正面に、全面的に補修・再建されたのは昭和60年である。

◆円通寺訪問

南千住駅を降りてすぐに吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎の墓が置かれている小塚原回向院があるが、円通寺はここから近い。

曹洞宗の寺で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の開創といわれている。

上野戦争(慶応4年5月15日)での彰義隊の遺体266体を上野で火葬し、円通寺で収骨した太政官の許可状に「懇に供養すべし」とあったことから、正面切って「賊軍」となった彰義隊犠牲者の法要のできる、当時唯一の寺院であり、その縁で帝室博物館に展示されていた旧上野黒門が明治40年、円通寺に下賜されている。

黒門のすぐ裏手には彰義隊関係者、旧幕臣など戊辰戦争の関係者の墓や慰霊塔が集められ、柵に囲まれた一角がある。

円通寺には、彰義隊関係者、榎本武揚、永井尚志、大鳥圭介、医者・高松凌雲旧幕臣など戊辰戦争関係者の慰霊碑のほか、新門辰五郎之墓碑、仏間和尚ともに遺体の弔いを大総督府に願い出た三河屋幸三郎の墓もある。

(学23期kz)

鴎外、そして漱石 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

鷗外、そして鷗外よりも5歳若い漱石。

どちらも留学している。

鷗外はドイツ・ベルリンに、漱石はロンドンに。

◆外国語の日本語訳に貢献

鴎外も漱石も外国語の概念を日本語に訳し、日本語での教育水準を高めることにつながった。

鷗外は交響楽(シンフォニー)、空想(ファンタジー)、詩情(ポエジー)、長編小説(ノベル)、民謡(バラード)などを考案している。

また、漱石は経済(エコノミー)、価値(バリュー)、不可能(インポシブル)、電力(エレクトリック・パワー)、無意識(アンコンシャス)などの用語を創り出した。

◆鴎外のスタイル

鴎外の初期の文体は文語体で、読むのに多少骨が折れる。

舞姫などは異国で恋した青年と、身ごもり青年との別れでパラノイアにかかるエリスとの壮絶な離別を描いているが、エリスやエリスとの関係の描写は無機的、あるいは冷徹・淡白とさえいえるような冷めた文語体でさらりと書かれている。

意図的か否か不明であるが、面白いことに、それだけに物語の「悲劇」性を掻き立てる効果がある。

また鴎外の女性には真のしっかりした女性が出てくることが多い。

今述べた舞姫のエリスもそうだが、安寿と厨子王、最後の一句の死刑囚の娘「いち」。

こうした女性の描き方は鴎外が津和野藩の典医の長男であり、軍医としての位を極めたことも関係してのではないか。

語学に堪能だった鴎外の作品には横文字が多く出てくる。

ラテン語、フランス語、ドイツ語。これも鴎外の作品を読みにくくしている。

◆漱石のスタイル

他方、漱石作品は平易な口語体で書かれている。

漱石の作品の中で女性はどう描かれているか。

よく引き合いに出される草枕に出てくる奔放な女性・那美。

それでもあっさりした描写だ。その手の描写が手慣れた名だたる巨匠と比べるまでもない。

坊ちゃん家の「お手伝い・清」は漱石の理想像であり、心のふるさとでもあるようだが、それは対象外として、同年代の女性の描写を見てみると、三四郎の「美禰子」がいる。

チャーミングだが捉えどころがない。

「三四郎」自体が学園ものの青春小説であり、魅力的に描かれている。

知的で美形でとらえどころのない魅力的な美魔女。この中で漱石が里見美禰子の「眼つき」を形容したことばに「ヴォラプチュアス!」というのが出てくる。

巻末に注が付されており、Voluptuous・・・「肉感的な」とあり、どきりとした。

まあ、青春・学園ものだけに仕方がないか。

健康的でよろしいが。

しかし、横文字を充てており、意図的に「肉感的」という直截な形容を避けているように思える。

照れ屋の漱石らしい。

◆青春ものの作品

漱石に「三四郎」という青春ものの作品がある。

また、鷗外にも、ずばり「青春」という小説がある。

ストーリーが似ている。

調べてみると、漱石の作品「三四郎」にヒントとを得て、鴎外が「青春」を書いたという。

似ているはずだ。

主人公はどちらも田舎出身で、東京で暮らす若者だ。

小川三四郎は熊本出身。

「青春」の主人公・小泉純一の出身地は「Y県」となっている。

津和野に近い山口出身のことだろう。

(学23期kz)

ベルリン ブランデンブルグ門

ロンドン塔

上野戦争と大砲

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

政府軍が半日で勝ちを収めた上野戦争。

政府軍は大砲を持ちながら、彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門は、銃の跡は残れども、破壊された形跡がない。

◆四斤山砲

この時には彰義隊は山門上の山王台(西郷像のある付近)に設置されたのは四斤山砲(関口大砲製造所制作・文京区小日向、製造統括責任者は小栗忠順)3門で、正確無比な着弾に新政府軍は手を焼いたという。

前装ライフル式。砲弾重量は4キログラム。

対する新政府軍の大砲もフランスで開発された青銅式四斤山砲。ライフリング付きだ。

薩摩藩はこの四斤山砲を山王台正面の料理屋「雁鍋」の二階に分解して運び、組み立て直して。砲口を上野の山に向けた。

彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門までは約200メートル。

有効射程距離は約1キロ。

しかし、この四斤山砲でも、黒門は破壊されずに残った。

黒門口には砲弾が球体の臼砲も1門配置された。

◆アームストロング砲

佐賀藩の6ポンドアームストロング砲2門が上野戦争で使われたのは有名だ。

英・後装砲アームストロング砲は佐賀藩でも同型の大砲が製造された。

最大射程距離は3600メートル。

佐賀藩が現・東大病院附近に設置した砲台から黒門まで約400メートル、当時寛永寺奥の根本中堂(現・国立博物館)まで充分届く。

(彰義隊の本陣は寒松院、現・上野動物園)。

しかし、この時用いられた砲弾は4キロ弾で、火力も弱く、命中精度も低かったので、実際にさほどの威力はなかったようだ。

また、当時佐賀藩はアームストロング砲を使えば殺傷しすぎるきらいがあるため、使用に否定的だったと伝えられている。

ただ、砲撃の音は驚くほど大きく、音だけでも十分相手を威圧できたようだ。

アームストロング砲は事故が多かったという。このためイギリスは軍事機密解除され、アメリカに渡り南北戦争で使われたほか、武器商人の手を経て佐賀藩に入った。

佐賀藩では完全コピーできたという説と、製造までは至らなかったという説がある。

他方フランスの四斤山砲(87ミリ)は安定度が高かった。

小型で分解可能だったため、持ち運びができ、重宝された。

ライフリングはあったが、前込め砲で、青銅製だった。口径は64ミリ。

決定的な兵器ではなかったと解釈されつつある。

このアームストロング砲でも黒門は破壊されなかった。

円通寺に移築された黒門は銃の跡はあれど、大砲の砲撃を受けた形跡がない。

アームストロング砲の殺傷力はほどほどだとしても、爆音は相当大きかったという。

このため大村益次郎は、特殊部隊侵入の合図のためだけに、アームストロング砲を打ったのかもしれない。

(学23期kz)

四斤山砲 
6ポンド アームストロング砲

偉大なリーダー逝く

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

今年1番の底冷えの日に、偉大なリーダーを偲ぶ会が行われた。

体調を崩されて,わずか2週間で帰らぬ人となった。あれからもう1年、ご遺族と亡くなる2週間前まで、事業の立ち上げに奔走するこのリーダーを,支えた投資家の会長が提供してくれた場であった。

このリーダーは、一部上場企業の専務や要職を歴任されだが、なによりも50代半ばに企業内ベンチャー的な新規事業をゼロから立ち上げた事は、バブル崩壊後、大企業がチャレンジを忘れ、保守的な経営者ばかりが増える中では異才だつたと言えるだろう。

そこに至る為に必要な、経営者としての確固とした信念と、夢を実現するためのエネルギー、そして何より、一人一人の人を大切にする優しさのいずれをも兼ね備えていたからこそ、なし得ることができたに違いない。

このリーダーの元に集ったメンバーは、私自身を含め。ピカピカのキャリアや特別なスキルを持っではいなかったし、むしろ親会社や他社では余り評価をされず、燻っていたメンバーの方が多かった様に思う。

それでもリーダーから矢継ぎ早に繰り出されるタスクを、汗をかき,頭を使い、手足を動かし、叱咤激励を受けながら、チームとして着実にこなし、成長して行った。

それらのタスクには新規工場の立ち上げや,短期間での販売網や施工網の構築など、競合他社が長年かけて構築したものを,わずか3年で作り上げた。

そして、事業は黒字化、従業員1500名、売り上げ500億円を超え、TVでは連日CMが流れ、誰もが知る会社となった。

それから10年足らずでの偉大なリーダーの逝去はあまりにも突然で、今も信じられない。

私自身は,その後スタートアップを含め、いくつかの会社の経営に携わってきたが、このリーダーの足元には遠く及ばない。

遺影の前に立つと、「おー上野、まだまだだな。まあ頑張れ」と微笑みながら亀田さんが声をかけてくれた気がした。

ありがとうございました。

安らかにおやすみください。

学37期 上野 啓

写真は会場の東京会館のクリスマスツリー

「日本人論」の欠片 その13「個性的」を嫌う若者

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】

◆個性的であることを不安視

山口県出身の社会学者で、若者の心理や社会行動を研究しているのが筑波大の土井教授だ。

教授によると、今の若者たちにとって「個性的」であることをネガティブに捉えているという。

すなわち若者たちを取り巻く環境は、昭和時代のような人間関係が固定的ではなく、会社を始め若者を取り巻く制度的な枠組みも、年功序列・終身雇用を保証するものでなくなっている。

◆流動的な社会では個人の自由度は増すが、他方これと引き換えに、属している会社や組織から外されるリスクも高まる。

また、たむろせず、一人でいることは見かけ上、誰からも選ばれることもなく、認められることもない魅力のない人物とみなされかねないことから、組織から浮いた個性的な行動を控える傾向にあるという。

見方によっては、これは若者の自己防衛と捉えることもできる。

このため、最近の若者は競争を回避し、同じ仲間とSNSでつながりながら彼らと緩く群れ、またこれと同時に、社会的な承認欲求もあることから、若者にとって従来の社会的な価値尺度の提供者となっている「大人」とも緩く繋がっておきたいと考えているという。

◆こうした状況で、若者としては個性を埋没させることが、心地よい生活環境であり、最適な行動様式かもしれない。

しかし、こういうことで大丈夫か。

諸外国の若者たちは向上意欲旺盛で、逞しいぞ。

ハングリーで、理想に貪欲で、夢多く、理想は高い若者があまたいるぞ。

そうした世界の若者も、円高ならまだしも、「円安」の日本に来て、夢を追い始めているぞ。

おとなしく、緩く群れる若者諸君、何とか頑張ってくれないか。

これからの日本が世界から置いて行かれるようになり、諸外国や近隣国の成長の勢いから取り残されることになりはしないか。

私はこれを憂う。

せめて世界の夢多く、逞しい若者と伍してくれ。

(学23期kz) 

お見合い雑感(結婚は、歩いてこない) 

お見合い雑感(結婚は歩いて来ない)

◆お見合いの仲介人をしていて一番困ることは、設定の時間に遅れて来られることである。
2004年だったか、会社時代の後輩で友人でもあるM氏の青山での見合いの場に立ち会ったが、男性には少し早めにきてもらうことにしていたが、約束の時間になっても姿が見えない。
本人は、携帯電話を持たない主義の人だから、こちらからは連絡の取りようがなかったが、公衆電話から連絡が入り、電車の乗り換えの間違いをし、中目黒にいるという。
結局、女性を10分程度待たせることになった。

◆まだ若かりし頃、会社の女性を中学時代の友人に紹介しようとしたことがあったが、市役所勤務の友人が1時間近く待ち合わせ時間に遅れ、女性と会った時は時すでに遅しで、しらけ鳥が飛んでいて、女性の気持ちはすっかり切れていた。
いくら仕事が長引いたとはいえ、お互いの相性がいいと思って紹介しても、これでは土俵に上がる前から勝負があったも同然である。
男性の私からしても、仕事と見合いとどっちが大事かと言いたくなる。

◆私はサラリーマン時代の上司だった人が、約束の時間には非常に厳しい人で鍛えられた。
人を待たせることは、その人の大切な時間を奪うことになり、失礼になるという考えの人であった。
仕事の提出日限も同様でした。
そのこともあり、本社勤務時代には通勤ラッシュを避ける意味もあったが、一時間前には出勤し、社員食堂で食事を取り、遅くとも30分前には職場に入って、仕事の段取りをしていた。
人との待ち合わせ時間に遅れることなどまずありえない。
大体、大事な人との待ち合わせ時間には一時間前には行くし、普通でも30分前に到着して待つことにしている。

◆若かりし頃の自分の見合いの時など、必ず一時間前には到着し、場所の確認、会場周辺の喫茶店等のチェックをする。
そして女性の履歴を再確認し、会話の展開まで予想し、緊張している自分の気持ちを落ち着かせるが、そこ迄準備万端、段取りをしてもうまくいかなかったのである。(笑)
相性であるから、どうこうなる問題でもないと思うが、男性には、女性を待つ姿勢が大切であることは間違いないと思うがどうであろうか。
女性が約束の時間の10分前に到着したら、男性が30分前から待っていたとなるとそれだけでも嬉しいのではと思うが、現実は限りなく厳しい。

追記)
先日の長州歴史ウォークでは参加者の皆様には多大なご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありません。
日頃の仕事の緊張感から解放されてリラックスし過ぎて、想像力が欠如していました。
最悪、事故に巻き込まれたり、今流行りの闇バイト等に巻き込まれたのではと心配されるのは当然で、後でN氏から詳細をお聞きし、戦慄が走り、恥じ入りました。
🙇💦💦
(学22期Y・Y)

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