ポールの歌がうまいマスター

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

横浜・関内のカラオケスナック

ビートルズをこよなく愛する職場のN先輩の誘いで、8月中旬には店を閉じるという関内のカラオケバーに行ってきた。

私も学生時代にはビートルズのまねごとをしたこともあり、嫌いではない。

我々一行にはもう一人、ご婦人がいた。

先輩の親戚でN.瞳さん。プロのジャズシンガーだという。彼女もビートルズマニアを自認している。

初対面の方だ。

3人がカウンターに座った。

店にはギターやベースが置いてあり、ライブショーをすることもできるのだという。店が狭くキーボードは外に出してある。

N先輩はビートルズマニアで、1966年のビートルズ初来日の時は大学1年。武道館での公演をナマで聞いたという御仁で、ビートルズの話をしだすと止まらない。

その先輩のイチオシが店のマスターだ。

マスターは学校卒業後、数多くの人材を輩出した一流企業に就職したものの、ビートルズ好きが昂じて会社を辞めたという。

◆リバプール

そのマスターが8月下旬、世界中から、厳しい選考をパスしたビートルズのコピーバンドがリバプールに集う「インターナショナル・ビートルウィーク・フェスティバル」に日本代表として出場するという。

もちろんギャラもなく、交通費も出ない。名誉だけでリバプールのステージに立つのだ。

(為替の関係で今年のリバプール行きは、多少こたえるかもしれないが)

このため店は8月に閉めるものの、愛媛での開店準備に入るのが遅れるという。

◆「Oh, Darling」

マスターはステージで主にベースを弾き、ポールのパーツをやるという。

「これを歌えるヤツ者は日本ではほとんどいない」いうポールの曲を歌ってもらった。

「Oh, Darling」

キーはかなり高いが、歌いこなしている。かなりの迫力だ。

オリジナルキーのままで歌えることを羨ましく思う。

ポールもいまだ現役で、オリジナルキーで歌っている。

私はキーを2度、場合によっては3度下げないと歌えなくなってしまった。

マスターはポールのパーツをやっているが、本当はジョンが好きだという。

◆愛媛で新規開店

関内のカラオケバーを閉じてどうするか。

愛媛に行くという。

しかし、松山市ではない。隣町の東温市だ。

なぜ、東温市か。

親戚や身寄りがあるわけではないという。

彼は関東の育ち。奥さんは大阪出身。

義理の母(奥さんの母)が愛媛の八幡浜出身だという。しかし八幡浜からはかなり遠い。

松山市からも車で20分以上かかり、愛媛大学の医学部があるところだ。

横浜から移りたくなり、候補地となる各地を訪ね歩いたそうだ。

京都、奈良、神戸、福岡・・・どうも違う。しっくりこない。

ある時、たまたま東温市に寄ったとき、いわゆる「降りてくるもの」があり、「ここだ!」と決めたという。

私もかつて、愛媛に2年勤務したことがある。

今度愛媛にいった折は、覗いてみよう。

◆ジャズのライブ

後の話。

カラオケバーに一緒に行ったN.瞳さんのジャズライブをYoutubeで聞いてみた。

さすが、堂々たる歌いっぷりで、いい感じ。

一度、ライブに行ってみるのもいいかもしれない。

(学23期kz)

介護雑感(母の死)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

(過去日記から)
2007-10-27mixi日記より引用

◆今日、午後、入院先の病院で母が87歳で亡くなった。
介護施設に入居していた母が、食事が全く喉を通らなくなり、8月24日に急遽、東京・品川区の病院に入院させた。
検査したら、翌日、末期のすい臓がんと判明。
主治医からは余命一ヶ月も持たないと宣告された。
2ヶ月余り、点滴でよく頑張ったと思う。
  
◆実は30年前にも私は父をすい臓がんで亡くしている。
父同様、本人には告知するわけにはいかない。
主治医からは、終末医療のホスピスを薦められ、告知不要の大田区のホスピスに転院して、8日目の今日午後、急に極めて厳しい状態との連絡があり、駆けつけた。
何とか、最期には間にあったが、着いて20分後に死亡が確認された。
3日前に面会した時は、珍しく目を開けていて、私のネクタイを引っ張る程、意識はしっかりしていたのだが。
マイミクの方にはご心配をおかけするので、この間、介護雑感は敢えて書かないことにしました。

◆私は6年前に早期退職で会社を辞めて、自宅で4年間、母の面倒を見、母の足腰が弱くなって立てなくなってからは、介護施設、病院でお世話になった。
広島勤務時代からすると、16年に亘って年老いた母の面倒を見てきたことになる。
自分なりに精一杯やったとの自負はあるが、これからは、ぽっかり穴が空いた気持ちとなり、母に対してあれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかったのにと悔やむのであろうと思う。
故郷広島の墓に母を入れてやれば、私の役目は終わる。

◆これから介護されるマイミクの方の為にも、思い出しては、介護雑感を書いて行きたいと思いますが、とりあえずは、今回で最終回として一旦、締めさせていただきます。

介護施設に大好物の刺身を差し入れた時、大はしゃぎして喜んでいた母はもういない。
(学22期 Y・Y)

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直木賞、芥川賞発表の日に 朋(とも)遠方より・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

〈岡山支部からの投稿〉

 山口大学時代の同期からネット書籍のかたちで本を出版することになった-との連絡が入った。

 それも直木賞、芥川賞発表の日、7月17日に!?(笑い)

 担がれているのか。いやいや、僕を担ぐようなやつではない。

自分のキャリアについて何か本を書いたそうだ。

 東寺敷地内にある京都の名門私立出身の彼なら、それもひょっとしてありなん。

どこか桁外れスケールの彼は高校の卒業式さえ出席しなかったという。

 関西出身の彼が山口での学生時代を謳歌したことは間違いない。

 彼は卒業後、素材メーカーに就職した。大器は晩成す-のことばのよう、日本国内はもとより、中国・上海でも勤務している。

 大手自動車メーカーの購買担当者たちとは500枚を超える名刺を交換しているというから、その活躍ぶりは推して知るべし。

 僕が福岡にいたときは博多で、彼が単身赴任で東京にいたときは目黒で、住所のある大阪に戻ったときは、茨木で。人生の節目、節目に彼がいる。

 今回の節目は顔と顔、盃と盃を交えての話ではなかったが、きっと本の中で「未知の彼」と出会えるであろう。

 早速、ネット書籍に予約を入れ、レビューという返杯を用意したい。

芥川賞、直木賞受賞者の会見を見ながら、思う。

 (岡山支部 B)

なぜにオランダが ③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

◆布教せず、貿易に専念したオランダ

1600年にリーフデ号事件が起きる。

リーフデ号とはオランダの商船で、豊後国臼杵に漂着したが、ここでイエズス会士はリーフデ号が海賊船である旨大老・徳川家康に進言する。

家康は乗組員を取り調べるが、ここに取り調べを受けたリーフデ号乗の組員が有名なオランダ人・ヤン・ヨーステンであり、イギリス人ウィリアム・アダムスであった。

彼らは彼らでポルトガルやスペインの覇権の切り崩しを狙っていた。

家康は彼らからよくよく話を聞き、欧州におけるカソリック国と新教国の対立などの話を理解し、欧州情勢を説く姿に好感を覚え、海賊船の嫌疑を晴らすに至る。

◆プロテスタントは貿易に宣教師を連れてこない。

貿易に、より力を入れ、キリスト教布教色が薄いことが幸いした。

1604年には朱印船貿易が始まり、布教に力を入れるスペインを嫌い、貿易に力を注ぐオランダや英国を厚遇し、1609年にはオランダが、1613年にはイギリスが平戸に商館を置いて平戸貿易が始まった。

3代将軍家光の時になると鎖国色が強まり、カソリック国の来航禁止となった。

イギリス人の商館は平戸にあったが、日本との貿易が儲からなくなったために日本から手を引き、イギリス商館は閉鎖となる。

このため、オランダだけが貿易取引相手として生き残ったという具合だ。

◆1641年にはポルトガル人の追放により無人となった出島にオランダ人が移り、これを機に鎖国令と禁教令が徹底され、来航するオランダ人にはカソリック国の宣教活動などの情報提供をも義務付けた。

オランダ側では情報提供が日本との貿易独占を維持する条件となっていた。

オランダ船が日本に到着するたびに、日本側はオランダ商館長を訪れ海外情報を入手した。この時作成されたのが「風説書」と言われるものだ。

19世紀中葉、国際情勢が緊迫化した時にはより詳細な内容の「別段風説書」を提出させた。

幕府はこうしたオランダを窓口とする情報入手により、対外的な事情をほぼ正確に把握しており、ペリー来航についてもかなり詳細な情報をつかんでいたというのは事実のようだ。

そうした情報を認識したうえで、落ち着いた適正な行動ができたのかというと、話は別だ。

(学23期kz)

なぜにオランダと ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

◆オランダの国柄

スペインの一時領有から独立を果たしたオランダ。

もともとオランダは中世以来、穀物自給に乏しいオランダは地理的にも海路交通の要衝にもあったことで貿易を重視。そのため造船業にも力を注ぎ、17世紀には欧州の6割がオランダ船だったという。高杉晋作が上海から長崎に帰港した時、どうしても欲しくなった二万両の蒸気船、これもオランダの蒸気船だった。

また、オランダは国柄として自由な気風を持ち、新教・プロテスタントの国。他国で思想信条により迫害を受けた人々を受け入れることで繁栄してきた歴史があり、自由を尊重し、宗教にも寛容だった。

こうしたこともあり、欧州諸国から情報が集まり、新聞・印刷が盛んになり、科学者や思想家、また画家を始めとする芸術家も移り住み、芸術文化面でも花を開かせた。

15世紀末にオランダは一時スペインを本家とするハプスブルグ家の領土となったが、当時のスペイン王がカソリックを強制したうえ重税も課したため、独立に向かう。

17世紀初頭には東インド会社を設立し香辛料貿易を独占した。

◆イエズス会

当時、イエズス会に代表されるポルトガルやスペインなどカソリック国の対外進出の特徴は貿易と布教がセットになっていた。すなわち貿易で儲けてもらい、その代わりにキリスト教の普及を進めたのだ。

しかし、キリシタン大名がイエズス会本部へ土地の寄進をしたり、スペインによる日本征服の意図(スペイン船・サン・フェリーペ号事件)などもあり、幕府はカソリック国による宗教的な浸食を警戒を強めるようになる。

もうひとつの事実。

ポルトガル人により人身売買がある。

秀吉が九州平定の際に博多で、ポルトガル人による少年少女の人身売買があったことを認識した。その数約5万人ともいわれている。

こうした子供たちの人身売買はポルトガル人が積極的に手を染めたというより、子供らの「人身」は日本の戦国から江戸時代にかけて日本の戦乱に中で生み出されたもの。

ポルトガル人の弁明は、日本側が差し出すので買ったまで、と申し開いたという。

戦乱の犠牲者は、若くしてポルトガル船に乗って東南アジアに国々を中心に運ばれていった。

当初信長のキリシタン保護を踏襲した秀吉だが、こうしたことから1587年バテレン(伴天連)追放令を出すに至る。

(続く)

(学23期kz)

なぜにオランダと ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

今日はオランダの独立記念日。

この機会に、昔から疑問に思っていたオランダのことについて書いてみた。

いわゆる「鎖国」時代にあって、西欧諸国の中でオランダだけが幕府のお墨付きを得て外交・貿易関係を保持し得たのか。当時は外国人との対話も介するのは蘭語、また西欧の先進的な科学技術を取り入れる間口となり、幕末の偉人達も「蘭学」に走った。大村益次郎が塾頭を務めた緒方洪庵の適塾も蘭学塾だった。

◆不思議の国オランダ

九州ほどの面積しかないオランダ。

蘭語・・・ドイツ語に近いが、ドイツ語に非ず。ドイツ語の辞書では太刀打ちできない。

オランダの国民は背が高い。

欧州の平均身長でもオランダ人が頭ひとつ頭抜けている。サッカーはともかく、スケートの選手をみると「外国人」の中でも男女ともひと際その体格の良さが目立つ。

オランダはダッチ。

語尾に「チ」が付く国民はケチだという話がある。

スコッチ、フレンチ・・・

ケチということは見方を変えれば隙がない、合理的な国民性であるともいえる。

同一労働・同一賃金を決めた政労使のワッセナー合意もそうだ。

また、安楽死、麻薬など、あまりうるさいことは言わない寛容な国でもあるようだ。

◆大航海時代

15世紀末から17世紀にかけて欧州諸国が新大陸を目指して航海に乗り出した。

羅針盤の改良や造船技術の向上で遠洋航海が可能になったためだ。

また当時、欧州では肉食が流行り、味付け・スパイスのみならず、食料保存用として、また医療用として香辛料の需要が高まった。こうした香辛料は欧州では採れずアジアが本場だ。

13世紀にはマルコ・ポーロが元を訪れ東方見聞録を記したため、東洋への憧れもあったとされる。

またキリスト教史でみると、15世紀末にはイベリア半島からイスラム勢力を追い出し、キリスト教の世界的な布教を目指していた時代にあたる。

◆ポルトガル

大航海時代に先陣を切ったのはイベリア半島でスペインに領土が劣るヴァスコ・ダ・ガマのポルトガルで、リスボンに繁栄をもたらした。

次にコロンブスとマゼランに資金支援をしたスペインが栄える。

オランダの出番はこの次だ。

オランダは一時領有されていたスペインの圧政から1581年のこの日7月26日に独立し、東インド会社を拠点に香辛料貿易を独占、17世紀に花を開かせる。

(続く)

(学23期kz)

軽井沢・信濃追分駅

過去投稿から

2016-6-30 Facebook投稿より引用

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  


◆昨日は所用で、軽井沢迄日帰りで行って来ました。
軽井沢は1998年の長野冬季オリンピックで勤務先の保養所に泊まって、スピードスケート10,000mのオランダ・ロメ選手の世界新での金メダルのレースを観て以来2度目です。

◆待ち合わせ時間は11時でしたが、早めに着き、しなの鉄道しなの鉄道線の信濃追分駅まで足を運んでみました。
信濃追分駅(標高957メートル)は昭和26年映画の「高原の駅よさようなら」の野村俊雄(水島道太郎)と泉ユキ(香川京子)の別れの名場面のロケ地となった駅です。 
しばし佇み、64年前の映画のカタルシスに浸りました。

◆その後は待ち合わせしていた仲間と信州名物の天ぷら蕎麦を食べ、沢村ベーカリーで談笑。
夕方からMさんの邸宅に移動し歓待を受け、東京に帰って来たのは深夜の0時でした。
すぐ近くにはビル・ゲイツ氏の別荘もあるらしい。
(学22 Y・Y)

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そうだったのか、日の丸・君が代

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

まもなくパリオリンピックが始まる。

表彰式につきものの国旗と国歌。

日本人が表彰台に上がれば、日の丸と君が代だ。

国旗と国歌の起源

各国とも、国旗と国歌の歴史は古いのか。

そうではないのだろう。

日本でも「日の丸」や「君が代」も、古くから、ある地域で、またはある儀式で、限定的に用いられていたようであり、その限りで歴史は古い。

しかし各国とも、統一国家としてのシンボルである国の旗と国の歌が用いられたのは国民国家が成立した時であろうし、そうであれば、遠い昔のことではないはずだ。

ペリー来航が1853年で19世紀半ばのこと

国が開かれ、異国船があまた行き交うようになれば、遠くからでもどこの国の船か判別が付くように国旗を掲げ、また、降り立った使節団を迎える折には儀礼上、国歌を奏で合うことになった。

日本の国旗と国歌。

その起源を調べてみると・・・

◆「日の丸」のルーツ

日の丸は、聖徳太子が遣隋使に託した、赤い太陽が昇る「日出ずる国」の赤と背景の白、縁起の良い「紅白」となり親しまれている。

また源平合戦の時に、平家は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を用いたが、勝った源氏の旗が受け継がれることになったようだ。

幕末においては、多くの外国船が渡来するにあたり、外国の船籍を見分ける必要が生じ、我が国もこれに呼応し、日本国の旗を掲げ航行することが求められた。

定説では薩摩の島津斉彬と海防参与・水戸の徳川斉昭の進言によって「日の丸」の旗を用いることになり嘉永7年(1854年)に布告されたとされる。

この決定については老中首座・阿部正弘から海防掛一同に諮問があり、掛にいた優れものの役人・川路聖謨が「白地に赤の日の丸」に最も積極的に賛成した一人だったという。

◆「君が代」のルーツ

では、君が代はどうか。

元歌は古今和歌集にある。「詠み人知らず」として収められた類似の古歌である。元歌では上の句の出だしが、「君が代は・・・」ではなく、「我が君は・・・(続きは同じ)」で始まる賀歌となっている。

徳川時代、元旦の大奥では、御台所が将軍に年賀の挨拶をする前に「おざれ石」なる儀式があったという。

御台所が身づくろいを整え、廊下に出ると、毛氈が敷かれ、タライの中には石が三つ。

御台所が着座すると、向かい側のお中臈が古歌を唱える。

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の」・・・と。

それを受けて御台所が

「いわほとなりて 苔のむすまで」と下の句を詠う。

こうした元旦の儀式は国持大名級を持つ地域でも行われていたようで、歌の節も似通っていたようだ。

これがどのようにして「国歌」となったのか。

そのきっかけは何だろう。

これには諸説あるようだが、有力な説として伝えられるエピソードは以下のとおりだ。

明治2(1869)年、英国から王家の貴賓これあり、浜離宮でもてなすこととなった。

この時、英公使館に居た軍楽隊のフェントン隊長から、日本の来賓接遇担当者である薩摩出身の原田が問われる。

日本の国歌はどのようなものか、教えてほしい。

問われた薩摩出身の担当役原田は面食らい、慌てふためくが、相談した旧幕臣の通訳官乙骨(おつこち)が、苦し紛れに大奥しきたりの「おざれ石」の節を口ずさんだ。

すると原田が大いに驚く。それならおいどんも存じ申すと。

薩摩にも同じような儀式があったようだ。

これをフェントン隊長に伝え、フェントンが洋風流にアレンジして奏で、その場は事なきを得た。

しかし、フェントンのアレンジは洋風だったため、宮内省の伶人により雅楽の音律を入れて改作され、さらに洋楽の吹奏楽譜を付けたのが海軍雇のドイツ人音楽家のエッケルトという人物だという。曲ができたのが明治13年の話だ。

その後、航海で他国を訪問する海軍が良く使うようになり、我が国で祝祭日に用いられ始めたのが明治半ばからだという。

意外と歴史は浅い。

そして法律として制定されたのは20数年前だ。

「国旗および国歌に関する法律」で国旗・国歌として定められたのは、平成11(1999)年である。

ようやく四半世紀が経ったところだ。

(学23期kz)

志村けんさんの思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】


◆私が社会に出て働き始めた昭和49年に荒井注さんに代わってドリフターズに加入された時の印象は真面目な青年ではあるが、この人ではお笑いは務まらないだろうなあでした。
私には個性的なメンバーから浮いて見えたのです。

◆私はテレビのお笑いは殆ど観ませんが、それから時が経ち、確か53歳の時に北の湖部屋の千秋楽打ち上げに参加した時にお会いしました。
私は下座のテーブルでしたが、志村さんは上座の離れたテーブルに座っておられました。
有名人大好き人間でミーハーな私は志村さんらしき人に気付きましたが、眼を凝らしても、しょぼくれた一般人のオジサンが寡黙に煙草を吸っていて、違うなでした。

◆祝賀会の懇談が続き、志村さんではないかと会場がざわつき始め、司会進行の方が志村さんを紹介するとスイッチが入りオーラ全開でした。
どうもゲストではなく後援会員の方とお忍びでられていたようです。
北の湖親方の後ろから股間にビール瓶を挟み、気が付いた北の湖さんがむっとした瞬間にアイ~ンで祝賀会は笑いの渦となりました。
(写真)
その後、志村さん、中山秀征さんにスリーショットをお願いし、快く応じていただき、私にとって終生忘れられない思い出の一枚となりました。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
(学22期 Y・Y)

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がんばれ大学

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

◆止まらないランキング低下、学位の価値

最近大学の国際競争力のランキングが発表されるようになったが、日本の大学のランキングは年々低下している。

国内で君臨している東大や京大でも世界でのランキング低下が止まらない。

こうしたトップ校以外でも、大学に籍を置く学生にしても、また授業料の出し手の親も、本当に大学に籍を置き、授業料を払う価値があるのか疑問視する声も出てきそうだ。

我々同窓生も傍観はしたくない。何らかの貢献ができないかという思いはある。

大学の研究者やまた後輩の学生が新聞に取り上げられるような活躍をすれば、同窓会組織としても支援のし甲斐があるというものだ。

◆学位の価値

以前、米国の学生を対象にしたショッキングなアンケート調査結果が新聞報道されていた。すなわち、4年生大学の学位には学費に見合う価値がないと答えた割合が56%と5割を超え、価値があると答えた割合が42%という記事だ。

10年前にはこの割合が同40%と53%だったため、悪い方向に数値が逆転したのだ。

米国はもともと学費が高いが、最近の物価高騰、公立大への財政支援削減、また労働市場のひっ迫から、企業サイドでも学歴を不問にして求人をしていることからこうした結果が出たとの解説が付されていた。

日本の大学の授業料も、引き続くデフレ下にあっても下がっておらず、特にコロナ禍では学生諸君や彼らの親の懐具合は苦しく授業料の払いに苦労したはずだ。

こうした苦労をして学生諸君が卒業・就職しても一生安泰な職場が待っているとは限らない。

◆大学経営

今後日本の経済成長を支える決め手である労働生産性引上げのためにも若者を育てることが重要課題になっているが、大学の学位取得に関しては、オンラインでの無料講座でも公開されているほか、構造的な問題として少子化問題もあり、学生数の減少に伴う授業料収入の低下という問題に直面しており大学経営を脅かしている。

こうなると今後、大学が経営として成り立っていくのか覚束ないことになり、前途多難な道が待っているようにみえる。

◆新たな一歩はどのように

これを避けるにはどうするか。

これまでのように外国人や社会人のほかにも、退職者、Uターン者、近隣市民を取込み、行政や企業とも密接な交流を深め、地域の知の拠点としてこれまでとは違う一歩を踏み出して行ってはどうだろう。

このためには大学が「知」で身構えた聳え立つ城というのも凛々しくて良いが、垣根を低くし、地域の人々に開かれ、愛され、親しまれる、敷居の低い「知」の拠点になるのも良いのではないかと個人的に思う。

(学23期kz)