幕末の英仏在日公館 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 7月トピックス】

 ◆英パークス公使と仏ロッシュ公使

英国の初代公使のオールコックは仏ロッシュ公使と同い年(離日時は56歳)であった。オールコックは薩長に接近しながらも幕府への距離を保っていたのに対し、2代目のパークスは少壮精鋭で赴任時は前任オールコックよりも20歳若く公使着任時は37歳。以前清国ではオールコックに仕えていた。

日本の内政に関しては、オールコックよりもより鮮明に反幕・薩長支持の姿勢を打ち出し、このため佐幕派の仏ロッシュとの対立は火花を散らしていた。

英パークスと仏ロッシュ公使は、軍制の日本への導入に当たっても陸軍と海軍で、やれフランス式だ、やれイギリス式がいいと、互いに張り合い、競い合い、時により激しく対立している。

アーネスト・サトウより6歳上の英国公使館の書記官ミットフォードは、「両者はお互い憎しみあい、女のように嫉妬し合っていた」と日記に書き残している。

オールコックは武力で貿易の扉をこじ開けた(アロー号事件)。パークスもオールコックのやり方を目近かで見ている。

影が薄い仏ロッシュだが、我が国にとっては、英国の独走に対する牽制役となったのであり、我が国の一部でも香港のような植民地にならずに済んだともいえる。日本にとってロッシュの真の価値はここにあったのかもしれない。

追記

最近になって歴史の検証が進むに連れ、明治維新とは英国のアジア戦略の一環であり、江戸の無血開城も英国の手引きによるもの、との見方も有力になってきつつあるようだ。

当時の世界のスーパースターであった大英帝国

その英国の幕末日本における意図と行動。

仏とのせめぎ合い、露の日本進出に対する英の牽制・・・

英国が日本の変革期に与えた様々な関与が今後徐々に明らかになってくるのかもしれない。

あるいはこのまま歴史の闇に埋もれ、表に姿を見せないままひっそりと蔵に眠るのかもしれない。

どこからか、そして、なんらかの力学が作用して。

(学23期kz)

幕末の英仏在日公館  その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 7月トピックス】  

幕府・親藩、譜代大名と薩長のような外様雄藩との間で覇権争いが続く中、諸外国は開国後の日本の主導権を握ろうと、日本の成り行きを注意深く観察し、関与の度合いを深めていこうとしていた。

幕末の日本。

それはそれで飽きない面白さがあるが、こうした国内の動きと合わせて、我が国への関与を深め始めた海外列強の動きを重ね合わせてみると、立体的な歴史の絵柄が見えるような気がする。

動きを見せていたのはロシア、アメリカ、イギリス、フランス。

アメリカは1620年に東海岸に着いたピルグリムファーザーズたちが、瞬く間に西海岸まで勢力下に収め太平洋を越えて日本、アジアを目指していた。

また、欧州の大国もインド、中国、インドネシアを押さえ、日本に近づいてきていた。

この時日本は“いわゆる鎖国”の状態で、欧米諸国には「未開の大国」と映っていたはずだ。

ただ、幕末、すなわち明治維新直前について各国の事情をみてみると、米国は南北戦争やリンカーンの暗殺事件といった混乱期にあり、またロシアはクリミア戦争の敗北から国内で農奴解放などの改革を余儀なくされ、国内事情で手一杯であったようだ。

欧州では英仏対立が生じていた時代であり、両国は我が国への関与においても主導権を争っていた。

 

◆フランス公館

フランス公使ロッシュは幕府に近づき、日本の貿易を独占しようと図っていた。ロッシュは諸藩に対する幕府の支配力強化を願っていた。ロッシュは将軍慶喜に対し、薩摩は生麦事件で外国人に斬りかかり薩英戦争を起こし、長州も外国艦隊を砲撃したが、こうした事件をきっかけに英国と繋がった薩長の動きを警戒するよう進言している。

また、ロッシュは日本からの輸出品、当時は品質が良く、世界の中で競争力を持っていた生糸の輸出に当たって相談にのり、貿易金融や輸出先開拓等各種便宜を図っている。

しかし、ロッシュの情報源がいけなかった。日本語の通訳や情報の入手先は通訳カション神父やセジラール神父に頼っており、大政奉還時は熱海でリューマチの治療に出かけていたことからも分かるように、情報収集の体制構築に甘さがあったようだ。

カション神父は日本語が相当流暢に話せたようで、フランスを頼って幕府を建て直そうとする外国奉行栗本鋤雲(じょうん)などの幕閣と近づく。しかし悪徳めいたことも陰でやったようでもあり、人物としては栗本さえからも「小者だ」として高くは評価されず、西郷隆盛はカション神父のことを何と「奸物」、勝海舟は「妖僧」とのレッテルを貼っている。

◆イギリス公館

その点、通訳でもあり優秀な日本通の書記官アーネスト・サトウを使っていたパークスは強かった。

17世紀に日本にやってきたオランダ東インド会社のドイツ人医師ケンぺルが著した日本に関する書物「日本誌」では「タイクン(大君・将軍)」が国のトップであり、これまで「ミカド」は精神的・宗教的な君主にすぎないとされた。しかし、薩長が付いた「ミカド」は名目的な存在から政治的なトップに性格を変え始めており、「ミカド」とそれを支えながら、倒幕を目論む薩長がこの先、国の主導権を握るとみて、薩長に傾いていく。

つづく

(学23期kz)

レノファ山口FCパブリックビューイングに参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】


◆7月9(土)の東京は夕方から激しい雷雨に見舞われ、閉口しましたが、東京レノサポ会主催のPVがHUB東京ドームシティラクーア店で19:00キックオフであり、久しぶりに参加しました。
対戦相手は維新みらいふスタジアムでの鹿児島ユナイテッドFCでした。
(観客動員数5,869名)

◆今回、宇部高校の同窓会(東京かたばみ同窓会)が、近くの椿山荘東京で昼間あり(約400名参加されたとか)、3次会で急遽参加された方が同じテーブルや隣のテーブルに多く、同校出身のユニクロ柳井正会長、紀藤正樹弁護士、PL学園桑田、清原相手の宇部商業の夏の甲子園決勝戦での大健闘等宇部の諸々の話題で盛り上がりました。
宇部高校の絆が凄いです。

◆試合は一進一退の攻防ある展開でしたが、得点には至らず、引き分けかなと思う雰囲気でしたが、81分、河野孝汰選手がゴールを決め、総勢34名の参加者は雄叫びを挙げ、ハイタッチで大変な盛り上がりとなりました。
試合はレノファ山口がそのまま守り切り、1-0で勝利しました。
この結果11勝7敗5分で、J2、5位浮上となりました。

◆帰途に就く頃には東京ドームでのKis-My-Ft2のコンサートが終わったばかりで、若者で溢れ、私まで若返った気分になり、スキップしたくなりました。
(学22期 Y・Y)

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「黒田真二、春の選抜全国高校野球優勝」(過去日記から)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  


2015-7-5mixi日記投稿分より引用

◆黒田真二さんは1976年、広島・崇徳高校で春の選抜で全国制覇した優勝投手です。
甘いマスクで当時、女性からも絶大な人気がありました。
私は社会人3年目でしたが、地元の広島で綺麗なフォームに魅了されて応援したものです。
兎に角、恰好良かった。

◆相思相愛の広島カープに行くと思われたが、日本ハムが一位指名。
入団を拒否し社会人野球の日本鋼管福山に進むが病気を患い、その後、リッカーに。

◆1982年にヤクルトスワローズにドラフト外で入団し、一年目は登板機会も多く、それなりに活躍したが、その後は登板機会もなく打撃投手に。1999年に退団している。
私が打撃投手をされていると気づいたのはヤクルトを退団された1999年の納会前であった。
ひと目会ってお話したいと納会に参加したが、黒田さんは出席されていなかった。

◆広島カープにすんなり入団されていれば人生は変わったかもしれないと思います。
崇徳高校から入った同級生の山崎隆造や小川達明は広島カープで活躍しています。
同じプロ野球なんだから、日本ハムでもと思うが、本人は憧れの広島カープ、譲れなかったのだろうと思います。

◆現在は八王子の自宅を改造されてスナックをされていると聞いています。
私も早く元気になって一度、店にお邪魔をして昔話をしたいと思っています。
その時は崇徳高校出身の後輩とでも行きますか。

追記)
・2020年9月に肺がんで死去されていたのをネットで知りました。(享年62歳)💧
T社の野球部出身で黒田さんを知る崇徳高校の先輩のK氏を通じ会いたいと頼んでいましたが、実現しなかったのは病気療養中だったのか。

・その崇徳高校は春夏合わせて5回甲子園に出場していますが、1993年の春の選抜が最後で、久しく途絶えています。
夏の甲子園広島大会予選は7月7日から始まりますが、広陵高校、海田高校の2校が第一シードです。
(学22期 Y・Y)
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角界や将棋界やプロ野球界で、挑戦したいと思う人は増えるのだろうか。

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】


◆今回の小結大の里の優勝は近い将来の横綱を予感させるもので度肝を抜かれた。
千秋楽のAbemaの解説で元若乃花の花田虎上さんは白鵬の優勝回数を抜くかもしれないと。
まだ、24歳になったばかりで、あと12年相撲を取ると仮定しても、年6場所の4場所制覇して、48回の優勝回数となる。
5場所で60回となる。
大怪我をしないとか強いライバルが現れないという前提はあるが、私は期待より、そうなると詰まらなく感じる。
毎回、大鵬や千代の富士や白鵬ではその力士のファンの人は良いが、それ以外の人は…。
ただ、お父様が「北の湖さんのように憎まれる程強い横綱を目指してほしい。」は北の湖の大ファンだったので嬉しい。

◆将棋界では藤井聡太さんが、叡王戦で同い年の伊藤匠七段に敗れ、八冠を維持出来なかったが、賞金を一人占めすると趣味として将棋の差す人の裾野は拡がるかもしれないが、プロとしてやってみたいという人は更に限られるのではと危惧する。
プロの棋士は賞金だけが目当てとは思わないが…。
伊藤匠叡王も、その後、師匠との動画等を観たが、爽やかで実に感じが良い。

◆私の父は職場の将棋大会や広島平和公園で将棋を差し、景品を持ち帰り、暇を見つけて自宅で、将棋の研鑽もしていましたが、どの程度の実力だったのだろうか。
学生時代に下宿でよく将棋を指してしいる友人はいたが、私は全くの関心外で蚊帳の外。
当時は故郷広島の作家の梶山季之先生の痛快小説「と金紳士」の話を友人と交わした記憶しかありません。💦

◆大谷翔平さん然りです。
契約金も断トツで、おまけに水原通訳の暴走の話題、奥さまとの結婚報道や始球式の美談まで付いて、話題を一人占め。
超天才で努力家で人格者なのは認めますが、日本のプロ野球ファンの私は大リーグが先のスポーツニュースの報道に閉口する。
アマチュアは兎も角、プロとしてやってみたいという人は限定されるのではと爺の私はついつい心配してしまう。

◆今日も東京都の最低賃金程度の時給の仕事に感謝している謙虚な?自分がいます。
少し話は脱線しますが、世論調査会社イプソスによると最近発表された調査で、日本人は幸福度調査で、主要国で世界でワースト3とか。
(学22期 Y・Y)

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ゴルフ、何でそうなるの! ⑥空振り 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

◆ゴルフは結構難しい

ラウンドするのに気持ちの良い季節になった。

当たれば気持ちが良い。緑の芝生と碧い空、そこに白球が吸い込まれてゆく。

しかし、初めてゴルフクラブを初めて握った時には、空振りを連発した。

中学、高校とテニスをやっており、球の扱いにはそれなりの自信があったつもりだが、降れども球に当たらない。不思議な感覚だった。

テニスでは動いた球を打てるのに、動かない球を空振りする。

どうしたことか。

◆職場コンペ大はやりの時代

若い頃、職場でコンペをするというので、若手職員も一斉にやり始めた時があった。

平日はドロドロになるまで仕事をしたが、年に2回、春と秋に職場でコンペをした。

今から思えば、時はバブルの頃だった。

部局の「偉いさん」の間でもゴルフ熱が盛んだった。

若手職員たちの間でもゴルフを始めようという機運が高まり、新品のゴルフクラブ一式を買いに走った。

中には、ゴルフショップで買ったクラブを包みも解かずコンペ会場に直送し、コンペ当日、新品のゴルフクラブを包んだビニールを剥がして球を打つツワモノもいた。

上から下までゴルフが流行っていた時代、中間管理職も煽られる。

◆私の上司も初参加

私の上司で、分厚い眼鏡をかけた学究肌の心優しい中間管理職・三条殿(仮名)がおられた。

みるからに体育会系とは真逆、お公家さま風貌をお持ちの御仁だ。

その三条殿、上司からの勧めでコンペに初参加される羽目になった。

その三条殿に打順が回ってきた。

第一打目。

クラブヘッドが空を切る。

仕切り直して、第二打目。

当たらない。

顔がカッと上気する。

緊張したときには、同じミスが何度も起きる。

その後も空振りが2~3回続き、見守る参加者の中で、重苦しい雰囲気が漂う。

しかし、周りから「もう結構ですから」と声を掛けるわけにはいかない。

気まずい空気が充満する。

しかし参加者全員、その成り行きを見守るしかなかった。

どのようにゲームが進行していったのか、今ではよく思い出せない。

ずいぶん後になって三条殿を当時の若者が囲む「三条会」も開催されたが、「その」話題に触れる部下は誰一人いなかった。

・・・一次会では。

(学23期kz)

品川弥二郎のはなし その2

山口大学経済学部同窓会 

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

◆錦の御旗

鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争。品川弥二郎といえばこの時、征討軍の進む沿道に伝わったのが“軍歌第1号”とされるトコトンヤレ節で、詞の作者として有名だ。これと共に、錦の御旗作製に一役買ったことでも知られる。

討幕の時、岩倉具視、大久保利通から図柄を示され、錦の御旗を作れとの命を受ける。大久保が西陣で織らせた大和錦2反、紅白緞子10巻を弥二郎に渡し、これを受けて弥二郎は長州に戻り、萩の有職師・岡吉春に旗の作製を依頼。岡は山口市一の坂川の川べりにあった諸隊会議所で人の出入りを厳重に禁じ、30余日をかけて、日月章の錦旗2旈、菊花章の紅白旗10旈を作り上げたという。

 ◆戦い終えた脱退兵の一言

戊辰戦争後に長州藩で起きた騒動で、一つの逸話が残る。

明治2年11月に長州藩での内戦、脱退兵騒動が起こる。戊辰戦争での戦士は約5千人。このうち圧倒的多数が農民であった。戦いが終わると「戦士」の扱いに困る。

このうち1500名が親兵に選ばれ次の職を得たが、残りの者はあぶれる形になる。これが脱退兵だ。この中には誇り高き奇兵隊に属していた者もいた。遺族や負傷兵への手当が要るが、藩の財政は底をついており、金銭面での対応ができなかったことから、長州藩内で脱退兵の反乱が起きた。

敵も味方も長州人。

お互い夥しい犠牲者が出た悲しい、壮絶な戦いだったという。反乱兵討伐軍は、最初は討伐自体をためらっていたが自陣の被害も出始めたことから態度を変えた。

態度を変えた後は、銃口がただれるまで脱退兵めがけて弾を撃ち込んだという。

この時、弥二郎は脱退兵の説得に向かった。無謀だとして引き止める側近を押さえての説得だ。脱退兵の中には、整武隊参謀であった弥二郎の部下もいたためだ。

弥二郎が説得に行った際、整武隊の部下だった初老の男が、弥二郎に身の危険が及ぶことを案じ、怪我なく弥二郎を逃がすために裏道に導いたが、その際掛けた言葉が弥二郎の脳裏から離れなかったという。

「おれらはここで死ぬるが、これからの若い者を、こねえな目にあわせない世の中を、生き残ったあんたがつくっておくれよ」

 ◆ドイツ留学で見つけた目標

弥二郎は明治新政府で要職に就くことを打診されるが、松陰が果たせなかった海外渡航の夢を継ぐべく海外留学を願い出る。留学の願いが叶えられるのが明治3年(1870年)、弥二郎が28歳の時。

渡航先のドイツで、明倫館で学んだ留学生、後に外交官となる青木周蔵からライファイゼンが唱えた農民相互扶助の金融制度である信用組合(ゲノッセンシャフト・バンク)を紹介される。欧州の工業化の過程で置き去りにされた農村にあって、凶作に見舞われたドイツの地で高利貸しに苦しめられた農民が、自衛策として創った金融制度だ。その理念は「万人は一人のために、一人は万民のために」。

戊辰戦争の後で、困窮する農民の姿が脳裏から離れなかった弥二郎はこの制度を日本に移植し、根付かせるという着想を得、これを生涯の使命と捉えた。松陰からの宿題・・・「生涯の果実を実らせるべし」。

ここに弥二郎は「生涯の果実を実らせることができる」と確信したようで、松陰に学んだ子弟としての途を見つけた。

 ◆病床での朗報

弥二郎が最初に信用組合法案を出したのが明治24年。拡充された協同組合法が衆議院を通ったのが明治33年(1900年)2月15日、貴族院を通り可決・成立したのが1週間後の2月22日、死の4日前であった。

そこで弥二郎は57年の生涯を閉じる。

死ぬ間際、病床にあり危篤状態で法案通過の報を受けた弥二郎は微かに眉を動かしたという。

品川弥二郎の瞑った目に映し出されていたものは、喜ぶ農民の姿であり、頭を垂れて礼を言う老兵であり、そしてようやく生涯をかけて実らせた果実を伝えたい生涯の師、数えで30歳のままの吉田松陰だったのだろう。

また、意識朦朧とした弥二郎の瞼の裏に映った松陰の脇には、入塾当時に弥二郎が淡い恋心を抱いた松陰の妹・文(ふみ)もいたはずだ。

(学23期kz)

目黒区民交響楽団 第99回定期演奏会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】  

◆6月23日(日)の東京は梅雨入りし、朝から雨模様で肌寒い一日でした。
マンション管理人として最初の派遣先のマンション(192世帯)の居住者に山口県下関市出身のプロのマリンバ(打楽器で木琴の一種)奏者のK・Fさん(女性)がおられて、毎年、年賀状の交換をしておりますが、ご案内をいただき、めぐろパーシモンホール大ホール迄行ってきました(今回はK・Fさんの招待)。
15年位前に「敷地内でハクビシンを見た!」と管理人室に駆け込まれたのが縁となりました。

◆前回は今年一月でしたが、最初に参加したのは2014年5月ですから10年前になります。
一時は大病を患ったこともあり、会場に足を運び、生でクラシック音楽を聴けるようになろうとは・・・。
感慨深いものがあります。

◆東急東横線の都立大学で降り、途中に柿木坂通りがありました。
会場のパーシモンホールのパーシモンとは柿の英訳だそうです。

◆1974年創立で年2回開催されている今年50周年を迎える歴史ある人気のコンサートのようで満席でした。
アンコールは聴き慣れたブラームスのハンガリー舞曲第5番で、生の演奏に大感動し、心が洗われる2時間となりました。(14時開演、16時終演)

◆終演後、撤収にお忙しい中、マリンバ奏者のK・Fさんに10年ぶりにお会いし、ご挨拶することが出来ましました。
帰途に就こうと外に出ましたら雨は漸くあがっていました。

ロッシーニ/歌劇「ウィリアム・テル」序曲
ベートーヴェン/交響曲第1番
ブラームス/交響曲第2番
指揮:小森康弘
(学22期 Y・Y)

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品川弥二郎のはなし その1

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

昨年の第2回長州歴史ウォークは靖国神社から出発した。靖国通りの反対側にある九段坂公園内に品川弥二郎の像が立つ。

◆松陰が愛した塾生

幕末から明治初頭にかけて、多くの志士が活躍し、その人となりについて多くの書籍が出ているが、品川弥二郎を主人公とした読み物はさほど多くない。長州藩にあって有名どころの木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文よりも年少であったこともあり、歴史小説では彼らの脇役として描かれることが多く、影が薄い。

しかし、長州藩の偉人の多くが吉田松陰に学び、松陰を慕ったが、その松陰がたいそう可愛がったのが15歳で松下村塾に入ってきた品川弥二郎だ。

松陰から入門理由を尋ねられた弥二郎は「人を助ける人間になりたい」と答えたという。

 ◆松陰の弥二郎評

松陰は入門時の弥二郎の印象を「その容色温直敦朴(じゅんぼく)なり、余一見してこれを異とす」としている。これまでの塾生とは異なり、見目麗しい純真な心を持つ青年ながら、弥二郎に特別な「気」を感じ取っているようだ。

松陰が弥二郎と同じ時を過ごしたのは一年ほどしかなく、「事に臨みて驚かず、年少中稀覯(きこう‐非情に稀の意)の男子なり。弥二(ママ)は人物をもって勝る」と評している。正直で明るい性格だったようで、温厚正直でうわべを飾らず、心が広く奥深いと見ていたようで、松陰はそこをたいそう愛でたようだ。

塾生がやきもちを焼くほど弥二郎は松陰から可愛がられており、実際塾生の間で弥二郎は松陰の「秘蔵っ子」を呼ばれている。

他方、弥二郎の学問の出来はどうだったのか。弥二郎は入塾するまでに別の私塾で学び、四書の素読を終えていたが、松陰は弥二郎の漢籍に対する読解力が一人前に達してはいないと評価していた。

松陰が獄中の間、弥二郎の3歳年上の久坂玄瑞に弥二郎の指導役を頼んでいる。入塾1年後、弥二郎の学問習得は特に進んだわけではなかったが、松陰は「旺盛な気力は他の追随を許さないものがあり、私はそれを愛してやまなかった」と述べており、学問のできよりも気力を褒めた。他の塾生にとっては妬ましいほどの気に入り方ではないか。

 ◆「松陰」になっていく弥二郎

松陰が刑死したのは弥二郎が17歳の時だ。生前獄中の松陰に一番多く会いに行ったのが弥二郎だったという。弥二郎は松陰が門弟のために著した獄中遺書「留魂録」を繰り返し読み、その中に記された、「それぞれが己の人生の春夏秋冬を悟り、それぞれの果実を実らせよ」とする松陰の命題と格闘し、悶え、松陰の遺志に真剣に応えようとする。

松陰の面影を追い、叶わぬものの半ば松陰になり切ろうと藻掻いた弥二郎。弥二郎は風貌を気にすることはなかったというが、これは松陰を真似てのことだったという。

 これは行動面にもあらわれる。志士としての側面だ。安政の大獄時、水戸藩士が大老・井伊直弼に手を下すなら、(京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとっていた)老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を斬るとの激情を抱き、その実行を公言した吉田松陰。純真で一本気、日本を変えるために敢えて犯す「狂挙」を門弟にも教えた吉田松陰。弥二郎も高杉らと尊王攘夷活動を共にしており、英公使館焼き討ち事件などにも参加したが、馬関戦争では高杉が行った外国艦隊との和睦には強い反対を唱え、戊辰戦争での榎本武揚に対しては厳しい処分をとるべきと硬派の主張をした弥二郎。ここには松陰の影が見える。

禁門の変では、敗戦の色が深まる中で、弥二郎は共に参戦した久坂に介錯を願うが一喝され、代わりに久坂の自刃を目の当たりにするという悲惨な体験をした。

その後、木戸孝允の下で薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀・整式隊参謀を務めるまでになる。このように危機的な局面をくぐりつつ、松陰の遺志を受け継ぐことを手探りで模索しながら、弥二郎は成長していく。

遺る弥二郎の写真

写真に遺るカイゼル髭をたくわえた品川弥二郎。入塾時は穏やかな表情の持ち主だったはずだが、松陰になり切ろうとするあまり、松陰の「気」を受け継いだようでもあり、ある種の凄味を窺わせる風貌を備えている。

尊攘堂

新政府ができると弥二郎は要職に就く。農商務省に在籍していた時、視察で訪れた茨城県で水戸藩士が持っていた松陰の手紙を偶然手にする。この手紙は松陰が処刑される7日前に萩の長州藩士・入江杉蔵に宛てたもので、松陰が構想していた学問所創設にかかわるものであったという。この学び舎は「天子・親王・公卿から武家・一般人」まで学ぶことができるもので、松陰はこの施設を京都に建てたいとの思いを持っていたのだ。

弥二郎は時世を考慮して、学び舎ではなく、明治維新を記念する資料館とすべく私財を注ぎ込んで遺品を収集し、京都に尊攘堂を開設、松陰の遺志のひとつを結実させた。

もうひとつ、松陰の命題に対する弥二郎が見つけた答え、その人生を掛けた大仕事だった。

・・・・・続く

(学23期kz)


進まない改革 ②沈黙はカセ(枷)なり

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

前稿では、総論賛成でありながら、なぜ改革が進まないかを考えてみた。

言うまでもないが、そもそも改革の機運生まれた時に、総論反対を唱える者もいる。

すなわち、改革論が出た時に

・それでどうなる

・失敗したらどうする

・誰が、どう責任を取るのか

・・・よく聞くセリフだ。

これらは改革の機運に冷や水を浴びせるもので、改革を封印する殺し文句でともいえる。

こうした議論への対応は別の機会で述べるとして、この稿では総論賛成でありながら、なぜ改革がうまくいかないか、特徴的なケースを挙げて検討する。

ここでいう総論賛成とは、すなわち表面的には総論に反対してはいない場合も含まれ、実はここに問題が潜んでいる場合が多い。

◆改革頓挫

各論で賛成が得られないケースをみてみよう。

  • 改革の過小評価

当初、改革が具体的にどのような形で自分の身に影響が及ぶか読み切れておらず、議論が深まるにつれて自らへのマイナスの影響が可視化される場合

  • 情報共有への消極姿勢

同じ会社内で事業分野が統合され、垣根が取り払われると、各部門の情報が共有されることになる。

この場合、自ら苦労して集めた経験や情報が新たな仲間に「タダ」で供与され、共有されることに不快感を示す場合がある。

  • 改革の方法論へのこだわり

改革のやり方、改革の方法論にも拘りが出る。

改革に賛成でも改革のやり方に執拗な拘りがあれば、改革そのものに反対に回ることが往々にして起きる。

  • 改革に伴う新たな対応への消極姿勢

業績を上げるには、不要な業務、生産性の低い業務、旧態依然とした業務をしている分野から、新たな分野、生産性の高い分野、世界と競合できるような分野へ経営資源を集めることが必要になる。

この時にそうした分野への人材のシフトが必要になるが、リスキリングを含め、自己変革を迫られる働き手の抵抗が始まる。

中間管理職に多いリスキリングへの消極姿勢

日本の企業で指摘されているのが、社員が学び直しをせず、リスキリングの意識が低いという点だ。

しかも、こうした層は中間管理職に多いという。

少し古いデータになるが、我が国の大手人材系シンクタンクがアジア・太平洋地域14か国を対象に2019年に行った「

就業者の就業実態・成長意識調査」では東南アジアやインドでは、社外学習・自己啓発が活発で自己研鑽に意欲的であったが、日本は「とくに何も行っていない(学ぶことをしていない)」と回答したのは、およそ半数にあたる46.3%。各国比較でも日本が突出して高かったという結果が出ている。

◆厄介な「沈黙(サイレント)層」・・・沈黙はカセ(枷)なり

改革を行う場合、より深刻な問題は、ぎりぎりまで意見を言わず、なかなか正体を現さない「沈黙(サイレント)層」が多く存在する点だ。

彼らは改革論議に際し、意見を言わない。

ある程度しっかりした意見を持っている者でも、自分の意見をつまびらかにしない。

実に奥ゆかしい。

しかし、改革論議の際にはこれが困る。

その理由はいろいろあろう例えば・・・

自分が「出しゃばり」のレッテルを貼られるのを嫌う

議論に慣れておらず、意見を述べることが恥ずかしい

直属の上司の顔色を伺う

他部門との衝突や他部門からの批判を恐れる

自分の改革案で成果が上がるか否か不透明で、自信がない

しかし、こうした層は総論が通るまで、みんなの前ではダンマリを決め込んでいるが、実際に改革が実行されそうになり、自分の身に自己変革が要求される改革の波が押し寄せてきそうになると、途端に反対の声を上げる。しかも猛然と。

これが問題だ。

ここでトップがリーダーシップを発揮し、反対派を説得できば問題ない。

しかしリーダーが大所高所の見地から改革をリードしようとしても、役員を始めとする社員の改革意識が低場合、議論が空回りする。

改革論議の漂流だ。

こうした場合、議論をもう一度スタート時点、すなわち総論からやり直すことになる。

こうした例が身の回りにあまりに多いような気がする。

政治の世界や役人の世界しかり、一般企業の場合もそうだ。ひいては身の回りの自治会、マンション理事会などなども同様だ。

これに比べ、戦国時代は異なる。

時代劇、特に戦国時代の議論の風景をみると、賛成、反対に分かれて実に真剣に意見を戦わせる。

何も脚本家が場面を盛り上げるためにいたずらに激論を戦わせる場面を盛り込んだのではないように思う。

戦国時代、主張することはしっかり主張しないと、己の身があっという間に物理的に滅びることになる。すなわち死に直結しているから真剣に意見を言い、議論を戦わせる。

◆沈黙(サイレント)層の意見を引き出す匿名web会議

コロナ時代に流行ったweb会議がある。

名前を伏せて会議に参加できるのだ。

恥ずかしがり屋が多い日本人には、場面によってはこうした匿名web会議が有効に機能することがあるのではないか。

こうしたツールを用いれば総論の賛否を議論するときから、意見を開陳する垣根が低くなり、上司や他部門の顔色を伺うことなく議論できる。本音の主張が増え、議論が活発化することも期待できる。

重鎮が揃う役員や幹部会でも有効かもしれない。

匿名web会議が改革に効率的に辿り着く有効な意見交換の場となるよう、運用の仕方を磨くことも面白い試みではないか。

(学23期kz)