「北九州フェリー旅」(9/24)投稿の“鳳波”の繋がり、拡がり

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

<岡山Bさんからの投稿>

◆現在山口現代美術館が建っている亀山の地には、1972年くらいまでは山口高商

より連綿と歴史を紡いできた山口大学経済学部があった。

80年代、その地に美術館が新設された。

当時を偲ばせるものとしては、これから秋が深まる中で黄金色に変わる大銀杏、

、一部だけ残る石垣、そして少し奥に控えている山口大学経済学部跡地の石碑

がある。

その石碑には「鳳陽寮歌」の歌いだしの詞、“花なき山のやまかげに・・・”、そ

して、平川地区移転までの歴史が刻まれている。

◆東亜経済研究をも担っていた山口高商には、高商、経専時代は留学生も多くいた。

山口より郷里の中国に、台湾に、朝鮮に想いを馳せ、また学生は、大海の向こう

の他国をも視野に入れ、大志を抱いたであろう。

そして今、その中心にあった山口に逆に想いを致す同窓生は多い。リタイアー後、

終の棲家として山口の地を選ぶ同窓も数々いる。

◆トピックス欄にSさんの投稿「北九州フェリー旅」が一つの波となり、それに呼応するか

のようMYZさんのものと続き、それぞれのその時の思いが文に込められる。

投稿場所もそれぞれの在住場所、東京と山口、また山口で過ごした時代に違いが

あっても、鳳陽会の友垣の波 ”鳳波”は時に共鳴し、時に同調する。

ふと、”鳳波”の繋がり、拡がりは、永遠なれ!と願ってやまない。

岡山B

(篤志家の同窓生の寄付により建設された一社)鳳陽会 本部事務所もその公園

内の北にある)

能吏・小栗上野介忠順 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆一刻者

信念を曲げず、忖度もせずものを言い、気も強かったため職を辞することが多い。

しかし相当出来る人物だ。

職を辞めても幕閣からはすぐに職の要請が来る。

職をすぐ変えることから「一刻者」と評されたようだ。

行く先行く先でよい仕事をするが、何せ上司にも忖度しない。

優秀がゆえにエリート中のエリートが得る「勘定奉行」の職に4度も就いている。

◆薩長軍への徹底抗戦を主張

慶応3年の大政奉還、明けて慶応4年の鳥羽・伏見の戦いが行われ、戊辰戦争が勃発。

慶喜の江戸帰還後、江戸城で行われた大評定。

ここで小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと薩長軍との主戦論(徹底抗戦)を主張。

決断を避け、場を外そうとする慶喜公の袴の裾を掴んでまで、殿・慶喜の再考を促すも、殿は小栗の手を払い奥に消えた。

この時、小栗の人生が決まった。

◆高崎で帰農

小栗はまもなくお役御免になり、領地の群馬・高崎で隠棲帰農した。

この時、慶応4年2月末に彰義隊の渋沢成一郎が小栗にアクセスしている。渋沢は小栗に彰義隊隊長(頭取)就任の話を持ってきたが、「(殿・慶喜に)薩長と戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない」と断ったという・・・

その後の小栗のあわれな顛末については、ここでは触れない。

上手く身を処せば、小栗は福沢諭吉や渋沢栄一のように1万円札の顔になったかもしれないとする識者の見立てもある。

しかし幕臣であることの矜持を持ち続けた小栗は、混じり気のない清らかな生き方をした。

「上手く身を処す」ことのできた他の幕臣とは異なり、純な能吏であった。

(学23期kz)

土光洋子 米寿記念 日本画展 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆10月12日(土)の東京は久しぶりの晴れで、気温26℃と穏やかな天気でした。
こうした中、東京・京橋のギャラリーくぼた 本館4階で開催の土光洋子さんの個展に行って来ました。
ビルが林立する京橋に着いたのは正午でした。

◆土光洋子さんとは先月の中野での5時間に亘る台湾講座受講でご一緒しました。
経団連会長や臨調会長を歴任された土光敏夫氏のご親族でもあります。
1974年に入社したT社で会長職にあり、川崎・柳町体育館での入社式で颯爽と登壇され、拝顔した記憶があります。
その話を再度し、不正会計に手を染め、とんでもない会社に堕落し、さぞや土光さんもご立腹されているのではという会話をしました。

◆土光洋子さんは米寿を迎えられたというのに凛とされていて凄くお元気です。
美人画を中心に40分堪能しました。

◆美術は子供の頃から大の苦手で小学生の頃の通知表は5段階の2でした。
得意なのは校庭に円を書いての相撲(得意技は腰投げ)と給食時間の早食い競争のみで、飲み込むので、いつもクラスで1番か2番でした。

これまで訪れた美術館)
ひろしま美術館、広島市現代美術館、足立美術館(島根県安来市)、横浜美術館、MOA美術館(熱海市)、東京国立博物館、東京都美術館、上野の森美術館
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

牧水と山頭火 Vol.2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆旅と酒を愛した歌人

若山牧水(1885年~1928年)は、旅を愛しました。「漂泊の歌人」としての彼の代表的な歌は、Vol.1で 紹介しました

『幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく』

です。

この歌は満たされぬ思いや様々な苦悩を胸に秘めて、寂しさの解消される「心の平安(peace of mind)」や「幸福(happiness)」、 あるいは心穏やかに過ごすことのできる「安住の地(safeliving land)」を求めて旅を続けた彼の生きざまを表現した歌だと思います。

しかし結局、それは見つけられず、酒浸りになり、肝硬変で43歳の若さで亡くなります。

大の酒好きで一日に一升程度の酒を呑んでいたそうです。

暑い夏に亡くなったのに、死後しばらく経っても腐臭がしなかったため、「生きたままアルコール漬けになったのでは」と医師を驚嘆させたとのエピソード があります。 

◆旅と酒を愛した俳人

 種田山頭火は、山口県佐波村の生まれ。早稲田大学まで進みますが、中退して故郷の酒造業に従事します。

 大正2(1913)年、荻原井泉水に学んで俳句を作るようになります。しかし事業の経営に失敗してしまい、 熊本や東京などに移り住みますが、結婚生活もうまくいかずその後出家、大正14(1925)年にはあてのない放浪の旅に出ます。

その後は九州、四国、中国地方などを放浪しながら俳句を作りつづけます。孤独を求めて 旅に出たのに、疲れると、もとの妻のところに転がり込むこともありましたが、

昭和7(1932)年には山口県小郡町に草庵を結び6年間を過ごします。

最後の地は、愛媛県松山。

脳溢血で亡くなります。享年59。

 社会も家族も捨てた、その人生は傍目には勝手気ままにも見えますが、彼にとっては作句と旅とは一種の修行であったようです。

若山牧水よりも破滅的でしたが、金欠でカネが続かず休肝日が続き牧水より長生きしました。

『この旅、果もない旅のつくつくぼうし』

『鈴をふりふりお四国の土になるべく』

 

◆最後に

 共通項 ほぼ同時代に生き、旅と酒を愛したこと

  牧水  1885年(明治18)~1928年(昭和3)43歳 

   旅と酒    楽しい酒、お酒が美味い

「人の世にたのしみ多し然れども酒なしになにのたのしみ」

  山頭火 1882年(明治15)~1940年(昭和15)59歳

   酒と旅 山頭火の内面、どこか寂しい

「ほろほろ酔うて木の葉ふる」

   了   29期 K.Y.

2024年度 第1回「こころの語り場」の会に参加して思うこと

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

MYZ(宇部山陽小野田支部所属)さんからの投稿

2024年10月5日記

今回の“こころの語り場”で目指すところは「若年層・シニア層に関わらず、仕事・進路決定・家庭の事など人生にはあまり回数が多くないかもしれないがここ一番という困難に向き合うとき、自分の全力を挙げて事に当たらないと物事は前進しないものです。この語り場のなかから、人を動かす気迫を身に付けることを願う」としている。

この会の手法は“読書会”と“意見交換会”である。

この度は河合隼雄著「こころの処方箋」の55作あるうちNo.12の「100点以外はダメな時がある」、他2~3のエッセイを紐解いた。

コーディネータは、薄井洋基氏(神戸大学名誉教授)と三島瑞穂氏(宇部フロンティア大学准教授)、参加者は20数名、老若男女7~8名のグループで3チーム、夫々にコーディネータが付き議事を進める。

薄井氏から今回の語り場の趣旨説明、それは、“読み合わせ”から各自の理解と気づきを深め、その後“モヤモヤ”“わからない”“面白い”などありのままに語り合い質問をお互いに投げかける。

そのことで“創発”への道筋が発見できるとのこと。

すなわち各自の暗黙知が共同化され新しい成果を生み出すポイントになる。

私は“創発”という言葉はよく知らなかったがインターネットで検索してみると“部分の性質の特性が単純な総和に留まらず全体として現れることを意味する”と、もともとは物理学や生物学で使われている言葉のようである。近年はイノベーションなど企業の組織論にも使われているとある。

最初のテーマは「100点以外はダメな時がある」、中々難しいテーマである。

ひるがえって私の場合にはどうだったのだろうか?

今までの人生でこんな状況に出会ったことはあったのだろうか?

「人事を尽くして天命を待つ」

この心境になったことは何度か経験したが、これが自分にとって100点であったかどうかは分からない。

この100点の意味は自分なりに最善を尽くせ、中途半端に事を終わらせるなという戒めなのであろう。

仕事、家族、友人、近隣の人間関係等々でオール・オ・アナッシング100点を追い求めるのは人生疲れる。

ここぞという時に自分自身で判断し、力を出し切ること。それは日頃から鍛えられた心身を持って初めて出来る事であろう。

この度は初めての参加であるが、老若男女が同じチームでいろんな意見を出し合い理解し合う。

今の若い人達の考え方に私達シニアが気づきそして学ぶ。

有益な企画に参加できたことを今後の糧にし、引き続き参加したい気持ちになった。

考えてみると私が会員として所属している鳳陽会、最近は総会などに若い人や女性の参加が少ないという課題を抱えている。

年1回の総会(支部)では確かにそうであろう。

様々な提案がなされているとも聞いている。

私が思うに、時代も考え方も変わり従来型の総会開催には前ステップも必要なのだろう。

各支部で月1回程度のこのような“かたり場”を企画し、様々な年齢層による語り合いの中で新しい“創発”が生じるかもしれない。

以上

ゴルフ、何でそうなるの! ⑦憧れのスウィング

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆憧れのスウィング

石川遼。

惚れ惚れするような美しいスウィングをしている。

憧れのスウィング。

そこに一歩でも近づくため、練習場に足を運ぶ。

きれいなスウィングとは、無駄がなく、力を最も効率的にクラブとボールに伝えることができているということだろう。

雑誌を読み、ユーチューブで研究し、レッスンプロについても、きれいなフォームはなかなかできない。

ああ、そんなフォームで球を打ってみたい。

◆遼君の最盛期のスコア

2010年5月2日、中日クラウンズ最終日。

午前のスコア28、午後が30、トータル58。

ストローク数58は世界最少ストロークとしてギネスブックに正式に認定された。

最終ラウンドで6打差を逆転しての優勝。

バーディーの数をみると、午前が7つ、午後は5つ、合計12個も取っている。

【文末の写真-中段が石川遼肉筆のスコアカード】

◆勝てない遼君

その遼君、なぜか勝てない。

マスターズで勝った松山よりもはるかに美しいスウィングフォームをしている遼君が勝てない。

国内では優勝したことがあっても参加した150ほどの海外でのツアーで2位に食い込んだことはあったが、

優勝は出来なかった。

あれだけ美しいフォームをしているのに。

一時はロリー・マキロイ、リッキー・ファウラーと並び「3R」と呼ばれたRyo Ishikawa.

なぜ外国で勝てないのか、不思議だ。

旬が過ぎたのか。

そんなことはない。まだまだ若い。

ガンバレ、遼君!

もう一度ギャラリーを沸かせる姿を観てみたい。

(学23期kz)

中日クラウンズ

中段が石川遼のスコアカード

牧水と山頭火 Vol. 1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆明治時代の歌人若山牧水は、宮崎県東臼杵郡東郷町坪谷で医者の息子 として生まれ、旧制延岡中学校の1期生で小生の母校延岡高校の先輩です。

小生と牧水の出会いは、下記短歌でした。小生中学2年次国語担当のK先生 は、牧水の縁戚でこの歌を何回も歌わされた。

「寂しさ」を強く感じました。

・幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく

 これは、明治40年ですから牧水が早稲田大学三年の時、22~3歳の時の歌です。

まんざら広島と無関係の歌ではなく、岡山県と広島県(比婆郡東城町)の県境の 二本松で読んだ句で、この歌の歌碑が立っています。

◆種田山頭火と一緒に四国の遍路道を短い旅をした人の手記が残っていますが、 それによると山頭火はこの牧水の「幾山河」を声に出して暗誦しながら遍路道を歩いていたということです

この歌は山頭火の一人旅の同伴者であったようです。

山頭火は、酒と旅の歌人という自分と共通する要素を持った牧水のファンでした。 しかし、同じ早稲田大学の同窓でありながら、牧水は、無名の山頭火の事はまず 知らなかったと思います。

◆この短歌の中に二人に共通するキーワードがあります。

それは「寂しさ」です。

山頭火の俳句は英語に翻訳されていますが、米国で一番人気のある俳人は、松尾 芭蕉でも小林一茶でもなく山頭火であると言われています。

中でも最も人気のある のが次の句です。

 ・まつすぐな道でさみしい(This straight road, full of loneliness.)

 直訳すれば「このまっすぐな道、寂しさでいっぱいだ」というところでしょうか。 彼は、さびしい俳人として、米国で知られています。 牧水にも「寂しさ」をうたった短歌は多くあります。

 山頭火に至っては、句ばかりでなく、日記にも非常に頻繁に「さみしい」という言葉が 出てきます。

 「さみしい」という言葉が山頭火を理解するうえでのキーワードの一つでは ないかと思います。

次稿 Vol.2で両者の共通項を探っていきたいと思います。        

(大学29期 K.Y.)

ノーベル財団

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

2024年度・ノーベル賞の発表が続いている。

ノーベル賞を受賞すれば、その栄誉もさることながら、受賞者には賞金が与えられる。

この賞金はノーベル財団が支払うもので、賞金額は毎年変動があり、

2024年の賞金額は1100万スウェーデンクローナ(以下SEKと略す、10/10現在、1SEK=14.35円、約1億6千万円)となっている。

◆年によって変動する賞金

過去の推移を調べてみると5分野ある賞のうち、1つの賞につき1000万SEK前後が授与される。

(単位はSEK)
2001年以降1000万

2012年~2016年800万

2017年~2019年900万

2020年~2022年1000万

2023年 1100万

2024年 1100万

毎年変動があるということは、どういうことか。

運用のパフォーマンス次第で、賞金額に変動が生じる。

財団は独立性を保つため、民間からの寄付や、また国からの寄付さえ受けていないため、財源を稼ぐには、自前の基本財産を運用するほかはない。

1つの賞で約1000万、5分野(①生理・医学、②物理、③化学、④文学、⑤平和)で5000万SEKの資金が必要となる。

ノーベル賞の授与は100年以上も前、1901年から行われており、当初はA.ノーベルの遺言に基づき低リスク・低リターンの債券で運用していた。

しかしその間、2度の世界大戦や経済恐慌もあり、そうした運用では基本財産が枯渇する懸念も出てきたことから、高リスク・高リターンでも運用できるよう制度を変更している。

◆ポートフォリオ

2023年末時点のノーベル財団の基本ポートフォリオ(2023年末)をみてみると、

株式55%

債権10%

不動産10%

オルタナティブ25%

(ヘッジファンド、未上場株への投資)

となっている。

5割以上を株式に投資しており、オルタナティブにも25%投資、不動産にも投資するなど、分散投資を行っている。

ここで行われていることは分散型の積極運用ということだ。

こうした投資によって、インフレ調整後で年率3%のリターンを目指している。

なお、同財団の基本財産は2022年末で58億SEK(約832億円)となっている。

◆日本の年金運用のポートフォリオ

日本の公的年金資金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)のポートフォリオは以下のとおりとなっている。

2023年度末で

国内株式24.3%

外国株式24.9%

国内債権26.9%

外国債券24.9%

すなわち、株式と債券がほぼ同じ比率、国内と外国もほぼ同じ比率となっており、ここでは5割程度が内外の株式で運用している中で、長期的な年間収益率の目標を「賃金上昇+1.7%」としている。

絶対に枯渇させてはいけない年金基金でも行われていることは、消極運用ではなく、分散型の積極運用だ。

そうしないと、インフレ昂進下の経済では実質価値が損なわれるからだ。

◆「経済学賞」

我々が学校で学んだ経済学。

「経済学賞」については、もともとノーベルの遺書にはなく、ノーベル財団から賞も賞金も出ていない。

経済学賞はスウェーデン王立銀行が同行の創立300年を記念し、ノーベル財団に話を持ち掛けることによって授与することとなったという経緯があり、このため歴史は浅く1968年から授与され始めた。

ただ、メダルも賞金額もノーベル賞と同一で授賞式も他の受賞者と同様に行われるが、ノーベル財団はこの賞に言及するとき、「ノーベル」という称号をつけず、単に「経済学賞」と呼び、他の賞と区別しているという。

「ノーベル経済学賞」は俗称ということだ。

また、スウェーデン王立銀行の「経済学賞」に充てる基金のポートフォリオを承知していないが、おそらくノーベル財団などと同様、株式にも投資する積極型の分散投資ではないか。

特にインフレに向かう経済状況下では、基本財産の実質価値が損なわれかねないからだ。

(学23期kz)

やまぐちHappinessフェスタ おいでませ ふくの国、山口

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆10月5日(土)の東京は生憎の雨で肌寒い一日した。
こうした中、東急大井町線、田園都市線を乗り継いで三軒茶屋ふれあい広場で5日、6日と2日間開催の掲記イベントに昨年に続き2回目の参加でした。

◆13:50に到着し、まずは応援をされている山口七夕会の関 周幹事長にご挨拶。
すぐ近くで出店中のベアーズコーポレーションの中嶋唯雄社長にご挨拶。
しばし、雑談しました。
瓦そばを注文しました。
瓦そばは以前一度、福の花 茅場町店で戴いたことはありますが、上品な一品でした。

◆次に湯田温泉の温泉ミスト化粧水ゆだうるるを購入。
味噌汁を試飲し、美味しかったのでとくぢ麦すり味噌を購入。
関 周さんのお薦めもあり、御堀堂の生外郎を購入。
生外郎なるもの初めて知りました。
2、3日しか日持ちしないとか。

◆次にお茶のコーナーに。
店主と思われる女性に薦められ試飲をしていると店員で昨年お会いし、共通点があり盛り上がった女性に声を掛けられ吃驚。
店の雰囲気が昨年とがらりと変わり、他の店かと勘違いしていました。
山口市徳地の薬草お茶のコーナーでした。
クロモジ茶とカワラケツメイ茶の2種類を購入しました。

◆最後は山口市の日本酒の山頭火を購入し、帰途に就きました。
滞在時間は1時間で学生時代にタイムスリップし、第二の故郷山口に東京の地から思いを馳せました。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

能吏・小栗上野介忠順 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

幕末ものを読んでいると、幕臣・小栗忠順(ただまさ)の名前をよく目にする。

岸谷五郎が主役の小栗役を演じたテレビ放映もあった。

放映したのはNHK。20年前の話だ。

小栗が着手した事業は多岐にわたり、日本の夜明けに貢献した優秀な幕臣であった。

大隈重信が述べた「我々の行っている近代化は小栗上野介の模倣に過ぎない」とする小栗への賛辞は有名で、司馬遼太郎にも「明治の父の一人」と呼ばせた人物だ。

こうした小栗も、しばらく陽の目を見ることがなかった。

明治新政府へ徹底抗戦・主戦論を唱えたために「反政府の逆賊」とされ、GHQからは「横須賀軍港を作った軍国主義者」とのレッテルを貼られたのだ。

小栗が認知され始めたのは、第二次大戦の敗戦によって明治以来の教育が途絶え、それまでの歴史観の見直しが進んだことによるのだろう。

◆渡米

遺る写真をみると、小柄で貧弱そうな身体つきだ。

しかし、若い頃は文武両道に抜きん出ていたという。

小栗を一躍有名にしたのは井伊直弼に認められて日米修好通商条約の批准で遣米使節の目付役に抜擢、「万延遣米使節団」としてポーハタン号でサンフランシスコに向かった時だ。

当時33歳。

この時随行した練習船・咸臨丸の艦長が同い年の勝海舟だ。

米国では金の海外流出を阻止するため、金銀交換比率を変更する通貨交渉を、論理に基づいて粘り強く行い、是正することに成功する。

現地紙の小栗評は「小柄だが、生き生きとした、表情豊かな紳士である。威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議にまざりあっている。・・・(小栗は)使節団の中心である。なにごとも、彼の同意がなければ決定できない。彼のからだのすみずみに、秋霜の厳しさがみなぎっている」としている。

◆能吏

小栗は米国での要務を終え、大西洋周りで世界一周し日本に戻る。

戻った小栗は外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍の各奉行に任ぜられ、幕府の要職にあった8年間は遣米使節時の見聞を活かして、横須賀造船所の建設、滝野川反射炉での大砲製造、郵便制度導入、鉄道建設、新聞発行、ガス灯の設置など、多方面に活躍した。

また、国の形として、藩を廃止し、郡を設け、その下に県を置くとし、県を集めた道州制の下での中央集権国家の青写真も描いていた。

◆ネジ一本

米国ではワシントン近郊で海軍の造船所を視察している。ここでは造船所とはいえ、大砲、銃、帆船用ロープまで船に必要なものはすべて「自前」で生産しており、鉄も切断、圧延、屈曲、切などの作業を蒸気機関の工作機を用い、わずか少人数で効率的に作業する様子を目の当たりにした。そこで作っていたネジを持ち帰っている。

小栗にとっては日本も今後工業近代化を成し遂げるシンボリックな糸口に映ったのだろう。

【文末の写真参照】

◆技術はフランスから

小栗は開国しつつ国力を付けて外国列強と伍すべきとの考えを持っていた。

しかし手元には、近代技術を身に着けた技術者がいない。

そこで、幼少からの気の合う友人で幕末きっての国際派で外国奉行の栗本鋤雲(じょうん)に相談する。

栗本は対フランスの外交官として活躍していたフランス通だ。

そこで小栗は栗本から技術的な指南を仰ぐことのできる相手を見つける。

栗本はフランスの駐日公使・ロッシュと近い。

こうして薩長に近づくイギリスに対抗するように、幕府側ではフランスのロッシュとの間でフランス語学校の創設、フランス式軍隊の導入を決め、また、横須賀造船所にはフランス人のヴェルニー氏を責任者に据えた横須賀製鉄所の建設に向かう。

横須賀造船所は明治以降も日本の富国強兵に大いに貢献することとなった。

◆東郷平八郎の礼

東郷平八郎は横須賀製鉄所で船の修復をして海戦に臨み、日露戦争に勝った。

その東郷は日露戦7年後の明治45年(1912年)に、小栗家の親族に対し戦勝の礼を述べている。

またその横須賀造船所に近代的な就業規則や年功給与体系などを導入している。

このように小栗はハード面、ソフト面で近代化を進めたのであり、確かに「日本の近代化の基を作った」優秀な能吏であった。

(学23期kz)

小栗が米国から持ち帰ったネジ 群馬・高崎市東善寺保管