1970年代 青春の下宿④

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年11月 トピックス】

 1970年代、私は山口大学経済学部に入学した。蛮カラの気風が色濃く残る鳳陽寮・北寮で2年間、暮らした後、3年生になって山口県庁近くの下宿に引っ越した。

◆学生事業家

 私は学生時代、事業を行ったことがある。

現代風にいえば、学生事業家、か。 

東京の音楽事務所や博多のイベント会社などと交渉し、フォーク歌手らを山口に呼んだ。

主たる会場は山口市民会館。成功すれば、1千人を超す客席が満席となった。

◆下宿が事務所

 事務所はない。私の下宿が事務所代わりだった。

公演が決定すると、学生仲間で実行委員会を結成する。

まず、ポスター制作。そして完成したポスターを掲示していく。

 

公演成功のカギはポスター掲示といってもよいのではないか。

私たちは乗用車で山口市、防府市、徳山市などを回った。

山口大学、山口県立女子短期大学、芸術短期大学、そして喫茶店、本屋、スナックなどにお願いしてポスターを掲示してもらう。

遠く、島根県益田市の本屋を訪れ、掲示を頼んだこともある。親しい店主がいる店にはチケットを置かせてもらった。

みなさん、快く応じていただいた。

◆長い行列

 会場の予約。会場使用料の支払い。実行委員会の結成。チケット販売。フォーク歌手ら一行の宿の手配。送迎。コンサート運営。ギャラの支払い。事業全体の精算。相当、忙しい。

当日の運営もたいへんだ。山口市民会館に長い、長い行列ができたこともある。

行列の整理は、警備員ではなく、実行委員会の学生たちが担当した。

開場すると、待っていた観客がどっと入口に押し寄せてくる。万が一、事故が起きれば責任問題に発展する。緊張する瞬間だ。

 ある日のコンサート。

長い、長い行列整理に私たちが難儀していたところ、経済学部の

先輩(実行委員会のメンバーではない)が突如、最前列に現れた。助っ人だ。

入口に立ち、ガラスにぴたりと背中をはりつける。こうすると、押されてもガラスが割れにくいという。先輩は涼しい顔して、みごとに観客をさばいてくれた。

あれは助かった。(※今でも感謝しています。)

           

◆黒電話

 1970年代、携帯電話やパソコンはなかった。

東京の音楽事務所や博多のイベント会社との連絡は、手紙か、下宿の大家さんの家電話だった。電話がかかってくると、大家のおばさんがわたしを呼びに来る。

何度も繰り返すと、さすがに大家のおばさんもいい顔をしなくなった。

 よし。黒電話を設置しよう。

 当時、黒電話を設置するのは簡単ではなかった。

まず、電話債券(?)を買う。電電公社ではなく、山口の質屋で買った記憶がある。

これが高い。新卒の会社員の月給より高かったのではないか。電話債券を持参して電電公社に申請、近くの電柱から電線を下宿にひく工事をしてもらい、ようやく黒電話を設置することができた。

 こうして事業の連絡はうまくいくようになった。

だが、思わぬ余波もあった。

 当時、黒電話を持っている学生は、山口には、ほとんどいなかったのではないか。

いろんな友人が私の下宿にやってきて、実家に電話するようになった。

だが、友人に電話代を請求するわけにもいかない。

どうしようか。

悩んだ先の結論。 

ま、いいか。

 【続く】

(鳳陽会東京支部 S)

山口市民会館

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