教育熱心だった長州藩 ②

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年1月トピックス】

◆藩校

封建社会の不条理な世の中であり、士分の資格がないと入れない。貧農出の伊藤博文や品川弥二郎のような足軽の子息には門を堅く閉ざしていた。月謝も高い。

士分の資格があれば14歳で入学できた藩校。それまでは私塾で学力を養っていたという。

明倫館が開校したのが(享保3年)1718年正月12日。

初代学頭は小野尚斎。藩主毛利吉元と共に林家の門人で、藩校では朱子学が講じられた。

小学舎では基礎教育を受け16歳で歩兵塾、文学寮(3年)、兵学寮(2年3か月)と文武を修める。

2代目学頭は山県周南。荻生徂徠の古文辞学派。このため徂徠学、朱子学も取り入れた。

1849年に藩校が移転。手狭になったため、敷地を移転・拡張し教育・鍛錬設備を充実させる狙いがあった。敬親の時である。この時、明倫館に8-14歳の修養課程も創設し、初等教育にも力を入れることになる。松陰は明倫館で兵学を教えたことは知られている。

また、支藩にも藩校ができる。徳山藩(興譲館)、長府藩(敬業館)、清末藩(育英館)、岩国(養老館)など。ここでも徂徠学、朱子学を取り入れた教育がなされた。

このほか家臣団の教育機関13校、藩の有志が自費で設立した学校5校など、郷校といわれる学校が20校あったという。

◆育み(はぐくみ)

ここで、才ある人材の発掘・育成に寄与した長州独特の戸籍制度にも触れておく必要がある。

「育み」とは、身分が低くても優秀な人材には立身出世の機会を与え、人材を世に出す戸籍制度である。

すなわち育みとは、士分になれない身分の者を藩士の身内として引き受けることで、封建時代にあって固定化した身分制度を和らげ、人材登用の道を拓くことにもなった。禄もないが、「士のいで立ち」でいることができ、他藩の者に対しては長州藩士と名乗ることができたという。

育みとは、生まれではなく、才ある若者を育て、世に出すことに大きな効果をもたらした。

貧農の出で足軽中間の身分だった者でも、この育みですくい取られ、活躍した者は数多くいる。

その中で大輪の花を咲かせた代表が伊藤利助、初代内閣総理大臣の伊藤博文だ。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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