教育熱心だった長州藩 ④

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年1月トピックス】

◆時習館(僧月性)

月性(げっしょう)は現在の柳井市遠崎(とおざき)の妙円寺で生まれている。

幼少の頃から学問を好み、漢学、仏学、詩学の師を求めて旅に出ている。

15歳の時、豊前の恒遠氏の私塾で詩学を学んでいるさなか、訪れた長崎で欧米列強に接して脅威を感じ、海防の必要性を意識し、強く主張するようになる。「海防僧」という俗称もここから出ている。

23歳で帰郷するが、27歳にして京阪に学問の修行に出る。

この時作った詩を妙円寺の壁に書き残して柳井を去るが、この時の詩が有名だ。

「・・・学もし成るなくんば、還らず・・・人間(じんかん)至る処青山(せいざん)あり」

32歳で京阪から帰り、妙円寺の境内に私塾・清狂草堂(時習館)を開く。当時は「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称せられた。

月性は破天荒な性格で、詩作の際には昼夜を忘れて没頭し、腹が減れば大食いし、酔えば大声で詩吟を唸り、剣をとって乱舞した。

身なりには拘らず、頭は剃らず生やし放題、僧衣も破れ放題だったらしい。

こうした豪放磊落なそうであったことから交友関係も広かった。

世代としては、吉田松陰よりも少し世代が上で、吉田松陰の兄・杉梅太郎、久坂玄瑞の兄・久坂玄機とは同世代であり、三人はよく飲み、議論を戦わせたようだ。

久坂家にはよく泊りに行ったようだが、玄機が病死し、母が死に、その翌年父も死に、久坂家は玄瑞が一人残される。

月性は玄瑞に学問や社会情勢を説くようになり、ゆくゆくは吉田松陰に学ぶことを進める。

月性と吉田松陰とは面識はなかったが、梅太郎との縁もあり。名前も聞こえていた知識人。

月性に兄を見ていた玄瑞は、素直に吉田松陰の門を叩いた。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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