第10代横綱・雲龍久吉の末裔

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年1月トピックス】

先の第3回長州歴史ウォークの際に塩塚支部長より、両国の回向院の力塚で説明がありましたが、14年前にmixiに投稿したのをすっかり忘れていました。
追手風部屋の黒海の話をお聞きしたのは記憶にありましたが、人間、否私の記憶は当てにならないものと痛感しています。

2008-5-13mixi投稿分より引用

昨日、6月開催の同窓会の会場打ち合わせの為、市ヶ谷の私学会館(アルカディア)に出向いた。
待ち合わせ時間に遅れる人が出て、一年後輩で、今回、司会進行の塩塚さんという人と談笑した。
現在はマスコミ界の某新聞社に勤務している。
私の相撲好きを知っていて、最近、追手風部屋の後援会に入ったという。特別会員ではなく番付を送ってくる程度の会員で安価だという。
因みに特別会員は、年5万円とのこと。
以前は、相撲巧者の追風海がいたが、最近は黒海が所属する部屋として有名である。
なぜ、追手風部屋なのかというと、先祖が雲龍型で有名だった第10代横綱の雲龍久吉だというのである。
塩塚という名前も、福岡県の柳川市にしかない苗字とのことであった。
しばし、本人も13日目に国技館に観戦に行ったとかで、相撲談議に花を咲かせた。

追手風部屋の師匠は学生相撲出身の元大翔山である。
昔、広島の安芸乃島の地元の安芸津巡業があり、北の湖親方に会いにいったことがあるが、宿泊先のグリンピアは関係者以外立ち入り不可であったが、タクシーで乗り付けた私を見て、守衛さんが、行司さんですねとフリーパスで笑ってしまった。
そしてなぜか、当時の大翔山関が、タクシーの後ろの荷物入れに大きな身体を忍ばせていて出て来た思い出があります。(定員オーバーだったのかな)

ご参考)
雲龍久吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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雲龍久吉雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち、ひさきちとも、1822年(文政5年) – 1890年(明治23年)6月15日)は、財団法人日本相撲協会が認定している第10代横綱である。本名は塩塚久吉→佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村(現福岡県柳川市)の生まれ。身長179cm、体重135kgと伝わる。

大坂相撲の陣幕部屋にいたが、1846年(弘化3年)江戸に出て追手風の弟子となり翌年幕下付出で江戸相撲の初土俵を踏んだ。柳川藩のお抱え力士。大関昇進は1858年(安政5年)正月、1861年(文久元年)9月横綱免許。入幕から何と4場所連続優勝相当成績。しかし、その後は体力の衰えがあり通算成績は普通となっている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。現役引退後は年寄追手風を襲名、会所の筆頭(ふでがしら=現在の理事長に相当する)まで勤め、明治維新後の大相撲復興に努力した。

2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。これは、雲龍型と不知火型の名が途中で入れ替わったとする通説による。 しかし、雲龍と第11代横綱の不知火光右衛門の土俵入りが立派であったため後世に名のみが残され、正式に型の名をつける際によく調べなかったため入れ替わったとの見方もある。実際にこの二人の土俵入りがどのような型だったかは、錦絵や写真から判断されている。(両手を広げた不知火型で土俵入りする雲龍の錦絵が残されていたり、不知火が雲龍型のポーズをとっている写真もある。

また、実在性に乏しい横綱の初代「明石志賀之助」から3代目「丸山権太左衛門」を公式の横綱に認定したのは彼であるとされる。

彼の記した手記によれば、第17代横綱「小錦八十吉」までの横綱について記されている。

(学22期 Y・Y)

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