山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2023年3月トピックス】
末松の東京での出会いの中で、最も重要なものが伊藤博文との出会いではなかったか。
◆伊藤博文との出会い
伊藤は銀座で福地に従っていた末松と出会うが、社説を書いているのが、この19歳の若者であることに驚く。これが最初の出会いである。
伊藤は末松と会うたびに気脈が通じることを実感していたのだろう。伊藤は末松を再三にわたり養子に迎え入れたいと口説くが、末松は「その分に非ず」と丁重に断り続ける。
ただ末松は後々、伊藤の次女・生子(いくこ)を娶ることになり、結局伊藤博文とは義理の親子になったのは面白い。
◆渡英
明治11年(1878年)、24歳で伊藤博文の推挙で英国に渡る。
「英仏歴史編纂方法研究」を目的に「英国公使館付一等書記官見習」として英国ケンブリッジ大に留学した。
伊藤としては明治天皇の歴史編纂に対する思いもあり、この時すでに末松に明治維新史を編纂させる腹積もりがあったのだろう。
◆筆と演説、内外で活躍
末松は多方面で活躍し、源氏物語の英訳なども手掛けた。
六尺(180センチ)に達する大男であり、筆も立つし、弁も立つ。しかし頭髪や髭には手を入れず、身なりには頓着しなかった。こうしたほほえましいアンバランスも人を惹きつけたのかもしれない。
普段は無口であるが、ひとたび演説させれば、場に居合わせたものはみな、引き込まれるように聴き入ったほど演説がうまくかったという。国内だけでなく、海外では「日本人論」で聴衆者をうならせ、欧州で有名人になったようだ。
なぜ演説をしたのか。
また、どのような演説をしたのか。
日本は日露戦争に勝ち、列強の一角に踊り出たが、当時は欧米諸国には厄介な黄禍論(黄色人種脅威論)も見られ、日本による台湾、大韓帝国、インドシナの植民地化に対する疑念があった。
こうした状況で国際的な理解を得られなければ日本が国際社会で孤立し、明治以来40年弱の努力が水泡に帰すことを懸念されたのだ。
日露戦争のさなかに当たる明治38年1905年3月、ロンドン芸術協会で講演した講演の一部が残っている。
演題は「日本の道徳原理」。
日本人は清楚と簡素、純粋と真面目で、漆器の如く外面よりむしろ内面がより綺麗に装飾されており、感情を大げさに表に出すことはしない。日本人は決して好戦的な国民ではないこと、英・米と日本が平和で友好的な関係を保つことが世界平和につながることを力説した。
外国での末松は、講演し、本を記し、新聞に寄稿し、日本を、また日本人を理解してもらうために尽力している。
こうした甲斐があり、当時流れていた黄禍論を抑え、日露戦争したのは何ゆえなのか、日本は欧州にとって決して脅威となる存在ではないことを訴えた。
筆と演説により、多方面で活躍した末松であった。
・・・続く
(学23期kz)
山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
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