山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年11月 トピックス】
◆彰義隊
2月12日、慶喜公が寛永寺に移り謹慎。
その前後に、ある廻状が一橋家の家臣の間で回る。
そこには12日に雑司が谷茗荷屋に集合が伝えられる。
「君恥ずかしかるれば、臣死するとき。・・・然れば多年の鴻恩に報いるはこの時也」として集まり、「何としても上様の名誉を回復したい」という思いで、一橋家の家臣を中心としたエリート勇士で結成されたのが彰義隊の始まりだ。
第1回会合は慶喜公が東叡山寛永寺に退去した直後に会合を開いた。
場所は雑司が谷、鬼子母神堂門前の料亭「茗荷屋幸吉」。
出席者は一橋家陸軍将校17名とある。
この時には主君慶喜公の延命と名誉を挽回し、昔日にお権威を取り戻すとともに、江戸の市中の安寧のために市中を見回りであり、朝廷方とことを構えよういう意図はなかったようだ。
2回目の会合が2月17日、四谷鮫ヶ橋入横丁の円応寺で行われ30名が集まる。
彰義隊はもてたという。
水色麻の打裂(ぶっさき)羽織と白っぽい逆パンタロン風の袴、これが江戸庶民に人気だったらしい。
◆渋沢成一郎
この会合の2日後、渋沢成一郎がグループのリーダーである頭取に推挙される。
一橋家家臣・渋沢成一郎(旧名および明治以降は「喜作」)。
大河ドラマでは「喜作」という名で他から高良健吾が演じている。
渋沢成一郎はかつて攘夷の志士であったが、一橋家家臣で慶喜公の側近・平岡円四郎(大河ドラマでは堤真一)の斡旋で、従弟の渋沢栄一と共に一橋家に仕えた。
すなわち渋沢成一郎は栄一の父(小林薫)の兄貴の息子、すなわち従兄で栄一より2歳年上にあたる。
成一郎は慶喜公の引き立てによって、老中の公設秘書にあたる「奥祐筆」から、奥祐筆御政事内務掛(内閣総理大臣秘書官)に抜擢されるほどの人物だった。
彰義隊の当初の目的はあくまでも慶喜公の警護、江戸の市中安寧見回りを主な目的としていた。
慶応4年(1868)、高輪の薩摩藩邸で徳川慶喜の身との安全と引き換えに、江戸城の無血開城を決めた大総督府参謀の西郷隆盛と旧幕臣の勝海舟。
二人の信頼関係により、西郷は江戸の治安維持を地元の勝海舟に任せることにした。こうしたなかで勝は治安維持の役を一橋の旧幕臣集団・彰義隊に任せた。
彰義隊は当初、江戸に流れてくる新政府軍の乱暴者らから江戸の治安安寧を守る活動をしながら一橋家の再興を夢みていたが、次第に新政府軍に対抗する旧幕臣の集団に性格を変えていった。
◆天野八郎
彰義隊が会合を重ねるたび、に集う勇士が増えてくる。
2月23日、浅草本願寺での第4回会合で集団の中で穏健派の渋沢成一郎に代わり、強硬派で副頭取の天野八郎がリーダーとして台頭する。
天野は強引な勧誘策でも彰義隊員を募った。
こうした勧誘策もあり、3月には隊員は200名を越え、ピーク時には2千~3千人が集まったとされる。
また天野は、武断派で好戦的であったことから、新政府軍との対決色が強まっていく。
天野八郎は剣の腕が立ったという。
背は低く、でっぷりと太っていたが非常に敏捷で、2間(畳のタテ2枚分)はわけもなく飛んだという。眼光鋭く威圧的で、閑があればよく「切返し」の練習をしており、目にも止まらぬ速さだったという。
江戸の無血開城後、彰義隊の頭取で穏健派の渋沢成一郎と強硬派で副頭取・天野八郎の間で路線対立が起こり、天野八郎が徹底抗戦を主張し、血気盛んな若い幹部を始め、天野を支持する者が大勢だったため、頭取・成一郎が彰義隊を脱退せざるを得なくなる。
脱退した渋沢成一郎とその一派は「振武軍」なる部隊を新たに結成して江戸を去ることになる。
渋沢が去った彰義隊は天野八郎が実質的な大将となって上野戦争を戦うことになった。
つづく
(学23期kz)