彰義隊、その後の運命 ②悲運

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆天野八郎

上州の豪農・大井田家の次男。

新田義貞の氏族に含まれる一族。清和源氏の流れを汲んでおり、代々庄屋を務めた名家だという。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、副頭取の天野八郎は7月に捕縛され、獄中で病死した。

一時は函館に向かう榎本武揚の艦に乗ったが、引き留める榎本に対し、律儀にも彰義隊に武器や食料を与えてくれた方々にお返しに行くとして、捕らえられることを覚悟で艦を降りている。

その時、榎本は「それにしても天野殿は惜しい。あれで要領の良い人なら、勝さん以上になっていたろうに」と、

じっと眼をつぶったという。

榎本武揚にそこまで言わせるとは・・・

天野八郎という人物はただの荒くれではなかったのだろう。

◆天野八郎の辞世

「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」

稲妻が轟く北とは・・・奥羽越列藩同盟を指すのか、箱館を指すのか。

◆「決して香車に恥じず」

香車のように引くことを知らない、一本気な男。これが天野八郎だった。

◆香車といえば・・・

昨年9/30(月)王座戦第3局

手番・藤井七冠の146手目・九6香車。

永瀬九段が指した手拍子の歩打ち。

これが敗着の一手となり、藤井七冠勝利。

桂馬が上がって受けておれば、軍配は長瀬九段に・・・

◆彰義隊の残党

上野戦争後は江戸の町中が乱れ、流言飛語が飛び交い、暴行略奪も多発したという。

村人たちは自衛のために住所不定のよそ者を警戒し、排除にかかる。

こうしたよそ者には彰義隊の残党もいたのだろう。

杉並には村人から追われた者、そこで自害した者の墓が、わりと残っているようだ。

私の住んでいる近くの寺にも、東北から応援で加わった彰義隊の残党ではないかともいわれる3名の勇士碑が残っている。

大田区の東光院。

寺の関係者に伺ったところ、6代前の住職によると東北方面の藩士だったようだとのこと。

当時は徳川側には奥羽列藩も与して新政府と戦う構図があり、慶応4年春以降、彰義隊への参加者が膨れていく過程で奥州列藩藩士が彰義隊に集うこともあったと思われる。

勇士碑に刻まれた三名は南下し、洗足池辺りで村人の手にかかり、残り二人は旧中原街道を下り、桜坂を越え丸子の渡しがあった沼部付近の医者に逃げ込んだ。

医者は一応の手当てを施すが、結局は村人の手にかかり、俵詰めの形で多摩川に沈められたという。

勇士碑の三名【画像参照】

南無阿弥陀仏

(学23期kz)

勇士碑 大田区・東光院

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