山口が生んだコンツェルン

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年7月 トピックス】

◆日立グループには多くの同窓生がお世話になっている。

日立グループ、中でも日立金属とのつながりをみていくと、どうやら鮎川義介氏にたどり着く。

鮎川義介氏は日産コンツェルンの創業者で戦前に日産自動車、日立製作所、日本興業、日本油脂、日本水産など114社を立ち上げた人物で、最盛期には三井や三菱を抜いて当時最大のコンツェルンとなった。

無私奉公がモットー。

同族的・閉鎖的な一家一門が握る従来の財閥とは異なり、10万人の株主という形で大衆から資金を集めたのが特徴で、鮎川の鋳鉄技術、米国の新技術を取り入れた「新興財閥」の一つとなった。

私利私欲はなく、生前の叙勲や表彰、銅像の建立を断り、近親者にも株を持たせなかったという。

また政策志向で、欧米列強の植民地主義に対抗せんがため、軍事ではなく経済の発展こそが重要であるとの基本理念のもとに、あらゆる業種の企業を作っていく。

満州にも進出しはしたが、既得権益を抱える旧財閥の抵抗などもあり、あまりうまくいかなかったようだ。

◆鮎川は山口市に生まれる。鮎川家は名家であったというが、廃藩置県後は貧乏士族に転落し、金銭的には苦労したようだ。

義介氏は、勉強はよくできたようで、山口高商の前身である県立山口中学、官立山口高等学校(旧旧山高)を経て、「この先日本を支える男一生の仕事」としてエンジニアの途を目指し、東大工学部に進学した。

鮎川家の先祖は藩主毛利輝元に”御家大工”として仕えており、どうやら工学方面に明るい血が流れていたようだ。

鮎川氏には東京麻布在住の大叔父(祖母の夫)に明治の元勲・井上馨公がおり、在学中にはそこに書生として住み込んで支援も受けたが、大学後の進路については軍人を志望したわけではなく、また井上公に倣い政治家を志望したわけでもなかった。

井上公は三井物産の前身にあたる貿易会社を設立したこともあり「三井の番頭」とも呼ばれていたこともあったことから、鮎川氏に三井への就職を促したが、鮎川氏はこの話を断っている。

なかなか意固地な人物でもあったようだ。

というよりも、このころから自分の意思、進むべき方向が明確だったのだろう。

◆鮎川氏は自分の力で社会人としての第一歩を踏み出したいとして、高給のとれる工学士でありながら、芝浦製作所に、何と日給制で低賃金賃金の「仕上げ工」として入社したという。

彼は現場主義。仕上げ工の合間も休日は周辺の工場を2年にわたり、こまめに見て回ったという。

また日露戦争終結直後の1905年11月、25歳の時に渡米。

帰国後は戸畑鋳物を設立。これが日立金属の前身だ。

彼のモットーは「金持ちにはならない。人の行い得ない大きな仕事、公益に役立つ方面を切り開く」とのことであった。

◆久原房之介と鮎川義介

日立の社祖は萩の久原房之介氏、日産の創業者は鮎川義介氏だ。

両者は義兄弟(鮎川は久原の妻の兄)の関係にあった。

久原氏が日立鉱山、後の久原工業所を設立し第一次大戦では巨利を得たようだ。

しかし大戦後は不振に陥り、経営再建を鮎川氏に頼み、自らは政界に身を投じる。

久原工業は日本産業と改称され鉱山部門が日本鉱業(現在のJXホールディングス)となり、後の日産コンツェルンの源流となった。

この日本鉱業にも私の同期を含め、多くの同窓生がお世話になっている。

萩・毛利家の末裔も鮎川義介氏が興した戸畑鋳物を前身とする日立金属の世話になっているようだ。

この辺の事情については私より、日立グループに身を置かれた諸先輩の方がはるかに詳しいはずだ。

(学23期kz)

鮎川義介

久原房之介

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