三人の財界巨人 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆長州の財閥

明治以降、長州・萩城下から伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一が宰相に上り詰め、彼らの側近として多くの旧長州藩士が明治の官界や軍人の世界で活躍した。

しかし、これとは別の世界もあった。

長州出身でありながら、政治でもなく、軍の世界でもなく、商工業の世界において我が国有数の企業体を作りあげた者たちがいる。

有数の企業体というより、むしろ屈指の「財閥」を産み出したといってもよい。

誇らしい話だ。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介の三人だ。

◆長州の中では・・・

彼らが活躍し始める少し前は攘夷を巡って反幕府の立場をとる急進派(いわゆる正論派)と、幕府に恭順を示す保守穏健派(俗論派)との間で長州藩の藩論が二分された時代があった。

急進派の代表が村田清風・周布正之助・高杉晋作で、農村支配の強化を目指した。

他方、保守穏健派の代表が坪井九右衛門・椋梨藤太で、彼らは重商主義を唱え、商人を味方に寄せた。

この争いで、急進派が勝ち、坪井は投獄抹殺、椋梨も処刑され、商人重視の系譜は薄くなる。

しかし、こうした中から萩を後にし、たくましく成長したのが3人だ。

◆三人の財界巨人

  • 明治時代に活躍し、「西の渋沢栄一」といわれ、藤田グループを作り「西の渋沢栄一」と呼ばれた男爵・藤田伝三郎
  • 藤田伝三郎の甥で、明治の後半から大正時代にかけて実業界で活躍し、昭和には政界に転じた久原財閥の総帥・久原房之介
  • 久原房之介の義理の兄で昭和に入って活躍し、日産コンツェルンの創始者となった鮎川義介。

この三者は親戚関係にあった。

◆藤田伝三郎

主に明治の時代に活躍した藤田伝三郎は橋梁、鉄道、繊維、土木、金融、新聞など多くの事業に手を広げ、果ては商工会議所の会頭へと上り詰め、八面六臂の活躍をする。

裸一貫から一代で藤田財閥をつくりあげた。西の渋沢栄一といわれるゆえんだ。

また、著名な経営者を育てるとともに、美術品の収集を図り、慈善事業にも力を注いだ。

藤田組(現・DOWAホールディングス)の創始者で、民間人初の爵位(男爵)を受ける。

しかし、主たる事業となった鉱山事業が経営不振になった際、事業を甥の久原房之介へ譲る。

◆久原房之介

藤田伝三郎から譲り受けた鉱山業が経営不振になった折、久原は事業を奇跡的に立ち直らせる。

鉱山業にとどまらず、幅広い事業に活躍し、その中には小平浪平率いる日立製作所も誕生させた。

久原は鉱山事業に見切りをつけて事業を義理の兄の鮎川義介に譲り、本人は政界に進出する。

政界では立憲政友会総裁となり、日中、日ソの関係復興に尽力し、一時は吉田茂と総理の座を争ったこともあった。

◆鮎川義介

久原からバトンを受け継いだのは鮎川義介。

鮎川にとって久原は11歳年上であるが、鮎川の妹・清子が久原房之介の嫁になっており、久原は鮎川の義理の弟にあたる。

鮎川も事業を受け継ぎながら政界にも身を置き、日産自動車、日立製作所を花開かせる。

◆井上馨侯爵

これまで挙げた三人が節目、節目で世話になり、経営が斜めになり資金に窮した時に頼みに行った先が明治の元勲・井上馨侯爵だ。

井上馨侯も三人と親戚関係にある。

すなわち、井上侯にとって鮎川義介は大甥だ。

久原房之介は鮎川の義理の弟で、久原の叔父が藤田伝三郎だ。

井上馨侯と藤田伝三郎はほぼ同年代で、井上侯が伝三郎より4歳年上にあたる。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介。

長州出身のこの3人が、明治、大正、昭和にかけ、実業界で大活躍する。

我々山口高商以降の先輩方も、彼らが創った企業に就職し、彼らのリーダーの下で働いた先輩方が多くおられる。

つづく

(学23期kz)

藤田伝三郎
久原房之介
鮎川義介

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