三人の財界巨人 その8 藤田伝三郎⑦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】 

◆事業拡大

<橋梁工事>

軍靴製造の次に伝三郎が関わったのが高麗橋の橋梁工事だ。

伝三郎の本店のある大通りに掛かり、大阪城の防衛上重要な橋で、天満橋、天神橋などと並ぶ幕府管理の公儀橋になっていたところだという。

明治3(1870)年この橋を鉄鋼の橋に掛け替える橋梁工事に関わった。

<鉄道建設>

次の事業は明治4年・1871年の京都-大阪間の鉄道建設。

この鉄道建設は当時、大蔵大輔(たゆう、次官)の大隈重信と大蔵小輔(しょうゆう、次官補)伊藤博文が組み、諸藩が割拠する地域に鉄道を敷設することで古い体質を打破し、人心を統一しようとしたものとされる。

まず、①新橋-横浜間、次に②大阪-神戸間、③三番目に大阪-京都間で工事が進められ、伝三郎は三番目の京都-大阪間の工事を請け負っている。

この時の契約は、初の「本格的な総合請負方式(ゼネコン)」。

こうした鉄道工事の話が来たのは、長州出身の「鉄道の父」・井上勝が関与したとされる。

ここでも長州つながりがものをいった。

<井上馨の先収会社>

また、明治7年、井上馨は財政縮減を巡って司法卿江藤新平と対立し益田孝とともに大蔵省を辞し下野するが、その際、地租引き当て米や軍事物資など扱う商事会社である先収会社を一時期2年ほど立ち上げるが、伝三郎は井上馨から実務経験を請われて先収会社(三井物産の前身)の頭取に就任している。

◆こうした大きな話が手元に来た幸運もさることながら、伝三郎の方ではこうした話を受けてよく事業に取り組んだものだ。

もともと、萩では酒や味噌の醸造のほか、下級武士相手の金貸しをやっていただけの藤田伝三郎のはずだが。

器用なのか、要領がよいのか、運が良いのか。

親戚の醸造会社も工夫をして3年復興させており、事業の才能があったのだろう。

◆藩閥のつながり

明治新政府では藩閥のつながりがものをいう。

薩摩の五代友厚が大久保利通と通じたように、土佐の岩崎弥太郎は後藤象二郎や板垣退助との繋がりがあった。

また、藤田も長州出身者とのつながりがあった。

◆藤田一族での経営

事業が忙しくなり、伝三郎は兄弟を呼び寄せたのが明治6年のことだ。

明治6年(1873)に久原家に養子に行った伝三郎の兄・庄三郎(久原房之介の父)が萩に見切りをつけ、伝三郎を頼って単身上阪。房之介が5歳の時だ。

藤田の長男鹿太郎も庄三郎とともに上阪している。
明治8年には井上馨の縁で初代山口県令となった、江戸生まれの中野梧一も藤田組に合流。

藤田一族での同族経営が軌道に乗った。

◆事業はさらに拡大

このさき、伝三郎が藤田財閥の中で育てた人材が藤田グループの中核企業を切り盛りし、土木(大成建設)はもとより、建築施工(帝国ホテル、歌舞伎座、赤十字病院、日銀、京都帝国博物館、二高、三高)、鉱山(現DOWAホールディングス)、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、北浜銀行(旧三和銀行、現三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)、紡績(東洋紡)、宇治川電機(関西電力の前身)、大阪毎日新聞(毎日新聞の前身)のほか、大規模で難工事の児島湾干拓にも関わるようになる。

側近の育てた者には、十二分にその才能を発揮し、有能な経営者として花を咲かせる。

こうした伝三郎の人材を発掘する眼力にも恐れ入る。

(学23期kz)

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