三人の財界巨人 その9 藤田伝三郎⑧

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】

◆偽札事件

明治12(1879)年、伝三郎が38歳の時、伝三郎本人に偽札贋造疑惑が持ち上がった。

しかし伝三郎には全く身に覚えがないのだ。

偽札事件は明治11(1879)年の暮、京阪神6県から大蔵省に納められた税金の中から精巧に造られた偽札が発見されたのが事の始まり。

すぐに大蔵省が警察の監督官庁・内務省に捜査依頼を出した。

事件捜査中に「木村真三郎」なる人物が、井上馨(当時工部卿)と藤田伝三郎が、偽札作りで共謀を図った事件だとして警察当局に出頭した。

この木村とは、西南戦争の時に伝三郎に雇われたものの、解雇された人物だという。

結局、偽札犯として神奈川の医者兼画家の「熊坂長庵」が逮捕されるが、この時が明治15(1883)年1月。

2年ほどの間、藤田は偽札問題で振り回されたことになる。

問われたのは藤田伝三郎だけではない。

親族、会社の関係者が2年余り、捜査されたということだ。

◆最終的に、藤田は無関係ということが判明し、疑いが晴れる。

しかし偽札騒動の間も、また無罪放免となった後も、藤田は言い訳、反論、弁解のようなコメントは出していない。

伝三郎は言い訳をするような男ではないのだ。

藤田は後年、この事件は薩長間の抗争に起因しているかもしれないと感じたそうだ。

どういうことか。

当時の「薩摩」は大久保が暗殺され、西郷は西南の役で没し、凋落ぶりが目立った。

他方、「長州」には勢いがある。藤田は政界や軍の長州閥も活用し、西郷が命を落とした西南戦争の際の軍事品の調達で大きな富を得た。

薩摩としてはもどかしい。

偽札捜査の管轄は内務省警察局だ。

当時警視局の大警視(警視総監)は「警察の父」・薩摩藩の川路利良。

警視局は創設当初から薩摩の牙城だ。

薩摩が藤田を問い詰め、井上馨の追い落としも図ろうとしたのではないかということだ。

◆しかし、藤田はニセ札事件があったにも拘らず、その大阪で明治18(1885)年商工会議所の会頭になっている。

初代会頭は五代友厚。薩摩人だ。

五代友厚もさすがだ。

藩の枠に捉われない度量がある財界の大物だ。

だから、藤田を第二代の会頭に推薦したのだ。

しかし、何といっても藤田伝三郎が第2代会頭になったのは、余人をもって代えがたいとされた藤田伝三郎の人物そのもの力量が十二分にあったからだろう。

◆事件の影響

藤田は、取り立てて否定しなくても、皆は最終的には十分解ってくれるだろうとみて、静観の態度をとった。

しかしこれは、後々悪い影響を及ぼしたと言わざるを得ない。

急成長して大富豪となった秘密の理由が「偽札づくり」とすればわかりやすい。このため、当時は多くの世間話や、講談で面白おかしく取り上げられたのだ。

明治10~30年代当時、講談用に寄席が80件、講釈師が800人いたというから、若くして金持ちになった長州から来たよそ者のスキャンダルは格好の噺の材料になったのだろう。

また当時の人物事典の類には、藤田伝三郎の項目に、偽札事件のことが記されていたという。

悪い影響というのは伝三郎が講談のネタになっただけではない。

事件直後は軍や大阪府からの発注が途絶え、経営に重大な影響が及ぶことになった。

◆厄介の種

特にカネに纏わるトラブルは厄介の種で、後々まで悪い影響が及んだ。

ましてや偽札事件であり、監督官庁にとっては神経質になる問題だ。

東の渋沢栄一に比肩するとされた西の藤田伝三郎。

こうした問題があっては、渋沢のように「お札」の顔にはなれない。

また、財閥の「格」という点でも、三井、三菱、住友などには並びようがなくなく、「格落ち」の位置づけとなってしまったのだ。

もったいないことになった。

(学23期kz)

五代友厚

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