山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年8月 トピックス】
◆中野梧一(天保13年・1842年~明治16年・1883年)
藤田伝三郎を語るうえでは、もう一人の人物、幕臣だった中野梧一が欠かせない。
彼は優秀な男であったのだろうが数奇な運命を辿りながら、藤田組に貢献する。
◆江戸生まれの中野梧一
彼は生まれも、育ちも長州ではない。
江戸に生まれ幕府に出仕する。
主に勘定畑を歩み、慶応年間には小栗忠順直属の部下となっている。
戊辰戦争では好戦継続派で江戸開城後は旧幕府軍・彰義隊に入隊。
明治2年・1869年には函館戦争に参戦、五稜郭で投降した。
榎本武揚らとともに東京に移送され投獄されるも、翌年には釈放される。
◆どのような縁があったのか、明治4年には新政府の大蔵省に出仕することになった。
幕臣として勘定方の業務に精通していたためかもしれない。
この時、大蔵省には誰がいたか。
大蔵卿(大蔵大臣)は大久保利通であったが、大久保は岩倉使節団の一員として外遊中。
省内を仕切っていたのは、ナンバーツー・副大臣級にあたる大蔵大輔が井上馨であった。
同年、井上馨は中野を井上の地元山口県の参事に登用する。
当時、権令・県令は空席で事実上の県知事、初代県令だ。
明治5年に権令(ごんれい)、明治7年に県令に名称替え。
当時大蔵省は民部省と合併してできた巨大官庁で、中央の財政だけでなく地方官僚を通して地方財政にも関与できたという事情もあった。
旧幕臣が討幕派の総本山の一角・長州に県幹部として派遣されることは異例だったのであろう。
しかし井上は身内に山口の者がいない方がやりやすい大仕事、すなわち地租改正の実施(封建制度の解体を意味する土地制度、土地課税の大変革。地価を定め3%の地租を賦課・徴収)を含め、た任務を与えた。
その任を負わせるのは、情が絡みやすい地元・長州の人間ではなく、利害が絡まない「よそ者」が適任と判断したようだ。
◆しかし中野は、明治8年には実業界に身を置きたいとして県令を辞職。
この時も井上候が世話をしたのだろう。
縁があり「三井の番頭」とも揶揄された上候は三井への転職を勧めるが、中野はこれを断る。
結局藤田組に入社するが、これも井上候の口利きだったのだろう。
長州出身の商人グループ・藤田組も井上候の筋だ。
藤田組では伝三郎を頼って山口から出てきた二人の兄に、この中野が加わり、藤田組を支える。
◆明治10年に勃発した西南戦争では政府から軍需品の調達を請負、伝三郎とともに藤田組に巨利をもたらした。
中野は明治11年に大阪商法(のち商工)会議所の設立に参画し、副会頭に推され、大阪財界の大物として活躍した。
しかし中野は明治16年に自宅で猟銃自殺している。
何があったのか。
その理由は判明しておらず、謎となっている。
(学23期kz)

