山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年9月 トピックス】
◆小坂鉱山に赴任
房之介は明治24(1890)年に青森県県境秋田県鹿角郡・小坂鉱山に赴任した。
当時22歳。
一時は藤田組の稼ぎ頭だった小坂鉱山も、銀の産出が頭打ちになり始めたのが明治21年。
また、毛利家からの借金がかさみ、毛利家側は藤田伝三郎から小坂鉱山の経営権を取り上げ、若いて優秀な人材を小坂鉱山に投入すべく要請していた。
大阪の藤田組本店の方では、小坂鉱山は実質的に伝三郎の長男・平太郎に移っていた。
藤田組が房之介を小坂鉱山に送ったのは、小坂の復興要員、あるいは撤退・残務処理要員、この両にらみだったのだろう。
房之介は、工夫の賃金は月給8円のところ、月給10円の平社員として小坂に赴任している。
この時、所長・仙石亮の月給は130円。
工部省鉱山局所管の佐渡金山から藤田組に入った招聘された技術だ。
房之介は取締役の息子ということで、周りは恐れていたが、物静かな房之介に周りは安堵したという。
また、房之介はこの小坂鉱山赴任時代に鮎川義介の妹・清子と結婚した。
これも井上馨候の仲介によるものではないか。
十和田湖に近い小山鉱山勤務の時に新婚生活を送った。
この結婚で、11歳年下の鮎川義介は久原房之介にとって、義理の兄ということになった。
◆経営悪化
明治27(1994年)年 事業部長心得、月給40円。
明治29(1996)年には事業部長に就任。
明治27、28年の日清戦争で鉱山経営は潤うかに見えたが、戦後の混乱は藤田組を危機に陥れることになった。
鉱山経営にはカネがかかる。
小坂鉱山だけではなく大森鉱山(石見)も不調だった。
これまで藤田組では井上候に間に入ってもらい、毛利家から明治18年に20万円を借り受け、明治24年には再び27万円を借り受けた。
しかし明治29年、3度目の融資を受けた時には毛利家からの借入額は累積で227万円に上っていた。
この時毛利家が藤田組に出した注文は小坂鉱山・大森(石見)の両鉱山は売却し、児島湾干拓に専念すべしというものだった
この年・明治29年に、大阪の藤田組本部から小坂鉱山はいずれ売却するので撤退の道筋を検討しておくようにとの秘密の連絡が入る。
◆房之介の打開策
本部からの撤退指示に、房之介は納得がいかなかった。
露天の「土鉱」での銀の採掘は限界に近づいていたが、ここには「黒鉱」と呼ばれる豊富な鉱脈があることは分かっており、この黒鉱を何とかすれば道は開けると踏んでいた。
黒鉱は銅・鉄・鉛・亜鉛を含む黒色緻密な鉱床だが、金属の含有量が低く、既存の技術で黒鉱から銅や金銀を取り出すには大量の燃料を必要とし、コストが合わなかったため潜在的には「黒い宝石」といわれながらも、「無用な鉱脈」とされていた。
黒鉱を活かすためには、要は採鉱・精錬の技術をもって打開するほかない。
ニューヨーク行きを曲げて藤田組に転職させられ、このままでは、結果的に「廃鉱要員」として秋田に送り込まれた形になる房之介の小坂鉱山行きだ。
房之介にも意地があった。
このまま小坂鉱山を廃鉱にしてたまるか!
本部の意に抵抗し、「今にみておれ」との意を強くする。
また房之介は藤田組での父・庄三郎の姿を見て痛々しく思っていたようで、小坂鉱山での仕事を藤田組への最後の奉公にしたいと思っていた。
(学23期kz)
追記
<銀価格の暴落をもたらした金本位制>
明治政府の本則は金本位制だ。
明治4(1871)年に様々な金、銀、銭貨、藩札など様々な貨幣が流通していたため、通貨を統一すべく新貨条例を公布。
金本位制(貨幣は金と交換)を採用し、通貨単位は円、銭、厘とした。
しかし当時は金・銀交換比率が海外と異なっていたため、金が海外へ流出し、金が不足していたため、金・銀複本位制となっていた。
ただし、金本位制の欧米と異なり東洋では銀貨による対外支払いが一般的であったこと、金の退蔵と政府不換紙幣の大量発行(西南戦争など)により金がほとんど流通しなかったことから、事実上は銀本位制が続いた。
金本位制になったのは明治30年。
明治30(1897)年の日清戦争の賠償金2億両が英国金貨で支払われたため、本則の金本位制に移行。
これにより、銀の価格が下落し、「産銀」による小坂鉱山の経営を圧迫させた。

明治3年 一圓

久原は1869年生まれ、鮎川は1880年生まれでは。