東郷平八郎 ①日本海海戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆日露戦争勃発

明治37(1904)年2月10日、日本軍はロシアに宣戦布告し、日露戦争が勃発した。

ロシアでは戦いを有利にするためバルト海にいたバルチック艦隊をアジアに回し、バルチック艦隊は同年10月15日、リバウ港(現ラトビア西部)を出港した。

日本海海戦は1905年5月27日から28日にかけての日露海戦の話だ。

◆東郷平八郎は旗艦三笠に乗船

日本としては司令長官のロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊がウラジオストック港に入る前に叩く必要があった。艦隊がウラジオストック港に入ってしまえば、そこを根城に日本海や黄海に現れ、満州で戦うための武器、弾薬、食糧の海上補給路が脅かされることになるからだ。

ロシアと日本 予算の規模(ロシア20億円)も常備兵力(200万人)も日本は10分の1。

ロシアは文明国、片や日本は半文明国。

日-露の戦闘がどうなったのか。

蓋を開けてみれば、ロシアと戦うたびに日本軍が勝利した。

陸でも、海でも勝った。

陸では、後退するロシアを満州の北まで追い上げた。

しかしロシアは兵力補充の余力があったのに対し、日本軍にはなかった。

ここでロシアは一気に劣勢を挽回しようとして38隻のバルチック艦隊を極東に回した。

結果はご承知のとおり。

日本はバルチック艦隊を破り、ロシアがひるんだところで米国に仲裁を頼んで講話を結びたいと思っており、そのためにはバルチック艦隊を撃破することが絶対の条件だった。

逆にロシアに負けると、東京にロシアの総督官邸が建つことになるのだ。

◆東郷の推理

1905(明治38)年5月の下旬。 

バルチック艦隊が南方海域からウラジオストックに入港するにはどのような経路を通り、どこでバルチック艦隊を叩くのか。

日本海の対馬海峡を通るのか、あるいは太平洋から津島海峡を通るのか、それとも宗谷海峡を通るのか。

しかし、東郷は対馬海峡を通ると読んだ。

なぜか・・・

・5月は津軽海峡や宗谷海峡付近には霧が出る。

霧が出れば互いの船の衝突が起きる。

・北欧からの長旅でロシアの艦には貝が付着しており、船足が鈍っている。

スピードの速い日本艦隊に見つかれば撃沈されることになる。

・太平洋回りでは長期戦になり、そうなれば燃料切れの懸念がある。

ゆえに日本海を通ると。

◆「三笠」の艦上には連合艦隊東郷司令長官、伊地知艦長、加藤参謀長(明治38(1905)年1月12日以降、前任は島村速雄大佐)、秋山参謀、安保砲術長。

東郷の読みは的中した。

5月27日から28日にかけてロシア艦隊は対馬海峡を通ったのだ。

日本連合艦隊が勝利を収め、バルチック艦隊のうちウラジオストック港へ入ったのは3隻のみだったという。

ロジェストヴェンスキー司令長官は捕虜となり、佐世保の海軍病院へ運ばれた。

この時、東郷は病院を訪れ敵国の司令長官を見舞う。

ロジェストヴェンスキーは、敵ながら東郷の礼節を尽くした態度に感銘を受け、生涯にわたり東郷を尊敬し続けたという話が残っている。

◆対露戦勝

ロシアでは「マカーキ」(猿)と呼ばれていた日本人。

アジアの小国日本が、列強大国のロシアに勝利したとの報が世界を駆け巡る。

このことは日本国内のみならず、アジアや西欧諸国にまで大きなインパクトを与えた。

ロシアの威圧的な動きに手を焼いていたフィンランドやトルコをはじめとするロシアの近隣諸国にとって、東郷は英雄となった。

それらの国では息子に「TOGO」という名付け、街の通りに、またタバコやビールのラベルにTOGO

の名前が貼られた。

(学23期kz)

日本海海戦
日本海海戦の直前 旗艦「三笠」艦橋の東郷平八郎 (東城鉦太郎画伯)
ロジェストヴェンスキー・露バルチック艦隊司令長官

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