寄付の文化 その2

前稿では日本の寄付する人口や水準が欧米やアジアの韓国に比べて、かなり低いことを見た。本稿ではその原因について考える。

◆寄付する側の意識

寄付者の意識を見てみよう。ある程度の金額を寄付すればどうなるか。寄付した者は「富める者」とか「金持ち」とまではいかなくても、懐具合に余裕がある者とみられる。余裕がある者と見られたくないがために寄付を控えるという意識もあろう。懐具合を詮索されたくないのだ。

また金銭的に余裕があるとみられることで他人に付け入られ、面倒なことにもなりかねない。

このほか、自分が寄付しなくても、自分よりはるかに「金持ち」がいるだろうから寄付は「金持ち」に任せ、自分自ら寄付することは僭越ではないかとの小市民的な意識もある。

こうした他人(ひと)と比較する意識が寄付を控えることにつながっているかもしれない。

 ◆寄付を受ける側の意識

他方貧しき人も「貧しい」と悟られたくはないはずだ。プライドが高いからだ。

行政や慈善団体からではなく、個人から寄付を受ける場合はなおさらだろう。

寄付を施しという言葉に言い換えればよくわかる。

他人から施しを受けたくない。すなわち清貧の思想だ。

外国とは異なり、日本では都会にいても、また全国津々浦々の山村にあっても施しを受けたいと手を伸ばす貧者や子供はいない。

道端で投げ銭の箱を置いて施しを受ける浮浪者はほとんど見かけない。貧しき者も個人から施しを受けようとは思っていないのだ。

外国ではどうか。

アジアに行っても中南米に行っても、アフリカに行っても、車が信号で止まれば貧民層の子どもが寄ってきて寄付を求める。

欧米先進国でも寄付の小銭箱を置いた浮浪者の姿が結構見受けられる。

しかし日本の浮浪者は銭を求めることはなく、寄付の期待もしていない。彼らは自分たちなりに稼ぐのだ。空き缶を集め、古紙を集めて、場合によってはホームレスの自立支援のために作られたストリートペーパーであるビッグイシューを売ってやり繰りしている。

 ◆個人の努力の問題に帰される日本の格差問題

このようにみてくると、日本では個人が個人を助けることは一般的ではなく、そういう風習から縁遠いと言える。

そこには日本の社会が決定的な格差社会ではなく、同質で比較的平等な社会であるからかもしれない。

現在日本でも格差が社会問題にはなっているが、例えば外国に見られるような人種差別など、個人の努力ではどうしても超えられない深い溝が横たわった決定的な格差社会となっているわけではないからだ。

このため恵まれないものが出てくるのは社会構造の問題ではなく、個人の努力不足の問題とみなされがちだ。

こうした個人の努力の欠如に対する日本人の意識は冷ややかだ。

ここには、自分の身内や仲間に対しては無条件に暖かい手を差し伸べるが、他方、これ以外の「他人」、しかも「努力不足の他人」に対しては冷たい視線を投げる日本人の姿がある。

 ◆他者へ暖かいキリスト者

他方キリスト教では弱者を救済することで天国への道が開けるとする。

このため、日本では見られないような人的支援を行う。例えば難民受け入れがそうだ。また異なる人種の子であっても、養子として受け入れ、自分の子と分け隔てなく一緒に楽しげに育てている家庭は少なくない。

ここには宗教の力が要る。

 ◆寄付を巡る問題点

また、日本において寄付金が少ない背景として次のような点も挙げられる。

  • 明瞭な活動実態報告がなされず、支出明細も公開されないことが多いこと(多くの主婦がこの問題点を指摘する)
  • 助け合いや支援・貢献は労働や奉仕活動の形で行う場合が多く、金銭で行うことは例外的であること
  • 国や特定の団体に寄付した場合は寄付控除の適用を受けることができるが、その際には確定申告が必要となること

こうしたことも寄付する文化を阻んでいる要因となっているのではないか。

(学23期kz)

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