山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年12月 トピックス】
鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)東京支部は令和6年11月30日、東京・上野周辺で第5回長州歴史ウォーク・幕末風雲上野編を開催しました。
大村益次郎(長州)が指揮する新政府軍と徳川幕府を支持する彰義隊が激突した現場を巡りました。
◇快晴の西郷像前で再会
この日は朝から快晴となりました。上野公園のイチョウが明るい陽光を浴び、黄金色に輝いています。
午前10時、西郷隆盛像前に同窓生らが集合しました。
笑顔で再会を喜びます。
写真撮影の後、移動して塩塚保支部長が新政府軍と彰義隊の戦いの背景と概要を説明。
彰義隊の犠牲者を悼む「戦死之墓」に向かいます。参加者の中に僧籍の男性がいて読経。皆で手を合わせました。
◇戦いの現場を巡る
慶応4(1868)年5月15日朝、上野戦争が始まりました。
いざ、最大の激戦地、黒門跡へ。
西郷が指揮する新政府軍(薩摩軍が主力)と彰義隊が激突した現場です。
彰義隊は黒門前に前線基地を設営しました。高台には大砲を据え、鉄砲隊を配備しています。いかに精強の薩摩軍といえ、容易に前線基地を突破できません。新政府軍は苦戦しました。
続いて清水観音堂へ。高台に建っており、眺望が開けます。
この周辺でも激戦が繰り広げられました。当時の様子を記した錦絵が堂内にかかっており、参加者は錦絵を眺め、戦いを偲びます。
彰義隊本営跡を歩き、寛永寺を参拝しました。
◇長州軍の戦い
長州軍(約200人)は、最新鋭の銃を装備。新政府軍の他藩の兵士ともに江戸城から団子坂下に進撃していきます。彰義隊が立てこもる寛永寺の西北、三崎坂を攻め上る作戦です。
ところが、当日は激しい雨が降っていました。三崎坂は雨でぬかるんでいます。
進軍は困難を極めます。
一方、彰義隊は坂の上に防衛陣地(約150人)を築きました。
坂の途中の寺院にも伏兵を配置して迎え撃ちます。新政府軍が前進すると、横の寺院から伏兵が銃撃。日本刀をかざして斬りかかってきます。新政府軍の大村藩(長崎)の隊長は重傷を負い、戸板に乗せられて戦線を離脱しました。
戦いの現場で解説を聞き、長州軍の奮闘に思いを馳せました。
団子坂下に到着。さあ、昼時です。
気の合う仲間とそば屋、中華料理店、韓国料理店などに入り、昼食。ビールを飲みながら、談笑するグループもありました。
◇文豪たちの旧居跡
午後は団子坂を上り、文豪、森鴎外の旧居跡へ。
森鴎外は山口に近い津和野出身です。少年のころ、上京し、東京大学医学部を卒業。ドイツに留学し、軍医の道を進みます。また、精力的に執筆を続けました。
もうひとりの文豪、夏目漱石も近くに住んでいました。
旧居跡で代表作「坊ちゃん」を巡る逸話が紹介されました。坊ちゃんに登場する人物のモデルとなった教官が松山から山口高商(山口大学経済学部の前身)に赴任。校長を務めたというのです。本人は否定したようですが、同窓生は興味深げに聞き入っていました。
◇アームストロング砲
東京大学周辺を歩き、赤門へ。加賀藩が徳川将軍の姫を迎え入れたとき、建築された門です。今もなお、江戸時代の雰囲気を色濃く残しています。
新政府軍の佐賀藩は東大が建学された高台にアームストロング砲を配備しました。
彰義隊が立てこもる寛永寺を砲撃。彰義隊に動揺が走ります。薩摩軍は黒門を突破。長州軍は三崎坂を攻め上ります。彰義隊は敗走していくのです。
ゴールは黒門跡です。全行程を完歩した同窓生は晴れ晴れとして、達成感に満ちています。
一本締めで現地解散。
有志は上野の九州料理店へと流れていきました。この打ち上げがまた、楽しいのです。
同窓生の皆さん、来年、参加しませんか。
(鳳陽会東京支部事務局)