逆境下の文教施策 毛利の殿様 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆萩と三田尻の中間・「山口」の学問所建設 

第10代・齋熙(なりひろ、1784~1836年)の時代

長州藩では萩の藩校・明倫館、私塾では三田尻(防府)の越氏塾を中心に多くの郷校、寺子屋が設けられ、若者の教育に力を入れた。

こうした中、山口の大内氷上の上田鳳陽翁は寛政12年(1800)、32才の時に萩の明倫館に学び、規定3年のところ、文化6(1809)年まで9年の永きにわたり在学し、儒教、国学を中心に勉学に励んだ。

修学後は若手諸氏の教育にあたったが、大内氏の文化の栄えた山口には学問所はなく、書籍も乏しかった。

そこで鳳陽翁は文化12年2月に学び舎の創設を志し、当時の明倫館の学頭・中村九郎兵衛を通じ、学問所の建設を藩に申し立てた。

折しも藩では教育に注力していた時期でもあり、申し立てを受け、藩有林から建築用資材の伐採を許可し、資金面の支援を行い、学頭へも学舎建設を支援すべく手配させた。

同年4月、中河原に講堂が落成し、山口講堂と呼ばれた。

上田鳳陽翁が47歳の時だ。

時の藩主は第10代・齋熙(なりひろ)。

齋熙は山口講堂が完成した際に、参勤交代や領内巡回視察で使う公館「山口御茶屋」で、山口講堂に学ぶ若者の文武諸芸を観閲した。

これが発端となり、萩の歴代藩主が萩往還を通る参勤交代や要務で「山口」に寄った際は、学問所・講堂を観閲することが慣例となり、萩明倫館、三田尻の越氏塾と共に山口講堂にも書籍が下賜されたという。

また、ペリー来航から10年経った文久3年(1863)には、攘夷決行に備えて藩庁が山口に移転し、明倫館の人材も多くが山口に移ったのに伴い、同年に上田鳳陽翁が文化12年(1815)に山口中河原に開講していた私塾山口講堂(のちに山口講習堂)が山口明倫館と改称のうえ藩校に昇格、明倫館が萩と山口に並び立つことになった。

◆山口講堂を開設した上田鳳陽は藩主のお褒めに預かることになり、身分は下級武士から中級武士へと昇格、儒役(じゅやく)という役職を得た。

儒役とは、藩主や藩士へ孔・孟の教えを講じ、教授する役職だ。

新明倫館では再び朱子学が教えられることになるが、明倫館の書籍をみると、「古文辞学」の書籍が多かったようだ。

荻生徂徠の「古文辞学」。

すなわち徂徠学とは朱子学とは異なる。

幕府公認の朱子学、すなわち道徳でまつりごとを治めるのではなく、各人異なる人間性を道徳で抑えず、個性を是認し、伸ばし、制度を作り、変革し、制度によって社会を統治することが肝要だとする

実は上田鳳陽翁もこちらの流れ、徂徠学派ではないかともされる。

古文辞学派でありながら、国学や考証学にも通じていたようだ。

表向きはともかく、明倫館では幕府が推奨する道徳中心の朱子学から距離を置く傾向があった。

実学的な徂徠学が主流となっていたようで、長州藩では公儀に対する秩序を守り忠誠を誓う朱子学は、関ケ原以来もともと敬遠される傾向にあったのかもしれない。

つづく

(学23期kz)

毛利斎熙

荻生徂徠

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】    

◆明倫館の創設 第5代・毛利吉元(1677~1731)

長州藩でも財政が逼迫していた。

財政が逼迫する中では家臣の士気も低下する。

財政悪化を食い止め財政再建を進める必要があるが、その担い手、財政改革を進める人材がいないという問題に突き当たった。

このため倹約や経費節減に取り組み、参勤交代に関わる人員削減にも努めている中であっても、この先中長期的に財政の悪化を食い止める藩政改革の実施を遂行する人材を育てんがために、文教予算を捻りだし、人材育成機関を設立した。

藩校明倫館の創設だ。

5代藩主吉元(1677-1731)の時にあたる。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆明倫館が出来上がったのは享保3年(1718)12月。

江戸後期当時、全国で300ほどあった藩校のうち13番目の創建だった。

明倫館では、940坪の敷地に孔子、孟子などの賢人を祀った大成殿が中心に置かれ、学問寮、兵法場、手習い所、剣術場などが配置され、明倫館は建物の構造、教育内容、儀礼式典など湯島聖堂を模したものだったという。

また、明倫館の新設にあたり、教える側、すなわち教員の身分も引き上げており、この結果、己の身分を誇れる職場として、優秀な教育者が集まることとなった。

また、同時に親が裕福とはいえない学童には給費支援制度を設け、教育の機会を広げる策も講じている。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆初代学頭は湯島聖堂の竣工に合わせて大学の頭に任じられた林鳳岡(ほうこう)に学んだ儒学者の小倉尚斎。

そこでは朱子学が講ぜられたという。

2代目が徂徠学の山縣周南であった。

「明倫館」の名付け親である。

「明倫」とは孟子の言葉で「(文教が)人倫を明らかにする」、すなわち文教が人の守るべき道義を明らかにするという意。

「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、下、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい、国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」

教育内容をみると、旧明倫館では初代学頭小倉尚斎の時には朱子学が教えられたが、2代目学頭の山県周南は荻生徂徠の「古文辞学(古学)」だ。

すなわち朱子学や陽明学のように朱熹や王陽明の主観的な見解によって孔・孟を解釈するのではなく、孔子、孟子の原点に立ち返ることを目指した。

また、徂徠は為政者が優れていれば民衆もよく治まることはなく、世を治めるためには社会の仕組み、制度の改変が重要であること、また人材については、身分制度にとらわれず、能力に応じた人材登用を行うべきとの革新的な意見を持っていた。kogaku

(学23期kz)

毛利吉元公

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆江戸後期、各藩では財政難に取り組み、各種藩政改革を行なった。

なぜ財政難が起きたのか。

5代将軍綱吉時代(1680~1709年)年の浪費が大きいようだ。

宝永5年(1708)年綱吉死去の前年、幕府の収入は60~70万両、歳出は140万両とされる。

これは綱吉特有「お犬様」への支出の他、広大な神社造営、気前の良い家臣への加増、「御成」(臣下の屋敷訪問)への土産代のほか各種催しなど、綱吉公の希薄な金銭感覚によってもたらされた財政逼迫だった。

また、綱吉公時代には特殊要因があったことも不運だった。

1707年の富士山噴火に伴う不作・災害復興資金の他、幕府直轄の鉱山の採掘量減少、長崎貿易による金銀の流出、貨幣経済の浸透による財政支出の増加なども財政悪化の要因に加わった。

この中で、財政改革に取り組むことができる優れた人材を供給すべく、教育改革が藩政改革の大きな柱の一つとなり、各藩では相次いで藩校が創設された。

長州藩はどうであったか。

ちょうどこの時代に明倫館が創設されている。

第5代・毛利吉元(1677~1731)の時だ。

このため、毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

つづく

(学23期kz)

徳川綱吉

ゴルフ、何でそうなるの!  ⑨ネジ1本

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆ネジ一本の違い

調子が良い時には、何も考えないでクラブが振れる。

何度打っても同じ球筋で球が飛んでいく。

しかし、同じように打ったつもりでも、とんでもない球が出る時がある。

緊張していないはずの練習場でもこうした球がたまに出る。

自分なりの最善のスウィングをしているつもりだが、そうはなっていないのだ。

どこが違うのだろう。

どこかが違うはずだが、どこが違うか分からない。

練習場では打ち方を変えて微調整してみるが、本番ではそうはいかない。

◆シャンク

シャンクが止まらないことがあった。グリーンの近くまではいい感じで来たが、ここ一番のアプローチで球が右に飛び出すシャンクだ。

何度も。

事前のイメージではピンの手前まで柔らかい球を打ち出し、ピンに絡んでゆく筈のボール。

しかし、玉がピンに向かうのではなく、打った瞬間視線から消え、あらぬ方向に飛んでいく。

身体が開いているのだろうが、本人には意識できていない。

客観的に見ることができないのだ。

一緒に回るパートナーにも失態を晒し、恥ずかしいやら、申し訳ないやら。

◆バンカー地獄

 また、さほど難しくないバンカーから4度、5度打っても出ないときがあった。たいていは一度で出るし、バンカーは苦手にはしていないのだが、この時は初対面の方と回っており、緊張したのだろうか。今考えても、なぜだか分からない。

素振りと本番のスウィングが違うのだろう。しかし、どこがどう違うか分からない。

こうなった時の修正方法が分からないのは困ったものだ。

(学23期kz)

「ぬかるみ」 金子みすゞ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】  

◆明日 3月10日は金子みすゞの命日。

作品をひとつ

「ぬかるみ」

この裏まちの

ぬかるみに

青いお空が

ありました

とおく、とおく

うつくしく

澄んだお空が

ありました

この裏まちの

ぬかるみは

深いお空で

ありました

金子みすゞの墓(長門市仙崎 遍照寺)

彰義隊、その後の運命 ②悲運

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆天野八郎

上州の豪農・大井田家の次男。

新田義貞の氏族に含まれる一族。清和源氏の流れを汲んでおり、代々庄屋を務めた名家だという。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、副頭取の天野八郎は7月に捕縛され、獄中で病死した。

一時は函館に向かう榎本武揚の艦に乗ったが、引き留める榎本に対し、律儀にも彰義隊に武器や食料を与えてくれた方々にお返しに行くとして、捕らえられることを覚悟で艦を降りている。

その時、榎本は「それにしても天野殿は惜しい。あれで要領の良い人なら、勝さん以上になっていたろうに」と、

じっと眼をつぶったという。

榎本武揚にそこまで言わせるとは・・・

天野八郎という人物はただの荒くれではなかったのだろう。

◆天野八郎の辞世

「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」

稲妻が轟く北とは・・・奥羽越列藩同盟を指すのか、箱館を指すのか。

◆「決して香車に恥じず」

香車のように引くことを知らない、一本気な男。これが天野八郎だった。

◆香車といえば・・・

昨年9/30(月)王座戦第3局

手番・藤井七冠の146手目・九6香車。

永瀬九段が指した手拍子の歩打ち。

これが敗着の一手となり、藤井七冠勝利。

桂馬が上がって受けておれば、軍配は長瀬九段に・・・

◆彰義隊の残党

上野戦争後は江戸の町中が乱れ、流言飛語が飛び交い、暴行略奪も多発したという。

村人たちは自衛のために住所不定のよそ者を警戒し、排除にかかる。

こうしたよそ者には彰義隊の残党もいたのだろう。

杉並には村人から追われた者、そこで自害した者の墓が、わりと残っているようだ。

私の住んでいる近くの寺にも、東北から応援で加わった彰義隊の残党ではないかともいわれる3名の勇士碑が残っている。

大田区の東光院。

寺の関係者に伺ったところ、6代前の住職によると東北方面の藩士だったようだとのこと。

当時は徳川側には奥羽列藩も与して新政府と戦う構図があり、慶応4年春以降、彰義隊への参加者が膨れていく過程で奥州列藩藩士が彰義隊に集うこともあったと思われる。

勇士碑に刻まれた三名は南下し、洗足池辺りで村人の手にかかり、残り二人は旧中原街道を下り、桜坂を越え丸子の渡しがあった沼部付近の医者に逃げ込んだ。

医者は一応の手当てを施すが、結局は村人の手にかかり、俵詰めの形で多摩川に沈められたという。

勇士碑の三名【画像参照】

南無阿弥陀仏

(学23期kz)

勇士碑 大田区・東光院

彰義隊員、その後の運命 ①名誉挽回組

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆渋沢成一郎

上野彰義隊では一時頭取になった渋沢成一郎。

しかし、上野戦争を戦う前に副頭取天野八郎と対立し、彰義隊を脱退した。

蝦夷へ行き箱館戦争に参加するが、箱館戦争が終ろうとする直前に旧幕府軍を脱走して投降、東京の軍務官糾問所に投獄されている。

その後、2歳年下の従弟で、富岡製糸場にいた渋沢栄一を身元引受人として1871年に出所している。

出所後、成一郎はかつて養蚕に馴染みがあったため、養蚕製糸事業を手掛け、邁進。

当時は政府も外貨獲得のため養蚕事業を推進している折、成一郎の着実な事業成果が政府の眼にとまり、政府の委託調査で渡欧している。

その翌年1872年、大蔵少補事務取扱になっていた従弟・渋沢栄一の推薦で大蔵省歓農寮へ出仕したのち、イタリア、スイスフランスへと派遣される。

大蔵省歓農寮とは、当時大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局だ。

その後、渋沢栄一と同時に大蔵省を退官し、江戸の豪商井筒屋をやっていた小野組に入社。

しかし小野組が破産したため、渋沢商店を設立し、独立した。

◆ここからがサクセス・ストーリーだ。

深川で米問屋、横浜で生糸の問屋を経営し、業務の幅を広げてゆく。

経営は順調だった。

財を成して名声を得、東京商工会議所設立の発起人、東京商品取引所の設立、澁澤倉庫、東京人造肥料会社北海道製麻株式会社などに携わる。

こうして名声に磨きがかかる。

◆さて、第一線を退くと余生は白金台で過ごした。

その邸宅は現在の「八芳園」になっている。

また、成一郎の墓は目黒・祐天寺にある。

「成一郎」は武士であった時代の通称で、旧名は「喜作」だ。

大河ドラマ「晴天を衝け」では、高良健吾演じる成一郎は渋沢栄一から「喜助、喜助」とよばれていた。

武士の時代が終わった明治以降は、再び喜助と名乗っており、墓石には「渋沢喜助」と彫られている。

【文末の写真参照】

参考

◆輪王寺宮(北白川宮能仁親王)

京からお見えになった若き宮様で、明治天皇の叔父にあたる。

上野戦争では彰義隊が担いだ宮様だ。

上野戦争後、江戸市中を転々とし、品川沖にいた榎本武揚の出迎えを受けて、「長鯨丸」に乗り込み、北茨木の平潟港から上陸、会津に向かい、新政府と対立していた奥羽越列藩同盟の錦の御旗として受け入れられた。

しかし、米沢、仙台、会津が新政府に降伏すると、輪王寺宮は降伏、京都の実家伏見宮家で謹慎と相成った。

明治3年に還俗して伏見宮に復帰、明治5年弟が継いでいた北白川宮を相続し北白川宮能仁(よしひさ)親王と称した。

さすが宮様だ。

プロシア留学を経て軍務につき、陸軍少将、陸軍中将となり、近衛師団長に任じられる。

名に38年(1895年)台湾出征中に、病没した。

北の丸公園には銅像が建っている。

【画像参照】

(学23期kz)

渋沢成一郎
渋沢成一郎(喜助)の墓 目黒。・祐天寺
北白川宮能仁親王(輪王寺宮)像 北の丸公園

名まえのはなし ③今どきの名前

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

これは実話だ。

◆職場に「礼仁」と書いて「レーニン」と名乗る後輩がいた。

親の憧れの人にあやかって付けた名であれば、穏やかではない。

「聖」と書いて「マリア」とルビが振ってあったのもあれば、また、「五月」と書いて「メイ」と名乗る方もいた。

いわゆるキラキラネームだ。

この程度はかわいいもので、いかがなものかという名前もある。

新智絵(にーちぇ)、七音(どれみ)、葉萌似(はーもにー)、美音楽(びおら)、希星(きらら)、姫星(きてぃ)。

詩と書いて「ぽえ」と呼ぶ方もおり、またゴルフの女子プロにも穴井詩(らら)もいる。

男も負けてはいない。

革命(れぼる)、未知(えっくす)、皇帝(しいざあ)、神(しはい)、なかには翔馬(ぺがさす)というのもある。

こうした「キラキラネーム」に対して、従来の●●男、●●郎、●●子はどう呼ばれているか。

「シワシワネーム」というそうだ。

失礼な話だ。

このキラキラネームは当て字が多く、画数が多いものが多く、親も子も不便だ。後悔して小学校に入る前に改名するという。

また、特に女性のキラキラネームは、お婆さんになっても使うといのはシンドイだろう。

一般的な呼び方ではないかと思うが、今どきの名前を聞くと、そうは言えなくなってきた感もある。

◆気の毒な名前

学校時代に「山本シュウ造(仮名)」というなかなかハンサムンな後輩がいた。

気の毒なことに、この「シュウ」にはとんでもない、「みにくい」漢字が使ってあった。

(悲しいかな・・・これは実話だ・・・)

親御さんも、よく、とんでもない字を使ったものだ。

かわいそうに。

いや、親御さんには他人には解らない、深い事情、深い意味があったのかもしれない。

(学23期kz)

建国記念日(紀元節)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

建国記念日は初代天皇が神武天皇社(祭神 神倭伊波礼毘古命 鎮座地 奈良県御所市柏原字屋舗)で即位された日(今年で紀元2685年)です。
 近くに丘があり神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)のとなめしているようだ」と仰せられたという。

 わが国の別名「秋津島」の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。

また頂上にハライタ山という土壇があり、吾平津媛を祀った跡だと伝えられている。

  神武天皇についてですが、天照大御神の子孫です。天孫降臨にて天照の孫 邇邇芸命が筑紫の日向の高千穂峰(宮崎県高千穂町)に降臨され、さらに国を探し求めて吾田 長屋笠狭岬(宮崎県延岡市愛宕山)へと至り、そこで大山祇神の娘の鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を 娶った。

二人の間には火闌降命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)らが生まれた。久しくして崩御。可愛山陵(延岡市)に葬られた。山幸彦の孫が 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)です。

神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向(宮崎市宮崎神宮)で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

彼らは、美々津(日向市)を出発し筑紫へ向かいました。

東征の話は長くなるので省略します。

熊野から大和入国は、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。まず八咫烏 を遣わして、土豪に神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、豪族の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。

兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうと したが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。

弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連) らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。

二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に 入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。

その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに 切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていた。

そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、 それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、登美毘古(ナガスネビコ)と戦った。最後に兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、 天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命はで神武天皇として即位した。

 神武天皇は治世76年(現年代計算で38年)で橿原神宮の地で生涯を終えた。畝傍山の麓の神武天皇陵に葬られた。現年齢計算で63歳の生涯であった。

初代天皇について日本書記、古事記に記載されている内容です。

天皇家は126代続く世界最長の王室です。

以上

(学29期K.Y)

蘭カッテンディーケ教官と勝海舟

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダ人ヴィレム・カッテンディーケ。

カッテンディーケ教官は1857年9月に幕府がオランダに建造依頼したヤーパン号(のちの咸臨丸)に乗ってやってきた。

彼は長崎の海軍伝習所で教えた時のことを「長崎海軍伝習所の日々」の中で書き残している。

◆わがままな生徒たち

やって来た当初、伝習所の生徒の年齢が高く、プライドも高く、辛抱強く学ぶという態度に欠けた生徒に面食らう。

それもそのはず、生徒として幕府から送り込まれてきた者は「旗本」たちで、齢が長じた者ばかりだったという。

確かに日本人は物分かりが早く、鋭敏だが、このため、ちょっと覚えると好奇心が満足して、すぐほかのものに関心が移り、飽きっぽい性格も有していると観察している。

また、「この技術は教わるがあっちはやらない。学ぶのはこの教科だけ」といったわがままな生徒ばかりだったという。

◆勝海舟

こうしたなか、勝海舟はオランダ語を理解し、性格も明朗で親切でもあったため、オランダ人たちは勝海舟に非常な信頼を寄せていたという。

伝習生との間にトラブルが起きても、勝が間に入ればオランダ人も納得したという。

幕臣でありながら明治新政府にも仕えた勝海舟。

当時、勝への評価は芳しいものばかりではないが、長崎の海軍伝習所での勝の評判は頗る良かった。

逸材

こうしたこともあり、徐々に教育が浸透していく。

カッテンディーケ教官は、これまでのヨーロッパ人は日本に長くいればいるほど日本人のことをよく言うものが多いが、確かに日本人を知れば知るほど美点が現れてくる国民だとしている。

この中で優れた資質を持つ生徒が多かったとしたが、特に優秀な生徒として、榎本武明と伊沢謹吾(のちの軍艦奉行)の名を挙げている。

◆離日の辞

カッテンディーケは日本を去るにあたり、次のような言葉を残している。

「まったく何の知識もない国民がわずか4年で海軍を創設しようというのはそもそも欲張りすぎだ。だが彼らはその短い期間に4隻の蒸気船を持ち、外国人の助力なしでやっていけると思えるまで上達した。これは、むしろ驚嘆すべきことといっていい。

伝習所の学習は中途半端に終わってしまったが、本官は日本人が持ち前の理解力と、旺盛な記憶力や恵まれた才能で、覚えた知識をさらに拡充し修練を積んでくれることを切に望む」。

そしてカッテンディーケは1859年11月に日本に別れを告げた。

勝が咸臨丸艦長としてアメリカ海軍ブルック大尉ら数十名のアメリカ人とともにアメリカへ向かうのはそのわずか二月後の1860年1月だった。

(学23期kz)

長崎海軍伝習所
ヴィレム・カッテンディーケ教官
勝海舟