毛利家の先祖と末裔 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆大江広元をさらに遡った神話の世界(その2)

毛利家の系図をみると大江広元が毛利家第35代とされている。

では初代は誰なのか。

古事記の世界のアメノホヒノミコト(天穂日命)とある。

神話の世界だ。

天照大神と須佐之男命が生んだ五男三女神の一柱。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神として信仰される。

この末裔に出雲国の勇士、野見宿祢(のみのすくね)がいる。

【画像】

第14代だ。

なお、第13代の襲髄命(かねすねのみこと)が野見宿祢と同一人物のため、野見宿祢を13代とする説もある。

◆皇族の血

この系譜を下っていくと、28代目が大江音人(おとんど)で平城(へいぜい)天皇(桓武天皇の皇子)の皇子・阿保(あぼ)親王の子にあたるという。

このように皇族の血が入っているとされる。

この家系を下ると・・・

35代が大江広元となり、毛利元就が52代、毛利輝元が54代となる。

さらに下って・・・

毛利輝元から数えて13代藩主・毛利敬親は、初代から数えると毛利家67代にあたり、最後の藩主となった毛利元徳(1839~1896年)は第68代となる。

◆爵位

版籍奉還・廃藩置県でお殿さまは「藩主」と名乗れなくなったが、その代わりに明治17年の華族令で爵位が与えられることになった。

毛利家には「公爵」の位が。

公・侯・伯・子・男。

毛利元徳公には徳川幕府で歴代将軍を輩出してきた徳川宗家と同様、最高位である公爵の位が授与された。

(学23期kz)

毛利元徳公

毛利家の先祖と末裔 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

毛利家は戦国武将の中では毛並みの良い家系とされているようだ。

◆大江広元

毛利の家祖は学問をもって朝廷に仕えた大江広元とされる。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場した栗原英雄演じる頼朝の側近・大江広元は頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、初代別当として京都から呼び寄せられ、幕府創設に貢献した功績により、出羽、上野(群馬)、武蔵、伊勢等7か国・13庄が授けられたという。

◆毛利を名乗った季光

この領地のうち大江広元の四男季光(すえみつ)は、承久の乱の戦功から幕府内で地位を高め、評定衆として幕政にも参加した。そこで相模国・愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市毛利台)を受け継ぎ、季光がここで初めて毛利の姓を名乗る。

しかし、季光は執権北条氏と母の実家三浦氏との間で戦った宝治合戦では三浦に付き、北条氏に敗北したため、季光は子らと自害、領地・毛利庄を失ってしまう。

しかし、ここで季光の家系が途絶えたわけではなかった。季光の子のうち、越後にいたため合戦時に参加しなかった四男経光(つねみつ)が生き残っていた。

経光は残った毛利の領地のうち、越後に拠点を移す。

そして安芸国吉田荘にあった領地を四男・時親(ときちか)に譲り、時親が安芸毛利を受け継いでゆく。

◆安芸毛利の祖・時親

その時親は大江広元の曾孫にあたり、北条得宗家との関係を強めたことから六波羅評定衆にまで出世して京へ居を移し、毛利氏の再興に一役買う。またこの時、時親が楠木正成に兵法を教えたとの伝承も残っている。

時親は南北朝内乱を契機に安芸吉田荘に居を移し、安芸吉田郡山城を築城、晩年を安芸吉田荘で暮らした。

また、時親の末裔は代々吉田荘を本拠としたため、吉田荘は1591年に毛利輝元が広島城を構えるまで、毛利家の本居城となったのであり、時親は安芸毛利の祖といわれている。

この地は現「安芸高田市」にあたり、そこは毛利元就公が死去した地であり、元就公の墓所がある。 元就の墓には「大江朝臣元就」と、先祖・大江の名が刻まれている。

つづく

(学23期kz)

ゴルフ 何でそうなるの! ⑫アイク

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

ゴルフ好きの米大統領

ゴルフは米国人の国民的スポーツと言えるかも知れない。


◆ドワイト・D・アイゼンハワー

通称アイク。
第34代米国大統領(在任期間1953年~1961年)
大のゴルフ好きとして知られる。
8年の大統領在任中、800ラウンド回ったという。
1年間で100ラウンド。1年は52週なので、週2回のペースでラウンドした勘定になる。
スコアは80台後半が多く、時には70台を出したようだ。
彼は心臓病を抱えており、健康増進のため、激務でのストレス発散のためにゴルフに励んだのかもしれない。

かなりお好きだったようで、地下にゴルフ練習場を作っていたようで、オーヴァルオフィス(大統領執務室)の床はスパイクの跡で穴だらけだったという。

その甲斐あってか、スコアは80代後半。

時には70台を出したという。

◆アイゼンハワーはマスターズが行われるオーガスタ・ナショナルGC(ジョージア州)をこよなく愛した。

文末の写真は10番ティーグラウンド脇にある、いわゆる「アイゼンハワーコテージ」。

アイクは夫人とオーガスタを50回近く訪れ、このコテージを別荘として使ったという。

今ではクラブハウスとして使われている。

◆オーガスタ17番の名物 アイクの木(アイゼンハワーツリー)

オーガスタの17番(440ヤード、パー4)。

220ヤード地点左サイドに、オーガスタ名物の樹齢100年の松の木があり、フェアウェイ中央にせり出していた。

ここでパーをセーブするにはティーショットでかなりのドローボールを打つか、この巨木の上を越えるショットが要求されることになる。

アイクもこの木にずいぶんと手こずったようで、クラブの競技委員会にこの木を伐採するよう要求を出したが受け入れられなかったという。

このアイクの木は、2014年のマスターズが開催される2か月前、暴風雪で枝がほとんど落ちるほどの大きなダメージを受け、結局伐採された。

この木が伐採される前に天に召されたアイク。

このニュースを聞いた時、アイクはどんなセリフを残したのだろう。

気の利いたセリフに違いない。

(学23期kz)

オーガスタナショナルGC 10番ティーグラウンド脇のアイゼンハワーコテージ
17番 2013年当時のコースレイアウト

210ヤード地点左側にアイゼンハワーツリーがあり、フェアウェイが狭くなっている。

左手に見えるのが倒れる前、当時のアイゼンハワーツリー(アイクの木)。
テーダ松の木で、樹齢100年、高さ約20メートル。

虎ノ門の皿うどん 長崎飯店

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

虎ノ門交差点近くの小さな長崎飯店。

ここの味は、食通も納得させるようだ。

もっとましな店がいくらでもあるのだが、なぜかここに足が向かう。

席数も少なく、決して綺麗とはいえない店で、昼間はかなりの列ができる。

夜は出前。

注文する時間がまばらな時が多く、出前のお兄さんが、3回、4回と数人分の出前を届ける

我々職員一同、よく食べた。そして残業をした。

◆店には中華のメニューがあるにはあるが、客の目当ては「ちゃんぽん」か、チャーメン(炒麺)に具が乗った「皿うどん」。

皿うどんのメニューにはチャーメンの皿うどんと、柔らか太麺の「やわ皿」がある。

また、麺にかける具も、具の大盛、というのもあり、「具(のみ)と餃子」を注文する者もいる。

いつも選択に迷う。ちゃんぽんか、皿うどんか。

どちらも食べたてみたい。

その昔、調子がいい時には両方食べた時もあった。

しかし、いつの頃からか「皿うどんセット」というのができた。

100円増しで、ちゃんぽんと同じスープが付く。

これなら両方味わえる。

◆近くにはちゃんぽんや皿うどんを出す同業店「ながさき」という店もあったが、いつの間にか閉店してしまった。

コロナの時かもしれない。

コロナの時といえば、虎ノ門ヒルズ・ビジネスタワーの竣工が2020年。

この時には、長崎飯店を出たちょうど真正面に、高層ビルと高層ビルのわずかな隙間から、聳え立つ「新名所」虎ノ門ヒルズを拝むことができた。

周りの店が姿を消す中で、コロナを経ても「長崎飯店」は生き残った。

◆しかし、東京夏季オリンピック2020をきっかけに始まった虎ノ門再開発。

その一角にあった長崎飯店も昨年店を畳んだ。

移転先はしばらく判明しなかったが、驚くことに、私がよく使うパスタ屋のすぐ裏手に移転したことが最近判明した。

近くに寄った際は、どちらに行くか迷う。

パスタ屋か長崎飯店か。

どちらも食べたい。

昔、元気な頃は「ハシゴ」という無茶をやったが、最近では無茶を控えるようになってしまった。

(学23期kz)

虎ノ門の交差点 虎の像

慶喜公、その外れた思惑 ②鳥羽・伏見の戦い

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆戦いの前夜、薩摩の挑発

討幕を目指していた薩摩は大政奉還で名目を失った。

西郷は討幕の口実を作らんがため、江戸の薩摩勢力に指示し、町荒らし、放火、挑発行為を行っていた。

これに業を煮やした佐幕派の庄内藩が三田に近い江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを実行。

この話が大阪城に伝わったのが、慶喜が二条城から移った年の暮れの12月28日だった。

これを聞いた主戦派(会津、桑名、新選組)は沸き立ったという。

諸藩の江戸での「薩摩憎し」の情念を抑えきれず、翌慶応4年(1868年)1月1日、慶喜は討薩の表(ひょう)を著す。

慶喜は天皇のいる京都近郊での戦争を嫌い、決して戦端を開かないよう命じたとされる。

旧幕府軍の京都への進軍は、薩摩の勢力を京都から追い出し、慶喜自らが改めて上洛して新政府を立ち上げるための、露払いとしての軍事行動という位置づけで、会津、桑名などが京都をめがけて進軍した。

しかし、1月3日、薩長軍が発砲した。

旧幕府軍は、結局西郷の挑発に乗った形で鳥羽・伏見の戦いが始まった。

しかし何と、ここで幕府軍が敗れてしまった。

幕府側の読みでは幕府軍の圧勝する戦いのはずたったのに。

なぜあ。

もともと、戦闘は予定していなかった。そこへ薩長から攻撃を仕掛けてきたため、準備不足の幕府軍は大阪城に逃げ帰る。

どうする、慶喜。

ここで慶喜が徹底的に薩長軍と戦っていたら、事態は変わっていた

という識者が多い。

そうかもしれない。

しかし、慶喜は戦うことをしなかった。

薩長軍の奥には天皇がいる。

天皇がとられた形になっている。

ここで徹底的に戦えば、朝廷に向かって銃口を向けることになる。

ここで慶喜は恭順を選ぶ。兵を残したまま、江戸に戻り、朝廷への恭順を示した。1月6日、榎本武揚がいない開陽丸に乗り、海路、江戸へ。

慶喜は頭脳明晰で機をみるに敏であったために移り気に見え、育ちの良さからくる優柔不断もあったとされる。

その直後、朝廷は慶喜追討令を出すに至る。

慶喜は朝敵となった。

江戸の小栗が分析した両軍の比較がある。

京都進軍幕府総兵力 23700

うち(幕府直属軍の16400、及び会津・桑名など諸藩連合兵)

幕府直属軍は歩兵・騎馬・砲兵の編成。1兵1銃、銃はミニエール銃(照準装置付でライフリング入り)、

火砲はフランス式4斤山砲(4キロ砲弾、射程距離1000メートル)

対する薩長合同軍は6000

歩兵中心。

銃はゲベール銃(照準装置なし、ライフリングなし)

火砲は射程距離700メートル。

幕府が負ける筈はなかったのだが。

兵力について薩長が新式・近代武装で、幕府軍の装備が劣っていたという説は間違いのようだ。

また、慶喜の戦意が希薄だったために負けたというのも逆で、戦う意思のない幕府軍が(慶喜公上京の御先供のため薩長軍が道を譲り入京できるとの読みもあり、)狭い鳥羽街道、伏見街道を密集縦隊で行軍し、薩長から数度、十字砲火を浴びたために敗北、敗北したために戦意を喪失したのだ。

◆錦の御旗

1月4日、淀川北岸に翻った錦の御旗三本。

これが決定的な要因で、これによって慶喜公は腰砕けになったようだ。

そもそも「尊王」教育を父・徳川斉昭から刷り込まれていた慶喜は天皇への恭順の途を選ばざるを得なかったのだ。

(学23期kz)

慶喜公、その外れた思惑 ①大政奉還

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆不思議の負けなし

「負けに不思議の負けなし」

野村監督の言葉ではない。

◆薩長と朝廷側近の結託

関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府が成立して以来、討幕に執念を燃やしていた薩長。

他方、薩長の他にも権力の中枢近くに反幕勢力がいた。

朝廷に仕える公家たちだ。

攘夷・鎖国派が優勢だったとされる。また、当時、国学が普及し、王政復古の機運が高まっていた。また、江戸時代には幕府が禁中並公家諸法度で朝廷・公家を縛ったこともあり、幕府への批判が強まっていた。

そうしたところへ、勅許なく通商条約を締結し、開国を決めたことで、幕府を強く非難した。

若き明治天皇を支えた三条実美や岩倉具視だ。

ここに薩長と攘夷派の公家が藩幕つながりを強める要因があった。

こうしたこともあり、薩長はこれら公家と組んで倒幕の機会を窺っていた。

この両者の結託の前に、慶喜公は翻弄されることになる。

両者の結託の奥には幕府をも越える最高権力者「天皇」がいたのだ。

◆大政奉還

江戸幕府への幕、それは江戸幕府の最高権力者、自からが引いたものだ。

慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は徳川幕府の京都における拠点二条城で策を練り、大政奉還することを決した。

江戸開城の前年にあたる。

なぜ大政奉還したのか。

◆慶喜の思惑

慶喜は欧米列強が日本に押し寄せる中で、慶喜には外国と並び立つには、権力を集めなければ国として立ち行かないとの見解を持っていたとされる。

けだし慧眼だ。

ではどこに権力を集めるか。

幕府が行ってきた勅許を得ない外国との条約締結には無理がある。

ここは朝廷へ一元的に権力を集め、幕府は朝廷から委任を受けて実務を行う・・・その方が、事はうまく進むのではないか。

<大政奉還をしたとしても、江戸幕府にはしかるべき役割が回ってきて来るのだろう、幕府にはまだしっかりした屋台骨が残っているのだから>・・・と。

足元では、まもなく西郷・岩倉が動いて、近く討幕の密勅が下るとの噂も聞こえていた。

こうした西郷の動きに対しては、大政奉還という先手を打つことで、武力討幕という西郷の思いを封じることができる。

これは慶喜流の賭けだったのだろう。

◆当てが外れた慶喜

しかし、この駆け引きは薩長や薩長派の公家が一枚上手だったといえる。

大政奉還によって、討幕の名目を挫かれた西郷は朝廷の名で王政復古の大号令を発し、自らの「新たな政府」を立ち上げる形にし、同時に慶喜の辞官、納地を決定、一気に慶喜の追い落としにかかった。

ここに慶喜の思惑が大きく外れた。

では慶喜はどうしたか。

慶喜は官を辞することは受けたが、徳川の領地だけ一方的に朝廷に差し出す納地を拒否し、抵抗した。

しかし、薩摩と一戦交えることは、朝廷・新政府と戦うのと同義。

これを嫌った慶喜は、12月12日、朝廷に近い京都二条城から徳川の本格的な軍事拠点であり、会津、桑名藩など旧幕府勢力1万5千(薩長兵は5千)が控える大阪城に勢力を移し、事態の打開を図ろうとした。

だが、続く局面でも再び思惑が大きく外れてしまった。

つづく

(学23期kz)

二条城

(学23期kz)

ゴルフ 何でそうなるの! ⑪飛距離

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】  

◆ドライバーショット

これで飛距離が出れば、後は短い番手でグリーンを攻めやすくなる。

もともとスウィンがなっていないのを差し置いて、飛距離を求める旅を続けてきた。

ヘッドを変え、シャフトを差し直し、鉛でバランスを変え・・・

しかし、どうもいけない。

距離が出ない。

かつてタイガーウッズに「70代にしてあの飛距離はスゴイ」と言わしめたのがトランプ大統領。

数々のクセがあるのを差し置いても、腕力、体力たるや大したものだ。

無理筋のMAGA策の旗を振りかざしながら各国のトップと交渉し、戦闘地域に行っては仲介に向けて手を出し、

就任100日の演説をし、仲たがいしている側近の懐柔に入り、バチカンでの葬式に出かけ、そこでも交渉をし、

帰国するやいなや、ゴルフ場に消えた。

その体力に敬服する。来月79歳を迎えるというのに。

なるほど、飛距離は出そうだ。

マスターズの常連となっているB・デシャンボー。

今年も活躍した。今年も一時はトップに踊り出たこともあったように記憶している。

とにかくよく飛ぶ。

ドライバーでよく飛ぶドライバーで350ヤードほど飛ばし、ほとんど曲がらない。

5番アイアンでも250ヤード飛ばす。

◆片や、私のドライバーの方は、いよいよ距離が出なくなった。

「ナイスショット」をしても、ボールは230ヤード付近にある目標の旗(吹き流し)のはるか手前。

アイアンと変わらんじゃないか!

悲しい。

中古クラブだからか。

ロストボールだからか。

いや、やはり筋肉が落ちているのだろう。

アイアンだと、若い時に比べ2~3番手くらい飛ばなくなっている。

◆深夜にテレビの通販で「魔法の飛びを実現」と銘打ったドライバーが紹介される。

「今なら半額」

つい欲しくなる。

◆外国人

体格が違う外国人の打球はよく飛ぶ。

一度、河川敷の練習場で、大柄な外国人が私のすぐ隣の横でドライバーショットを始めた。

・・・スゴイ

打球音が違う。

ボールが可哀そうなくらい押しつぶされて、はるか彼方に飛んで行った。

落下までの時間が長いこと・・・。

◆イーグル

かつて外地で、米国人のお役人と20組ほどの日米対抗戦を行った。

彼らは強かった。

ゲーム後、米国人二人の会話が漏れ聞こえてきた。

「イーグルを1つ取ったぞ」

「オレは2つ」・・・

素人にして、これだ。

(学23期kz)

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その6

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

◆防長教育会

厳しい中学校経営を支援するため明治17(1884)年設立。

先に述べた学校経営の窮状は長州藩最後の藩主毛利元徳公の耳に入っていたようで、元徳は外相などを歴任した井上馨に帰郷した際、県内の学業事情を視察・報告してほしいと依頼。

井上馨が、特に県内の中学校経営の窮状を元徳公に報告すると、「故国山口県の学事をこのように放置するのは忍びない」として元徳公が10万円を寄付。これに政官界、実業界、県内の有志が賛同、防長教育会が発足した。

防長教育会は5中学の整備事業に着手する。

これには窮乏士族を救済する意味もあったとされる。

さらには明治19(1886)年、県立から官立山口高等中学に移行した学校運営費を全額負担した。

また育英事業も行われている。

明治19(1886)年には1府県1中学校とし、全国を5学区に分け、高等中学を1学区に1校設置することとされた。

(ナンバースクール)

山口は近畿・中四国と共に第3学区の京都に属した。

しかし、ここで山口は特例で「官立山口高等中学」の設置に向かう。

防長育英会が学校運営に充てる多額の寄付を毎年行うことを決めたのだ。

◆このように、山口では鹿児島・島津家と共に、毛利家が多額に寄付をしたことでナンバースクールではない特例的な高等中学校となった。

明治27(1894)年には「官立山口高等中学」が「官立山口高等学校」(旧旧山高)に名称替えとなる。

このように毛利家は節目、節目で、長州・山口の文教に密接にかかわっている。

(学23期kz)

毛利元徳公

井上馨侯爵

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その5

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

山口大学の前身は数々の困難や存続の危機を藩主の支援のほか、地元や地元縁者の支援を受けて乗り越えてきた。

◆維新の学校制度改革

明治3(1870)年に「大学規則」、「中小学規則」が発付され、小中学校を経て大学に至る「進学」という概念が示され、小学と中学の区別が導入される。

ここで、藩校明倫館所轄の講習堂(例えば三田尻講習堂)や支藩が設立した学校、これまでの郷校が小学に移行。

他方、萩明倫館は萩中学に、山口明倫館は山口中学に改称された。

明治5(1872)年には、義務教育の確立へ向けて「学制」が発布され初等・中等教育の充実が重視されたが、制度の充実を図るに足る財源がなく、国からの財政支援もなかったために苦労する。

このため県は(前年に廃藩置県で山口県発足)県内の中学を廃止し、形が整うまで一時に「変則中学」とした。

しかし、「変則中学」の経営も厳しく、グレードダウンして「変則小学」にしたが、それでも経営を持続することは難しかったため、とうとう閉鎖に追い込まれた。

ここで毛利家の登場と相成る。

◆毛利家が学校制度再興資金の大部分を寄付し、翌年変則小学が私学として再スタート、その校舎は「鴻城学舎」と呼ばれた。
その再興から3年後、山口中学(私立)に改称されたが、毛利家経営の「私立」であった。(山口中学1校のみ)

この時の山口中学は入学資格が14歳以上、就学期間は5年。

通常の教科を学ぶ尋常中学科(3年)に続き高等中学科が置かれ、これが次の県立中学校の基礎となる。

山口県側は旧藩家や在京の県出身者、県内の有志に寄付を依頼。集まった基金で明治13(1880)年に県内に5つの県立中学を設立する。(山口、萩、岩国、徳山、豊浦)

この5つの県立中学には年限3年の尋常中学が置かれ、さらに進学希望者は他の4校からも県立山口中学の高等科へ進むこととされた。

この時にも県立中学の経営は厳しかった。

つづく

(学23期kz)

毛利氏庭園の桜(山口県観光サイト)

ゴルフ 何でそうなるの! ➉抜けないクセ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】  

◆ゴルフのスウィングには各人それぞれ癖がある。

特にアベレージゴルファーには抜きがたい癖がある。

グリップ、スタンス、バックスウィング、トップ、切り返し、ダウンスウィング、インパクト、フォロースルー。

無くて七癖。

ゴルフもそうかもしれない。

◆ゴルフ雑誌を読み、テレビのゴルフ番組を視、ユーチューブの画面を繰り返し研究し、かなり理想的なスウィングに近づいたのではないかと思いながら、練習場でクラブを振る。

しかし、己のスウィングフォームをビデオに撮ってみると、情けない画像に愕然とする。

体重の乗せ方、右肩からの突っ込み、左肘が引ける、両手が伸びない、インパクトの時、撓屈(右手首が手の甲側に折れる)掌屈(右手首が手のひら側に折れる)。これだ。

私もこれに泣いた。いや、現在進行形だ。

ボールなしのスウィングではいいスウィングができるのに、ボールに向かうと、思うようなスウィングは出来ない。

コースに出てパートナーと一緒に回ると、どうしてもボールを打ちにかかる。

◆ドライビングレンジで打っていると、レッスンプロが生徒に教えている光景に出会う。

ここでは他人のスをは客観的に見ることができる。

レッスンプロが生徒を指導するが、生徒はその通り打てていない。

しかし、レッスンプロは生徒が出来ていなくても褒める。

とにかく褒める。

見ている私も恥ずかしくなるくらい、かなりオーバーに褒める。

褒めないと生徒がレッスンを止めるからか。

生徒が止めると「レッスン料」が入ってこない。

翌週来ても光景は同じ。生徒のスウィングにはほとんど改善が見られない。

全く変わらないスウィングが続く。

それでもレッスンプロは褒める。

◆傍からから見たら、私もそうだろう。

本番よりも練習が好きな私は、昔から自己流の変な癖がついており、癖ががなかなか取れない。

◆地方勤務をした若者がいた。

彼は2年間の地方勤務の間、レッスンプロについて指導を受けたという。

そのスウィングたるや、私の目から見て理想形に近かった。

当然スコアもまとまっている。

レッスンプロに習うコーチ料は安くはない。また、スウィングが変な癖に固まる前に、ケチらず、多少金がかかってもレッスンプロの門を叩く方が、結局は長い間のゴルフライフをエンジョイでき、うまくなる近道なのかもしれない。

鉄は熱いうちに打てということか。

悲しいかな、もう遅い。

こうなったら、自分なりのクセを磨いて大らかにゴルフを楽しむ方が、ストレスフリーで潤いのある人生につながる早道かもしれない。

(学23期kz)