高杉晋作のはなし その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆師・松陰の評価

高杉晋作は松下村塾に在って、久坂玄瑞と並ぶ逸材とされる。

高杉晋作に関する本を読むと、勇ましい話、奇跡的に成功した話、リーダーシップを発揮して組織を統括・牽引する話は出てくるが、不名誉な話はあまり伝わってこない。

ひとつのエピソードがある。

江戸での話。

師の松陰が11代将軍家斉の側用人であり井伊直弼の配下で通商条約の勅許を得、一橋派や尊王攘夷派を弾圧した老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を討つというくだりだ。

大老井伊直弼は幕政に批判的な勢力を抑えるために老中の間部詮勝を京都に送り、朝廷を動かそうと考えた。

強引な井伊直弼は水戸藩が引き受けることに呼応し、長州藩にも協力を申し入れてきており、松陰は京都にいる間部詮勝を討つと、言い出した。

これには長州藩の重鎮、例えば松陰の理解者の周布政之助のほか弟子のみんなも反対した。

晋作も反対したところ、松蔭が他の者に宛てた「高杉はもっと考えのしっかりした男と思っていたが、期待はずれ」とした文書を目にする。

晋作は誤解を解こうと野山獄の松陰に手紙を出すが、無駄であった。

返ってきたのは怒りの手紙だったという。

晋作が酒を飲むようになったのはこの頃からだという。

ある夜、酒を飲んで帰る途中、野良犬が横切ったので、二尺五寸の刀で犬を真っ二つに切った。

◆死に際に

面白き こともなき世に 面白く・・・

同志であり、幕末の女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)が受けた下の句

・・・すみなすものは・・・

晋作が死ぬ間際に「ヨシダ・・・」と言った。

ヨシダ・・・

晋作最高の業績である奇兵隊の本陣があった吉田なのか。

あるいは松陰のことなのか。

下の句

ヨシダ先生 捧げん我が志・・・

(学23期kz)

高杉晋作の墓(下関市大字吉田町)

高杉晋作のはなし その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

元治元年12月15日(1865年1月12日)、功山寺の挙兵では、後に石川小五郎率いる遊撃隊50名も参加し、80名で奇跡を起こす。

12月15日、雪が降る中、80人が功山寺を出て未明に下関の藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って萩の保守派政府(いわゆる俗論派)に宣戦布告した。

さらに高杉は三田尻に向かい、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻った。

これにより山縣有朋も方針を転換せざるを得なくなり、高杉の軍勢いが強まる。

萩の正規軍も反乱鎮静軍として、軍勢は3800人。

しかし、高杉軍は山縣らの参道により兵の増強もあったが、それでも2000名。しかし奇襲攻撃で鎮静軍を撃破した。

1865年7日から16日までの「大田・絵堂の戦い」により、高杉軍(正義派)が椋梨の保守派(俗論派)を打ち負かし、再び藩の主導権をとった。

こうして長州は急進派・改革派・正義派主導で四境戦争(第2に長州征伐)を経て、維新へと突き進むことになる。

ここでも奇襲戦法で、幕府軍をかき回した。

刀のように実態を超える、出来すぎた幻の高杉晋作像でなければ良いのだが。

四国艦隊との賠償問題解決(1864年9月)、彦島引き渡し拒否、本当にそうだったのか。

細部がよく伝わってない。

どうもぼやけているように気がしてならない。

不透明だが、結果はうまい具合に伝えられている。

しかし、やはり、歴史精通者の解説を聞くと、電撃・奇襲作戦で、勝ちを引き寄せているようだ。

◆四境戦争(1866年6月)

四境戦争(第2次長州戦争)では小倉口を任された高杉。

幕府軍数万に、高杉騎兵隊4千。

ここでも奇跡的な勝ち方をしている。

高杉の奇襲攻撃を受けて、政府軍の大型艦船が傷の拡大・沈没を恐れて撤退したため、奇跡的な勝利を得ている。

この時にも高杉は、歴史家や軍事の識者をして「軍事の天才」と呼ばせている。

◆彦島租借案件

下関事件の後始末で連合艦隊との交渉役でも、高杉が呼ばれ、スポットライトが当たった。

当時は脱藩の罪で牢につながれていたが、藩庁から胆力を買われて交渉の担当役に抜擢されたのだ。

下関事件の果てに300万ドルの賠償金問題と彦島租借問題が持ち上がった。

賠償金問題については、長州藩は幕府が命じた異国船打ち払い令を実行しただけとの理由で支払いを拒否、幕府側の問題であるとして、逃げることに成功した。

四国連合は賠償金支払いに難色を示した場合、下関開港を要求しようとしており、開港となった場合、その大きな利益を産む海外貿易のメリットが長州藩に生まれるため、賠償金の支払いに応じることになったものだ。

もう一つ彦島租借問題が残った。

高杉は租借となった場合について、上海で身をもって体験しており、何としても租借問題を回避したかった。

事実はよくわかっていないが、当時通訳として交渉の日本側通訳の一員として入っていた英国帰りの伊藤博文によると、交渉にあたり古事記のくだりを長々と諳んじて、交渉相手を辟易させたようである。

しかし真実のところはわからない。

結局彦島租借は立ち消えになったが、これには租借を要求する英国にフランスが抵抗したというのが実情ではないか。

仮に租借が実現できたとしても当時、島に海兵隊を駐留できるのは英国だけということもあり、フランスが反対したこともあり、結局彦島は無傷となった。

つづく

(学23期kz)

彦島(下関の南端)Wikipedia

高杉晋作のはなし その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

奇兵隊を創った人物として知られる高杉晋作。
「聞いて恐ろし 見ていやらし 添うて嬉しい騎兵隊」

高杉の生き方は、松陰の教え通りの人生だったのではないか。

松陰曰く

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
不朽の高杉晋作となったかにみえる・・・

奇兵隊は下関で生まれた。資金は廻船問屋で「勤王商人」の白石正一郎が出したのだ。

白石は勤王の志士と交わりがあり、西郷とも自宅で会っている。

しかし白石は西郷と会った時以上に、高杉と出会った時に衝撃を受けたという。

高杉の人生は不思議な人生。

不思議で奇跡的な功績が付いて回る。

◆功山寺挙兵

これも不思議な話だ。

よくできた話だ。

本当か?

いわゆる元治の内乱の話だ。

元治元年(1864年)、7月に禁門の変、8月に四か国連合艦隊下関襲撃事件で急進派(改革派・いわゆる正義派)が勢いを無くし、同時に幕府への保守派(幕府への恭順派・いわゆる俗論派)、椋梨藤太が勢いを増した。

保守派の下で、1965年5月、幕府の第1次長州征伐に際しては、四か国連合艦隊の攻撃、賠償請求もあり、長州藩は窮地に立たされており、幕府の申し出に従うほかはなかった。

また、今は国内の勢力同士が戦い合う場合ではないという西郷の判断もあり、長州藩主親子の詫状差し出し、3家老(益田右衛門介、国司信濃、福原越後)の切腹、5公卿の太宰府への移居となり、椋梨の政敵・周布政之助も失脚した。

急進派の一団・「甲子殉難十一烈士」は野山獄に投獄され、後に粛清された。

このように第1次長州征伐は戦わずして終結した。

この時急進派の高杉は一時潜伏し、福岡の野村望東尼のもとに身を寄せる。

◆しかし、高杉は長州藩を生き返らせ、輝きを取り戻すには、統治能力を失った幕府を倒すこと、またそのためには萩の保守派(俗論派)を倒すことを目指して挙兵する。

1864年、雪の舞う12月、高杉26の時。

この時には奇兵隊は立ち上がっていたが、奇兵隊総監(管)赤禰武人や軍監・山縣有朋も当初は同調しなかった。

結局高杉に賛意を示したのは伊藤俊介(博文)と彼が率いる力士隊30名だけというありさまだったという。

この時の高杉の心意気。

「たとえ自分一人でもやる」と。

肝が据わっている。

この時は、高杉の後を追う者があったとしても、勝算があったか否か定かではない。

(学23期kz)

功山寺(下関市長府)

高杉晋作のはなし その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆高杉の刀

高杉の写真は座ったものしかないという。
高杉の背格好は推定では5尺3寸(160センチ)と小柄だったようだ。

丈が小さいことを気にかけていたようで、背丈が知れないように座った写真しか撮らなかったともいわれている。

二~三人で写真に納まる時は座って映り、独りで映る時も座った写真しか撮らせなかったようだ。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」という割には、結構ナイーブじゃないか!

◆長い刀

しかしその分、長い刀を持っていたという。

刀の丈は、通常、身の丈から3尺引いたものを差すものとされ、高杉の背丈が5尺3寸のため、2尺3寸程度の刀を差すべきところ、高杉の刀は2尺5寸あったという。

刀は本人の分身。

2尺5寸の高杉の刀は高杉の背格好が5尺5寸、約1メートル66~7センチと思わせる道具となる。

◆軍事の才能

絶対的な兵力差がある中で、奇襲攻撃を仕掛け、勝ちにつなげる才能があったようで、一部の識者からは高杉を「軍事の天才」と呼ぶ。


◆奇兵隊

馬関戦争にあたり、騎兵隊を立ち上げる。

1863年6月の話だ。

外国艦隊への攻撃がその前月で、1863年5月のこと。

長州・下関防衛の意味もあった。

筋書きは周布正之助が書いていた。

洋式兵制を取り入れたもので、銃隊が中心。

従来の鎧を纏った藩士、武士が中心の兵団から中間(ちゅうげん)や足軽などの軽卒が隊の中心となった。

中国の兵書に正兵と奇兵あり。わが国には正兵はいるが、奇兵はいない。

奇兵・・・松陰の草莽崛起を思い出させる。

各階層からの寄せ集めた集団で、正規兵ではないということだ。

これまで軍事は武士階級のものであったが、人民武装化ということになる。アメリカ独立戦争のミニットマン(民兵・農民兵)に類するものかもしれない。

高杉は人の心を掴むのが上手かったようだ。

土塁造りに女・子供まで加勢し、盲人はそれらの拍子をとるために櫓の上で太鼓を打ったという。

つづく

(学23期kz)

萩博物館 高杉晋作資料室(萩市観光協会)

毛利家の先祖と末裔 ③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年7月 トピックス】

◆元徳公の末裔(その3)

さらに下ると・・・

最後の藩主となった毛内元徳公の長男・元昭氏(第69代、1865~1938年)は貴族院議員となった。

その元昭氏の長男、すなわち元徳公の孫・元道氏(第70代、1903~1976年)は陸軍士官学校を経て、やはり貴族院議員になっている。

時代はさらに下り・・・

元道氏の長男・元敬(もとあき)氏(1930年生まれ、元徳公の曾孫)は「サラリーマン第一号」と呼ばれ、長期信用銀行に入行し、経済企画庁にも勤務している。

元敬氏の長男・元栄(もとひで)氏(1967年生まれ)は日立金属に入っている。おもしろいことに、元道氏の4男元敦氏も日立金属に入った。

日立といえば鳳陽会の幹部を出している名門どころだ。

◆二人の大立て者

日立グループには鳳陽会が大変お世話になっている。

辿っていけば・・・「鉱山王」と呼ばれ、日立の社祖となった久原房之助氏、久原氏の義理の兄で、久原氏から事業を継承した「重工業王」とも呼ばれ、昭和の前期に「日産コンツェルン」の総帥、日産自動車を創業した鮎川義介氏、このご両人に行き当たる。

ともに山口の人物だ。

(学23期kz)

ゴルフ 何でそうなるの! ⑬歴代米大統領

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年7月 トピックス】

◆米国歴代大統領のゴルフ

トランプ大統領はゴルフが大好き。USGAのハンディは2前後のようだ。世界中にトランプの名を冠したゴルフコースを持っている。もちろん地元フロリダにも。

彼のベストスコアは64だという。

歴代大統領の中で最もうまいと評判だ。

64というのはすごい。トッププロ並みじゃないか。

◆しかし、64というのは「自主申告」でのスコアかもしれない。

キャディーさんからは「ペレ」と呼ばれているそうだ。

トランプ氏自身のコースでの話だが、フェアウェイを外した時はボールを蹴ってフェアウェイに戻すからだ。

◆またオバマ元大統領もゴルフ好きだ。来日した折も当時の安倍首相とラウンドした。

ハンディは20を切る程度で安倍首相もハンディは20手前。いい勝負だったのだろう。

体育会系ではなく文科系かと思いきや、7年で250ラウンド、あるいは8年で333ラウンドをこなしたという話で、レフティーのゴルファーだ。

また、バイデン前大統領も何とハンディは10程度だという。「特にアイアンが上手く、大きく外さない。トラブルが少ないゴルフ」とされる。

◆かつてウッドロー・ウィルソンは8年間で1200ラウンド回った。すなわち週に3度ラウンドした計算になる。

スポーツマンマンでヨットが好きだったJ・Fケネディーもゴルフが好きだったようだ。

選挙でのライバル・ニクソンを「ゴルフばかりして・・・」とクレームを付けたはよいが、本人もそのすぐ後にお忍びでラウンドしに出掛けたという話もある。

2009年版のゴルフダイジェスト誌はゴルフ好きの歴代米大統領ランキングをつけているが、1位はアイゼンハワーを抑えて、ケネディーが1位に輝いている。

この時3位はG・Rフォード、4位がウィルソンという順番になっている。

(学23期kz)

オバマ元大統領のアプローチショット

山口が生んだコンツェルン

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年7月 トピックス】

◆日立グループには多くの同窓生がお世話になっている。

日立グループ、中でも日立金属とのつながりをみていくと、どうやら鮎川義介氏にたどり着く。

鮎川義介氏は日産コンツェルンの創業者で戦前に日産自動車、日立製作所、日本興業、日本油脂、日本水産など114社を立ち上げた人物で、最盛期には三井や三菱を抜いて当時最大のコンツェルンとなった。

無私奉公がモットー。

同族的・閉鎖的な一家一門が握る従来の財閥とは異なり、10万人の株主という形で大衆から資金を集めたのが特徴で、鮎川の鋳鉄技術、米国の新技術を取り入れた「新興財閥」の一つとなった。

私利私欲はなく、生前の叙勲や表彰、銅像の建立を断り、近親者にも株を持たせなかったという。

また政策志向で、欧米列強の植民地主義に対抗せんがため、軍事ではなく経済の発展こそが重要であるとの基本理念のもとに、あらゆる業種の企業を作っていく。

満州にも進出しはしたが、既得権益を抱える旧財閥の抵抗などもあり、あまりうまくいかなかったようだ。

◆鮎川は山口市に生まれる。鮎川家は名家であったというが、廃藩置県後は貧乏士族に転落し、金銭的には苦労したようだ。

義介氏は、勉強はよくできたようで、山口高商の前身である県立山口中学、官立山口高等学校(旧旧山高)を経て、「この先日本を支える男一生の仕事」としてエンジニアの途を目指し、東大工学部に進学した。

鮎川家の先祖は藩主毛利輝元に”御家大工”として仕えており、どうやら工学方面に明るい血が流れていたようだ。

鮎川氏には東京麻布在住の大叔父(祖母の夫)に明治の元勲・井上馨公がおり、在学中にはそこに書生として住み込んで支援も受けたが、大学後の進路については軍人を志望したわけではなく、また井上公に倣い政治家を志望したわけでもなかった。

井上公は三井物産の前身にあたる貿易会社を設立したこともあり「三井の番頭」とも呼ばれていたこともあったことから、鮎川氏に三井への就職を促したが、鮎川氏はこの話を断っている。

なかなか意固地な人物でもあったようだ。

というよりも、このころから自分の意思、進むべき方向が明確だったのだろう。

◆鮎川氏は自分の力で社会人としての第一歩を踏み出したいとして、高給のとれる工学士でありながら、芝浦製作所に、何と日給制で低賃金賃金の「仕上げ工」として入社したという。

彼は現場主義。仕上げ工の合間も休日は周辺の工場を2年にわたり、こまめに見て回ったという。

また日露戦争終結直後の1905年11月、25歳の時に渡米。

帰国後は戸畑鋳物を設立。これが日立金属の前身だ。

彼のモットーは「金持ちにはならない。人の行い得ない大きな仕事、公益に役立つ方面を切り開く」とのことであった。

◆久原房之介と鮎川義介

日立の社祖は萩の久原房之介氏、日産の創業者は鮎川義介氏だ。

両者は義兄弟(鮎川は久原の妻の兄)の関係にあった。

久原氏が日立鉱山、後の久原工業所を設立し第一次大戦では巨利を得たようだ。

しかし大戦後は不振に陥り、経営再建を鮎川氏に頼み、自らは政界に身を投じる。

久原工業は日本産業と改称され鉱山部門が日本鉱業(現在のJXホールディングス)となり、後の日産コンツェルンの源流となった。

この日本鉱業にも私の同期を含め、多くの同窓生がお世話になっている。

萩・毛利家の末裔も鮎川義介氏が興した戸畑鋳物を前身とする日立金属の世話になっているようだ。

この辺の事情については私より、日立グループに身を置かれた諸先輩の方がはるかに詳しいはずだ。

(学23期kz)

鮎川義介

久原房之介

毛利家の先祖と末裔 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆大江広元をさらに遡った神話の世界(その2)

毛利家の系図をみると大江広元が毛利家第35代とされている。

では初代は誰なのか。

古事記の世界のアメノホヒノミコト(天穂日命)とある。

神話の世界だ。

天照大神と須佐之男命が生んだ五男三女神の一柱。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神として信仰される。

この末裔に出雲国の勇士、野見宿祢(のみのすくね)がいる。

【画像】

第14代だ。

なお、第13代の襲髄命(かねすねのみこと)が野見宿祢と同一人物のため、野見宿祢を13代とする説もある。

◆皇族の血

この系譜を下っていくと、28代目が大江音人(おとんど)で平城(へいぜい)天皇(桓武天皇の皇子)の皇子・阿保(あぼ)親王の子にあたるという。

このように皇族の血が入っているとされる。

この家系を下ると・・・

35代が大江広元となり、毛利元就が52代、毛利輝元が54代となる。

さらに下って・・・

毛利輝元から数えて13代藩主・毛利敬親は、初代から数えると毛利家67代にあたり、最後の藩主となった毛利元徳(1839~1896年)は第68代となる。

◆爵位

版籍奉還・廃藩置県でお殿さまは「藩主」と名乗れなくなったが、その代わりに明治17年の華族令で爵位が与えられることになった。

毛利家には「公爵」の位が。

公・侯・伯・子・男。

毛利元徳公には徳川幕府で歴代将軍を輩出してきた徳川宗家と同様、最高位である公爵の位が授与された。

(学23期kz)

毛利元徳公

毛利家の先祖と末裔 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

毛利家は戦国武将の中では毛並みの良い家系とされているようだ。

◆大江広元

毛利の家祖は学問をもって朝廷に仕えた大江広元とされる。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場した栗原英雄演じる頼朝の側近・大江広元は頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、初代別当として京都から呼び寄せられ、幕府創設に貢献した功績により、出羽、上野(群馬)、武蔵、伊勢等7か国・13庄が授けられたという。

◆毛利を名乗った季光

この領地のうち大江広元の四男季光(すえみつ)は、承久の乱の戦功から幕府内で地位を高め、評定衆として幕政にも参加した。そこで相模国・愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市毛利台)を受け継ぎ、季光がここで初めて毛利の姓を名乗る。

しかし、季光は執権北条氏と母の実家三浦氏との間で戦った宝治合戦では三浦に付き、北条氏に敗北したため、季光は子らと自害、領地・毛利庄を失ってしまう。

しかし、ここで季光の家系が途絶えたわけではなかった。季光の子のうち、越後にいたため合戦時に参加しなかった四男経光(つねみつ)が生き残っていた。

経光は残った毛利の領地のうち、越後に拠点を移す。

そして安芸国吉田荘にあった領地を四男・時親(ときちか)に譲り、時親が安芸毛利を受け継いでゆく。

◆安芸毛利の祖・時親

その時親は大江広元の曾孫にあたり、北条得宗家との関係を強めたことから六波羅評定衆にまで出世して京へ居を移し、毛利氏の再興に一役買う。またこの時、時親が楠木正成に兵法を教えたとの伝承も残っている。

時親は南北朝内乱を契機に安芸吉田荘に居を移し、安芸吉田郡山城を築城、晩年を安芸吉田荘で暮らした。

また、時親の末裔は代々吉田荘を本拠としたため、吉田荘は1591年に毛利輝元が広島城を構えるまで、毛利家の本居城となったのであり、時親は安芸毛利の祖といわれている。

この地は現「安芸高田市」にあたり、そこは毛利元就公が死去した地であり、元就公の墓所がある。 元就の墓には「大江朝臣元就」と、先祖・大江の名が刻まれている。

つづく

(学23期kz)

ゴルフ 何でそうなるの! ⑫アイク

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

ゴルフ好きの米大統領

ゴルフは米国人の国民的スポーツと言えるかも知れない。


◆ドワイト・D・アイゼンハワー

通称アイク。
第34代米国大統領(在任期間1953年~1961年)
大のゴルフ好きとして知られる。
8年の大統領在任中、800ラウンド回ったという。
1年間で100ラウンド。1年は52週なので、週2回のペースでラウンドした勘定になる。
スコアは80台後半が多く、時には70台を出したようだ。
彼は心臓病を抱えており、健康増進のため、激務でのストレス発散のためにゴルフに励んだのかもしれない。

かなりお好きだったようで、地下にゴルフ練習場を作っていたようで、オーヴァルオフィス(大統領執務室)の床はスパイクの跡で穴だらけだったという。

その甲斐あってか、スコアは80代後半。

時には70台を出したという。

◆アイゼンハワーはマスターズが行われるオーガスタ・ナショナルGC(ジョージア州)をこよなく愛した。

文末の写真は10番ティーグラウンド脇にある、いわゆる「アイゼンハワーコテージ」。

アイクは夫人とオーガスタを50回近く訪れ、このコテージを別荘として使ったという。

今ではクラブハウスとして使われている。

◆オーガスタ17番の名物 アイクの木(アイゼンハワーツリー)

オーガスタの17番(440ヤード、パー4)。

220ヤード地点左サイドに、オーガスタ名物の樹齢100年の松の木があり、フェアウェイ中央にせり出していた。

ここでパーをセーブするにはティーショットでかなりのドローボールを打つか、この巨木の上を越えるショットが要求されることになる。

アイクもこの木にずいぶんと手こずったようで、クラブの競技委員会にこの木を伐採するよう要求を出したが受け入れられなかったという。

このアイクの木は、2014年のマスターズが開催される2か月前、暴風雪で枝がほとんど落ちるほどの大きなダメージを受け、結局伐採された。

この木が伐採される前に天に召されたアイク。

このニュースを聞いた時、アイクはどんなセリフを残したのだろう。

気の利いたセリフに違いない。

(学23期kz)

オーガスタナショナルGC 10番ティーグラウンド脇のアイゼンハワーコテージ
17番 2013年当時のコースレイアウト

210ヤード地点左側にアイゼンハワーツリーがあり、フェアウェイが狭くなっている。

左手に見えるのが倒れる前、当時のアイゼンハワーツリー(アイクの木)。
テーダ松の木で、樹齢100年、高さ約20メートル。