懐かしのランチスポット再訪 蕎麦屋 志な乃

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

◆人気蕎麦屋 「志な乃」

都道301号の愛宕下、愛宕通り沿い(白山・祝田・田町線)にあった手打ち蕎麦屋。

職場からは1キロ近くあったが、先輩に連れられ、節目・ふしめに通った。

九州育ちの私は、ソバではなくうどん派。

社会人になりたての頃は東京のソバに馴染めなかった。

一般的に蕎麦は東。

寒冷な気候で地味のやせたところでも育つ蕎麦。

西はうどんだ。

小麦は温暖な気候に育つ。「関西うどん」というし、四国もうどん県の香川をはじめ、うどんが幅をきかせている。九州もうどんだ。

◆強いコシ

「志な乃」というくらいだから「信州そば」だろうか。

志な乃の麺はとにかくコシが強い。

「ハリガネ」にも似て、妥協を許さないとでもいうような堅い食感。

見かけはハリガネというより、「銅線」に近いかな。

昼に食べると夕方まで腹に原型を留めて居座っている思えるように腹持ちがいい。

また、けんちん汁もこの店の名物。

この店の人気メニューが「合い盛り・けんちん」だ。

合い盛りとは、ざる蕎麦とざるうどんの合わせ盛りのことで、この合わせ盛にけんちん汁を追加注文する。

冬はもちろんのこと、夏でも「アイモリ・ケンチン」と注文するのが流儀。

1000円から1100円くらいの時代が長かったように思う。

◆「にほん」を味わう・・・

ここの蕎麦を啜ると、なんだか「祖国・にほん」を味わう・・・とでも言えるような気がした。

大げさな話だが、特に海外赴任や海外出張の前に、また成田に着いた後に、足を運んだ時が多かった。

万が一、日本の土を踏めなくなっても・・・思い残すことは・・・。

そうしている先輩・同僚も少なからずいたように思う。

私が日本を味わえると感じるスポットと言えば、都内では山縣有朋の邸宅だった椿山荘、もう一つ都下では

八王子、奥高尾の里山にある「うかい鳥山」だ。

しかしこうしたところは職場からも、自宅からも遠く、安月給の私が気安く行けるところではない。

昼飯時に、手っ取り早く「にほん」を味わえるのが「志な乃」だった。

この店、昼時は混む。

いつも14~5人が店の外まで並んでいた。

それでも目当てのメニューを前にした至高のひと時を心待ちにして順番を待つ。

店の奥には3から4人の職人、配膳は女性3人でてんてこ舞いの忙しさだった。

◆店舗移転

かなり前に蕎麦屋が移転することになった。

「付近一帯の再開発」が移転の理由で、職場から通えそうにない遠くへの移転だった。移転先が貼ってあったが、職場から通えるところではなくなったため、仲間内では「志な乃」の話も全く出なくなった。

◆再訪

最近、ちょっとしたきっかけで、移転した「志な乃」を見つけた。

東京タワーの近くで、最寄り駅は大江戸線の「赤羽橋」。

元あった愛宕下の店から500メートルほど三田・田町方面に下ったところにあたる。

店舗は通り沿いではなく、大通りから二筋入ったところに控え目な看板が出ていた。

先日、数十年ぶりに転居先の「志な乃」の暖簾をくぐる。

「アイモリ・ケンチン」で注文が通る。

店は、奥に主人(と、もう一人いたか)、配膳は感じの良い年配の女将さんの若干名で回している。

当時と比べて、蕎麦もうどんも量はやや控え目。

けんちん汁のお椀も小振りになっていた。

蕎麦と、うどんと、けんちんと。

バランスよく箸を三角形に運び、最後の掬いで皿がすべて空く。

ふう・・・ごちそうさま。

合掌。

◆女将さん

最近3度アタックして、ようやくありつけた。

1回目は水曜に訪問。コロナ以降に加わった定休日でアウト。

2度目は忙しい昼時を避けて1時過ぎに暖簾をくぐるも、「けんちん」売り切れで、これまたアウト。

3度目で、晴れて「アイモリ・ケンチン」に辿り着けた。

1600円。

勘定を払う際、2度のアウトを喰らった小生に「申し訳ないことをした、あれからずっと気になっていた」と言い添えてくれた女将さん。

心優しい女将さん。

蕎麦の後に、もう一度「にほん」を味わえた。

(学23期kz)

強制入院の経緯

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

過去日記から
(2013-8-1mixi投稿分より)

◆2月頃からでしたが、マンション管理の仕事をしていても、どうも腹が張って仕方がないので、便秘だと思って、大正製薬のコーラックという下剤を飲んでいました。
しかし、下剤を服用後も腹は膨らんだままですっきり感はありませんでした。
腹だけ異常に膨らんで妊婦のようでした。
仕事は2、3、4、5月と4ヶ月間近く我慢して頑張りましたが、もう身体がいうことを効かなくなり、管理室で人目を盗んで横になることが多くなりました。

◆血糖値が高く薬をもらいに行っていた近くの病院に行って調べてもらうと、大病院でないと無理だという話になりました。
大病院で診察を受けると即入院しないと大変なことになるという医師。
私は仕事を放り投げるわけには行かないというと医師は仕事を取るのですか、命を取るのですかということで、代行の人にそれなりの引継ぎをして一週間後の6月5日に緊急入院となりました。
居住者の人からは顔や首筋が見る見る痩せてきたと指摘される程でした。
咳も出て、無理して食べても食事も消化しなくなりました。

◆入院後は大相撲5月場所が行われており、白鵬が優勝しましたが、次の名古屋場所はテレビ観戦も出来ないと観念しました。
又、都議選も病院で何とか不在者投票を済ませましたが、次の参議院選挙は無理だと諦めました。
もうこの世には存在していないのですから。
入院して一週間は点滴だった為、もうこのまま、この世では「最後の晩餐」もありつけないと思うと情けなくなりました。
テレビではグルメ番組をやっていて、レストランで思い切りステーキを食べて見たい。
ケンタのフライドチキンが食べたい。
リンガーハットの太麺皿うどんが食べたいと。

(学22期 Y・Y)
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魚屋で人を募集しているのに八百屋が来た

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】


◆鳳陽会東京支部のイベントの長州歴史ウォークに参加してみると第二の人生でマンション管理人をしている人が意外と多いです。
これは私が58歳の2009年5月に初めてマンション管理人の仕事を始めた時の話です。

◆あるマンションが永年管理していた管理会社から私が勤務することになった管理会社に代わりました。
前の管理会社の管理人から、指導員と一緒に引き継ぎを三日間受けましたが、その二日目のことでした。
管理人の紹介で新理事長にご挨拶をしました。

◆すると午後になって、「魚屋で職人の人を募集しているのに八百屋で働いていた人が来た。これは契約違反だ。」と言い出し、「歴史と伝統ある我がマンションに全く経験のない素人を寄こしてとんでもない話だ。それに会社で全く教育を受けないで来るなんて引き継ぎ以前の問題だ。あなたに責任はないが、あなた自身が困ることになる。」と。
新理事長は怒り、臨時に理事会の招集し解任の決議を図ろうとしましたが、土曜日で外出している理事が多く流会となりました。
そして理事として残っていた犬猿の仲の旧理事長と大論争が始まりました。
管理会社を変えた旧理事長には事前に日にちを取ってご挨拶をしていましたが、新理事長はその日が初めてでした。
どうも、管理会社を変えられた管理人が最後の悪あがきで新理事長に私のことを未経験者だと垂れこんだようです。
即、上司が呼ばれ、駆けつけましたが、話はつかず、翌週に持ち越されました。

◆私は翌日、自分の店を退職した女性が宇都宮で披露宴をするというので、移動しなければなりませんでした。
その上、新婦の来賓の代表としてのスピーチが入っていました。
練習と暗記をしなければなりませんでしたが、翌週にでも、マンションは辞めなければと思うと落ち込んで実に辛かったです。
新婦側の列席者は20人程度と聞いていましたが、当日、会場に早めに着くと何と新郎側の列席者と合わせて100名以上で睡眠不足の中、慌てました。
何とかスピーチも無事乗り切りほっとしました。
新婦にも大変喜んでもらいました。

◆翌日、出勤すると私を採用した上司の上司も来ていましたので畑違いだと云われたと抗議しました。
すると契約違反ではないというのです。そんなベテランを配置する条項はないと。
大抵の管理人は物件毎に管理会社で新規採用されます。
最初の管理会社は採用者は未経験者がほとんどということでした。
ベテランの管理人を確保していて派遣するということはありません。

◆新理事長とはその後、私に指導員を1週間ではなく、1ケ月付けることで渋々了承しました。
(学22期 Y・Y)

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幕末から明治、外国人に映った日本の日常②イブラヒム その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 8月トピックス】

    

3月中旬に北陸新幹線が金沢から敦賀まで延長されたことがニュースで取り上げられた。

イブラヒムは1907年1月下旬にウラジオストクを出港し、2月初旬、敦賀港に降り立った。

◆【敦賀港から横浜までの汽車の旅で】

・日本では「郵便」や「切手」など外来のものも外国語でなく日本語になって使われている。

・鉄道の客(の日本人)は全員が新聞や本を手にしている。窓の外を見ているのは外国人のみだ。彼らは外国人に誰も注目しない。外国人として自分(イブラヒム)の動静を怪しむものはいない。みんな読書に勤しんでいる。

ヨーロッパの文化圏では私のような異邦人は皆の視線が集まり、さぞや屈辱感を味わうだろう。

・窓の外の景色は見るに値するもの。雪を頂いた山々、田園の緑、快適な気候。空地は無くて、すべて田畑だ。

・乗客は非常に多く、車内は清掃が行き届いている。

・米原で乗り換えた際、小さな村でも電話ボックスや郵便ポストが置かれている(驚きに値する)。

・鉄道で預けた各種荷物が紛失せず、手元に戻ってきた(これも驚きだ)。

【横浜で】

・道には人が溢れ、往来は途絶えることなし。誰もが急きたてられるように小走りで通り過ぎていく。

【東京で】

・日本は宣伝広告においてヨーロッパさえも凌駕している。特に印象に残ったのが丸薬の「仁丹」だった

◆日本の観察

・町の往来は人が絶えず賑わっているが、男女の履く下駄の音が耳障りだ。

・人力車について・・・

馬か牛が引くところを日本では人が引く。

なぜか。これは日本が狭いため牧畜がほとんど行われておらず、馬や牛の調達ができないことによる。

・日本人の背が小さい理由・・・

子どもを背中におんぶしていること。子供を圧迫しており発育の妨げとなっていることは疑う余地がない。

・日本には夜の娯楽がない。夜は寝るのみ。そして朝早く起きる。

◆彼の日本人に対する評価は総じて好ましい

彼は特に日本人の礼儀正しさと道徳心を評価している。

エピソードを二つ紹介する。

その1

朝、彼が店でお茶を飲み、店の者が居なかったので、1銭を置いて旅に出た。

夕方同じ店に立ち寄ると、店の者が私の方に走ってきた。

さては代金が足りなかったかと財布を取り出したところ、女が小銭を差し出した。

お茶代は4厘で6厘の釣銭を持ってきたのだ。

みよ、この正直さを、この道徳心を!

日本人はイスラムに近い民族。イスラムの教えに中にある多くの守るべき道徳が日本人に自然に備わっている。清潔さ、羞恥心、中世、信頼。特に寛大さと勇気は日本人の恰も天分のようである。

その2

横浜の宿での話。宿には18歳と16歳の少年が働いていた。宿を引き払う時、夏が来たため、使わないベルトやコート、ブーツ等を置いていった。

年長の若者はそれを年下の者にそっくりやったのだ。

年長者曰く「年下の者は私より貧しいのです。年老いた父母が居ます。ずっと役に立ちましょう」

ご覧なさいこの気質を・・・このようなことを見つけるにつけ、人間に備わる慈悲の心に打たれるのである。

◆日本でイスラムが・・・

イブラヒムはイスラムの道徳が日本人に自然に備わっており、日本人はイスラムに近い民族と見ていた。

また、日本では厠が清潔であること、そこに水が置かれていること、これはイスラムの国以外では考えられないとも書いている。

彼は日本でイスラムが根付いていくことを夢みていたのかもしれない。

しかし、日本にイスラムが拡がっていくことはなかった。

(学23期kz)

一将功なりて 万骨枯る

  

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】  

        

 8月15日終戦の日 

 岡山支部からの投稿

「一将功成りて 万骨枯る」

これは唐代末期の詩人 曹松が黄巾の乱を詠んだ「己亥の歳(きがいのとし)」の結語の部分にあるという。

この言葉は不変の価値を持つ。

戦争の愚かさ、虚しさを訴える警鐘、警句・・・。

1980年代、山口大学教養部時代、柏原先生の授業に使われた英語の読本。

「Why don’t we learn from history? 」

その読本のなかで西欧の戦史をふりかえって

「一将功成りて 万骨枯る」とほぼ同様の訳語をあてる部分があった。

世の東西を問わず、貫徹される哲学がある。

今、世界に目を転ずれば、ロシアによるウクライナ侵攻、パレスチナとイスラエルの戦闘にも「一将」の問題が存在する。

20世紀は戦争の世紀と大きく総括された。

21世紀に生きる我々はいまだ、戦争の問題解決の糸口さえ見出すことができず、時を無為に過ごしているようにも感ずる。

「歴史は繰り返されるか? 否 !

歴史は不思議と、同じように“歴史の韻”を踏む」と、

歴史学者、磯田道史はいう。

 実は“韻を踏む”という歴史の螺旋階段をよい方向にも悪い方向にも歩みを進めることができるのではないか。

教養部の英語の読本を通し、10代の終りに学んだひとつの「歴史哲学」は、

僕の中では40年経過しても色あせることなく、揺るぎない哲学となっている。

私は原爆が投下された広島で開催された鳳陽会通常(全国)総会に参加した。

そして8月15日は終戦の日。

思いを深くする。

(岡山支部 B)

第6回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

2024年8月11日(日)~17(土)
11:00~18:00(初日は13:00~、最終日は17:00)
東京交通会館「2Fギャラリー」(三菱UFJ銀行隣り)
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会

今日(8月11日)の東京は最高気温が36℃と連日の猛暑です。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に4年連続で行って来ました。
初日のオープンの13:00に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶し、1時間20分かけて約35点のパネル展示を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
今回、原爆にまつわる絵本(ひばくポンプ、おこりじぞう)の朗読会や被爆者の遺品の展示等もありました。
閉塞感を感じる日本及び世界情勢及び自分自身の置かれた状況ですが、母校の「継続は力なり。」との教えを思い出し、今回も参加しました。
今回、小さなお子さま連れのご家族を目にしました。
是非、皆様にも会期中に足を運んで頂きたい。
(学22期 Y・Y)

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コロナ禍GWの読書、私がはまったジャンル それは「藤沢系譜の時代小説」~藤沢周平から葉室麟そして砂原浩太郎~

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

宇部・三陽小野田支部 MYZ(学17期)さんからの投稿

きっかけ

Eさんと参加している「豊言倶楽部」最後の会合が、今年の3月に開催された。その折に、Uさん(元、宇部市琴芝小学校校長)が、皆さんにと既に読み終えた数十冊の「本」を、ご提供された。私は、その中から葉室麟著「蛍草」を頂戴した。「蛍草」は、数年前に、NHK「土曜時代ドラマ」(主人公の奈々役 清原果耶)で放映され、毎週心を揺さぶられて観ていたことを思い出し、原作を読んでみたい気持ちになったからである。頂戴したその日のうちに読み終えたのは、後述のとおり必然であった。

「葉室麟」について

人間の機微を描いた「藤沢周平」の時代小説、「蝉しぐれ」をはじめ数冊読んで、彼の端正な筆致で、人情、哀愁、喜び、悲しみを描いてあまりある世界を、私は学んだ。読み終えた後は心が洗われ、こんな世の中だが、なんとか生きていこうと改めて背中を押してくれる作品と感じていた。この藤沢の後を継ぐ作家と目された一人が、「葉室麟」であるといわれている。私は、正直「葉室麟」の時代小説はあまり読んだことはなかった。そこで、「葉室麟」についてインターネットで検索してみると、数多くの作品を残しており、彼の作品の中でも映画化やテレビで放映された作品も数点あった。前述のきっかけもあり、続けさまに「蜩ノ記」「陽炎の門」を読んだ。まさしく、藤沢文学の後継者だと理解できた。しかし、葉室は2017年12月(67歳)にまだまだこれからという時、この世を去ってしまったことは、残念だ。

藤沢系譜の時代小説について

人生の哀歓を描いてなお生きる力を与える小説は、生半可な腕では書けない。人生経験を重ね、洞察力、文章力がないと太刀打ちできない。おいそれと書き手は現れない。それなのに現代はコロナウイルスが蔓延し、様々な差別意識は吹き出し、ネット社会は広がっている。この混迷の時代に、心が癒され、明日への活力を与えてくれる小説はますます必要とされている。「苦しみ」「しがらみ」「制約」の世を生きる武士や庶民の姿を通じて醸し出している、「人間の矜持、志、道、おてんとうさま」に、人間本来の「善なる姿、美しさ」を藤沢、葉室作品は思い起こしてくれる。

藤沢、葉室に続く「時代小説の新鋭」は

藤沢系譜の作品は、名もなき下級武士、庶民の生活から日本人の美しさが匂い立つものに、私たちの心をとらえて離さないのではないか。この時流を汲んで久々に登場したのが「砂原浩太郎」の「高瀬庄左衛門御留書」(2021.1月第1刷、4月に5刷発行)と言われている。早速、宇部市立図書館で検索したが未だ購入されていない。仕方なくアマゾンで購入(1,800円)した。読後、改めて藤沢、葉室の後継者と理解できた。舞台は「神山藩」(架空の藩という設定は藤沢の海坂藩、葉室の羽根藩を思い起こさせる)、様々な迷いもあった人生を振り返った主人公が、今の人生を受け入れる姿。そして、生きることの喜び、悲しみ、あきらめも希望もすべて吞み込んだ物語である。しみじみと胸に迫るものがあった。

(以上)

山口七夕会 年次総会&懇親会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】


◆令和6年度 山口七夕会年次総会が8月3日(土)10時30分~飯田橋のインテリジェントロビー・ルコであり、昨年に続き3回目の出席となりました。(一昨年5月末入会)

◆総会第一部は議長役の秋草史幸会長の挨拶で始まり、令和5年度事業報告、令和6年度事業計画等の議事進行、本部役員・ふるさと山口本部役員の紹介がありました。
秋草会長は我々が経済学部で経済史を受講した秋草実教授のご子息です。
伊藤和貴山口市長のご挨拶及び入江幸江市議会議長のご祝辞がありました。
その後、山口七夕ふるさと大使の任命がありました。
休憩を挟んで、第26代気象庁長官 関田 康雄氏による
「気象の予測と防災」と題する講演が1時間ありました。
配達助手の仕事をしておりますので、仕事柄、毎日の雨や風に一喜一憂していますので、天気予報には特に関心があり、興味深く、お聴きしました。
その後、休憩を挟んで昼食懇親会があり、歓談後、山口県東京事務所清水所長のご祝辞、商工振興部山田部長他による山口市ふるさと納税のご案内等があり、15時前に大変な盛り上がりの中、山口市総合政策部吉村部長による中締めとなりました。

◆今回は入江幸江山口市議会議長と名刺を交換し、ご出身高校の山口中央高校の55年前の話題についてお話する機会がありました。
又、同じテーブルの方でお話するうちにFacebookで友達になっていただいている某国会議員の秘書の方で、実家が山口市下竪小路出身で、学生生活は仙台で過ごされ、私と同学年の方とわかり、私は学生時代に中後河原の下宿に住んでいたことがあり、身近に感じ、大いに話が盛り上がりました。

◆山口市幹部職員を含めて、多くの会員の方が出席され、盛り沢山の趣向を凝らした企画の数々に首都圏から山口市を応援する弾みになりそうです。
(学22期 Y・Y)

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幕末から明治、外国人に映った日本の日常②イブラヒムその1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 8月トピックス】  

このシリーズでは、幕末から明治にかけて外国人が見た日本の日常の光景を、彼らの日記等から紹介している。

◆タタール人・イブラヒム

時代は下るが、1909年(明治42年)に来日したロシア国籍タタール人のアブデュルレシト・イブラヒム。

ムスリム導師(イマーム)であり、ジャーナリスト、旅行家でもある。

イブラヒムはイスタンブールに活動拠点を置き、帝政ロシア下のムスリム民族推進運動も行っていたが、時の政権が民族活動の取り締まりを強めたことでロシアの近くから離れ、モンゴル、満州、日本、東南アジア、インドを廻る旅に出た。

廻った国々の中で、日本が気に入ったとみえて、半年間と比較的長く日本に滞在し、庶民の生活の中に身を置き、明治の日本を観察している。

彼の日本観察がこれまでとは異なり、非西洋・非キリスト教の視点であったため好評だったこと、またロシア帝政に批判的であったこともあり、アジア進出を目指す日本の各団体から招かれて講演をし、伊藤博文や大隈重信などの大物とも会見している。

◆日本滞在記「ジャポンヤ」

彼の日記には非西洋・非キリスト教者である彼が、長い歴史を経てかたち造られた「素の日本人」の日常や行動様式に触れ、体験をし、観察したことが書き留められている。

・治安は完璧であり、職業や身分に関係なく新聞や本を読むこと、チップを要求しないこと、家族で芝居を見に行くことに特徴を見出しており、郵便ポストが便利な制度であると評価している。

また、宗教には熱心ではないとしながら、身分の低い者まで政治や経済のことを論じることに驚いている。

この日記は、日本人の姿を彼の同胞であるイスラムの民、トルコ系の民に日本人観を紹介した本であり、彼の日本人観は今日のトルコや中央アジアのトルコ系の人々の日本に対するイメージとほとんど変わっていないという。

つづく

(学23期kz)

前列中央がイブラヒム氏 伊藤博文公の側近と

朗読劇「アサガオの雫」 横浜市開港記念会館にて観劇

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】


◆7/7(日)の東京は36℃の予報が出ていて半端なく暑かったです。
こうした中、昨年11月に母校の広島基町高校東京支部同窓会で舞台女優の中村香織さんと知り合い、彼女が原爆を題材にした「アサガオの雫」という朗読劇をされていることを知り、横浜・関内まで行って来ました。

◆久しぶりの横浜を堪能したく、JR関内駅から炎天下、馬車道を経由して、赤レンガ倉庫迄迂回して1時間近く歩き、横浜市開港記念会館に引き返し、辿り着きました。

◆朗読劇の観劇は初めてで、先ずは舞台装置もなく台本を手に持って朗読されるのに吃驚しました。(朗読なので当り前か)
事前の紹介等の勉強も殆どせずに当日、ぶっつけ本番で出向きましたので、ストーリーがわかり辛く、更に一人二役の方もおられ、面食らい、終演後の録画配信を購入し、繰り返し観て、漸くストーリーを理解しました。
そういえば、20代の頃、被爆二世を扱った「ぼく行きたかった」という舞台か何かを広島で観た微かな記憶があります。

◆舞台は原爆投下後の広島ではなく、12年後の三人の若者が主役となっています。
毎年リニューアルし、今回が8年目の公演とか。
6月に公開された米国映画「オッペンハイマー」、今回の朗読劇、8月に毎年開催されているヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展IN有楽町」(2024年は8/11~8/17開催)がお薦めです。

◆終演後も34歳から5年間勤務した思い出のいっぱい詰まった関内近辺の街を歩いてみました。
(学22期 Y・Y)

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