常盤会(工学部)セミナー/合同同窓会・懇親会に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◆「合同」同窓会

昨日、約100名が集った工学部・常盤会の合同同窓会・懇親会に参加した。

なぜ「合同」同窓会なのか。

ご存知の通り工学部の同窓会は機械系、化学系、資源機材系、土木建設系、電気電子情報系に分かれており、これらの同窓会の関東在住メンバーが一堂に集まっての会合ゆえ、合同同窓会と銘打っている。

冒頭、山大の山田陽一工学部長から工学部の現状とともに、常盤会による寄付の9割が学生支援に、また残り1割が長州ファイブも学んだ縁でUCL(ロンドン大学=ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)への学生留学に使われており、同窓会の寄付に対して感謝の言葉が述べられた。

◆セミナー

山大では「明日の山口大学ビジョン2030」を策定しており、パンフレットも出来ている。

このビジョンに関し、上西(かみにし)研・学術研究担当理事・副学長(工学部出身)からビジョン実現に向けた研究戦略について話があった。

最近山大では医学部免疫学講座の玉田耕治教授らの研究グループは癌一般に高い効果を発揮するPRIME CAR-—-T細胞を開発し、これはノーベル賞級の功績と言われていること、人間と動物の共生に向けた医学と獣医学の共同研究が盛んになっており世界から若い研究者が集まってきていること、「時間研究所」(広中平祐元学長の構想)や「細胞デザイン医科学研究所」など他大学にはない山大付属研究機関があり、世界レベルの活動をしていることが紹介された。

また、セミナーの後半では「丘の上 幸西(こうにし)ワイナリー代表」幸西義春氏(1981年工学部・電気系卒、ワンゲル部所属)が退職後、長野の塩尻で専門分野と畑が違うワイン作りを始めた話が面白く紹介された。

◆懇親会

懇親会では山口から見えた山大関係者や、常盤会以外では、鳳陽会のほかに霜仁会(医学部)の代表も参加された。

名刺を交換すると立派な肩書をお持ちの方もおられる。

名刺の肩書に「工学博士」が付いた方も少なくない。

会の司会をされたK氏の名刺には「東京工業大学名誉教授」とあり、中にはスタンフォード大学教授という方もおられた。

会の途中で工学部がある「宇部市」の話に話題が移った。

2020年には住みたい町の日本一に輝いたそうだ。

なぜか

空港が近いこと、大学病院があること。

このほかにも都市機能と田舎の風情を併せ持っている点が評価されたとのこと。

また移住サポート支援も充実しており、移住者が多くなっているようだ。

会の終わり間際に、私と年が近い山〇氏と面識ができ、お互いの卒業年次を伝えると、山〇氏からA君の名前が出た。課外の部活で一緒だったという。

A君といえば私と同期で、同じゼミ、H銀行に就職したA君だ。

東京・大阪、中四国・九州の仲間が集まる同期ゼミ会では酌み交わした仲だ。

帰宅後早速A君に連絡をとったところ、A君も懐かしがって山〇氏に連絡してみるとの返事が返ってきた。

学部を超えたつながり。

ここには学生寮や下宿、部活を通じた学部を超えたつながりも残っている。

(学23期kz)

山大・花の経済学部 その3 河上肇

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月 トピックス】

文中敬称略

マルクス経済学と一般均衡論の融合を図った経済学者として柴田敬を紹介したが、柴田に影響を与えた山口高商の先輩の一人として、経済学者・河上肇(岩国生まれ。1879年・明治12年~1946年・昭和21年)がいる。

むしろ社会一般的には柴田と比べ、「貧乏物語」の著者である河上肇の方が、名が通っている。

河上は旧山口高校文科を卒業し東京帝大政治学科に進むが、東京に出てきて目の当たりにしたのが貧富の格差だ。山口とはあまりに違う光景に相当大きな衝撃を受けたようだ。

東大卒業後、京大に講師として入り経済学の研究を始めるが、貧困問題が河上の頭から離れなかったようだ。

・いかに多くの者が貧困の中にあるか。

・それはなぜなのか。

・いかにすれば貧困を根治できるか。

貧困の背景と問題点にスポットを当てた河上の記事が新聞に連載され、これが社会的に大きな反響を呼んだ。この連載ものを纏め、1917年に刊行した「貧乏物語」はベストセラーとなった。

◆マルクスに傾く

河上はA・スミス、リカード、J.S.ミルなどの古典から入っていく。

しかし、京都帝大在任中、マルクス主義への理解に難点があること、金持ちが奢侈を止めれば貧困問題は解決するとする河上の貧困問題への解決策について学界から批判が起こった。生涯のライバルとなる博学の福田徳三(一橋大教授)や、いわば身内ともいえる教え子の櫛田民蔵(後に同志社大教授)らだ。

河上は彼らからの学問的な批判を自分の中で真摯に受け止め、マルクスを正確に理解することに取り組むうちに、マルクス主義へ傾倒していった。

河上自身は「最初はブルジョワ経済学(非マルクス経済学)から出発して・・・一歩一歩マルクスに近づき、ついに最後に至って最初の出発点とは正反対なものに転化し終えた」(経済学大綱、1928年)と記している。

「出発」から「転化」まで約20年ほど。

この時期河上だけではなく、多くの経済学者がマルクスへ傾いていった時代でもあった。

マルクス主義研究の大家というイメージのある河上肇。

経済学の大家で経済学史にも造詣が深い東大名誉教授の故・玉野井芳郎は河上を「マルクス主義を学問的に開拓した有力な代表者」と位置付けている。

この玉野井・東大名誉教授も山口高商出身。同窓だ。

つづく

(学23期kz)

河上肇

俳句集自費出版

2011年11月27日mixi日記投稿分より引用

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

昨日のことです。
勤務している派遣先のマンション管理室に居住者のYさんが来られ、午前中も午後もコピーに来たが管理人のあなたはいなかったではないかと仰る。
私、「午後は理事長と警察に相談に行っていました。」
Yさん「警察に来て貰えばいいではないか。」
私、「午前中は以前に庭園灯の修理をしてもらったので家電の店に支払いに行っていました。
決してさぼっていたわけではありません。」

この人、俳句集を自費出版したので一冊進呈すると仰る。(50冊発行で10万円相当の費用発生)
私は俳句や短歌には全く興味はありません。
仕方なく頂くことにしましたが、俳句集の後ろには水戸○高卒、慶○大学経済学部卒、政府系金融機関勤務を経て退職と書いてある。
輝かしい学歴と職歴である。
年齢は73歳位である。
私、「水戸○高のご出身とは素晴らしいですね。経済学部では何を専攻されましたか。」
Yさん、「経済原論です。卒論は経済成長論にしました。」

この人、マンションの玄関やエントランスで喫煙するマナー違反の常習者です。
玄関で吸っているのを注意すると身体の一部が敷地外に出ているので問題ないと主張され、裁判で闘いますかと屁理屈を云われる。
(プロレスのロープではない。プロレスは足が出るとブレイクです。
因みに品川区は路上喫煙禁止です。)

エントランスで若い娘さんが通る前でズボンを降ろして下着の整理整頓したりと風流とは程遠く、興醒めな人である。

返句を考えてみました。(笑)
「喫煙で迷惑かける駄目ジジイ」(季語なし)

写真と本文とは一切関係はありません。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

山大・花の経済学部 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

柴田敬先生は戦前マルクス経済学と近代経済が相入れないと見られていた時代に、マルクス経済学の命題を「ワルラスの一般均衡理論の簡略版」(柴田)を用いて検討している。しかも論文は、世界中の経済学者がアクセス・検討できるように英文で発表している。

今から思えば画期的な取り組みと言える。

スイス・ローザンヌ大の経済学初代教授ワルラスは、古典派の客観的価値論から消費者の行動を決めるものは、客観的価値ではなく効用という主観的価値によるとして消費需要の関数を描き始めた。これが近代経済学の端緒ともいえる。

さらに同大学でワルラスの後を継いだパレートも一般均衡理論の普及に努めたことにより、ローザンヌ大が一般均衡理論の一大派閥・ローザンヌ学派を形成することになり、柴田教授も大いに啓発されたのだろう。

スイスの古都で、レマン湖畔のほとりの小さな町、ローザンヌ。世界の経済学者たちに影響を与えたローザンヌ大。

阿部廉氏(学27期)(前稿参照)によると、柴田先生は京都大学から転任し、山大経済学部の学部長就任にあたって、山口大学を日本のローザンヌ大としたい旨の抱負を語っておられたという。柴田先生は8年在籍されたが、学生運動によって同構想は挫折。その後に山大を辞任された。

山口は小さな西の都、古都だ。

地形的にはスイス・ローザンヌよりドイツのハイデルベルクの方が山口に似ている。

ハイデルベルクはドイツ最古の大学。ハイデルベルク大も評判が高い。人文系に有名教授が多かった。ヘーゲル、ウェーバー、ヤスパースなど。

鳳陽会の先輩の中には経済学部が亀山から平川に移転するに際し、「平川が東洋のハイデルベルクとして発展することを期待」するとの願いを述べておられた先輩もおられた(「花なき山の・・・323話」(西岡吉春・元中部アンモニア工業社長))。

山あいにある山口大。サイバー空間が発達した現在では、地理的なハンデはかなりの程度克服できる。山大は総合大学であることを活かして文・理の知が融合した「知の拠点」となってほしいものだ。

経済物理学、経済心理学など経済周りの分野を取り込んだ学際的な研究も大いに結構じゃないか。

山大には「時間学研究所」がある。いうまでもなく経済学の中で「時間」は重要なファクターのひとつ。経済学部が「時間学研究所」と溶け合うのも在り方のひとつ。AIも活用しながら知恵を絞り、経済学の新しいパラダイムの展開を試みて欲しい。

(学23期kz)

3高商同窓会有志でラグビーW杯観戦

(2023年10月9日 事務局記)

東京支部では瓊林会(長崎大・経)、小樽商大と交流を重ねているが、昨夕は瓊林会の呼びかけで、各校東京支部の有志が集いラグビーW杯・アルゼンチン戦を観戦した。

惜敗したが、日本も3本のトライを決めた。トライを決めるたびに会場がひとつになり、拍手と歓声が湧きあがった。

会場は四谷駅から徒歩3分の県が借り上げている施設。長崎県東京産業支援センターが入っているほか、会議室、商談ルームもある小ぶりな多目的ビルで、瓊林会東京支部の事務所もここに入っている。

1階の長崎料理店には大型テレビがあり、料理屋を貸し切っての応援となった。

教養課程の授業 その2・英語

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

昭和46年当時、教養課程で英語の授業を受け持つ先生は複数人いた。

◆ダベンポート先生

典型的な欧米系のガイジンという印象。外国人特有の下あごを利かせた低い音調の発音で、口はやや締まりに欠ける。

日本人には聞き取れない本物のガイジンの英語であった。

文字になっていれば何ということのない単語や言い回しでも、何と言っているのか理解できなかった。

いや、簡単な英語、習いたての中学の初めに習うhave, keep, it, of・・・

またこうした単語が連なった場合はとにかく聞き取りにくい。また生来左耳が難聴気味の私には聞き分けが特に厳しかった。

このダベンポート先生、同期のS君の話ではケンブリッジ大学を卒業し、山大に着任。奥さんが日本人だという。ESS(英会話クラブ)の顧問をされ、中国地区の英語の弁論大会で1年生のS君を3年、4年生を押さえて、3位入賞に導いた優秀な先生でもあったようだ。このS君、英語の達人で大手商社マンとなり、欧州でまた、アメリカ大陸で活躍したことは言うまでもない。

◆伊豆先生(外書読解) 

英文学専攻のシャープな風貌の若手の先生だ。文学部の英文学科に在籍されていたような記憶がある。

授業で用いたものは英国の作家が書いた作品だったと記憶している。 

外国語で文学作品を味わうことは至難の業だ。英語の流行歌の歌詞を理解するのも難しい。論理的に書いてないからだ。受験勉強の時の英語読解は論理的な展開になっており、慣れ親しんでいるが、文学は難しい。

そもそも、日本の詩も難解なものが多い。作者個人の情緒が盛り込まれており、解説なしでは理解困難なものが多い。

この時の外国文学の読解はジグソーパズルのような謎解きのようであり、それはそれでミステリーのようであった。

◆英会話の先生(中年の日本人、氏名不詳)

頭髪は薄く、波打った中年の先生であった。

「英語」ではなく「米語」であった。発音する際に過度に口を尖らせたり、横に広げたりと英語らしい発音を心掛けようとされる。英語を発音する際の欧米人の口の形を真似ようとすると、ああした教え方になるのだろうか。

先生は熱心で、熱のこもった授業をされるのだが、口角に白くなった唾が溜まり、それが気になって、先生の話はほとんど頭に入らなかった。

私も中学の頃、米軍のベースキャンプに出掛け、若い兵士が喋る「米語」を聞き、トム・ジョーンズ、プレスリー、ビートルズが使っている「英語」に慣れた耳には、かえって不自然に聞こえた。

二十歳を越えてから米国に滞在しておられたのだろう。幼少の頃に覚えた英語であれば、ネイティブ特有のうまさ、滑らかさ、日本人の耳への判りにくさがあるが、それを全く感じさせない。

成績優秀で大学の教養課程の英会話の先生に抜擢されたのだろうが、この先生の授業を長期にわたり受講しても、英会話は上達しないなと確信した。それにしてもどういう経歴をお持ちの先生であったのだろう。

(学23期kz)

ソリの合わない二人の英傑 伊藤博文と井上馨

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月トピックス】

仲が良い兄弟でも、相続の問題が起きると、兄弟関係にひびが入る。

これはカネの配分の問題だが、個人の名誉を巡っても仲の良い二人にヒビが入る。

長州藩の上級藩士で明倫館に学んだ変わり者の井上馨。

喜怒哀楽がはっきりしており、怒れば雷。気むずかしくて変わり者。

片や農民出身、庶民的で威張らず、朗らかで大らかな伊藤博文。しっかり者で松下村塾に学んだ。

身分も性格も正反対。

この二人は攘夷運動に身を投じ、英公館焼き払いに加わりそこで知り合った。また、文久3年(1863年)には長州ファイブとして渡英した仲だ。

英国滞在中に現地紙で馬関戦争を知り、戦争を回避させるべく急遽帰国したのも伊藤と井上の二人だった。

◆ヒビ

歴史の編纂では伊藤の名も出るし、井上の名も出る

しかし、客観的に書かれた長州藩―毛利家の歴史書の未定稿の記述で伊藤博文の活躍の方が高く評価さていることに対して、いたく名誉を傷付けられた。喜怒哀楽の激しい井上はこれに我慢が出来なかったようで、伊藤博文の名を「聞くもけがらわしい」(元毛利家記録課長三坂圭治氏談)というまでになったという。

28歳の時に俗論派から襲撃を受け50鉢を縫う大けがを受けたが、「母の力」もあり奇跡的に一命を取り留め、明治の元老として活躍した。

(学23期kz)

井上馨遭難の地碑(山口市中園町)

山大・花の経済学部 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

山口大で「花の経済学部」と言われるには、まず、東京(一橋)、神戸に次いで、全国で3番目に設立された経済学部の前身・官立高等商業専門学校という誇らしい生い立ちが要る。

しかしそれだけでは十分ではない。

傑出した人物を数多く輩出したという実績が積み上がっていないと「花の経済学部」という評判は立たないし、続かない。

逸材、ここにあり。

◆図抜けた経済学者・柴田敬先生

山口高商卒から京大に進学し、京大教授として世界的に活躍した経済学者がいる。

柴田敬先生。

上久保敏著「日本の経済学を築いた50人」2003年11月(日本評論社)の中に取り上げられており、マルクス経済学と一般均衡論の融合を図った経済学者として取り上げられている。

オスカー・ランゲが使い始めた「近代経済学」というフレーズは柴田先生の著作「マルクスの資本主義分析とローザンヌ学派の一般均衡論」からヒントを得たという。これからすると、柴田先生は日本、いや、世界における「近代経済学」の草分け的な存在といえる。

茶目っ気のある著名な経済学者だった都留重人氏は「『経済学学者』は多いが経済学者は少ない」とし、その数少ない経済学者の一人に柴田敬先生を挙げている。

柴田先生はマルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」に対して異を唱えたとされる。

社会科学の一分野である経済学は、自然科学とは異なり、悲しいかな、時間(時代性)と空間(地域性)の制限を受けざるを得ない。

マルクスの生きた時代、住んだ社会、住んだ地域、そうした前提ではある命題が妥当しても、時代が変わり、地域が変わり、社会が変わればその命題が妥当するとは限らない。

マルクスはそれも承知の上で、結局は大きな法則の中に飲み込まれてしまい、(資本主義に内在する力で)利潤率の傾向的低下といった命題も妥当すると説いたのだろう。しかし、やはり無理があったという感が否めない。

生産様式、資本家=経営者の経営手法などについて、一定という厳しい前提を置けばそうなるかもしれないが、その前提が崩れ、例えば技術革新によって、かなり安く生産できる方法が一般化した場合、あるいは高付加価値に伴いかなり高い価格でも、買い手がペイすると考え高い価格で購入することが一般化すれば、企業は高い利潤率が確保でき、利潤率の傾向的低下を回避できる。

こうした発想は柴田先生が、一般均衡論に立脚しながらも「技術革新」という動態的な力学の作用を論拠に、利潤率の傾向的低下に異議を唱えたシュンぺータ(墺)のゼミ生(ハーバード大・留学時の一時期)として学んだからだろう。

柴田先生は広く欧米の一流経済学者とも交流しており、ケインズから受けた評価も高かったようだ。これは柴田先生が数式をもって論理展開することができたことにもよるのではないか。

数式を用いれば外国語に翻訳することなく、また論理展開に言葉を多用することはない。数式による論理展開は万国の共通言語だからだ。

◆利潤率傾向的低下に関する実証分析

マルクスにとって、資本主義の「利潤率の傾向的低下」は、資本主義の崩壊と社会主義・共産主義の必然的な到来を示唆する「肝」の部分であり、譲れないところだろう。

実証的にはどうか。

米国経済学者の有名どころのⅯ.フェルドシュタイン(全米経済研究所名誉教授)や若くしてはハーバード大の学長を務めたⅬ.サマーズなどが利潤率の傾向的低下について米国を例に検証したが、傾向的低下は認められなかったとしている。

また、マルクス経済学者の中にも、傾向的低下が認められないとする論文が出されているようだ。

◆柴田ゼミ

柴田先生は昭和21年(1946年)に京大教授を辞任後、昭和27年(1952年)に山大教授に就任されている。

柴田先生は、山大学内で根拠薄弱な思想的な風評が立ったこともあり、8年後に山大を辞職され他学へ移られた。この時、柴田ゼミは安部一成先生に引き継がれたようだ。

柴田先生は経済的に困窮した生徒を支援しておられたようで、山本英太郎先生もお世話になったらしい。

山本英太郎先生は早くにお亡くなりになったが、今ではあの、ふくよかな恵比須顔が懐かしく思い出される。山本先生も若い時は苦労されていたようで、奨学金を返し終えたのが齢43の時だと常々仰っていたが、そういえば親が決して裕福とはいえなかった私が奨学金を返し終えたのも43の時だった。

(学23期kz)

参考 大学27期 阿部 廉氏 「母校は西日本最古の大学である」―学都開闢200周年に向けて―

柴田敬先生

趣味は将棋(へぼですが・・・)青春編③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◇名作「将棋の子」

 大崎善生の作品「将棋の子」。名作です。

今回、このトピックスを書くにあたり、読み返しました。

物語の軸となる登場人物は、札幌の天才少年。

プロ棋士を目指し、上京。養成機関の奨励会に入会します。

彼には独特の将棋観があります。定跡をあえて勉強しない。

序盤、中盤は圧倒的に不利ですが、驚異的な終盤力で逆転勝ちするというものです。だが、現代将棋は持って生まれた才能だけで勝てるほど甘くはないのです。

 彼は奨励会入会当初、勝ち星をあげ、順調に昇級・昇段していきます。だが、二段で壁にぶち当たります。勝ち越せない。それ以上、昇段できないのです。

 奨励会員は最後の関門、三段リーグ戦を勝ち上がって四段に昇段して晴れてプロ棋士となるのです。

 彼は身を焦がすほど、焦ります。ちょうど、その時期、ともに上京して生活を支えていた父親と母親が病気で亡くなったのです。奨励会では勝てない。東京で生活もできない。失意の元天才少年(そうです。もはや天才とは呼ばれなくなっていた)は奨励会を退会。北海道にひとり帰っていくのです。その後の彼の人生は「将棋の子」を読んでください。

◇奨励会退会後の人生

プロ棋士になれず、将棋界を去っていく元神童、元天才少年たち。彼らはなんの資格も持っていません。奨励会員の多くは大学に進学していません。青春のすべての時間を将棋に打ち込み、結果を出せず、挫折していくのです。彼らはどんな人生を歩んでいくのでしょうか。

 大学を卒業して一流企業に就職。安定した高収入を得て、世界を舞台に活躍する。そんな人生とは無縁です。

 「将棋の子」には奨励会退会後の元会員たちの人生、苦闘が記されています。

司法書士。俳優の付き人。将棋ライター。世界放浪・・・。

 さて、福岡県立八幡中央高校の同窓生、N君のことです。

 彼は独学で将棋を学び、全国大会で優勝。高校生名人になりました。

 N君はプロ棋士を目指し、単身、上京。奨励会に入会したのです。N君はその後、どうなったのでしょうか。

◇数十年ぶりの再会

 高校を卒業して数十年後、首都圏に就職した同期生の同窓会が新宿のクラブで開催されました。

 同窓会でぜひ、会いたい男がいます。N君です。果たして彼は姿をみせるでしょうか。

 夕刻。同窓生が続々と集まってきます。

 来ました。N君です。私は彼の隣に座りました。

N君はご機嫌でした。にこにこしています。ふちなし眼鏡。少し唇をとがらせて、
早口でしゃべる姿は高校時代、そのままです。

 数十年ぶりの再会。酒を飲みながら、半生を聞きました。

高校生名人の金看板を背負って、さっそうと奨励会に入会しました。師匠(プロ棋士)につき、当初は順調に昇級・昇段していったそうです。そしてついに三段に昇段。プロ棋士まであと一段の地点までたどりついたのです。

しかし、三段リーグ戦の壁は厚く、高かった。どうしても勝ち進むことができない。年齢制限(26歳)が迫ってきます。

 彼は決断します。奨励会退会・・・。プロ棋士になる夢を断念したのです。彼はこう語りました。

 「自分は奨励会に入るのが遅かった。高校を卒業して入会してもだめだ。プロ棋士になる少年は小学生、中学生で奨励会に入会している」

 奨励会退会後、彼は北九州に帰郷しませんでした。将棋界とは無縁の人生を歩み、首都圏で医薬品関連の仕事をしているとのことです。

 私は質問しました。

―将棋、今でも、指してるの。

 彼は答えました。

 「いや。まったく、指していない」

 私はぶしつけな質問をしたことを恥じ、沈黙しました。

(鳳陽会東京支部 S)

台湾基礎講座 第1回「中華民国とは?」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

9月17日(日)、14時~16時の予定で開催された掲記イベントに新宿区百人町(JR大久保駅徒歩3分)の竹林館茶房まで行って来ました。

最近、台湾有事や統一か独立か、総統選挙の行方、日本の防衛費予算等、報道で台湾について耳にすることが多くなりました。 
7年前からFacebookで友達になって頂いている台湾系華僑2世で新規事業開発コンサルタントで文筆家、講演家の簡憲幸さんが講師ということで楽しみに参加しました。
早めに到着し、一番乗りだったので、初対面の簡さんと暫く談笑しました。
参加者は定員10名でしたが、14名の参加者で冒頭30分参加者の自己紹介の時間がありました。

台湾にはサラリーマン時代の34年位前に広島勤務時代に親交のあった先輩が台湾に赴任されていて一度だけ訪ねたことがあります。
台湾料理を堪能し、故宮博物院や忠烈祠を見学した記憶があります。
参加者は台湾について縁があり、造詣が深い方が多く、私も少し整理し、時間を掛けて台湾について勉強したいと思います。

簡先生は【歌舞伎町ツアー】と題して華僑が案内する「新宿歌舞伎町・裏文化講座」も定期的に開催されていて、時間が合えば参加したいと思っています。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp